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まともな人
著者 著:養老孟司
今回は「あたりまえ」について考えてみよう。こういう話題ならできるだけ具体的なほうがいい――。養老孟司が世の中の動きを定点観測。小泉内閣発足も、9・11同時多発テロや北朝鮮問題も、地球温暖化論や「新しい歴史教科書」問題も、何か通じるものがある。二一世紀最初の三年間の出来事とそれらをめぐる人々の姿から、世界と世間の変質をズバリ見通し、現代にはびこる「ああすれば、こうなる」式の考え方に警鐘を鳴らす。
まともな人
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紙の本まともな人
2008/06/08 18:59
わかっているつもり、知っているつもり
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サムシングブルー - この投稿者のレビュー一覧を見る
先日、図書館で友人と待ち合わせをしました。待ち合わせの間、本を探していたら、養老孟司の名前が目に入りました。「バカの壁」「超バカの壁」「まともな人」と3作品が並んでいるなかから、「まともな人」を手に取りました。実は「バカの壁」は読破していません。その頃の私はベストセラーというだけで本を購入していました。今は、本との出合いを大切にしています。書評の鉄人列伝第123回の“ろでむ”さんからのコメント『自分の知らない世界を知るツールの一つであると思う。そして、良書とは、いい情報が載っているのではなく、読んだ本人が考えるきっかけとなる本が良書。』を拝見して、感銘をうけました。
「まともな人」(養老孟司著)は『中央公論』(2001年1月~2003年9月)に連載された時評集です。
「わかってます」の作品から抜粋します。
ところでビンラディンはどこに行ったか。アフガンは爆撃でボコボコになったらしいが、それでどうなったか。戦争中、私は小学生だった。その頭の上に焼夷弾を落としていたのは、同じアメリカの空軍である。その件について、私はまだアメリカに謝罪してもらった覚えはない。なぜ子どもの頭の上に爆弾を落とすのか。そのつもりはないといっても、下に子どもがいるくらいは、相当に想像力を欠いた人でもわかるはずだ。六十を過ぎても、まだ自分がそれにこだわっていることを思うと、爆弾を落とせばテロが終わるとは思えない。(中略)
9・11の一周年で、さまざまな論考が雑誌に出た。読んではみたものの、いま一つ、話がすっきりしない。(中略)
テロの論理がよく理解できるようなら、こちらがテロリストになってしまう。それならわからなくて当たり前かと思うが、それにしてもまったくわからない。(中略)
私の大学の学生たちに、昨年あるビデオを見せた。イギリス人の若夫婦が子どもを作ろうと思い、妊娠し、出産するまでを記録した、BBC作品である。ビデオの感想をレポートに書いてもらった。(中略)
驚いたのは、男子学生のレポートである。一割足らずの学生が、母親がどんな思いで自分を産んでくれたか、はじめてしみじみ考えたと書いた。残りの学生はどうだったか。似たようなビデオを高校の保健の時間に見た。とくに新しいこともなく、あんなことならもうすでに知っている。九割がそう書いたのである。それなら知っている。テロなら「知っている」。アフガンが爆撃されたことは「知っている」。男子は子どもを産むことはない。夫婦の思わぬ離間は結婚以前にすでに始まっているのである。(中略)
最後は定年離婚に至る。その遠因は子育てにある。子育ての協力とは、炊事をすることでもない、産む性への理解である。それに対して、すでに結婚前の若者たちが、「そんなことはすでに知っている」という。9・11に関する論考が、いまひとつピンと来なかったのは、そういうことであろう。どうせ対岸の火事なのである。(中略)
われわれはなにごとであれ、「すでに知っている」世界に住んでいる。なに、なにも知ってやしないのである。テロの現場にいたところで、ほとんど五里霧中、すぐ身の回りのことですらよくわからないはずである。
論理に無駄がありません。もう脱帽です。わかっているつもり、知っているつもりの私がいる。私という人間がこの地球上にいることは確かであるが、自分のことだってよくわかんない。
作品の中の「いてもいなくてもいい虫の話」はおもしろいです。ヒゲボソゾウムシへの養老氏のほれこみようといったらありません。
いま一度「バカの壁」に挑戦してみようと思いました。
紙の本まともな人
2003/11/29 15:40
養老さんは脳の人ではなく、身体の人なのだ。老人が捕虫網を持って、大人の千五百グラムの脳が考える固定概念を捕獲する。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
