紙の本
語りの妙。
2021/05/10 17:13
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:名取の姫小松 - この投稿者のレビュー一覧を見る
男性と思われる語り手が、何を言いたいのか?となる様子で語り始める。
次第に語ろうとしている場所、人物が明かされていく。恵まれているとは言い難い環境に生まれ育ち、働きながら暮らす若い女性。名前がなかなか出てこない。
男性と知り合って、その男性と共に名前が明かされる。
ラテン系だからって生命力溢れて極彩色とは限らない、しかし、地に足を着けて毎日を送る人間の話。
語り手の言葉に読者は惑わされる。
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歯痛を抱えた語り手がためらいがちに話しだすのは、コーラが好きなタイピストの女の子・マカベーアの物語。両親を亡くし叔母に育てられ、この世のすべては"他人のもの"だと思いながらも自分は当然のように"幸せ"なのだと信じて生きてきたマカベーアは、「わたしは誰」と問うことも「わたしはわたし」と言うこともない。マカベーアの人生と語り手の歯痛の行く末は。1977年に発表された、ブラジルの女性作家の遺作。
不思議な読みごこち。不幸な女の子がおり、不幸な恋があり、不幸な結末を迎える話と言ってしまうこともできるのだけど、語り口はアンチクライマックスでとても現代的。
この小説は〈作者〉のごく私的なお喋りからはじまる。彼はロドリーゴと名乗り、マカベーアの物語自体には登場しないが、彼女がどんな目に遭うのかは知っている特権的な立場だ。マカベーアが"不幸"に向かっていくと知りながら、「自分は書かなければならない」と嘯く。「物語を書くことより、犬の命が大事」などという一文を唐突に差し込んでおいて、物語のなかでは女の子が死に向かって突き進んでいく。
語り手はマカベーアに同情を寄せながら最後まで特権的な視線を手放さない。この語り口はマルケスの『エレンディラ』やブルトンの『ナジャ』を彷彿とさせる。語り手にロドリーゴという男性を召喚したのは、シュルレアリストたちが〈ミューズ〉を物語のなかに封じこめる手つきのパロディであるように思えてならない。
マカベーアという子が村田沙耶香の小説にでてきそうなキャラクターなのも魅力なのだが、その裏に貧困と無知の暴力性が隠れている。どんなに具合を悪くしても食べ物は吐かないと医者に言い張ったり、恋敵に「不細工なのって辛い?」と聞かれて悪気なく「あなたは?」と問い返したり、痛ましくもユーモラスなマカベーア。モラハラ彼氏とのデートDV描写もエゲツないのにコントみたいで笑えてしまう。〈星の時〉というのは「フィクションってのは究極、物語のなかで殺すために人格を生みだすことだよ」って意味な気もする。なんか『ティモレオン』も思いだしちゃったな。
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ツイッターでフォローしているメキシコ人がクラリッセのことが好きで、図書館の新刊にあったので借りて読んだ。
いままで読んだことのない不思議な力がある小説だった。
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24.
独特の構成と独特の言い回しだった。
読んでる内容を理解できる時もあれば、ただ文字を読んでるだけで分からない…となることもあって、不思議な本だった。読む前に目次だと思っていたものがタイトルであることを最後に知って、驚いた。
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主人公の暴力的な無知さが少しユーモラスだった
「不細工って辛い?」って聞かれて「あなたは?」と屈託無く返す所が好き
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迷宮に入り込んでゆく語り、と評されるように、物語と語る行為の両方が同時進行していく形が、混じり合って難解な一冊。
何回か読めば理解できるのかな?
