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天使のくまさんのレビュー一覧

投稿者:天使のくま

40 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本ガザに地下鉄が走る日

2023/04/07 11:21

虐げられたものが虐げるやりきれなさの向こう

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アラブ文学の研究者である岡による、パレスチナをめぐるエッセイ集。とはいえ、パレスチナが置かれた現状は重い。
 虐げられたものが、一転して虐げる側にまわる。そういった物語は、少なくない。悪の親玉が実はかつて差別され虐待されてきた存在だった、とか。そんな小説やマンガも、いくらでもあげることができる。けれども、現実においてそれに近い存在というのは、ユダヤ人社会だと言っていいと思う。
 第二次世界大戦において、ドイツによって大量のユダヤ人が虐殺された。そして戦後、ユダヤ人国家を建設するために、パレスチナ人が住んでいた土地を、約束の地として、そこにイスラエルを建国し、パレスチナ人を排除し続ける。
 岡は、学生時代から何度もアラブ世界に足を運び、ヨルダン川西岸も訪れる。ただし、ガザに足を運べたのはかなり後になってからではあるが。そして、そこで見たこと、アラブの友人から伝えられること、が語られていく。時に、現在進行形で。
 パレスチナ人は、イスラエルで二級市民として暮らし、レバノンなどで難民となり、ヨルダン川西岸で土地を奪われたまま暮らし続ける。亡命するものもいれば、ガザ地区に閉じ込められる人々もいる。とりわけ、ガザを表した言葉、「無期懲役、ときどき死刑、罪状はパレスチナ人であること」というのが痛々しい。
 イスラエルはパレスチナ人の大量虐殺は行わない。増えてきたときに、刈り取るように攻撃する。殺すのではなく、生きる気力を奪うように。人数ではなく、長い時間をかけた虐殺、ということになる。
 難民キャンプがどういうものかも語られる。テント暮らしではない。それなりの建物があり、世代が交代していく。それはキャンプに見えないかもしれない、という。けれども、人が長く暮らしていく過程で、キャンプはそうしたものになっていくという。
 岡は、同じ状況が日本にもあるという。かつて、半島から移住せざるを得なかった朝鮮人が住み着いた大阪の地域。違法建築に住むため、行政の支援は得られない。とはいえ、そこから出ていくこともできない。
 パレスチナは遠い話ではなく、日本という国が沖縄や北海道で同じことをしていない、とはいえないのではないだろうか。そうしたことも、考えてしまう。

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紙の本

紙の本知の果てへの旅

2023/06/06 10:40

知の果てノセンスオブワンダー

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

デュ・ソートイといえば、これまで「素数の音楽」「シンメトリーの地図帳」といった数学ノンフィクションを書いてきた数学者だ。「素数の音楽」では、素数における規則性に関するリーマン予想をめぐる内容だし、シンメトリーの地図帳は対称群の分類をめぐる内容だった。とはいえ、数学の専門書などではなく、また一方的に解説していくというわけでもない。素数や群論をめぐる旅をしているような、そんな本だ。外国文学のブランドである新潮社のクレストブックスから刊行されているというのも、そうした文学性を持った本だからというのがある。
 一点して、本書では、数学以外の世界にも足を踏み込む。無限に小さい世界、無限に大きい世界、宇宙の果て、時間の始まり、意識とは何か、カオス、量子物理・・・・・。
 こうした分野にまで足をつっこむことになったきっかけは、デュ・ソートイがオックスフォード大学の数学の教授に加えて「一般の科学へのためのシモニー教授職」というポストを得た。どういうポストなのかよくわからないけれど、どうやら一般の人に対して科学を伝えるという立場らしい。前任者は「利己的遺伝子」のリチャード・ドーキンスだという。
 ということで、生物学や物理学や化学のこともちょっとは知らなきゃいけなくなった。そこで、それぞれの分野の知の果てはどうなっているのか、ということを書いたのが、本書である。
 例えば、この世界を構成する物質をどんどん小さくしていくとどうなるのか。原子、それを構成する電子と陽子と中性子、そして陽子や中性子を構成するクォーク。さらにその先、大きさの限界は、プランク長という長さにたどりつく。
 こうしたことが、専門的な知識がなくても読める、というかデュ・ソートイによって無限に小さくなっていく世界への旅に連れていかれ、まさにその風景としてこれらを見ているからだ。そして、文学的なことを言えば、本書はある種の世界の真実に入っていくことで、読者自身のあり方にも何かしらの本質を伝えているからだ、ということになる。
 そうそう、コインを投げて表が出る確率と裏が出る確率は同じではないらしい。表と裏は同じではないから。そんなエピソードも紹介される。
 本当に、現在における知の果てのセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれる以上の本だと思う。

