紙の本
虐げられたものが虐げるやりきれなさの向こう
2023/04/07 11:21
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:天使のくま - この投稿者のレビュー一覧を見る
アラブ文学の研究者である岡による、パレスチナをめぐるエッセイ集。とはいえ、パレスチナが置かれた現状は重い。
虐げられたものが、一転して虐げる側にまわる。そういった物語は、少なくない。悪の親玉が実はかつて差別され虐待されてきた存在だった、とか。そんな小説やマンガも、いくらでもあげることができる。けれども、現実においてそれに近い存在というのは、ユダヤ人社会だと言っていいと思う。
第二次世界大戦において、ドイツによって大量のユダヤ人が虐殺された。そして戦後、ユダヤ人国家を建設するために、パレスチナ人が住んでいた土地を、約束の地として、そこにイスラエルを建国し、パレスチナ人を排除し続ける。
岡は、学生時代から何度もアラブ世界に足を運び、ヨルダン川西岸も訪れる。ただし、ガザに足を運べたのはかなり後になってからではあるが。そして、そこで見たこと、アラブの友人から伝えられること、が語られていく。時に、現在進行形で。
パレスチナ人は、イスラエルで二級市民として暮らし、レバノンなどで難民となり、ヨルダン川西岸で土地を奪われたまま暮らし続ける。亡命するものもいれば、ガザ地区に閉じ込められる人々もいる。とりわけ、ガザを表した言葉、「無期懲役、ときどき死刑、罪状はパレスチナ人であること」というのが痛々しい。
イスラエルはパレスチナ人の大量虐殺は行わない。増えてきたときに、刈り取るように攻撃する。殺すのではなく、生きる気力を奪うように。人数ではなく、長い時間をかけた虐殺、ということになる。
難民キャンプがどういうものかも語られる。テント暮らしではない。それなりの建物があり、世代が交代していく。それはキャンプに見えないかもしれない、という。けれども、人が長く暮らしていく過程で、キャンプはそうしたものになっていくという。
岡は、同じ状況が日本にもあるという。かつて、半島から移住せざるを得なかった朝鮮人が住み着いた大阪の地域。違法建築に住むため、行政の支援は得られない。とはいえ、そこから出ていくこともできない。
パレスチナは遠い話ではなく、日本という国が沖縄や北海道で同じことをしていない、とはいえないのではないだろうか。そうしたことも、考えてしまう。
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もちろんガザ地区の事は知っていたし、パレスチナ問題だって関心が無いわけでは無かった。TVで流れる映像を見ていたし、中東の問題を書いた本だって読んでいた。
しかし僕は何も分かっていなかったし、知識としてさらりとなぞっただけで、同じ人間が苦しんでいると受け止めていなかった。
今ガザで生きている人々は最初から難民としてガザで生まれ、そして死んでいきます。将来に何の希望も無く、死ぬ為に殺される為に生きているような毎日。ようやく生活基盤が出来家族も増えてきた頃に、必ずやってくるイスラエルの大規模な軍事行動。それは戦争ですらなく民間人に向けられた一方的な虐殺でしかないのです。
彼らに40年間関わり続けた筆者の指した糾弾の指先は、国際社会という曖昧な全てでもあり、無関心でいる個人個人を指しています。無関心でいる事で彼らパレスチナ人を、死んでも虐げられてもいい存在だと認めたと繰り返し糾弾します。
当然それは読んでいる僕自身の事でした。
2014年には51日にも及ぶ執拗な爆撃が行われて、キャンプは完膚なきまでに叩き潰されました。軍事施設でもなんでもない市街地に対してです。
ニュースでもやっていたと思うのですが、すぐに意識は薄れ遠いどこかで起こっている事としか認識されませんでした。今となってはニュースで取り上げられる事も無く、ガザの人々はじわりじわりと窒息寸前のまま生殺しにされています。
筆者は何度も繰り返します、爆撃や狙撃で沢山の愛し愛されるべき人々が殺され、未来に何も希望を抱けない暮らしを強いられている人々が、同じ時代に豊かで安全な生活をしている人々を目の当たりにしたら、果たして彼らはこの世界を許すことが出来るだろうかと。