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メタフィクション。
ロドリーゴが自身の物語を語る手法。序盤こそ戸惑うが慣れてくるとその語り口の心地よさと語られる悲劇とのギャップにハマっていく。主人公マカベーアの愚鈍でありながらも清らかなさまが愛くるしい。
時代感ありの言語表現は織り込み済みで。
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『そしてあとは――あとは煙草に火を点けて家に帰るだけ。まったく、ぼくたちは死ぬということをやっと思い出した。でも――ぼくも! とりあえずいまはイチゴの季節だということは忘れずにいよう。そう。』
今年の翻訳大賞候補の一つということで読んでみた。図らずもここにもウクライナがついてまわる。1920年にロシア国内でのユダヤ人迫害を逃れて生後間もなくウクライナから亡命しブラジルに辿り着いた作家の、やや哲学的な一冊。
翻訳者のあとがきにもあるが、この物語が語られている主人公やその登場人物に起こる逸話が主題ではないことは読み始めて直ぐに気付く。一人称で語る登場人物が、一応物語の形式の中の主人公とおぼしき少女と明確な係わりを持っているかは判らない。その視点はむしろ物語を語る作家の視点であることは、意図的に放り込まれた一見物語とは無関係の文章からも明かだ。
『そう、でも忘れてならないのは、何を書くとしても、ぼくの基本の素材はことばであるということ。だからこの物語は、集まっては文章になる言葉で作られるし、そこから言葉や文章を超える秘密の意味も立ち上がってくるだろう』
更に読む進める内に「ぼく」という一人称の生物学的意味は重要ではないと思い始め、これは作家の物語を語る行為そのものについて思弁した文章なのだろう、ということに思い至る。物語るうちにさらけ出されてしまう自らの経験や思考。それらを感じたままに描写することと、飾り立てて脚色することの狭間で揺れる思いを、物語には登場することのない一人称の登場人物ロドリーゴ・S・Mという人物の仮面を付けて作家クラリッセ・リスペクトルが語っているのだ、と。そして当然のことながら、語られる物語の主人公であるマカベーア(その名は物語の前半では意図的に秘されている)が作家本人の分身的存在であることも、容易に察しがつくこと。
そう推察したところで気付くのは、だとしたらこの物語は死にゆく主人公が全く別の人物として自分自身の物語を語っている物語、という構図になるのだということ。そしてその構図はもう一つ外側に拡張され、本作を書き上げた後に病死したという作家自身も適用される。作家は、死にゆく主人公に擬えて自らの物語を、少なくとも象徴的な自分自身の人生の核となるものを、語り残して逝ったのだろう。語り終えた筈の語り手が残す最後の言葉の意味が、急に切ない響きで追いかけて来る。
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とらえどころのない小説で、こんな話ですよ、と紹介しずらかった。ただ、マカベーアの物語を単純に不幸でした、で片付けずに、どういう解釈ができるのか考えることが大事だと思った。ロドリーゴ、マカベーア、クラリッセ、いろいろな角度から想像できると思う。
不思議な小説ではあるが、これが作家クラリッセの祈りであり、叫びであると思う。これに触れてみるのも一つの経験としておもしろいと思う。
とらえどころのない小説で、こんな話ですよ、と紹介しずらかった。ただ、マカベーアの物語を単純に不幸でした、で片付けずに、どういう解釈ができるのか考えることが大事だと思った。ロドリーゴ、マカベーア、クラリッセ、いろいろな角度から想像できると思う。 不思議な小説ではあるが、これが作家クラリッセの祈りであり、叫びであると思う。これに触れてみるのも一つの経験としておもしろいと思う
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語り手がぐいぐい前に出てくる語りに驚いた。こういう物語り方があるんだという新鮮さの一方で、戸惑いもあった。
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図書館の新刊コーナーで見て、完全なるジャケ借り。
ストーリーテラーであるロドリーゴ・S・Mが、「わたしは誰?」と問うことも無い、おそろしく貧しく無知で、自分が不幸だということも知らず幸せだと思い生きる無垢な、物語の途中まで名前すら出てこない少女について物語るメタフィクション。
文章自体は読みやすくてすぐ読めるんだけど、正直難しかった。
ところでこのロドリーゴがくせ強で、「今から物語を書きたい~今から物語を書くよ~でも歯が痛いんだ~太鼓の音も煩くってね~この物語を早く書きたい~」みたいな感じでしかも理屈っぽくて、物語しながらめっちゃ自分の状況をぶっ込んでくる。
原稿を料理人に捨てられて書き直してるけどもうあれ程の文章は書けない、とか。
⚠️以下ネタバレ含みます⚠️
無知で無垢なマカーベアは叔母にどつかれながら育ちオリンピコのえげつなDVにもグローリアにオリンピコ取られてもあっけらかんとしてい(るように見え)て辛いんだけど、ココアという贅沢を無駄にしないためにも気持ち悪くても意地でも吐かないとか、「こんなこと訊いて悪いんだけど不細工なのって苦しい?」と聞かれて「あなたはどうなの?不細工で苦しい?」と悪気なく聞き返したり、ちょっと笑えたりもする。
物語のクライマックスは、またロドリーゴお得意の「結末を今から書くよ~結末書きたい~結末を~言いたい~物語の結末は~」みたいな感じで、
最後には「彼女はちょっと調子の狂ったオルゴールでしかなかった」とし、「あとは煙草に火を点つけていえにかえるだけ」と言い放つ。
哲学めいた、飛躍が多いと感じられる、訳者のあとがきによると「言葉で築き上げた迷宮にみずから深入りしていくように」紡ぎ出された本作は、少女マカーベアに物語を「生きる」自己と、同時にロドリーゴに作家としての「語る」自己との両方を体現されていると見るととても面白く感じた。
最初目次と思っていたものがタイトルと知ってちょっとびっくりした。
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産まれてからずっと不幸な女性の物語。
訳者あとがきの中で「『物語を生きる自己』と『物語を語る自己』として常に見分けしなければならない『作者』の運命」について言及されていて、アイルランドの作家が言う「もし誰かを憐れむべきなのだとしたら、自分自身を二つに分けて書くことを選択した作者」という言葉にはハッとなった。
小説を読んでると時々、書き手の息苦しさ又は生き苦しさようなものが伝わってきて、気の毒に感じる時がある。この小説の読みにくさの理由はそれかもしれない。
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著者の前書きから始まったと思ったら、ふつうに思いっきり本編だった模様
面白かった!日本語は読みやすい!
