我が国の偉大な数学者である岡潔氏の思想的エッセンスを凝縮した書です!
2019/04/22 09:40
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、我が国の偉大な数学者である岡潔氏の思想的エッセンスをまさに凝縮した貴重な一冊です。岡氏は、生前「数学することが、生きることそのものだった」と語られたように、全身全霊でもって数学という学問に没頭された研究者でした。同書は、実は、その岡氏に大きな感銘を受けた独立研究者である森田真生氏が、これも全身全霊を込めて、岡氏の思想が詰まった論文の中からよりよいものを選び出し、編集したものなのです。岡氏の思想、それに森田氏の魂がこもった最高の一冊です。
数学する人生が美しい。
2020/04/15 09:58
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:マリリン - この投稿者のレビュー一覧を見る
最初の写真が何とも言えず良い。数学者である岡潔の講義から始まる本書を読み、生活の全てから岡のいう情が伝わってくる。右の内耳に関心を集めると情緒がわかるという。無明・不生不滅と数学と関係ないような話であるが、数学をこのような視点からも研究していたのかと思うと、岡潔という人間そのものがとても魅力的に思えてならない。『博士の愛した数式』を読み、数式が美しいと感じたのは数学の根底にあるものが、岡の思想にあるものと通じるからなのだろうか。岡曰く、数式で心を表現する…。一生、二生、三生…良い言葉だ。焦りが消える。
投稿元:
レビューを見る
難しい…(笑)仰って居る事は何となく、唯識思想のような気もしますが、解説の魚川さんも書かれているように188頁「これで情緒とはどういうものかおわかりくださったと思います」の後には「いや解んねえっす」と突っ込んだクチです。ですので、この解説を読むと、なるほどなるほど!と思える事が非常に多く、それに何よりこの一冊が非常に色鮮やかな情緒に溢れている事にも気付かされるという仕組み。
初見でさらっと読んで解る方には、この感想もばかじゃねえの?ってレベルなんですけど…
書架に置いておいて、気の付いた時に読み返したいような。
あとは写真がどれも良いのでそれだけでも!
投稿元:
レビューを見る
寺田寅彦さん、湯川秀樹さん、最近では福岡伸一さん等々、科学の世界で超一流の方々で思索的な文章の達人は数多くいらっしゃいますね。岡潔さんの著作(もちろん数学の専門書ではなく)にはとても関心があって、以前も、小林秀雄さんとの対談「人間の建設」を読んでみています。しかし、ダメですね。「人間の建設」のときもそうだったのですが、私の場合、理解するに必要な最低限の知識がないことに加え、論旨を辿る理解力も決定的に欠けているんですね。折角の名著なのに申し訳ないことです。
投稿元:
レビューを見る
読了。他の岡潔先生の本を読みたくなる。松尾芭蕉も読みたくなる。いつか岡潔先生の数学の論文を読むことに挑戦しよう。
投稿元:
レビューを見る
日本の誇る数学者である岡潔さんの講義やエッセイ。
好きになった数学を、探求し続けた岡さんの生きてきた軌跡を垣間見れる一冊。
俳句、絵画、芸術、仏教、日本文化などにも造詣が深く、それが数学にもつながってきたりする「岡さんが見つめてきた世界」を一緒に見ている気分になってくる。
どんな分野でも世界的な偉業を成し遂げるような人は、視野はとてつもなく広く、独特の視点から見つめる先を深く深く掘り下げ、自らの立場に立ち返って視座を高めている。そして、誰も追いつけない高みに到達している。
そのほんの一旦でもいいから、近づきたいとの思いから、日々悶絶している凡人には眩しすぎる。でも、見つめずにはいられない憧れとなる。尊敬する偉人の一人。
投稿元:
レビューを見る
学問が細分化されていく現代で情緒ある研究をできている人がどれほどいるのだろう。
岡潔は振り切っていたから、ほぼ無職状態の時に大業を成し遂げたが、
研究に「競争」の概念がやたらと持ち込まれ始めた現代のアカデミアで同じことをするのには制度的、精神的、経済的にも大きな壁がたくさんあることだろう。
現代の学問は岡潔の見ていた世界に立ち戻ることはできるのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
2021/1/8
岡の言葉に何度も何度もハッとさせられたし、深く深く胸に染みた。先だって『紫の火花』を読んで岡の思想を汲み取り切れず悶々としていたのだが、本書に収録されている「最終講義」はそれを噛み砕いて口語で説明されているので理解を大いに助けてくれる。
