1950年代の思想:放下
2020/10/30 17:38
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
第二次世界大戦直後のハイデッガーの原子力の平和利用への疑問視を、効果が目的を超え手段とは呼べない核兵器を全能性というナルシシズムを乗り越えることによって、思惟からの脱走を防ごうとする脱原発推進論。
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「僕はこの事故に大変なショックを受けました。(中略)自分が原発のことを真剣に考えてこなかったことを悔やみ、そして反省しました。」
「僕の率直な気持ちとしては、一方で、原子力発電がコスト高であり経済的に割に合わないということさえわかれば、原発に関する議論はもう答えが出たも同然ではないかという気持ちがあります。原発は割が合わない。原発が持つ潜在的な危険性の話をしなくても、もう利用し続ける意味がないことは明白なのです。これを最初に確認しておきたい。
ただ他方で、そのことを確認した上で、やはりもう一歩議論を進めなければならないのではないかという気持ちもあります。というのも、これだけだと、コストが安く済むならば原子力発電をしていいのかという話にもなりかねないからです。それは違うだろうと僕は思っています。」
「原発は膨大なコストがかかり、核廃棄物という人間の手に負えないものをもたらす。だからこれらだけでも脱原発の理由としてはほとんどよい。こうした理由で脱原発が実現されるならそれは望ましいことです。」
「ショック」「率直な気持ち」。
そういう、感覚論が先にあり、哲学、論理はそれを補強するために使われている。
「論理は、好悪の奴隷でしかない」という言葉を乗り越えるなにかを期待して、最後まで読み進めたが、新しい気づきは得られなかった。
この本に書かれた「原子力発電(技術)」を「火力発電(技術)」「火を使う生活(技術)」「農業技術」等に置き換えても、同種の著作、論述は多分可能ではないかと思う。
人類が新しく得た技術は、メリットもデメリットももたらす。これまで、さまざまな技術を手に入れ、メリットを最大化させ、デメリットを最小化させるよう取り組んできたというのが、人類の歴史の流れだろう。
であったとして、得た技術は、どのようなものでも必ず使う、というのが正しいのか。という問が、この本であるのかもしれない。
もしなんらかの理由で既に手に入れた技術を放棄できたとしよう。この際、問題となるのは、技術のおかげで、人々の暮らしが既に豊かになってしまっており、技術なしで維持してきた生活、人口に戻すために、誰を犠牲にするのか、誰を殺すのか、どういう方法で、昔の生活に戻るのか、という社会的合意を得ることなのではなかろうか。
先進国で既に豊かな生活を享受し、仮に豊かさが損なわれてもなお、真っ先にそのデメリットを自らの生活、生命に受けることない安全な場所からの、呑気な顔の評論に見えてしまう。
私自身は、原子力に関わる事業で生計を立てており、全く中立にこの議論に関わることができる人間ではないのかもしれない。
しかし、技術一般のもたらす得失や、それをこれまでどうやって社会として飲み込んでいったのか、ということを整理し、その上で原子力技術がこれまでの技術とどう違いどう同じなのか、をもう一段深堀してもらいたかった。
あとがきに「本書の内容に関する逡巡が筆者の中から完全に消え去ったわけではない。」と記されている。
正直に言って、「脱原発を目指す」という目的から、問を発している著者��アプローチは、哲学者としてはなんだか、感情的、感覚的、衝動的だと、感覚的に思うが、もう一歩、二歩三歩、踏み込んで考えて、なにか新しいものを示してもらいたいとは思う。
その結論が脱原発なら、それはそれでしっかり考えてみたいと思う。
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19/10/07。
20/4/10読了。
ハイデガーの問題意識の鋭さについてはよく分かったが、自然を素材としてしか考えないことへの批判なら人類学分野ではとうの昔からされてきていた。
国分さん、好きなんだけど、こちらの頭のせいか、もひとつずばっと突き刺さるものがなかった。ごめんなさい。
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「原子力時代」とか言葉としてあったけ?と考えたら、日本ではどうかはわからないけど、英語では、"Atomic Age"というのがあったな〜。
