人間はなぜ非人間的になれるのか
著者 著:塚原史
「人間」とは、自由で平等な近代社会を作るための発明品だった。そして、それは理性的で主体性をもつ個人のはずだった。ところが、巨大化し機械化する都市の孤独のなかで、この人間た...
人間はなぜ非人間的になれるのか
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商品説明
「人間」とは、自由で平等な近代社会を作るための発明品だった。そして、それは理性的で主体性をもつ個人のはずだった。ところが、巨大化し機械化する都市の孤独のなかで、この人間たちは気づかされる。「理性と主体性のある「私」なんて嘘だったんだ!」このときから「人間」は「非人間的」な存在へと急速に劇的に変貌していった。「自由な個人」から「全体主義的な群衆」へ、「理性的な主体」から「無意識に操られる客体」へ。何がどうして起こったのか。壮大なスケールで描きだす「非人間」化の歴史。
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その問いに答えられているか
2003/11/26 17:25
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投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「人間はなぜ非人間的になれるのか」は重い問いである。この哲学的な問いに真っ正面から切り込んでいるかというとそうでもなく、やや迂回しているような印象は受ける。
人間が非人間的になる状況を思い描いてみると、それは差別や拷問、戦争などの現場ではないかと思う。この絶望的な事態から、どう「人間性」を回復するのかについての処方箋提示を期待して読んだことも事実だが、著者のパースペクティブはやや異なるものであったようだ。
戦争との絡みでナチスが重要なモチーフとして取り扱われてもいる。それに止まらず、「解」を導くための中心的な「項」として、ダダ、未来派、キュビズム、シュルレアリズム、複製芸術といった、著者の専門である芸術思想や消費文化から「非人間的」なるものをえぐり出そうとしている。そこから読み出される「非人間的」とされるキーワードは「無意味、無意識、全体、コピー等」で、本書の読みどころである。芸術には疎いが、私達の身の回りのあらゆるジャンルで「非人間的」なものは見いだせるのではないかという気がしてきた。そしてそれは、簡単には否定し去れないものであることも。そもそも、「人間」という概念が発明されたものに過ぎないから。
一章分を費やした、岡本太郎の太陽の塔についての謎解きであるが、私もこの塔が何を表徴しているのかが掴めず、もどかしい思いをさせられたことがある。著者の解釈が届ける生々しいイメージは、この塔のファンとしては衝撃的なものだ。例えば塔のボディの両側にペイントされた赤いジグザグ線は、これまでの解釈では稲妻なのだが、著者によると切断された首からしたたり落ちる鮮血になるのである。著者の解釈は妙にリアリティがあって、太陽の塔の見方が一変してしまう。ただ、知って良かったと思えるような解釈でないのが面映ゆいところ。「謎は謎のままが美しい」というひそみに倣うなら、太陽の塔の異様性を異様なものとして、素のまま受け止めてもいいのではないかとも思った次第。
なお、太陽の塔の内部が2003年秋に30数年ぶりに、限定的に一般公開された。大変な人気で応募者が殺到したため、来年の春にも再公開される。太陽の塔は、後々まで人々に強いインパクトを与え続けるであろう。
終章で著者はこう述べる。
〈西欧近代という「子どもたち」は「理性」と「主体」の場所としての「人間」を普遍化し、みずからがオーヴァー・ロードを装って「歴史」や「国家」や「労働」などの大きな物語を構築することで、人類の幼年期を終わらせようとしたと言うことができる。〉
例えば反ナショナリズムの見地から、「人間は基本的には誰もが同じ」とする意見があるが、それもまた「人間」を普遍化しているのかも知れないという疑問も頭に浮かぶ。
〈しかし、これまで私たちがたどってきたように、その後姿を現した二〇世紀の「子どもたち」は、「非人間的なもの」をさまざまな場面で展開させてしまい、その前提となったテクノロジーの驚異的な発展の力を借りて、幼年期の終わりをかえって長引かせてしまったのではなかっただろうか。かつてのオーヴァー・ロードたちの大きな物語のうちでも、とりわけ「人間らしさ」という物語がもはや何も映さない空虚な鏡にすぎないことは、アウシュヴィッツと広島・長崎の体験ですでに暴露されてしまった。〉