テレビで古武道家がプロボクサーのパンチを見事に外していた。その手練は脳メカに通じた身体作法の賜である。寝たままの乳幼児にビデオを見せるという教育がなされているらしいが、身体と無関係に勝手に視界の中の事物が動く。それはある種の経験であるが、学習と呼ばないと養老さんはおっしゃる。
最近、僕は図書館で、本屋で「脳」か「身体」の言葉が目に入ると、思わず本を手に取ってしまう。学者でありながら、脳から逸脱している著者達に反応する。身体を通して反感なり、共感する。少なくとも、同化と異化の緊張感が要請される。免疫系の身体のなせる技であろう。とにかく、内田樹、森岡正博にも連鎖する読書傾向になってしまっている。教養はまさに身に付くもので、座って勉強しても教養にならない。ただ、勉強家になるだけである。生きることは再現はきかない。情報は再現がきく。データーは切り取りであり、生きて動いているものではない。人は変化する。学問とは死んだ情報の取り扱いであろう。教育とは生きて動いている人間を取り扱う業である。僕が彼等に反応するのは学者である以前に「生き方」の作法を身につけているからであろう。作法といっても固定的なものではない。変幻極まりないものであるが、再現出来ないけれど、型はある。松井の好打は再現出来ないけれど、フォームはある。そう言うことだ。
自分だけのものとは心ではなく身体である。遺伝子の組合わせは必ず違う。個性とは身体なのである。世上伝えられる奇妙な犯罪も身体がらみである。現代人が抱えているのは身体の取り扱いの問題である。食欲や性欲を通常の欲望とすれば、金欲はメタ欲望である。不安なんてメタ恐怖と言って良い。メタなるものは際限がない無限地獄に陥る。別な欲望を食べることによって満たされようと過食に陥る。自分の身体の声が素直に聞えないのだ。倫理とは個人に属する。当然、身体と不可分である。
養老さんは言う。《指導要領がどうのこうのとやかましいが、教育の基本は簡単である。「水」「餌」「ねぐら」、それを自分で捜すようにさせる。そうすれば、子供は育つ。/世界貿易センタービルも、それに突っ込んだ旅客機も脳化の象徴といえる存在である。こうした脳化社会がいかに脆弱か、それを意識しない人が多い。安全っであって当然だと思っている。/なぜわれわれは、戦争がやめられないのか。正義があるからであろう。アラブ人も正義を信じ、アメリカもイスラエルも正義を信じている。それが脳なのである。われわれが見ている世界は「脳に映った世界」に他ならない。すべての脳は完全ではない。それだけのことである。だから私は自分の考えすら、八分ほども信用していない。八分の主張は、十分の主張に負ける。二分足りないから負けるに決まっている。だから、原理主義はたえず再生産され、戦争はやまないのである。テロはもういい。私が一番、知りたいことはなにか。あなたは本当はどうありたいのか。そこが聞きたい。やむをえないから働くしかない。そんなことではない。一度しかない一生を、どう生きたいのか。そのホンネが聞きたいのである》。
個性は身体に該当するものであって、頭の中に存するものでない。頭に個性があったらどうなるか、その人だけのもので、共感出来るものはない。そこから生み出す僕の拙文も理解してもらえないであろう。教養とは身につけるものであり、躾も同じ洞察から由来しているかもしれない。ただ、この躾たる言葉は様々に利用され、汚されている。そのことを踏まえた上で、型を持った躾ある振舞こそが、動体視力で球を捉え、松井のように好打出来るのだと思う。
紙の本まともな人
2006/06/09 01:46
けっして「反養老」のつもりではありませんが
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『バカの壁』より、ちょっとは面白かった。
エッセイ系でよく見られる養老節の特徴は、短いセンテンスを頻繁に挟みながら、少々強引に理屈をつなぎ合わせていくところ。
《私だけの頭のなか、それが個性だと、仮に認めよう。それを「伸ばす」。その「伸びた個性」とは、私のことか。伸びたソバなど、ソバじゃない。ソバ好きはそういうのではないか。自分だけのものがどんどん伸びる。行き着く先は病院である。しかしそれを理想としていたら、教育がおかしくなって、あまりにも当然である。だから反復練習の主張が評価されるようになったに違いない。当たり前に戻ったというだけのことである。》
氏の得意とする「個性重視」教育批判の文脈だ。確かにそれには一理あると思う。しかし、個性を仮認定→「伸びた個性」→私?→伸びたソバ→ソバにあらず→さらに伸びる→行き着く先→病院、の流れって・・・なんやねん?