「原子力」(核爆弾を除く)が、科学が開く未来の希望であった時代に、ハイデッガーーは、それに否といっていた。ということで、ハイデッガーの「放下」の読解を中心に「原子力時代」における哲学を探究していく。
ここで問題となっているのは、「考えないこと」。
なるほど、アイヒマン問題以降のアーレントも「考えないこと」を大きなテーマにしていて、アーレントとハイデッガーの間にはいろいろな緊張関係があるものの、昔からの師弟関係はあって、課題設定は近いんだな〜というところで妙に感心した。
あと、ハイデッガーは、ナチ時代の反省もあって、「ニーチェ」という著作では、「意志」に批判的で(ニーチェには、「力への意志」という死後に編纂された著作がある)、「意志」が、「考えないこと」につながっていくとする。そして、この「意志」なるものが、西欧哲学の形而上学的思考の中心にあるのではないかと考える。
なるほど、アーレントの遺著「精神の生活」の第2部「意志」のよくわからなかった議論にアクセスする道がちょっとわかったような。
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原子力に関する哲学講義録。
1950年代に原子力(原爆ではなく)に対する危険性を指摘していた、唯一の哲学者ハイデガー(本書ではハイデッガー)に焦点を当てる。
彼が著した数少ない単行本のなかで、原子力の問題を指摘しているが、その著作の最終的な答えが「考える」。何とまぁシンプルかつ深い。が、本書は哲学講義録だけあって、読み進めていけば、自分も考えさせられる。
「科学は考えない」(ハイデガー)とはまた刺激的(^^;
第四講(終講)では、フクシマ後、明らかに非合理な原発推進が何故行われるかを、哲学の義務として考え、それは太陽の贈与を受けない自立したエネルギーを欲望するナルシズムだ、と説明。
うーん、分からんでもないけれど、現実は、ムラの掟に逆らえないとか、飯のタネとかもっと単純な理由の気がする。まぁ「考えて」いない、ということかな?
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タイトルから敬遠していたが、読んでみるとさすが國分功一朗氏。単に原子力にNOを言いたい主張本ではなく、「原子力という困難な問題に向き合うために、人類が鍛えるべき思考や態度は何か」をハイデガーを中心に紐解いた実践的哲学書。
ハイデガーが「会話劇」というスタイルで主張したかったことは何だったのか?というマニアックな話が、なぜ近代科学技術への批判へと接続させるのか?なぜ紀元前の哲学者の言葉がカギになるのか?…etc.
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表面上はハイデガーの「放下」で展開された原子力批判を基に反原発を哲学するという体裁をとっている。しかし、書いた本人の試みとは別に、結果的にはハイデガーが展開していた技術論の一部分である原子力問題を敷衍して説明したものに仕上がっている。
ナチス時代は、ドイツにおいても山本義隆の言う「理科の時代」であって、現代日本と同じように人文科学系の学問は実用性において冷遇されていたのではないか。だからこそ悪評高い学長就任演説で、あらゆる学問の頂点としての哲學の復権を訴えたのではなかったか。そこには、自然科学系学問への嫉妬と怨嗟が混じっていたのような気がしてならない。自分がやっている哲学こそ、ドイツ民族の真髄であるという、かなり独りよがりの思い込みと使命感のようなものがハイデガーの中にあったような気がしてならない。
最後は、別著で展開された中動態に引き込んであり、これはこれで面白い論点ではあるが、「意思」の問題は、もう少し詳しく論述したものが書かれないと、著者の正確な論理がわかりにくい。
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☆この本のテーマは、人間の欲望を満たす技術「論」であると思う。つまり、欲望の延長線としての巨大技術なのであって、根本は我々自身。もう一つは、コントロール可能かどうか。
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「原子力時代における哲学」國分功一郎
哲学講義録。
フクシマ後の原子力を、ハイデッガーの著作を下敷きに、哲学者が講義する一冊。
著者によれば、原子力の平和利用についてこれまで語ってきた哲学者は少ない。そんな中、1950年代の原子力発電黎明期に、その技術論的な矛盾を説いているのがハイデッガーである。