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紙の本

天皇制と死刑制度の共通性

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書を読んでいて、最初に感じることは、天皇と死刑囚の共通性。
 思い出すのは、昨年秋、園遊会で山本太郎参議院議員が天皇に直接手紙を渡したことが事件になったということ。政治利用だとかヤンキー的好意だとか、山本もいろんな方面からさんざん批判されていた。でも、この事件でもっとも違和感があったのは、その手紙をすぐに宮内庁の職員が回収し、天皇には届けられなかったということだ。そして、それがわりとあたりまえのことのようにスルーされてしまったことにも、強い違和感があったのだけれども。
 なぜ違和感があったのか。一般的に、自分宛ての手紙が、自分の承諾もなしに届けられないということについて、問題ないと思うことがあるだろうか。もちろん、その後、山本に届けられた銃弾の入った手紙を届けるということは論外だけれども、少なくとも、差出人が明確であり、危険性のない手紙が届けられないということは、あり得ないはずだ。
 けれども、日本において、自由に手紙を受け取れない人間がいる。それが、天皇と確定死刑囚だ。本書において、辺見は死刑囚で俳人である大道寺将司との交流を通じて、手紙に同封した犬の写真も、句集の受賞のお知らせも届いていないことを明らかにする。さらに、辺見から届いた手紙が黒くぬりつぶされた箇所が多くあり、しかもとりたてて思想的なもののない俳句が塗りつぶされているとも。
 そして読み進めていくと、辺見は「見えない」ものとして政治利用されているという点で、天皇と死刑囚が共通しているという。死刑囚がどこでどのように殺されていくのかは、明らかにされなかったし、明らかにされない、すなわち見えないことによって、死刑囚に対する想像力は人々の間で働かなくなり、憎悪の声だけが拡大する。天皇もまた、皇室のさまざまな行事は非公開で行われており、実際に人々の目に見えず、神格化される。天皇の人格がどのようなものなのか、どのような意思を持っているのか、死刑囚と同様に知られていない。
 とても奇妙なことだけれども、天皇の政治利用はタブーとされているにもかかわらず、「見えない」ことによって、容易に政治利用できるものとなってしまっている。意思を明確にすることがない天皇とその一族を出すことによって、簡単に権威づけることができる。死刑囚もまた同様に、見えない憎悪の対象とすることで、本質的な問題(たとえば、なぜ殺人事件が起きたのか、社会制度における不備など)から人々の目をそらすことができる。
 こうしたことが、現在の国粋主義的な政権につながっているのだと思う。集団で憎悪を抱える人々が新しいファシズムの担い手になっていく。そのことが、オウム真理教という狭い教団の中で起こったことの相似形として、日本で起きている、ということだろう。
 辺見は、こうした点から、集団であるということに対して絶望すらしている。個人として戦え、と。個人として、屈するな、と。何だか、「ぼっち」であることの方が、よほどまともなんじゃないか、とでも言うように。
 ぼく自身の考えからすれば、この国で死刑制度が存在すること、このことを「国民」の過半数が支持しているということで、この国の集団はダメなんじゃないかって思っている。死刑制度を自明のもののように支持すること自体が、日本国憲法における「基本的人権」について、それがいかなるものなのか考えていないことの証左だと思う。そして、そうした国民が過半数の状況で、「基本的人権」をないがしろにするような法律の成立は容易だとも思う。

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紙の本

紙の本未明の闘争

2023/10/30 14:34

保坂和志が小島信夫の「残光」みたいな小説を書くとこうなる

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保坂の小説をいろいろ読んできたし、ドラマがないのはいつものことなんだけれども。ここでは、保坂は意欲的に、小島信夫の「残光」みたいな書き方をしている感じがする。あ、「残光」は小島の最後の長編で、90代となった作者のあやしい記憶が、としよりらしいくどさで書かれた作品。
で、本書はどんな感じで書かれているのかというと、ある時点から追想に進み、そこからまた別の追想の場面へと続く。現在はいつなのか、ということがまったく意識されない。そんな風に小説は進んでいく。でも、だからといって、話のすじが追えないような難解な小説でもない。というか、すじはそもそもないし。
 この小説は、死んだ友人が道路を歩いているという光景からはじまり、病気の猫の死で終わる。保坂の「世界を肯定する哲学」では、自分が死んでも世界はある、ということが述べられていたけれども。この小説では、誰もが死ぬ、けれども世界は続いていくし、残された者は生きていく、そうした哲学が、感覚として伝わってくる、そういうものなのだと思う。それを、どのように闘争というのかは、なかなかうまく言えないのだけれども。