通読すれば言いたいことが見えてくるものもあるが、首をひねりたくなるシーンも多い。
《腹八分ではないが、正義も八分だ。私はそういっているだけである。残りの二分とはなにか。すべての脳は完全ではない。それを常に考慮すべきだ。それだけのことである。だから私は自分の考えすら、八分ほども信用していない。
八分の主張は十分の主張に短期的には負ける。二分足りないから、負けるに決まっている。私見によれば、だから原理主義は再生産され、そして相変わらず戦争はやまないのである。》
「八分の正義」という謙虚な考え方は好きだ。だが「八分の主張は十分の主張に短期的には負ける」の根拠が、数量の差でしかないのはヘンだ。柔よく剛を制すともいう。頑なな十分の主張に対して、柔軟な八分の主張が互する可能性もまたあり得るのではないだろうか。
《気になったのは、親米とか反米という単語を、総合雑誌でふつうに見かけるようになったことである。(中略)
こういう用語がふつうに使われる雰囲気が、私は嫌いなのである。(中略)
知米派はいう。アメリカは広い。一口にアメリカなんていえない。それは当然であろう。中国ならもっと広い。そう思ったら反米も親米もない。》
さらに、フランクルの《共同責任などというものはない》という言葉とエピソードを引きながら、《私が親米とか反米という言葉を好かない理由は、おわかりいただけるだろう》と結ぶ。
この主張には半分共感できる。なぜ半分かというと、自己申告なら仕方のない面もあるからだ。問題が大きいのは、「反○○」をレッテル張りに使う攻撃だ。
私の場合は、どんな国でも良いところ(美点)もあれば、悪いところ(欠点)もあると考え、それに是々非々で臨むようにしている。つまり、アメリカの対イラク戦争とか、中国のチベット抑圧等、単問題ごとに反対なのであって、=「反米」、「反中」のつもりではない。それでも「お前は反米だ」と言われたことがあり、釈然としない。
「反日」も、悪しきレッテル張りに使われることがある。「日本」だって一口で言えないほど広い。思想信条の異なる人々が共棲し、その内実は多様で深い。このレッテル張りは、その内実のいずれかに反対しただけであっても、「日本全体」の敵に拡大してしまうアンフェアな攻撃方法なのである。
「反○○」は、せいぜい自己申告か、限定された遂行目的論的(反核兵器とか反公害とか)に使うものだろう。
話を戻すと、養老氏は別の章ではこう言う。
《これまで中国に関するさまざまな報道を見聞きする機会があった。そこからの総論的印象しか、私は持たない。その結果、私はいわば反中国派になった。だから中国に行ったことがないし、行こうと思ったこともない。》
え〜!?
「反米・親米」は嫌いで、「中国ならもっと広い」と例示までしているのに、「反中」ならいいんですかぁ?
まともで、こまったお人です。