どこかの国に属している人間だけが「権利」を持っていて、それ以外は人ならざる者「ノーマン」であると。国の庇護を持たない難民はすべからく「ノーマン」として殺されても仕方が無い。そう世界が言っているのだと。
アメリカはイスラエルの最大の支援国です。そして恥ずべきことにイスラエルと日本の関係は非常に良好です。我々は沢山の屍と悲鳴の上に立っている事を忘れないでいようと思います。
ちなみにガザに地下鉄当然ありません。これからも走る事はないでしょう。それはあるアーティストが描いた理想としての地下鉄の路線図です。僕はこの題名を見た時にそういう計画が出るくらいに状況が上向いているのかと思って何気なく手に取った本でした。そんな脳天気な事を考えていた自分を、自分でぶん殴ってやりたい気分です。
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イスラエルとパレスチナの関係を、この本によって初めて知った。
ホロコーストで家族や先祖を失ったユダヤ人たちが、先住民であるパレスチナ人を迫害し虐殺し、生きている人たちにも地獄の苦しみを与え続けている。絶望に満ち満ちた世界で、人間性を否定された日々の中で、人間であり続けるために冗談を言って、笑い合う。今この瞬間もそんな人たちが存在していることに気づかされた。反開発、構造的暴力、文化的暴力。どうしてそこまで残酷になれるのだろう。「今日を生き延びることが、明日、あるいは数年後に空爆で殺されるためでしかないような、そんな生活」これからは、パレスチナのニュースにアンテナを立てておこうと思う。
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パレスチナ人がどんな境遇にあるのか、この本を読んで初めて知った。なぜもっと世界的な問題にならないのか、放置され続けているのか、現実を知ってショックだった。このような非人道的な考えがまかり通っている理由をもっと知りたいと思った。
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読み進めるほど飲み込まれてどんどん潜っていった。知らなかったことが多くてとても恥ずかしかった。
ニュースがいかに偏っているか、彼らに焼身自殺を選ばせるほどの生き地獄とはどんなものなのか、利益をもたらさない「ちっぽけな命」の側には強い国、強い人たちは決して立たない。
この現状を表現するのに他でもないフランクルの『夜と霧』が引用されているのだ。この本を読んで魂を揺さぶられたはずのあなたが、ガザには目を向けないの?と。
楽しく生きることが戦い。何度踏みにじられても、そんなことおかまいなしに希望を見つけられることが、生きることそのもの。
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20年以上前にパレスチナ問題について友達が調べていたのを今更ながら思い出しました。その時は全く興味を持てなかった事を反省しながら読み進めました。イスラエルのイメージも変わりました。
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世界をきちんと理解するには1次情報に触れることが一番だが、全世界全地域に細やかに足をのばすのは難しい。そして、2次情報で世界を知ったと思いがちである。でも2次情報は誰かの目を通して編集された世界なのである。
イスラエルとパレスチナ民の攻防は全く認識できていなかった部分が多かったので、衝撃だった。
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申し訳ない。
パレスチナに関心はありつつも、心的にも傍に寄り添うでもない、ただの、地獄の傍観者。
ノーマンとされる、各地のパレスチナ人。
自国主義。民族主義。
パレスチナはイスラエルの新兵器の広告塔。
平和とは。
地獄とは。
パレスチナから目を離してはいけない。楽な事、自分の事、ごく身近なことにばかり目を向けて、苦しみから離れてはいけない。