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紙の本

紙の本稲妻

2023/10/30 14:31

テスラのこだわりの内面

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ジャン=フィリップ・トゥーサンのような、ちょっとずれた感じのするフランスの小説は好きだ。ジャン・エシュノーズもそんな小説を書く作家の一人。ポストモダンといえば、そうなのかもしれない。
 本書は、「ラヴェル」にはじまる三部作の三作目とのこと。邦訳のある「ラヴェル」は、忌の際の主人公を通じて、モーリス・ラヴェルの人生の断片を描いた作品。二作目では陸上競技のアスリート、エミール・ザトペックが主人公らしい。そして本書はニコラ・テスラが主人公。もっとも、本書に限っては、グレゴールという別の名前がつけられている。
 「稲妻」というタイトルが示すように、テスラは電気工学の発明家。同じ時代のトーマス・エジソンとよく比較される。エジソンが実業家として成功する一方、テスラはすっかり狂人扱い。おかげで、けっこうSF小説にも登場する。発明王エジソンは、本書ではすっかりダークなGEの創業社長、例えばユニクロの柳井正みたいな悪役として登場する(柳井は正確には創業者じゃないけど)。
 本書の軸は、エジソンとの確執。直流にこだわったエジソンに対し、交流の有用性で技術開発を進めたテスラの方が、技術的には後に影響を残している。けれども、テスラの人生は実業家のそれではない。自分の仮説に対するこだわりをつらぬき、ある意味で不遇な人生。そのこだわりの内面が、短い小説の中で描かれる。テスラの人生が簡単に要約できるものだとは思わないけれども、チャールズ・ユウの「SF的な宇宙で安全に暮らす、っていうこと」になぞらえれば、エシュノーズは人生の特異点を取り出してくれるっていうことになる。その特異点がずれてしまった人生の一部、それがこの小説の魅力なのだな。

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紙の本

アジフライがおいしそう、佐和の視点から物語の読み直しが求められる。

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物語は中学校でスタートする。主人公の春日高男は、ボードレールの詩集「悪の華」を愛読する中学生だ。クラスメイトの佐伯奈々子のことが気になっている。ある日、誰もいない教室で彼女が置き忘れた体操着を見つけ、これを盗む。モラルに対して自分の欲望を正当化する「悪」の行為を、だが、同じクラスの仲村佐和に見つかってしまう。
 仲村さんはクラスの中でも浮いた存在。勉強する気もなく、教室を、学校を、自分の住む町を軽蔑している。教師のことを「くそむし」と思っている。
 その仲村佐和は、春日高男の姿を見て、自分と同類の人間を発見したと感じる。そこから、彼女は、体操着の窃盗をねたにして春日高男に変態的な行為を要求する。同時に、仲村佐和は群馬県の桐生市とおぼしき町を心底嫌っている。父親との二人暮らしだが、父親への愛情はない。早く町を出て行きたいと思っており、そのために春日高男を連れて行こうとする。殺風景な部屋に住む仲村佐和は、ネガティブな綾波レイといった感じすらする。
 1巻から7巻まで続く中学校編は、佐伯奈々子を巻き込み、破滅に向かって突き進んでいく。春日高男は、地獄に道連れしてくれる仲村佐和から離れることができない。最後、町を出ようとしてもどこにも行けないこと悟った仲村佐和は、祭りの舞台で春日高男とともに焼身自殺を試み、失敗する。火をつける直前に、仲村佐和は春日高男を押し倒し、自分一人で死のうとするが、それを父親に防がれる。この事件を契機に、それぞれが町を離れていく。
 埼玉県のどこかとおぼしき町で、高校編がスタートする。春日高男は事件以来、すっかりぬけがらのようになっている。それでも、「悪の華」が好きな文学青年であることは変わっていない。物語は、文学少女で小説をこっそりと執筆している常盤文と出会い、再び動き出す。
 こうした中、春日高男は町で佐伯奈々子を見かけ、彼女が普通の女子高生としてどうにか自分を取り戻していることを知る。そして、祖父の葬儀で故郷に帰ったとき、佐伯奈々子の友人だった木下亜衣から仲村佐和の居場所を知る。千葉県で母親が営業する食堂を手伝っているという。
 一方、常盤文は小説を書き上げる。最初の読者は春日高男になるはずだった。だが、春日高男は読めないという。春日高男にとって、仲村佐和との関係は決着がついていなかった。春日高男は常盤文に全てを話す。祭りでの焼身自殺未遂で、なぜ彼女が自分だけを生かそうとしたのか。その答えを求めて、常盤文とともに千葉県に向かう。
 春日高男と常盤文は仲村佐和がいるとおぼしき食堂に入り、アジフライ定食を注文する。最初に出てきた仲村佐和の母親は、「彼女をそっとしておいて欲しい」という。けれども、料理を運んできた仲村佐和に対し、自分であることを打ち明ける。定食に手をつけようとしない二人に対し、仲村佐和は「おいしいよ」と、食べるようにうながす。母親との平穏な生活の中で、彼女はそう言えるだけの余裕を取り戻していた。
このあと、三人は浜辺で会うことになるが、このときの、もう眼鏡をかけていない仲村佐和の表情は、心を打つ。
 欲望によって抱えてしまった心の闇・黒歴史を、結局はずっと抱えて生きて行かなきゃいけない。その闇は、遠くで生きている仲村佐和としか共有できないものだけれども。そして、仲村佐和の抱える闇を、春日高男は抱えきることができない、変態ではなく「ふつうにんげん」でしかないとも悟る。けれども、物語は、仲村佐和の視点から読みなおすことを強要する。仲村佐和にも幸せになって欲しいと願わずにはいられない。

