まともな人 みんなのレビュー
- 著:養老孟司
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紙の本まともな人
2003/11/29 15:40
養老さんは脳の人ではなく、身体の人なのだ。老人が捕虫網を持って、大人の千五百グラムの脳が考える固定概念を捕獲する。
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投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
テレビで古武道家がプロボクサーのパンチを見事に外していた。その手練は脳メカに通じた身体作法の賜である。寝たままの乳幼児にビデオを見せるという教育がなされているらしいが、身体と無関係に勝手に視界の中の事物が動く。それはある種の経験であるが、学習と呼ばないと養老さんはおっしゃる。
最近、僕は図書館で、本屋で「脳」か「身体」の言葉が目に入ると、思わず本を手に取ってしまう。学者でありながら、脳から逸脱している著者達に反応する。身体を通して反感なり、共感する。少なくとも、同化と異化の緊張感が要請される。免疫系の身体のなせる技であろう。とにかく、内田樹、森岡正博にも連鎖する読書傾向になってしまっている。教養はまさに身に付くもので、座って勉強しても教養にならない。ただ、勉強家になるだけである。生きることは再現はきかない。情報は再現がきく。データーは切り取りであり、生きて動いているものではない。人は変化する。学問とは死んだ情報の取り扱いであろう。教育とは生きて動いている人間を取り扱う業である。僕が彼等に反応するのは学者である以前に「生き方」の作法を身につけているからであろう。作法といっても固定的なものではない。変幻極まりないものであるが、再現出来ないけれど、型はある。松井の好打は再現出来ないけれど、フォームはある。そう言うことだ。
自分だけのものとは心ではなく身体である。遺伝子の組合わせは必ず違う。個性とは身体なのである。世上伝えられる奇妙な犯罪も身体がらみである。現代人が抱えているのは身体の取り扱いの問題である。食欲や性欲を通常の欲望とすれば、金欲はメタ欲望である。不安なんてメタ恐怖と言って良い。メタなるものは際限がない無限地獄に陥る。別な欲望を食べることによって満たされようと過食に陥る。自分の身体の声が素直に聞えないのだ。倫理とは個人に属する。当然、身体と不可分である。
養老さんは言う。《指導要領がどうのこうのとやかましいが、教育の基本は簡単である。「水」「餌」「ねぐら」、それを自分で捜すようにさせる。そうすれば、子供は育つ。/世界貿易センタービルも、それに突っ込んだ旅客機も脳化の象徴といえる存在である。こうした脳化社会がいかに脆弱か、それを意識しない人が多い。安全っであって当然だと思っている。/なぜわれわれは、戦争がやめられないのか。正義があるからであろう。アラブ人も正義を信じ、アメリカもイスラエルも正義を信じている。それが脳なのである。われわれが見ている世界は「脳に映った世界」に他ならない。すべての脳は完全ではない。それだけのことである。だから私は自分の考えすら、八分ほども信用していない。八分の主張は、十分の主張に負ける。二分足りないから負けるに決まっている。だから、原理主義はたえず再生産され、戦争はやまないのである。テロはもういい。私が一番、知りたいことはなにか。あなたは本当はどうありたいのか。そこが聞きたい。やむをえないから働くしかない。そんなことではない。一度しかない一生を、どう生きたいのか。そのホンネが聞きたいのである》。
個性は身体に該当するものであって、頭の中に存するものでない。頭に個性があったらどうなるか、その人だけのもので、共感出来るものはない。そこから生み出す僕の拙文も理解してもらえないであろう。教養とは身につけるものであり、躾も同じ洞察から由来しているかもしれない。ただ、この躾たる言葉は様々に利用され、汚されている。そのことを踏まえた上で、型を持った躾ある振舞こそが、動体視力で球を捉え、松井のように好打出来るのだと思う。
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