この本を読んで、今、これから私はどう行動するのか。
自省。他者が希望を見出せ、生み出せる人間になりたい。
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あらすじ(みすず書房より)イスラエル建国とパレスチナ人の難民化から70年。高い分離壁に囲まれたパレスチナ・ガザ地区は「現代の強制収容所」と言われる。そこで生きるとは、いかなることだろうか。
ガザが完全封鎖されてから10年以上が経つ。移動の自由はなく、物資は制限され、ミサイルが日常的に撃ち込まれ、数年おきに大規模な破壊と集団殺戮が繰り返される。そこで行なわれていることは、難民から、人間性をも剥奪しようとする暴力だ。
占領と戦うとは、この人間性の破壊、生きながらの死と戦うことだ。人間らしく生きる可能性をことごとく圧殺する暴力のなかで人間らしく生きること、それがパレスチナ人の根源的な抵抗となる。
それを教えてくれたのが、パレスチナの人びとだった。著者がパレスチナと関わりつづけて40年、絶望的な状況でなお人間的に生きる人びととの出会いを伝える。ガザに地下鉄が走る日まで、その日が少しでも早く訪れるように、私たちがすることは何だろうかと。(https://www.msz.co.jp/book/detail/08747/)
土地を追われ、閉じ込められ、ただそこで生きようとする人々に対して繰り返される暴力のあまりの残虐さに言葉を失う。人間は「人間ではない」とみなした人間に対してここまで残酷になれるのか。
人間は一歩一歩、少しずつでも世界をより良くしてきたと信じたかったが、パレスチナの人々が国際社会において「ノーマン」とされ続ける限り、イスラエルの暴虐が放置されている限り、決してそう思うことはできない。これまで無知だった自分が情けない。
パレスチナの人々が人間らしく生きることを許さない、じわじわと首を絞めるような占領下の生活、繰り返される殺戮と破壊、そんな中でも生き続ける人々に心を動かされるが、もしこの方達と言葉を交わすことがあったら私は何と言えばいいのかわからない。不自由なく日本で暮らす私にどんな言葉がかけられようか。
著者の岡真里さんが実際に言葉を交わした、志高き若い人々が数年後に命を奪われる、そんな当たり前のように訪れる死、気持ちの持っていきようがない。イスラエルは、生きようという、戦おうという人々を一人一人潰せば一掃できるとでも思っているのだろうか。これまでの歴史を振り返っても、必ずその人の意志を継ぐ者が現れるのに。国際社会全体の無関心により、あまりに遅いけれど、変化は必ず訪れる。
あとがきでも「いかなる不正義も永久に続くということはありません」と締めくくられていた。確かにそうだし、そう信じたいが、今現在おぞましい殺戮が発生していることを思うと希望を失ってしまいそうになる。またしても最悪を更新してしまった今回こそは占領を、全てを終わらせないと。停戦だけでは生き地獄に戻るだけ。起こってしまったこの最悪を最後にしなければ。
以下、印象に残った部分
いま、この世界にあって、国を持たないということはノーマン、すなわち何者でもない者、人間ならざる者であることを意味する。国を持たざる難民とはノーマンなのだ。国民国家の空隙に落ち込んだノーマン。彼らは人権とも、彼らを守る法とも無縁だ。「法」も「人権」も、それは「人間」、すなわち「国民���の特権なのだということ。国民でない者は「人間」ではない、それが、普遍的人権を謳うこの世界が遂行的に表明している紛うことなき事実であり、その事実がー彼らが「国民」ではないために「人間」ではないという事実、それゆえに人権や人間を護るべき法の埒外の存在であるという事実がー露わになるのが、ここノーマンズランドだ。(p.17)
離散状態のなか、いまだ過去の暴力の傷口が癒えてもいないのに、新たな暴力が上書きされてゆく。一九四八年のナクバ、そのとき、自分たちの村で何が起きたのか、その始原の暴力の記憶を掘り起こし、共同体の集団的記憶として言説化する余裕など、今日を生きていくことに必死の彼女たちにあろうはずもなかった。(p.55)