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紙の本

紙の本似非 マキエマキ2nd

2023/09/15 16:59

自分を取り戻した自身に満ちたセルフポートレート

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この50代っていうのが、重要だったりする。というか、そこには、若さを売り物にできなくなることで、自分の身体を取り戻したのではないか、ということがあるからだ。もちろん、50代にならなくても、自分の身体は自分のものであり、無用に他者に消費されるものではない。とはいえ、そこには若い女性の身体を消費したい欲望を持つ人は少なくないし、それが適切な取引の上でのことならいざしらず、非対称な関係の中で消費されていくということに対しては、マキエマキは異議申し立てをする。マキエ自身、歳を取ることで自由になったと、第2写真集「似非」で書いている。50代になることで、第三者が勝手に消費しない身体を手に入れることができた、ということなのだと思う。それでも、決して老いているわけではない、健康な身体でセルフポートレートを撮影するときに、エロティシズムは自分のものであるし、マキエ自身が欲望の主体として画面に収まるし、そして、そのひとつのあり方として、昭和というモチーフを展開していく。別に、ヌードになるということだけではなく、古いスナックや漁港で、男性に欲望される女性を演じる。演じるという段階で、主体は自分自身なのだけれど。それは、架空のポルノ映画のポスターとして製作されることもある。
 ヌードについても、全裸をさらすというのではなく、下着姿であり、入浴時はタオルで前を隠すくらいはしている。隠すことのエロティシズムもまた、織り込んでいる。それは、現在のセックスを露骨に撮影しているアダルトビデオにはない、昭和のポルノ映画の持つ想像力を刺激する回路と距離感を持っているということだ。
 もうひとつ大事なことは、50代のエロスを取り戻した女性を被写体とする作品に対し、リスペクトすることを求めているのではないか、ということ。ツイッターでも画廊でも、彼女にからんでくる、しばしば中高年の男性がいる。ちんこの写真を送りつけたり、とか。作品が提供しているもの以上のことを、無償で求め、消費しようとしている相手に対しては、強く拒否する。非対称性による一方的な消費を拒否している、ということだろう。知らないところで勝手におかずにされるのは、まあしかたないとしても。
 旅館の布団に下着姿で寝そべり、温泉につかり、あるいは山頂や中野ブロードウェイでほたてビキニをまとった肢体をさらす、そのテイストはときに、つげ義春の「ゲンセンカン主人」における爛熟さを思い起こさせることさえある、そうしたマキエは等身大の欲望を持った主体であり、それを取り戻したということが、そこにある。
 マキエ自身が気にいっているという「似非」の表紙の写真は、どこかの洋館の中とでも言えばいいのかな、その階段から見下ろす、SMの女王様姿のようなマキエのセルフポートレートだ。そこには、自分を取り戻した自信に満ちた姿がある。