「たとえ原子エネルギーを管理することに成功したとしても、そのことが直ちに、人間が技術の主人になったということになるでしょうか?断じてそうではありません。管理の不可欠なことがとりもなおさず、〈立つ場をとらせる力〉を証明しているのであり、この力の承認を表明しているとともに、この力を制御しえない人間の行為の無能をひそかに暴露しているのです。」(本書p84、原典は「原子力時代と『人間性喪失』」(1963, 読売新聞掲載))
それではその技術に対してどのような態度をとればよいか。キーワードが、「放下」と「アンキバシエー」だ。その魔的な誘惑や経済合理、或いは生理的嫌悪感から自らを切り放し、諾否ではなく、その意味するところへ近づこうとする態度である。
僕はこの一冊は哲学への手引き書、あるいは技術論の一冊としてはたいへん興味深いと思うが、哲学書として読んではいけないと思う。なぜなら、まさに取り扱っている主題の「放下」に到達しておらず、そしてその到達していないことへの洞察がないからだ。
「「本来性」のような問題含みの概念抜きに脱原発の論理を作れるのだろうか。」( p.164)
「僕は三・一一の後、原発推進派の気持ちを一生懸命考えたんです。原発推進派になりにって、どうしてこんなに原発を使いたいのかと想像してみました。でも、やっぱりわからなかった。」(p.270)
さて、技術について、国内における知的財産としての「発明」という言葉の定義を引いてみると、「発明とは自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」であり、なおかつ知的財産として認められるのは「産業として実施できるか」という観点が必要となる。
ここには、社会に有用な技術(知的財産)には、自然法則を利用したものである、技術的思想である、創作したものである、その内容が高度である、そして産業上の利用ができる、という要件が見て取れる。
原子力発電に限らず、我々が人間社会の中で有用に利用しようとする発明は、こうした要件を満たし、すなわち自然を何らかの目的のために特定の高度で新しい手段を用いて利用するという本質を持っている。
これはまさに本書で解説されるハイデッガーの技術論そのものだ。
ではなぜ、ハイデッガーは、(そして著者は、)特別に原子力技術の危険性を感じているのだろうか。
繰り返しになるが、本書で取り上げるハイデッガーのテクスト『放下』、そしてそれを下敷きとした著者の思想は、おそらく、我々は原子力利用に対してそれを意思とは無関係に(中動態的に)受け取り、そして思想する状態に至っていないこと。それにも関わらず社会がそれに依存している状態であることへの危機感なのではないだろうか。
原子力については、得てして「推進派」��反対派」「無関心派」などのレッテルで思想を捉えがちだ(著者もそのくびきから逃れられていない)。
しかし、原子力に対して放下の態度を取る努力(「努力」という言葉に語弊があれば「道筋」)が求められる一方で、なぜそれが努力によってしかなし得ないのかもまた、考えなければならないのではないだろうか。
原子力は巨大だ。そのシステムは一個の人間を遥かに凌駕する。
そうした時に、我々は、人間性を剥奪されることへの抵抗として、意思を持ってしまうのではないだろうか。
そして、その人間的抵抗をなお、いとも簡単に凌駕してしまったのが、フクシマの事故だったのである。
「ひょっとしてそもそも意思自体が悪なのです」(p.292、原典は「ロシアの捕虜収容所で年下の男と年上の男の間で行われた夕べの会話」『野の道での会話』)
(4)
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1950年代、核実験や核開発が進む中で、
「原子力の平和利用」に関しては誰も警鐘を鳴らさなかった。
ハイデッガーを除いては。
誰もが「原子力の平和利用」や原子力発電に夢を見ていた時代にあって、どうしてあの哲学者、ハイデッガーは核戦争よりも「原子力の平和利用」の方が恐ろしいと看破することができたのか。
とても興味深い考察です。
「意志」の限界を考え抜くことができたからであり、
「考える」ことができたからであり、
それが「放下」へとつながっていく。
哲学の姿勢でもって、
そして西洋の影響を受けながら西洋を疑い、
「放下」へ到る道に思いを馳せるとき、
私たちがいかに原子力から逸らされているかを思います。
それは、原子力から逸らされているかと同時に、私たち自身からも逸らされていることも意味します。
いま、社会や技術の変化の中にあって、
「放下」や「アンキバシエー」について思わざるをえません。
よいものとされる技術が隠しているものに関して、
私たちが開かれているか、
という問いだからこそ見えてくるものがありますね。
