中国語はおもしろい みんなのレビュー
- 新井一二三
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紙の本中国語はおもしろい
2008/02/26 00:03
国辱女が書いた中国へのラブレター
21人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:バタシ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書からは最初から最後まで作者の中国語に対する愛が過剰なほどに伝わってくる。ためしに前書きを引いてみよう。
<中国語は魅力的な言葉です。広大な中国を始めとして世界各地で使われている国際語であり、また悠久の歴史を持つ文明の言葉でもあります。そして古くからヨーロッパ人に「音楽的」と形容されてきたように、類い稀なる麗らかな響きを持ち、全身に快感をもたらす優美な魔法の言葉でもあるのです。(P3)>
のっけからこの調子である。「中国語は美しい」と書いた本は数多く目にしたことがあるが、「快感をもたらす」とまで書いてあるのを見たのはこれが初めてである。また別の箇所には「快楽をもたらす」とまである。
著者の新井一二三女史は早稲田大学在籍時に中国語と出会い、そこからずっと中国語の虜なのだそうだ。ただ虜になるだけならいいのだが、いつの間にか言葉に関する感覚までが中国語基準になっているのは困りものである。いくつか例を挙げよう。
<(中国語は)一人称単数が「我」の一種類に限られており、(中略)それにひきかえ日本語ときたら、「わたし」「わたくし」「ぼく」「おれ」、(中略)等等と、人称代名詞が豊富なようでいて、実際の使用は性別や年齢によりひどく制限されているのが実情である。私も日本の会社に勤めた二十代のころは、相手を「あなた」呼ばわりして叱られた経験が数知れない。 しかし、「あなた」と呼んでは失礼で、「~さん」では無礼だからと、「~副部長」だの「~主任」だのと肩書きを敬語的にしか使うことしか許されないのでは、そもそも平等な立場での会話など成り立つはずがない。(P138)>
<日本語という言語は平等な個人対個人として話すことを許さない仕組みになっているのだから、個人が育つ場も、生存する空間もあるわけはないのである。(P140)>
言いたい放題である。日本語に対する憎しみや蔑みが行間からひしひしと伝わってくる。「人称代名詞の使用が制限されている」とはなかなか出てこない発想だ。さらにすごいのは上司に「あなた」と呼びかけるという下りだ。まともな日本語の感覚を持っていれば、とても上司に対して「あなた」なんて呼びかけはしない。呼びかけられた上司が怒るのも無理はない。妻が夫に対して使うのを除けば、一般に「あなた」には相手を見下したニュアンスが含まれている。例えば「あなたって人は…」とあった場合、読者諸兄はどのようなニュアンスを感じ取るであろうか。たとえ述語が省略されていても、「あなた」という単語が入っていれば、それは絶対にプラスの意味ではないと、感じるのではないだろうか。
また肩書きに関してだが、元々これにやかましいのは中国である。中国人の名前に関する規則は非常にややこしく、一般的に言って身分が高い人ほど名前(というか身分や役職)が増え、代わりに本名を呼ばれる機会は減っていく。例えば昔の中国で本名を公的な場で呼ぶのは、ものすごく失礼なことである。今だってそんなに状況はかわってない。部長なら「部長」、社長なら「総経理」と役職をつけて呼ぶのがルールである。たとえ役職がなくても「先生」などと敬称をつける。だいたい肩書きにうるさくない欧米諸国だって、例えば大統領に向かって「おい、ブッシュ」なんて言えば、さすがに失礼だ。程度の差こそあれ、洋の東西を問わず、相手の名前をみだりに呼ぶのは失礼なことなのである。
そもそも「日本語に平等な関係はない」といっているが、友人だって家族だって、親しい間柄ではふつう敬語は使わないで会話している。この著者だってきっとそうだろう。そうでなければこの人がここまで敬語を使えない理由がわからない。この著者の文章を読んでいると、 自分が敬語を使えないもんだから、日本語が嫌いになったのではないかとしか思えない。著者はよく日本人から中国人と間違えられて「日本語が上手ですね」と言われるらしいが、それは中国語をしゃべっているからだけではなく、敬語がうまくしゃべられないことにも原因があるからではないかと、つい邪推してしまう。
この本は一事が万事この調子である。中国語の良さを語る本なのだから、中国語を良く語ることはまったく問題ない。だがその過程で日本をこき下ろすのは問題があるだろう。しかもおまけにその内容のほとんどが首をかしげるものばかりなのである。
<中国語の世界でもコンビニエンスストア「便利店」で普通にお握りが売られる時代となり、各地に出回っている「御飯団」。(中略)中国語で握り飯を指す「飯団」にも「御」をつけてみました、どう、日本風でしょ? というネーミングである。しかし「御飯団」となった時、もともとの日本語の「お握り」というネーミングの貧乏臭さをからかわれたようで、赤面してしまう。(P161)>
<「御雑煮」と「御煮染」。ご丁寧な「御」の字を除けば、実に殺風景な「雑煮」と「煮染」。千数百年も漢字を使ってきて、もう少ししゃれたネーミングは考えられなかったのだろうか?(中略)控えめが悪いとは言い切れないだろうが、それにしても「雑煮」とか「煮染」は、地味を通り越して、あまりにもぱっとしない気がするのだが。(P162)>
大きなお世話である。別に「雑煮」が特に殺風景だと感じたこともないし、ぱっとしないと感じたこともない。おにぎりにしたって、シンプルで実にいいネーミングではないかと私は思う。「貧乏臭い」と言ったって、別にそれは中国人に直接言われたわけではなくて、「あなたが勝手にそう思い込んでいるだけでしょ!」とつっこみたい。あ、いま「あなた」という言葉を使ったが、「あなた」はこういう文脈で使われるのだよ、新井女史。上司に使ってはいけないってことがわかったのではないだろうか?
本書はもともと中国および中国語の世界に対する興味を促進させるために書かれた。確かに中国のいいところを挙げたり、べた褒めしたりすれば、興味を持つ人は増えるかもしれない。ただその過程で自国をけなしたりするのはやはり良くない。外国や外の世界を理解するためには、自分・自国というものをある程度しっかりと理解し、それに誇りを持たなければならないだろう。ただただ外国を礼賛するのは文化的植民地根性丸出しの、非常に恥ずべき態度である。最後に新井女史が書いたこの本の前書きを引用してこの文の結論としたい。
<二十一世紀の世界で、英語が世界の共通語の地位を占めることは明らかです。けれども英語的な物事の考え方だけでは、広い宇宙を、人類の歴史全体を、見渡し得ないこともまた確かではないでしょうか?>
まったくそのとおりである。ただしこの文は「英語」を「中国語」に改めると、それはそのまま新井女史にも当てはまることなのだ。しっかりとわが身を省みていただきたいものである。
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