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紙の本

私のエロは私が決める

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マキエマキといえば最近「人妻熟女自撮り写真家」として知られるようになってきた。一般的には、キワモノ的に思われているんだろうとは思う。でも写真家としてのキャリアもあるし、語るべき作品だよな、と思う。単純な熟女ポルノ写真というわけじゃない。
 なんでマキエマキが気になるかというと、彼女の「私のエロは私が決める」ということにある。
 ジュディス・バトラーのキャサリン・マッキノン批判には同意してしまうのだけれど。それでもマッキノンが言うように、ポルノグラフィーのかなりの部分は、男性の消費のために独占されてきたとは思う。ただ、それを反ポルノに収れんさせてしまうと、女性自身にとってのエロというのも一緒に追いやられてしまう。エロいことは悪いことではないし、むしろそれはぼくたちにとっても、生きる上で重要なピースであるとも思う。
 だとしたら、エロを自分の手元に取り戻してもいいのではないか。自分にとってのエロいこととは何なのか。ある意味、人妻熟女は、男性にとって消費の対象としての価値は下がっているのではないか。だからこそ、自分を取り戻すことができたんじゃないか。そんなことも含めて、マキエマキは自撮りをしていく。エロいツールとして、セーラー服やホタテビキニをまとい、エロい場所としてラブホテルや古い家屋、場末のバーの通りに向かう。ぼくも世代が近いので、彼女の言う昭和の風景には、いろいろ感じてしまう。
 では、そもそもエロいのはどういうものなのか。『くらべるエロ』では、自撮りを離れ、若いモデルを通じて、エロい要素を分解・単離し、提示してくれる。あらためて、示されると、エロいことについて、何に感じていたのか、なんかおもしろい。胸の谷間と太ももの隙間のどっちがエロいか、とか、下乳と横乳とか。マキエのツボを押さえた撮影が、そのことを明確にしてくれる。その意味では、「おまえのエロは、おまえが決めろ」と言われているような気もする。でも、そんな問われ方って、あまりされていない。という意味で、けっこう貴重な本かもしれない。
 自撮り写真については、第二写真集の『似非』も出たばかり。写真もさることながら、昭和のエロ本のようなコピーもいい雰囲気だし、何より自分の作品への想いについて、いろいろ語っている。エロい自分というのを取り戻す挑戦というようなところもある。
 とまあ、そういうマキエマキなのだが、セーラー服の写真だけは、「娘の高校卒業記念にお母さんが着ちゃいました」感が強くて。個展に行ったときに、シールをもらったんだけど、実はちょっと困りました。

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紙の本

紙の本ホフマン博士の地獄の欲望装置

2023/06/06 10:52

短距離走の連続のような、カーターの読みやすい傑作

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そもそも、アンジェラ・カーターに興味を持つようになったのは、サンリオSF文庫のおかげだ。近刊予告に「ホフマン博士の欲望装置」という作品があって、どんな作品なんだろうと。でも、それは刊行されることなくサンリオSF文庫そのものがなくなった。そしてその後、「魔法の玩具店」や「血染めの部屋」、「夜ごとのサーカス」、「ワイズチルドレン」、「ブラック・ヴィーナス」、「花火」などが、コンスタントに出版され、最近では「新しきイヴの受難」もあった。サンリオSF文庫以前に唯一出版されていた「ラブ」は図書館で借りて読んだ。どの作品も読みやすいというわけじゃないけれども。そうした中にあって、童話を題材にした作品は、フェミニスト作家であるカーターのわかりやすい一面に触れることができるし、そこから、他の作品に入り込んでいくことができるんじゃないかな。
 それから、カーターは一時期日本に住んでいたことがあって、えーと、銀座かどこかのバーでバイトをしていたとか、そんな話もある。「花火」にはそんな日本の風景が出てくる。だったらもっと日本でも読まれてもいいのに。
 ということで、サンリオSF文庫の近刊だった本書が、30数年ぶりに翻訳出版されるというは、生きててよかったというレベルですね。
 カーターというと、マジックリアリズムの作家という面もあって、長編はその傾向がありますが、本書がそこにあてはまってきます。南米の作家が注目されていたということもあったのかもしれません、謎の国家という舞台で話が始まります。主人公デジデリオはこの国の「決定大臣」の秘書。そもそも決定大臣っていうのが謎ですね。そして、デジデリオの使命はこの国に敵対するホフマン博士の有害な欲望装置を壊すこと。そして実際に、デジデリオはホフマン博士を倒すが、同時にデジデリオ自身が恋に落ちた相手でホフマン博士の娘であるアルバティーナをも失うことになる。
 というのが、序章で示される枠組み。ここから始まる全8章は、ホフマン博士を追う異世界巡りとでもいうべき物語。人食い人種にケンタウロスの世界、サディストの館などなど。アルバティーナはさまざまな形でデジデリオの前に表れ、苦しみを共にする、どころじゃないくらいの目にあう。ポルノグラフィのイメージが繰り返し描かれて、お尻の穴も痛くなるくらいだし、日本のラブホテルのイメージも使われているとか。まあ、本書執筆当時のカーターは日本に住んでいたということだし。
 緻密に構成されたというよりも、全8章をそれぞれ短距離走のように走ったという勢いがある。南米のマジックリアリズム作品には、書かれた場所の不合理な政治性が背景としてあるのだけれど、カーターにとっては、それはあまりない。むしろ、フェミニストとして、女性の持つ欲望と社会が求める欲望との間に折り合いがつかないという、そうした別の政治性がそこにあるのではないか。それが、ポルノグラフィの姿で描かれているのではないか。そうしたとき、マジックリアリズムというよりは幻想小説のような姿になっていく。
 そして。本書全体を包み込むのが、SFとしての枠組み。アイデアとしては、今となってはどうかとは思うけれども。それでも、十分に不快な地獄巡りを終えた読後感は、なかなか軽くはない。この後のカーターの作品として展開していくテーマが、それぞれの章に分けられているのではないか、という気もしてくる小説。
 それはそれとして、これがサンリオSF文庫で出ていたら、やっぱり読みにくい変なSFだとか思われただろうなあ。