ところで人間は幸福を得るために生きているが、唯物論の世界では脳内物質が生む「興奮」は「幸福」ではない。では「幸福」はどこにあるのか。岡は宇宙を木に、その中に息づくものを葉に例え、葉である人間は湧き出でる水分によって支えられていると言う。個人主義は一人で生きようとすることを強いるため、葉はたちまち枯れてしまう。そのため、幸福(本文では「喜び」)は木に根差した生き方だと。
この思想、どこかで読んだことが…。そう、ストア哲学だ。宇宙のロゴスにしたがって生きることを善とする。まさしく共通した思想であるように思える。
話はそれたが、このように木に根差した生き方はどうすれば出来るのか。岡はその答えを仏教に求めた。そもそも宗教は人の悲しみがわかり、自分もまた悲しいと感じるところに端を発していると述べる。ここには自他の別がない、つまり相手と一体になる。これがイエスの説く愛、だと。なるほど。
これは小林秀雄の「考える」ことに通底する考えがありそうだ。そもそも「考える」は昔は「かむかふ」と言い、「自分の身を対象に交える」ということを意味していた。これも同じく、相手と一になることを意味している。
僕が面白いなと思ったのは、上記の理由から岡が宗教に完全に傾倒したかというとそうではなく、純理性の世界における理想も大切にし、両者をハイブリットさせたという点。これは僕にとって新しい視点。
最後に、ピカソの無明の話も大変面白かった。
投稿元:
レビューを見る
本を読むと時々、時間が流れていく感覚を静かに、だけど力強く感じることがある。だからヴァージニア・ウルフの小説が好きなんだけど、あの時と同じ感覚になった。数学は苦手だけど、ずっと手元に置いておきたい本。
投稿元:
レビューを見る
'岡の言葉はそんな私に、それまで想像もしなかった鮮烈な展望を提示した。人の心は肉体を超えて融通するもので、本当の「自分」は、肉体に束縛された社会的な「個人」よりも広い。私は岡の言葉に、それこそ爽やかな外気に触れるような感動を覚えた'
'「自分」が他とは切り離された肉体の中にあるという感覚は、社会を生きていくための方便である。確かにそれは必要な便宜かもしれないが、ずっと続けるには窮屈である。そこでときに人は、自然界の方に目を転じ、心を少し広い場所に解き放つのだ'
'「人本然の生き方において、自分といえば、現在心を集中しているその場所のことをいう」のだと岡は説く。どこか特定の場所に、動かぬ自分があるのではなくて、関心の集め方、心の集中の仕方に応じて、自分が小さくもなれば大きくもなり、肉体の内側にあることもあれば、外に漏れだしていくこともある'
自分なんてない。そう嘯きながら、自分を強く意識してしまってるんだ。
世の中に溢れる「自分」に遭遇するたび、そこにある狭さに窮屈になって、嫌になって、遠ざけたくなってしまう。自分とは違うんだ、と。
いま気づいているものに、大きく広げられているものに、ただ身を任せれば良いだけなのに。もう少しだけ、余分なものを捨ててしまえば良いだけなのに。それが出来ない自分にずっと苦しいまま。
自分が悪いのか、自分じゃないものが悪いのか。
そうやって、自分勝手な関心を作り出して、遣る瀬無くなって、いろんなものに悪態を付いているばかりで、もうクタクタな気分に落ち込む。
岡の数学に向き合う心が、紡がれていった思考が、歩んでいったその先が、入ってくる。とても自然に触れることができる。まだまだ何も掴んではいない自分だったとしても、同じ方へ、辿り着くだろう方へ、歩いて行ってるから。
思考が引き寄せられていくことを、実感することができているから。
岡夫人の騒動記が描く岡潔と、岡自身が綴ったこの本の言葉たちを並べてみれば、社会というものの中で表れてくる自分と、それとは関係なく存在する自分というもの間にある広がりに気づく。 本当は、ますます広いんだろう。そう、広くていいものなんだ。
自分を超えている。自分なんてものが一緒くたになってしまう世界に関心を向けることができたなら、区別することも、比べることも、捉われることが何もなくなってしまうはず。
そのときこそきっと、自由になれるんだろう。
まだまだ分かったような気になっているだけなんだろう。きっと、足りていないんだ。静かにゆっくりと、かみ砕きながら、岡がイメージした情緒という言葉を、自分の言葉で置き換えることが出来るようになるまで。
彼の残した文章に何度でも触れたいと思う。
'主人は日ごろから自分が数学をやるのはただ数学という一つのものをやっているのではなく、数学という表現法を通して、自分の心を表現しているのだと申しております。数学を中心に、主人の人生はなにもかも渾然と一体になっているのでしょう'