歴史の事実が私たちに教えるのは、パペが書いているように、人間とは「非人間化」の暴力の犠牲者であろうとなかろうと、「他者を非人間化することを教え込むことができる」、ということなのだから。(p.58)
本来、ペンの力によって伝えなければならないのは、自爆を選ばせるまでに若者たちを絶望の淵に追い詰める「占領」とはいったいいかなる暴力なのか、といいうことであるはずだ。(中略)中東で起きることは、すべてイスラームという信仰、イスラームという文化ー我々とは本質的に異質な文化ーに還元されてしまうと、サイードが『イスラーム報道』で批判している。まさにそのとおりの「カヴァリング・イスラーム」だ。(p.65)
イスラエルの犯した戦争犯罪がこれまでひとたびも正しく裁かれなかったという、国際社会におけるこのイスラエル不処罰の「伝統」が、パレスチナ人に対してイスラエルが繰り返し戦争犯罪を行使することを可能にしている。サブラー・シャティーラ、ジェニーン、ガザ、繰り返される虐殺……、パレスチナ人がどのような戦争犯罪、不正を被ろうと、国際社会は寛大にも、つねにその犯罪を看過し、責任者を処罰しないことで、世界に向けてメタメッセージを発してきたのだと言える、パレスチナ人などとるに足らない存在であると。彼らは我々と等価な存在ではない、ノーマンであると。ラジ・スラーニは言う、私たちは人間として尊厳をもって生きる機会が欲しい、これは不当な要求だろうか、と。(p.129)
占領という「人間を破壊する」怪物と闘うパレスチナ人にとって真の敗北とは、自らが怪物と化してしまうこと、敵の似姿となってしまうことだ。たとえ政治的に勝利したとしても、軍事的に勝利したとしても、「人間であること」を手放してしまったら、それこそが人間にとっての真の敗北となる。だから彼らは人間であり続けようとする。人間の側に留まり続けようとする。サリ・ハナフィが言う「スペィシオサイド」、パレスチナ人がパレスチナで人間らしく生きる可能性をことごとく圧殺する暴力のなかで、人間らしく生きること、それが占領下のパレスチナ人の根源的な抵抗となる。(p.227)
ガザの歴史をざっと概観しただけでも、パレスチナ人がその難民的生の経験を通して、国連の援助でかろうじて命をつなぐ「難民」から、占領と闘う抵抗者、自らの権利を訴え、故郷への帰還と主権国家の樹立を求めて闘う政治的主体、自分たちの社会を自分たちで統べる市民へと変貌していったことが分かる。(中略)継続する完全封鎖と繰り返される攻撃が目論むのは、このパレスチナ人を、今日を生き延びることに汲々として、国際社会の恩情がなければ生きていけない、テント暮らしの「難民」に再び鋳直すことにほかならない。ポリティサイド、政治的主体性の抹殺である。(p.251)
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読みながらぼくは自分に問うた。ぼくは「人間」と言えるだろうか、と。この著書からぼくが読み取れるのはそうした骨太の「人間主義」とも呼べるものだ。相手を「敵認定」して、それゆえに「ただちに」殺す状況が美しい言葉で飾り立てられてしまう状況にはっきり「NO」と言い続けること。自らの内面にある「人を殺す」こと、「相手の人権を慮ること」を決して「ぬるい」と拒絶するのではなく、むしろその「優しさ」をこそ出発点としてリアルでドライな現状認識と結びつけて、「ガザに地下鉄が走る日」を夢見る理想・希望へと練り上げることが大事だ
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YouTubeにて「アラブ、祈りとしての文学」の著者がパレスチナを伝えているーーこの報せが、映像は(感情を揺さぶられすぎるために)見られない私にこの本を手に取らせた。
先日ネットニュース号外で拾い読んだばかりの、イスラエル側が「ハマスの拠点」と主張して攻撃した病院の名が、文章の中に載っていた。この本が書かれた時点では治療が、資源が払底しながらも行われていた場所だ。同名の病院でなければ、ここがいま爆撃され、襲撃され、侵入されている。
