- みんなの評価
2件
神道とは何か
著者 鎌田東二 (著)
神社や森で突如感じる神々しさや畏怖の念。このような感覚に宿る生命中心主義、自然崇拝こそ神道の本質である。従来、弥生時代に起源を持つとされることが多かった神道。しかし本書は、縄文時代、さらにはそれ以前から人々に宿るアニミズムの感覚に遡る、より大きなスパンで神道を捉え直すことを提唱。その視点から神仏習合、吉田神道の登場、神仏分離令に至る、神道の歴史を読み解く。さらに、「日常に神道は生きているか?」という現在に直結する疑問に答える形で、ディープエコロジーにつながる神道の原像を明らかにしていく。そして、大いなる自然から贈られ続ける生命に驚き、感謝して生きる「かみのみち」こそが、環境破壊・宗教不信など多くの問題を乗り越え、新たな世界を開く、と説くに至る。宗教学者でありながら、神主、祭りの主催者、神道ソングライターとして伝承文化の見直しと調和ある共同社会の創造を実践する著者による、壮大なる神道文明論。
神道とは何か
ワンステップ購入とは ワンステップ購入とは
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
神道とは何か 自然の霊性を感じて生きる
2002/06/16 18:28
神道を国際化せよ
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:のらねこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
少々長くなるが、とりあえず、第一章の本文中から、しばし引用させてもらおう。
『神道とは「神の道」と書く。それは神の教え、すなわち「神教」ではなく、教義でも教典でもない。それは一つの道、「神ウェイ」として、生活の流儀として、存在の流れとして伝承されてきたものである。海にも道があり山にも道があり、人の世にも道があるように、人が生きる生活の場にはかならず道ができる。生命の道、また生活文化的な伝達としてのの道、すなわち自然環境の中にある道と文化的な伝承として伝えられてきた道とがあって、道の文化としての神道が発生してきたのである。』
非常に納得のいく定義であると思う。
なにより、古い時代に軍国化のシンボルとして色のついた神道でも、あやしげなカルトでもない、ごくごく自然なまなざしが心地よい。
本書では、このような視点にたって、環太平洋文化、縄文から現代に至るまでの日本文化、エコロジーなどの諸要素と、神道との関係を検証、考察してしていき、外来のどんな要素でも貪欲に呑み込んでしまう神道と日本文化、という特性を強調し、「神道の国際化」という、極めてポジティブなビジョンを提示して終わる。
読んでいて、非常に愉快でした。ハイ。
神道とは何か 自然の霊性を感じて生きる
2001/01/04 20:22
神を語る言葉・向こう側からやってくる言葉
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
高校生にもわかってもらえる本を書きたいと思いつづけてきたと著者は書いていて、その意図は成功していると思う。確かに高校生にも「わかる」だろう。しかしそれではいったいどれくらいの人が本書を通じて「神道とは存在感覚である」(80頁)という著者の主張を、そして「この大気そのものの中に何かがある」(ラフカディオ・ハーン)といった「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)を「実感」できるだろうか。
あるいはまた本書は次の方法論的宣言を自ら実証しているだろうか。《…伝承されてきた神話や物語や儀式を外側から観察し調査し、それを分析するだけでなく、私たち自身の内側に起こってくる感覚の変容、あるいは身体の変容そのものをも、現象学的な研究の対象として考えていくべきであると私は思う。/折口[信夫]の言葉を使って言えば、実感と実証を結びつけるという作業が必要なのである。とりわけ神道のような伝承的宗教や信仰体系においては、この実感を基にした考察、洞察は不可欠であると思われる。》(33頁)
本書が失敗作だといいたいのではない。それどころか旺盛な執筆活動を展開してきた著者の現時点での集大成ともいうべき水準を示す著書だと思う。──たとえば「神は存在世界の存在論である。仏とは人間世界の実践論であり、認識論である」(190頁)とか「神道が神主(神がかりする者)だとすれば、仏教は審神者[さにわ](神がかりを正しく査定し位置づける者)であ」る(210頁)といった指摘は「深い」。
結局のところ言葉のありようなのだろう。語り得ないもの(聖なるもの、超越的なもの、ハレ、非日常等々だけではなくて、そもそも言葉の意味も)をいたずらに神秘化して「示す」よりは、本書のように「高校生にもわかってもらえる」平易で日常的な言葉を使って記述する方がはるかに「生産的」だ。というのも、永井均氏の言葉でいえばマンガという表現形式にともなう約束事(「ふきだし」の中では実際に発音されたせりふも文字で示される)と同様、言葉の「意味」はもともとこの世界に属していない(表現=記述=伝達できない)のだから、そしてそれが「語り得ない」ものの実質なのだから
本書にもし「不満」があるとすれば、「出口王仁三郎や折口信夫や宮沢賢治が大正十年に述懐したことは、言葉がどこかかなたから来訪し、自分の口や手を通して次から次へと溢れ出てくるというシャーマニズム的な体験である。彼らはシャーマンや霊媒のような立場に立って、向こう側からやってくる言葉を取り次ぎ、この世の言葉に翻訳し語り伝えているというわけである」(176頁)といった文章にうかがえる無媒介的かつ直接的で透明な“生命論的言語観”(?)をつきぬける視点がないということ──それが、本書でおそらくは意図的に言及されていないユダヤ・キリスト教的な言語観と関係するのかどうかは解らないけれど──なのだが、もちろんこれはないものねだりでしかない。