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紙の本

紙の本

2023/06/06 10:42

辺見庸のもっとも絶望に満ちた作品

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本書の読後感は、ひたすら絶望がひろがってくるというものだった。
 モデルとなったのは、相模原市の障害者施設における大量殺人事件。主な登場人物はその障害者のきーちゃんと殺人にいたる職員のさとくん。主人公である障害者の一人称で語られていくが、同時にその分身として健常者のあかぎあかえも。
 きーちゃんは重度の障害者で、舌すら動かすことができない。ただ、意識だけがあり、感覚だけがある。目が見えるわけではない。意思を伝えることすらできない。そうした絶望の中で、意識は思索を続ける。限りなく絶望的な世界で、思索を続ける。だが、そこに照射されるのは、同じく絶望的な外部の世界だ。それが例えば安倍内閣だ。
 一方さとくんは介護職員として、きーちゃんらの介護に向き合う。さとくんから見た、きーちゃんたちの絶望的な生に対し、それが人間なのかどうか、疑問を持つ。それは人間として生きるに値するのか。そうではないから、死んでもらう。さとくんは、やるときはやる。
 けれども、絶望的なのは、絶望的に見える生に対して価値を認めないという考え方そのものだ。人の命を仕分ける考えこそ、現代社会につながっていく、絶望的な回路ではないのか。
 別に、安倍内閣だけじゃない。きーちゃんの意識の中に入ってくるものは、世界各地の残虐な風景でもある。
 きーちゃんは意識だけの存在のような、絶望的な生ではあるが、その意識の中の想像力が、心を走らせる。なのに、周囲は、きーちゃんに心があるのかどうか、疑問に思う。心が無いなら、殺してもいいのではないか。けれども、殺す側に人の心があるのかどうか。
 人の心が感じられないほど、想像力の欠如した政治が、人の心をむしばんでいく。
 繰り返し使われるフレーズ、「ロッカバイ」、子守歌ではあるが、どうしてもぼくはサミュエル・ベケットの戯曲「ロッカバイ」を思い浮かべてしまう。そういえば、ある一節では、ロッカバイの歌にまじり、「いったりきたり」「しあわせな日々」「わたしじゃない」と続く。
 ベケットの作品、例えばとりわけ末期の「いざさいあくの彼方へ」などは、死んで墓場に入っているであろう人のモノローグだ。生きる可能性がすべて消尽した世界が、他の作品でもたびたび語られる。
 辺見がベケットを念頭に置いていたのかどうかはわからない。それでも、ここにある世界は、どうしても、そもそも人として消尽してしまったきーちゃんの、それでも心を持って生きる意識に対し、それよりもはるかに絶望的な社会に置かれた人の姿が映しだされる。そして、作品の中で何度も語られる現実の世界のことを考えると、本当にそこには絶望しかない。ただ心を持って生きていくというところにまで降りていくことができない絶望しかない。それは政治の話などではなく、私たち自身がそこに降りていくことができない絶望である。
 辺見のこれまでのどの作品にも増して、絶望に満ちた作品だ。

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紙の本

紙の本彼女の体とその他の断片

2023/04/07 11:15

ストレンジでフェミニンでクイア

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ストレンジでフェミニンでクイアでユーモラスで残酷な短編集。アンジェラ・カーターやケリー・リンクや小川洋子から影響を受け、カレン・ラッセルに支持される、というのはなんかもう、それだけでいいなあ、と。
 ざっくりと言ってしまうと、テーマは身体とジェンダーということでいいのかな。「本物の女には体がある」という短編が、そのことをよく示している。この作品の中では、女性の間である種の病気が拡大している。身体が消えていくという症状だ。ほんとうに消えていく。だんだん透明になってなくなっていく。主人公たちレズビアンのカップルもこのことに直面する。そこには、元々この社会において、女性の体なんて最初からいなかったようにしか扱われない、という感覚があるのだろう。そうした悲しみがある。というか、体は当人の物になっていないというか。
「八口食べる」というのは、そもそもスタイルを維持するためにダイエットする、ということをデフォルメした話だ。自分の体であるにもかかわらず、社会が与える価値観にコントロールされている。
 セックスは体と不可分だ。さまざまなセックスと性欲の処理がリスト化された「リスト」には、ただあきれてしまう。でもその多様性もまた、世界の1つの断面である。
 「とりわけ凶悪」は、心地よいほどの社会に対する皮肉だ。アメリカのテレビドラマ「性犯罪捜査官」の12シーズン272話のタイトルにあらすじをつけただけの作品なのだが、もちろんそれらしく書いているものの、実際の話とはまるでちがう、らしい。主人公のステイブラーとベンソンという二人の捜査官は、クイアな事件に直面するだけじゃなく、BL的に接してみたり、いつのまにか性別が変わっていたり、マチャドのやりたいほうだいにいじられる。性犯罪そのものも問題なのだけれど、それをとりまく社会そのものが多様な性欲を抱えていて、それはそれでいいんだけど、認めろよな、という、そうした意味での凶悪さを指摘している。
 マチャド自身もレズビアンで、妻がいる。社会の女性に対するミソジニーってあるけど、とりわけレズビアンにとっては居心地悪いだろうな、と思う。ということでは、最近読んだ、モニック・ウィティッグの「Across the acheron」も同様で、ここではガイドのマナとウィティッグによる地獄めぐりが描かれていたりする。ウィティッグもレズビアンで、フランスからアメリカに移住したのだけれど、ぼくが読んだ英訳はそのパートナーによるものだ。
 気付くと女性の生きにくさが描かれた小説ばかり読んでいたな。偶然ではあるのだけど。