こういうどうしようもない結末を迎える作品が好きで、本を読んでる自分がいるなと思った
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小学校の国語の授業で「作者は何を伝えたかったのでしょうか?」みたいな問題があり「知らねーよ!」と皆思ったことだろう。若くして死んだ女性の線香花火のような生き様。スターマインでも煙花火でもない。全く欲のない女性。要するにつまらない女なので、結構精神攻撃を受ける。そんなに賢くないので、それも淡々と受け入れる。期待しないので絶望もない。現代だったらトロイ女なんだろう。この作家はウクライナ生まれのユダヤ人でブラジルに亡命。不本意ながら主人公のように生きるしかなかった、と作者は伝えたかったのだろうか?
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今年の日本翻訳大賞受賞作です。
文学ラジオ空飛び猫たちさんの読書会のお題に上がり、なんとなく読めずにいたこの作品を読了できて感謝です。
思いのほか、好きな作品でした。
荒野(セルタオン)からやってきた、北東部(ノルデスチーナ)の女、マカベーア。
彼女を偏愛する作家ロドリーゴ・S・Mの独白にもとれる、不思議な語り口の小説。
ロドリーゴの独りよがりな語りから始まる前半は、本当に訳が分からなく、なんなんだ?何を言いたいの?と思いながら読んでいくと、いつの間にか私たちも、この19歳の見栄えの悪いどころか影のような女の子、マカベーアの不思議さに引き込まれてゆく。
マカベーア、
「ぼくがこれから話す女の子は、売るような体を持ってもいないし、誰も彼女を欲しがったりはしない。彼女は処女で無害で、いなくなっても誰も困りはしない。」
「通りで彼女に目を向ける人なんていなかったし、彼女は誰も手を出さない冷めたコーヒーみたいなものだった。」
書き手のロドリーゴも、マカベーアもたぶんクラリッセ自身なのだろう。
不幸すぎる彼女の人生を眉をしかめながら読みつつも、
彼女の唯一の楽しみの夜の冷たいコーヒーと、明け方に聴く「時計ラジオ」それこそが彼女の全ての知の源。。そんなものに親しみを覚えてしまう。
彼女にボーイフレンドらしき男もできたのだ。同じノルデスチーノ出身のオリンピコ。
彼とマカベーアの会話は何とも。。冗談のように噛み合わず、二人の滑稽なやり取りに、急にリアリティのある小説を見せられる。でも、それを語るのはやはりロドリーゴで…
途中から夢中になってしまう小説なのです。
読み終えると、きっと誰もが放心状態になります。そして、もう一度最初のページに戻り、ロドリーゴの独白を読み返すと、びっくりするほど彼になってる自分に気がつく…
そんな本でした。
読書会で色々と皆さんのお話しを聞いた中で、
翻訳大賞の審査員の柴田元幸さんが「わかろうとしなくていい」というようなことを仰っていたと聞いて、なんだかほっとしたものです。
他にも、映画を観たという参加者さんのお話しも興味津々でしたし、
一人称だけど三人称的という意見も印象的。
マカベーアがイノセントだという話には、私も大きく共感しました。
あとがきによると、クラリッセはウクライナ産まれのユダヤ人。ロシア内戦下のユダヤ人迫害から逃れるため、ブラジル北東部にやってきた。彼女の母親はクラリッセを産んだために産後体を悪くし、彼女が9歳の時に他界している。
#空飛び猫たち のダイチさんに教えていただいた「文藝秋号」の日本翻訳大賞記念企画 クラリッセ・リスペクトルも読みました。
この短編2作品も、星の時も、どちらも痛みを感ぜずにはいられないし、ブラジルというカトリック国にいながら、神を信じてはいなさそうな彼女の闇は、この母親へのトラウマのようなものが根底にあるんだろうなと、福嶋さんによる論考を読んで腑に落ちました。
クラリッセ自身は語らないようだけど、自分のせいで母が死んだという、子宮で繋がる何かがある��うな。
福嶋さんの論考の締めが素晴らしいのです。
_具象を結びかけては抽象へとほどく反復に身を委ねることに、クラリッセを読む幸福はある。_
『星の時』のラストはまさにそんな感じでした。
フラニーとズーイが好きな人は好きなんじゃないかなと思う。
ただ、貧しさや醜さの中の美を見いだせない人にはおすすめ出来ませんが。。