しかしその地獄は、パレスチナの人びとが1940年代から、残酷度をこれでもかというほど上塗りにされて受けさせられ続けているものだ。
ひと(いのち)を、想像の天秤において自分と等価値に置く。世界のあらゆる地域でひとりひとりによってそれが行われなければ、イスラエルはパレスチナを焦土にしてしまうだろう。……そして、高みの見物を決め込むごく少数の、大金を持ったウィンディゴが、次の標的を探しはじめるだろう。
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エッセイ、と括っていいのかわからないけれど。感覚的にはエッセイと学術本の間。辛かった、きつかった、それでも読ませる力があってあっという間に読んでしまった。順番は前後するが、『アラブ、祈りとしての文学』を次読もうと思う。
あまりにも知らないことが多すぎて、読めば読むほど、なぜこんなことが起きているのか?なぜこんなことを終わらせることができないのか?なぜ世界は沈黙しているのか?なぜ私は知らなかったのか?なぜ?という悲しみと怒りが溢れてきて、言葉を失う。
1948年、パレスチナに「ユダヤ国家」を掲げるイスラエルが建国された。その過程で、この地に住まっていたイスラーム教徒とキリスト教徒のパレスチナ人70万余名が民族浄化され、難民となった。パレスチナ人を襲ったこの民族的悲劇をアラビア語で「ナクバ(大破局)」と呼ぶ。
エピグラフ的に挿入されたナクバの説明から。まず「ナクバ」から初めましてだった…。そこから、でした。
読み進めていく道中、何度胸が締め付けられただろう。
学生の感想の一文、「ガザ、世界最大の野外監獄、無期懲役ときどき死刑、罪はパレスチナ人であること」、ここに集約されている。
【彼ら彼女らを取り囲む不条理・不正義について】
…これまで家族や友人を誰も失ったことがないという人に会ったとしたら…人を殺す塔や戦車や武装した「入植地」や巨大な金属の壁に囲まれていない世界の現実を体験したとすれば…そうしたら、この子供たちははたして、世界を許すことが出来るでしょうかー(p70)
岡は続ける。
「この子たち」は許せるだろうか。私たちは許せるだろうか、こんな世界を。許せるはずがない、いや、許してはいけないのだ。許していいはずがない、こんな不条理を。許していけないのなら、どうするのか。答えは明らかだ。私たちは変えなければならない、この世界を、私たちの手で、非暴力の手段によって。…私たちは無関係なのだろうか。罪はないのだろうか。ミサイルや白燐弾で殺す代わりに、私たちは、ガザを関心の埒外に打ち捨てることで、日々、殺しているのではないか。(p71-72)
境界侵犯の暴力という点で、占領と拷問は本質を同じくする。占領が、私/たちの土地に対する私/たち自身の主権を剝奪するように、拷問は、私のからだに対する私自身の主権を奪い去るのだ(p214)
【「人間」であり続けるということ】
世界の無知・無関心・忘却という暴力の中で人間性を否定され、世界からノーマンとされてなお人間であり続けること。人間の側にとどまり続けること。この許しがたい世界をわが身もろとも破壊してそれに終止符を打つのではなく、自らの人間性を決して手ば佐須、自分たちの手で、非暴力の手段によって、世界を変えていくこと。…《ガザ》に生きるとは、人間がそのような闘いを闘うということだ。(p74)
…パレスチナ人がパレスチナ人であることを引き受けるということが人間にとっていかなる闘いであるのか、そのことを、それを果敢に闘っている者の姿を通して教えようとしたのだと思う。(p151)
人がこの世界で何者であるかは、決して自明なことではない。…パレスチナをその目で��たことも訪れたこともない難民二世の若者たちが、解放戦士(フェダーイーン)として「祖国」の開放を求める闘いに続々と参与したのは、彼らがパレスチナ人に生まれたからだけではない。その難民的生の経験を通して、彼らは人生のいずれかの時点で、自身の生をパレスチナ人として生きることを自らの意志で選びとったのだ。…『ハイファに戻って』とは、同胞のパレスチナ人に対し、「パレスチナ人であること」とは何かを、このような思想的地平で開示した作品である。カナファーニーはこれを「人間とはその一人ひとりがひとつの大義(a cause/qadiyya)なのだ」ということばで表現している。(p188-189)