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紙の本

紙の本持続可能な魂の利用

2023/04/07 11:13

おじさんは絶滅する

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松田青子の初の長編である。あいかわらず、ストレンジな話である。
 『スタッキング可能』以降、男性社会との感覚のずれという形で、そのストレンジさを描いてきたといえる。そして、この作品では、おじさんと若い女性という対比で、そのことが示される。なんといっても、エピグラフからして、「少女革命ウテナ」である。
 続いて、最初のシーンは、おじさんから少女たちが見えなくなるという現象が起きる。少女にとって有害でしかないおじさんから見えなくなるというのは、なかなか理想的なことなのだろう。
 ところが、話はそう単純ではない。主人公の敬子が日本に戻ってきてはまるのは、欅坂46なのだから(いちおう作品の中では、固有名詞は示されていないけれど)。欅坂46は、秋元康がつくった女性アイドルグループの1つ。AKB48に代表されるこれらのグループは、まさにおじさんによってつくられた商品であり、実際のところ、持続可能どころか魂は消費されている、とでも言っておけばいいのだろうか。そうであるにもかかわらず、笑わないアイドル、とりわけセンターの平手友梨奈(という固有名詞ではなく、××となっているけれど)にひかれていき、コンサートにまで足を運んでしまう。そこには、おじさんによってつくられたものであるにもかかわらず、おじさんを裏切るような存在になっていく痛快さがあるのだろう。
 ちょっと話はずれるように思われるかもしれないけれど、女性の生きにくさの事例の1つは満員電車での痴漢による被害だ。実害だけではなく、男性社会の痴漢被害に対する思いやりのなさというのも問題だ。という話は、ツイッターにはいっぱいアップされているのに、痴漢の被害にあいやすいような制服を強制しているということに対しては、あまり批判されていないような気がする。というか、あまりにもあたりまえ化しているものは批判されないのだろうか。学校は痴漢の共犯者なんじゃないか、と思うのだけれども。という点では、松田はこの作品の中で制服についてもしっかり批判している。欅坂46もまた、制服をしっかり着ているのに。AKB48と同じようでいて、しっかり逆転させている存在になっているということか。
 結論はというと、おじさんは絶滅していく。まあ、どんなふうに絶滅するのか、女性の持続可能な魂の利用はどうなるのか、というのはまあふせておくけど。

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紙の本アメリカ人のみた日本の死刑

2019/07/30 23:26

日本は死刑賛成ではなく、そもそも考えていないっていうこと

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ざっくり言ってしまうと、「ここがおかしい、日本人」みたいなテレビ番組があるけど、死刑制度をめぐって、そうしたことを語った本、ということになる。とはいえ、テレビ番組ではなく、本書で指摘される「ここがおかしい」レベルは、かなり深刻なものです。

結局のところ、どうしてアメリカを除く先進国には死刑がないのに、日本だけに死刑があるのか。そして、アメリカの死刑制度と比較したときに、明らかになるのは、日本では死刑を人権の問題としてまったく考えてこなかったということになる。アメリカは、例えば、少なくとも憲法に違反しないように、死刑が存在する州では苦痛を与えないように死刑を執行してきた。裁判についても、冤罪を限りなく排除し、犯罪が起きた背景についても問うている。日本では、そうした取組みがほとんどなされていないし、冤罪があることすら明らかにされていない。あまつさえ、検察は証拠を捏造する。
 また、日本の民主主義は、表面的な民主主義でしかないとも指摘する。特に日本の民主主義では、自由の尊厳や公平性はあまり顧みられない。

