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バタシさんのレビュー一覧

投稿者:バタシ

7 件中 1 件~ 7 件を表示

紙の本

紙の本江頭2:50のエィガ批評宣言

2008/01/20 00:18

愛と鋭い洞察にあふれた良書

17人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

キチガイみたいな芸風で知られる江頭だが、実のところ芸のほとんどは台本通りであり、エキセントリックな行動の数々は打ち合わせ済みなのだ。江頭自身はかなりマジメで普通の人なのである。

で、本書はそんな江頭が書いた映画批評本である。本書を読むと、誰しもが「この人は本当に映画が好きなんだなー」と思うことだろう。何しろ紹介される映画はただ数が多いだけでなく、年代や地域、そしてジャンルが多彩で、まさに映画ならなんでもござれ、だからだ。

そしてただ多くの映画を見ているだけでなく、その批評がいちいち的確なのである。例えば私の大好きな映画、「少林サッカー」を批評した文章を引いてみると…

<『少林サッカー』をひと言で言うなら「CGがスゴい!」ってことになるんだと思う。ただ、これは、半分当たりで半分間違い。
 はっきり言って、いまどきCGがスゴい映画なんていっぱいあるんだよ。(中略)この映画のCGがスゴいのは「ここだっ!」っていう時に、ちゃんとスゴい映像を見せてくれるところ。CGの使い方がとにかくうまいんだ。
 (中略)CGがスゴくて下品でおバカなだけだったら、この作品を人生のベスト10に入れることはなかったと思う。でも、この映画には骨子がある。「貧乏でダメな連中が、それでもがんばって成功を勝ち取る」っていう胸のすくようなテーマがしっかりあるんだよね。>

いかがだろうか。「少林サッカー」を見た人ならば、首肯できる内容ではないだろうか。

「少林サッカー」だけでなく、そのほかの映画の批評も優れている。ただ映画の内容だけを批評するのでなく、その背景もきちんと理解しているのだ。北朝鮮映画にふれている章があるのだが、そこでの社会主義体制やプロパガンダへの考察は驚くほど的を射ている。ただのキチガイ芸人だったら映画の分析はできないし、そもそも(校正が入っているにせよ)こんな文章は書けない。

最近の映画の批評や江頭個人の映画に関する思い出話、江頭のオススメ映画の紹介など内容もバラエティに富んでいて、読んでいて飽きが来ない。文章からは映画に対する愛が滲み出ていて小気味いいし、何より紹介されている映画を今すぐ観たくさせる江頭の筆力は驚嘆に値する。所々にいつもの江頭のギャグが絶妙のタイミングで挿入されるのも見逃せない。

映画好きの方ならぜひ一読をオススメする一冊である。食わず嫌いをする前にとにかく「読め!」と強く推薦する。

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紙の本

紙の本ゆるゆる

2010/12/11 01:46

健康的な女の子っていいですよね

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

久しぶりに女の子がかわいいという理由だけで買ってしまった本、それがこの『ゆるゆる』。仲良しの女子高生三人組の日常生活を描くフルカラー漫画だ。

著者の「たかみち」氏は青年男子向け雑誌の「LO」で表紙の絵を描いている御仁である。「LO」は有態に言えば小さい女の子ばかりが出てくるエロ本なのだが、氏の描く表紙はまったくその手の雑誌のものには見えない。透明感あるれる健康的な女の子の日常の一コマを生き生きと描写している。百聞は一見に如かず。ぜひ下記のリンクから一度作品見てほしい。

http://hamusoku.com/archives/3759530.html

上記のリンク先は私が初めて氏の作品を見たサイトだ。いい年したおじさんの私に、遠く過ぎ去ってしまった10代を思い出させる、郷愁を含んだいい絵だ。

で、今回買った『ゆるゆる』だが、こちらも当たりだ。アニメ化された『よつばと!』や『あたしンち』と同じく日常のどうってことない場面を描いているだけなのだが、描いているだけなのだが、それが実にいい。絵だけでなく場面や展開も秀逸で、つい「もう一度高校生に戻りたいなぁ」とか「何で自分の高校には制服がなかったんだ」とか様々な思いが頭を駆け巡る。私はすっかり氏のファンになってしまった。『ゆるゆる』の第2巻が今から楽しみだ。