…真の人間とは、どの時代、どの場所にも属さない。…真の人間とは一人ひとりが、ひとつの大義であり、ひとつの国であり、ひとつの時代である…(エマソン)。(p206)
図らずもカナファーニーを読んだ後だったので、文中に引用される話の数々がしっかりわかってよかった。
【私への、世界へのメッセージ】
「訊きなさい!」「私たちには答える義務があるのよ!」(p114)
それでも、私たちは証言しなければならないのです、とズフールさんなら言うだろう。これは、私たちが人間としてこの世界に存在するための闘いなのですから、と。(p132)
「パレスチナに行ったこと、ある?」「ええ、何度か…」その答えを聞くや、ホダーとイブティサームさんが間髪入れずに、口を揃えて訪ねたのだ、身を乗り出して、目を輝かせながらー「ヘルウ・フィラスティーン(パレスチナは美しかった)?」(p155)
「ヘルウ・フィラスティーン?パレスチナが美しいだって?こんな、日々、暴力と流血にまみれた土地の、どこが美しいっていうんだ?…このあいだも取材中、友人がイスラエル兵に射殺された。その遺体の傍らで、ぼくはカメラを回せばいいのか、泣き叫べばいいのか分からなかったよ。ここには抑圧と暴力しかない。ぼくたちは自由を求めて闘っている。平和を求めて闘っている。だけど、ぼくたちはこの占領の元で生まれ育って、暴力しか知らないんだ。きみは平和から来たんだろ、日本は平和なんだろ、きみたちは自由なんだろ。じゃあ、教えてくれないか、自由とはどういうものか、平和とはどういうものか」(p176)
…イスラエル軍に占拠されたスターホテルのロビーで、アウニーたちがなぜ、あんなに引きも切らず冗談を言っては笑い転げていたのか、今ならよく分かるような気がする。生を破壊する暴力、パレスチナ人の人間性を否定する暴力のただなかで、二人の青年たちは、生を愛し、今、この瞬間の生を精一杯、享受するという根源的な抵抗を遂行していたのだ。それはまた、ロビーの奥にたむろしている同年代のイスラエル占領軍の若者たちに対する抵抗のメッセージでもあっただろう。僕たちは何があろうと、生を愛し、人間であり続ける、お前たちに僕たちの魂を破壊することはできない、というメッセージだ。(p227)
読んでいて何度も、なぜイスラエルはそんなことができるのだろうかと思ったかわからない。アウシュビッツを経験したユダヤ人がどうして、パレスチナ人にこのようなことができるのか。民族を根絶やしにしようなどという行為ができるのか。
地獄とは人が苦しんでいる場所のことではない。人の苦しみを誰も見ようとしない場所のことだ。
マンスール・アル=ハッラージュ
Don't forget Palestine エドワード・サイード臨終のことば
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ハマスの急襲と、それに対するイスラエル軍のガザへの地上侵攻という事態の報道に接し、ガザで何が起きているのか、ガザに生きるとは、あるいはパレスチナ難民として生きるとはどういうことなのか、少なくとも自分は何も知らなかったということを思い知らされた。
一人でも多くの人に読んでほしい。
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出版社サイト(みすず書房)
https://www.msz.co.jp/book/detail/08747/
「朝日新聞」書評(20190126 都甲幸治)
https://book.asahi.com/article/12095708
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これまで自分は世界の何を見ていたのか。
自身の不明を恥じる。
この悲劇は今現在も続いていて、この瞬間がこれまでで最も悲惨な状況なのだろう。
ジェノサイドが行われている。世界はそれを知りながら黙って見過ごしている。