”放下という落ち着きの態度で、期待するのではなくて待つことによって、我々は世界という会域に降りていくことができ、そこで事象そのものの謎=秘密を思惟することができる。そうしたプロセスがアンキバシエーであり、このアンキバシエーこそは、この会話が論じてきたものであると同時に、この会話の歩みそのものであった。"
(pp.245-246)
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・読書会で、ちょっとずつ読んでる。
放下について知る。
自然。
・ハイデッカーの原子力に対する捉え方がすごい。
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この国分功一郎さんという人の本は、言いたいことがかなり明確に掴むことができるので好きなんだが、そしてこの本も自分自身、原子力というものに対して態度が明確でないというか、そもそもそんなに考えたことがないから、テーマに惹かれたというのではなく、国分功一郎さんの本だから読んでみようと思ったのだと思う。
読み終えた結果、なるほど原子力推進も反原発も、ドクトリンのようなものがあって、それに迎合して、つまり自分で考えることなしに依っているのでは解決にならないのだという趣旨で書かれたものだということがよくわかって面白かった。
つまるとこるハイデッガーもスピノザも、それこそソクラテスもプラトンも、テーマは何であれ、自分の行く道、拠り所を決めるのは「考える力」なのだということを、色々なやり方で教えてくれているということなのだろうか。
哲学書について、ここ三年位、興味の向くものを手当たり次第に、無論経済的に許す範囲で、手に入れ、または借りて読んで来たが(読んでないものも沢山ある、というよりまだほとんど読めていない)、自分が考えたいというものを、どういう考え方、論理で考え抜いて一つの自分の結論を出すかという方法論を学ぶというスタンスで読んでいくことが一つのやり方なんだろうなというのを、この国分さんのこの本は教えてくれたような気がする。
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国分先生の著作を数冊読んだけど、これだけ毛色が違うので躊躇ってましたが、原発事故10年かぁ、いい加減考えないとなぁと思ってようやく読みました。
内容は思っていたほど難しくなくて、講義録なのもあって非常に読みやすかったです。途中のハイデッカーの引用は難しかったですが、要は結論を述べるんじゃなくて、対話の中から自然と結論に至ること、その過程が大事ということかな?
これに似たこと安部公房が言っていて、「小説の要点が書けたら僕だってこんな長い文章書かないよ、書けないから読者に体験してもらう、そのために無限に読み込める航空写真のような小説を書くことになるんだけど、それを読者は迷路って思うみたい、要点や結論はなくていいんです、その人が感じ取ったものが大事」みたいなことをインタビューで言うてたのを思い出しました。
話が飛びましたが、この本によると、そもそも戦後原子力爆弾はみんな反対したのに原子力発電は肯定してしまったのは、人間の根底に何ものにも頼らずに制限されずに生きたい、という願望があるからだ、その誘惑に勝てなかったのだ、と推察されていて、なるほどなと思いました。そういう悪魔的魅力が確かに原子力には当時あったのだろう、今だとAIかな?
私も日々、誰かと接触せず一人で承認欲求を満たして孤独を感じずに生きていくことができたら最強なのになぁできない自分はまだまだだな、、とか思っていたのですが、そもそも人間という存在がそう孤独や自立に耐えうるデザインをされていないのなら、無理な望みなのかもなぁ。。
問題山積み&リスク高すぎの原子力発電を使い続けるという選択は、自分の中ではないなぁとこの本を読んで改めて思いました。
しかし国分先生の本はいつもすごく丁寧に書いてあって哲学素人でも読みやすくて本当にいいわぁ。
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原子力について、こうなったらこうなるという実践的な話ではない。どちらからというとハイデガーについての実践記録。原子力の問題がうまれる土壌を巡り考察を縦にいれるがかなり深い事がわかる。
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原子力に関する問題を哲学の視点から考察する。戦後間もなく、核兵器反対の風潮は高まったが、核技術そのものへの問いかけはなされてこなかった。そんな中で1950年代といち早くそれに言及したのがハイデッガー。ハイデッガーの思想を応用し、原発や核技術管理について考える。