最近都議会が何やらきな臭い条例を推進しているようだが、下手な規制はしないでほしい。エロ雑誌に寄稿していることで氏に見当違いの批判が来ないとも限らないからだ。まったく都知事という多くの人の上に立つ人物なのだから、自分とは考えの違う者に対する寛容の心を忘れないでいてほしいものだ。

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紙の本

紙の本中核VS革マル 上

2009/03/22 02:16

今も残る過激派集団の生態

13人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私が大学の入学式に出る前に最初に話しかけてきたのは「早稲田大学社会科学部自治会」と名乗る連中だった。「アメリカのアフガン侵攻に反対するデモに参加しよう」と何のかんのうるさかったので、「入学式に遅れるので失礼します」と無視してさっさと式会場に入った。

入学式が始まってそこそこに教授から「自治会は当大学と何の関係もない団体なので、接触する際には十分に注意してください」との警告があった。まだ二十歳前で完全に世間知らずの私だったが、「自治体」という組織が胡散臭いものなんだな、という印象は持った。

この話が本書と何の関係があるかと言うと、この自治体こそが本書で紹介されている極左セクトの革マル派に他ならないからだ。革マルと中核派が誕生したのが1962年で、私が大学に入学したのが2002年だから40年を経てもまだ革マル派は存在していたのだ。

早稲田大学は革マル派の総本山で、かつては構内で他党派との争いにより流血沙汰もしばしば起きていた。さすがに今ではそんな事態は起きていないが、立看はあちこちにあるし、自治会が演説をしているしで、革マル派の勢力は目に見える形で残っている。

マスコミは左翼シンパが多いせいか、あまり極左セクトの脅威について語ろうとしないが、本書は日本を代表するジャーナリスト立花隆がそれについて深く踏み込んだ1冊である。東西冷戦構造の崩壊により、日本の共産勢力はめっきり影が薄くなってしまったが、いやいや中々どうして、まだまだあちこちで根を張っている。早稲田大学もそうだが、杉並区では新しい歴史教科書」採択の際に一躍有名となった「つくる会の教科書採択に反対する杉並・親の会」=中核派がいる。

要は目に見えなくなっただけで、極左勢力の存在はまだまだ健在だということだ。だから交番に行けば必ず極左セクトの指名手配犯の張り紙がオウムと同様にしてあるのだ。おそらく今の30代より若い世代にはピンと来ないだろうが(かくいう私も20代半ばだが)、極左セクトの危険性といったらオウムと同等かそれ以上だ。

機動隊と戦い、一般市民を巻き込み、さらには同じ共産主義者であっても自分のセクトと考え方が違えば内ゲバで殺す、それが極左セクトの姿だ。中でも本書で紹介されている革マル派と中核派は極左の中でも最大級の勢力を誇り、社会に与えた影響も桁違いであった。

考えてみてほしい。将来を嘱望されている一流大学に通う青年たちが、自分の所属する組織の政治的信条のためとはいえ、人に暴力を加えたり、ひどいときには殺害にまで及ぶのだ。影響は学生だけではない。世間も左翼シンパのマスコミがこうした犯罪に対して同情的に報道するため、これら極左セクトに対して寛容にさせていたのだ。今では考えられないが、30年ほど前は実際にそういう状況だったのだ。

そして恐ろしいのが、例えばオウムは教祖をはじめ、主だった幹部はほとんど逮捕され、裁判にもかけられ、犯罪集団としての総括を済ませているが、極左勢力にはそれがないのだ。つまり連中は組織全体としては何も裁かれないまま現在に続いているので、脅威はそのまま継続しているのだ。

最近「閉塞」した世相を反映してか、高度経済成長を懐かしむ声が多いが、私に言わせればとんでもないことである。極左勢力が跋扈し、それを糾弾すれば「反動的」「ファッショだ」などとマスコミや「進歩的」知識人からバッシングされるのが高度成長期の日本なのだ。現在に比べて国全体が貧しい上に、犯罪も多いしで、何がいいのかさっぱりわからない。