そうだとして、では「非人間的」な状態に陥らないようにするにはどうすればいいのか。そのための「未知の新たな発想」は(こういった書には多くみられるが)読者に委ねられているようだ。とてつもない難問であることが、読後すっきりとしない遠因となっている。
現代思想の分野にも属せそうな書物であるが、概ね記述は平明で好感が持てる。ただ、数多の引用や多彩な登場人物を、200ページ強の新書に盛り込んでいるので、やや総花的。これからというところで、区切りになってしまうのは惜しい。
20世紀文化の側面から「人間」という逆説を読み解く刺激的な著作
2000/11/27 18:15
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投稿者:赤塚若樹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
いまからちょうど30年前に開催された大阪万博の象徴ともいえる岡本太郎の「太陽の塔」。この「謎」を解くために、あるいは、その謎解きのプロセスを提示したいがために、塚原史はこの本を書いたのかもしれない。と、もしこんなふうにいわれたら、このあまりにも手強い問いをさしだす本書のタイトルからは、何がどう結びついていくのか想像できず、当惑してしまうことだろう。
だが、そこに、20世紀文化の「非人間化」を特徴づけるものとして、「文明」から「未開」への知的関心の移動があり、その背景に、19世紀の帝国主義の侵略がヨーロッパに「未開」社会の情報をもたらしたこと、19世紀の中頃からくり返し開催されていく万国博が異国への関心を高めたことなどがある、という視点をもちこめば、おぼろげながらもつながりらしきものがみえてくるのではないだろうか。
本書の著者はここから、20世紀はじめに「文明」社会に衝撃をあたえた芸術の「プリミティヴズム」、とりわけピカソに注目し、この芸術家がキュビズムのはじまりを告げる「アヴィニョンの娘たち」の着想を、「未開」社会の情報が集まったフランスのとある博物館のなかで得たことを強調する。1930年代にバタイユやシュルレアリストなど、パリの知的世界の人びとと交流した岡本太郎が、この作品にはじまる流れのなかに位置していることはもはや指摘するまでもないだろう。
ここで著者は「太陽の塔」について<太陽=切られた首>という説を持ち出し、じつに見事なやり方で、アポリネールの詩句「太陽 切られた首」(「ゾーン」)から、バタイユのテクスト、マルセル・モースの仕事、さらには岡本太郎自身の詩やテクストまでをつなげていく。そして、この謎解きから導き出されるのが、「血の供犠としての太陽=母子像」という独自の結論なのだ。
だが、それにしても、この場合「非人間化」とはどんなことなのだろうか。著者はそれを「理性の主体としての『人間』こそが普遍的存在であるという西欧型近代の発想をゆるがせるさまざまな場面での変化のこと」ととらえている。だから、「太陽の塔」(の謎解き)につながる<「未開」の衝撃>は、そういった「さまざまな場面」を提供するひとつの契機にすぎないのだ。本書のなかでは、ほかに「全体」、「無意味」、「無意識」がそうした「非人間的なもの」の例として取り上げられており、著者はそれに関連するさまざまな問題を、20世紀前半のアヴァンギャルドとその文化的背景にかんする広範な知識を傾けながら検討し、とても興味深く、刺激的な議論をくりひろげていく。
ところで「人間はなぜ非人間的になれるのか」という問いは、もともとは10年前にバカロレアと呼ばれるフランスの大学入学資格試験に出されたものらしい。著者は、アウシュヴィッツを訪れるために、成田空港でパリ行きの便を待っているとき、あらゆる人種の人びとが居合わせているのをみて、この問いを思い出したという。この場面からはじまる本書を読んだ者ならきっと、塚原史にはぜひ、この問いをめぐるさらなる思索の旅をつづけていってもらいたいと願わずにはいられないだろう。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2000.11.28)