ジョンソンは、死刑と憲法第9条の関係において、先進国が一般に軍隊を持ち、戦争という形での国家による殺人を正当化していることに対し、日本は戦争を放棄しているので、死刑によって国家の殺人を正当化しているのではないか、という指摘をしている。それは言いすぎなんじゃないかとは思うけど。それでも、国家だけが正当に殺人できるものだというのは、その通りではあります。
ただ、これって重要な見方で、そもそも人権を守るということの延長に、戦争を放棄する、少なくとも無駄な戦争、侵略戦争はしない、ということがあるはずなのに。日本では逆で、人権というものがほとんど語られない、というか国家による殺人という文脈で語られない、ということが、憲法第9条を支える思想を脆弱なものにしていることは指摘できると思うのです。それは、ぼくの考えとして、死刑を廃止できないで、憲法第9条を守りきれないだろう、ということにつながります。

表面的な民主主義という指摘も重要です。
ジョンソンはそう語らないのですが、今のぐだぐだした、安倍政権が続いている状況こそ、表面的な民主主義がもたらした結果だと思うのです。
深く考えない民主主義が、とりあえず困ったことは誰か弱い立場の人に押し付ける、という大多数を生み出し、そのマジョリティが今の政治を支えている、といえばいいでしょうか。
だから、公平性が欠落した政治が行われているし、人々も公平性に無頓着です。基地を沖縄に、再処理工場を青森に押し付けるといっても、それぞれ少数に押し付けているので多数は関心がありません。生活保護バッシングもそうです。
殺人に至った人の背景を想像することもありません。

その検察の取り調べそのものが、暴力的であり、その自白のみによって有罪にされている、ということがおそらくたくさんある。
こうした検察の行動に対する無関心の延長に、今の政府があると考える。

ジョンソンは、どうなれば日本で死刑が廃止されるか、考えています。1つは誤った死刑執行。まちがって人を殺してしまったら、取り返しがつきません。しかし、今の検察であれば、そんな事実は隠ぺいしてしまうのではないか。もう1つは、アメリカが死刑を廃止したとき。残るは日本だけになります。
ぼく自身は、死刑が廃止されるとしれば、いわゆる知識人がもっとまともに「人権」について考えるようになることが、第一歩だと思います。ここでいう知識人とは、たとえば「9条の会」に名前をつらねるような人たちです。

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紙の本わたしは灯台守

2023/11/28 10:52

人生の断片を描いた幻想小説

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「長崎」が傑作だったので、新刊として出た短編集も買ってしまった。書かれた順は前後することもあり、「長崎」ほど切れ味が良くはないけれども、同じように奇妙な話がいくつも収録されている。
 冒頭の「列車が走っている間に」は、人々が走っている列車の中で生活している世界の話。並走する他の列車の人とは接することはなく、窓を通して知ることができるだけ。それも、列車は互いに行先が違うので、いつまでも並走しているわけじゃない。そんな世界で、主人公は並走する列車の窓の向こうにいる女性に恋をする。表題作「わたしは灯台守」は、孤島の灯台に住みこみ、長くその仕事を続けている主人公が、やがて灯台の無人化によって去らなければいけなくなっていく、そんな話だ。
 生きるということは、何かにこだわり、それを形にしていくことに意味を見出すものなのかもしれない。それが他の人にとっては、理解できないものであっても。読者もまた、他の人だからこそ、奇妙に思えてしまうが、同時に主人公に感情移入することで、その想いもすくいあげることができる。
 そんな人生の断片を描いた幻想小説として、しみじみと読める傑作。

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紙の本狼少女たちの聖ルーシー寮

2023/11/28 10:50

壊れやすい家族だから支えあって生きる

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おかしな設定の世界の中で、家族のつながりを描いた短編がたくさん収録された本。後に長編「スランプランディア!」に発展する冒頭の作品「アヴァ、ワニと格闘す」は、ワニのショーで生計を立てる家族の話。主人公のアヴァは、ショーの最中に事故で亡くなった母親のかわりに舞台に立つ。っていうか、ワニのショーという設定そのものが、なんかおかしな感じがするけれども。あるいは、父親がミノタウロスで、ひたすら西を目指す、アメリカ西部開拓時代の話とか。表題作「狼少女たちの聖ルーシー寮」は、狼に育てられた少女が人間に引き取られて人間になっていく話だけれども、ラストで育ての親である狼に再会する。それで、そう思ったか、とか。
 人は一人では生きられない。壊れやすく組み換え可能な家族という枠組の中で、支え合って生きていく、そうしたアイデンティティとつながりもある。
 おなじように奇妙な小説の書き手である松田青子の訳ということで買ってしまったのだけれども、期待を裏切らない作品だった。
 子どもだったころの想いとはかなさをかんじさせる家族小説として、しみじみと読める傑作。30年前だったらサンリオSF文庫として刊行されていてもおかしくないと思う。

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