'そして、余事には目も���れないのです'
投稿元:
レビューを見る
芭蕉や夏目漱石をこよなく愛した世界的数学者が辿り着いた、喜び溢れる生を生きるための視座。科学と宗教と哲学が、美しく有機的に繋がっていき、人生とは何かに迫る。
でも、数学者が哲学者になったんではない。日本という土地で、素直に数学を突き詰めていった先に、日本文学や仏教が自然と溶け込んできて、一体の学びとして開花したのだ。
「情緒とは何か?」を語りつつも、定義を名言しない姿勢には、國分功一郎先生が『原子力時代の哲学』でとりあげたハイデガーが『放下』で展開した姿勢にも似たものを感じた。考え方、そのプロセス自体の再検討。
投稿元:
レビューを見る
昭和の数学者、岡潔の講義録とエッセイを彼のファンで同じく数学者の著者がまとめたものである。本書を手に取るまで、岡氏のことを知らなかったが、数学を志す人には有名らしい。数学の研究で日本政府から勲章を受けている。
京都大学で学び、フランスに3年間政府から派遣されて留学し、帰国後は関西地方の大学で教鞭をとりながら数学の研究に没頭した著者。彼の研究や発見がどの程度すごいのかは私には理解できないが、破天荒な人物だということが彼のエッセイから分かる。
理系の人というと、どちらかというと言語にこだわらない印象があるが、彼のすごいところは、文章にも極めて長けているところだ。特に、「情緒」ということばで表される独特の感覚、彼自身も定義していないので、読者は読み進めながら自分で理解していくしかない。彼はフランスで見聞きしたものから、日本文化を考えるようになり、その根源として俳句、特に松尾芭蕉を研究していく。
彼の俳句のすごさも残念ながら私には理解できないが、言葉の美しさは感じられる。数学と相対するものに思えるのだが、彼がいうに、そうではなくて、数学も情緒から生まれるものなんだそうだ。
一部、消化不良というか、私の理解が追い付かない箇所があったが、響く人にはわかるのだと思う。
投稿元:
レビューを見る
なんとも不思議な本。
著者は世界的な数学者だそうだが、本書に数学の話は全く出てこない。
情緒や俳句、仏教の話がメインで「わたしは何を読んでいるんだろう?」と途中で読むのを断念してしまった。
投稿元:
レビューを見る
情緒、人の在り方、自然とは。
数学者が言語化して残そうとした、日本的世界観を著者の岡潔さんにできるだけ寄り添う解釈が伝わる。何かを極めた時に、人は同じ境地に至るという。自然が好きな私に、刺激的であり、そんな見方考え方があったのか、もっともっと歴史や文学を知りたいと思わせる本と出会うことができた。著者の努力と岡潔の存在に感謝します。
投稿元:
レビューを見る
「すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさき色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。そしてそれは実際にあると見るのは実存感として見る見方です。これらに対してすみれはいいなと見るのが情緒です。」
明治から昭和にかけての数学者、岡潔による思想と言葉。数学者とは思えない詩的な思想の根幹には松尾芭蕉や夏目漱石、仏教が関係している。私は数学者と聞くと固い理論的な思想を持っているイメージを持っていたが、岡潔はそうではない。そのような自分が持つイメージとの大きな食い違いに驚き、魅力を感じた。
川のせせらぎのような岡の言葉は、読者に対して時間の流れを遅くするような感覚を持たせ、静寂の中に引き摺り込む。私は岡潔の世界観を掴むことができても、正確には分からなかった。例えば岡潔が言う情緒とはなんだろうかと問うと途端に難しくなり、読み終わった後でも、一体なんの事だろうかと思う。これは本人ですら「情緒とは定義付けのない言葉である」という言葉を残しているため、明確な定義付けをすること自体が無理難題なのかも知れない。しかし情緒について深く考える必要があると思うため、些か乱暴であるが、私が思う情緒を簡潔に示したいと思う。
私は情緒について「心の揺らぎ」に近いものではないかと思った。川の水音、鮮やかな色彩を持つスミレ。外界にある対象を見た、聞いた、感じたときに心が良いなとしみじみ思う。そのとき起こる余韻的な揺らぎではないだろうか。これは喜怒哀楽のような荒々しい感情の波ではなく、無に近い静かで起伏のない波のようなものである。
芭蕉の句を多引用し、情緒を説明してきた岡潔。その正体がなんであるか明確に分からないが、考える良いきっかけになった。