人間は昨日より今日が良くなると信じて働いているのだし、実際日本は多少の足踏みはあるものの今日まで着実に成長しているのだから安易な懐古主義は慎むべきだと思う。本書はそのために最適のテキストで、極左勢力と呼ばれる連中が一体過去に何をやってきたかを克明に描いている。本書を読めば、「世界平和」「戦争反対」という耳障りのいい左翼の甘言や、「昔は良かった」という団塊の世代の戯言に惑わされることはないだろう。

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紙の本

紙の本チェ・ゲバラの遙かな旅

2009/03/27 02:00

ゲバラを知るには良き入門書

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書はチェ・ゲバラの伝記小説であるが、ゲバラのことをぜんぜん知らない人でも楽しめる内容となっている。映画(「チェ 28歳の革命」「チェ 39歳 別れの手紙」)は完全に「初心者お断り」だが、この本はそんなことないので安心してほしい。むしろ映画を観る前の予備知識を身に付ける本としてはうってつけである。

ゲバラの少年時代や彼が革命を志すようになった経緯など、映画では完全に省かれていたゲバラを語る上で欠かせないエピソードが、作者のゲバラに対する愛が行間から溢れ出んばかりの勢いで描写されている。またボリビアに潜入してからの話は非常に短いが、次第に追い詰められていくゲバラの様子をヴィヴィッドに描いており、また映画では描かれなかったエピソードや情報を交えることで、映画とは異なる悲壮感を読者に感じさせる。

なお、お断りしておくと本書の方が映画よりずいぶんと先に成立している。伝記小説としての出来は並といったところであるが、かなり楽しく読めたのはたぶんに題材となっているゲバラ個人の魅力によるものだろう。ゲバラの入門書として自信を持ってオススメできる一冊である。

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紙の本

紙の本しくじった皇帝たち

2008/02/19 01:39

本は薄いが内容は濃いぞ。でもやっぱりちょっと薄いかな…

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は高島翁が数年ぶりに出した中国を題材に出した新刊である。筆者は高島翁の大ファンなので期待して発売日に購入したのだが、少々がっかりした点がいくつかある。

まず一点目。題名のとおり本書では中国における治世に失敗した皇帝を題材にした歴史評伝である。中国史上治世に失敗した皇帝には事欠かないが、なんと本書で扱われている皇帝はたったの二人である。二人でも「たち」には違いないが、「たち」というからには四人は紹介されているだろうと期待していた私には少々ショックだった。

二点目。本書に収められている二篇の文章は多少の手直しがされているものの、本書が初出の文章ではない。つまり別々の本に載っていたのを引っこ抜いて、お化粧を直して合体させたのが本書の正体なのである。多少の書き下ろし部分はあるが、すでに私のように出典元の文章を読んでいる人には新鮮さに欠けるし、おまけに一篇一篇の文章が比較的短いので、ちょっとボリューム不足である。著者の講談社から出ている「中国の大盗賊・完全版」を想像して本書を買った人は間違いなくがっかりするだろう。

三点目。文章の形が全後半で大分異なる。前半の煬帝を扱った篇は元々が高校生向けの学習誌に掲載されていたこともあって、かなり平易に書かれている。ところが後半の建文帝を扱った篇は「文學界」という文藝春秋から出ている小難しい雑誌が初出なので、煬帝の篇に比べて大分難しい。前半と後半で文体が違ってはいけないということはないが、大分ちぐはぐな印象を受ける。いかにもムリヤリ1冊にまとめたという感じだ。

では文章がつまらないというと、そんなことはない。いつもの高島翁の如く、縦横無尽に筆を走らせ、バッサバッサと巷間俗説を斬って捨てる。読んでいて爽快である。高島翁の著作は数多いが、やはりこの人は中国の歴史を書いた物が最も優れている。筆致は軽やか、文章も流れるが如く、まるで当世一代の講談師の話を聞いているかのように、読者を惚れ惚れとさせる。

それだけに本書の分量の少なさがいかにも残念である。せめてもう一人書き下ろしで南唐後主や宋の徽宗といった亡国の皇帝を書き足せなかったのかと思う。

正直この1冊ではどうにもボリューム不足である。しかし文章の質はいい。ぜひとも「中国の大盗賊・完全版」と合わせて読んで、高島翁の描く中国史の世界を堪能してほしい。

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紙の本

紙の本中国語はおもしろい

2008/02/26 00:03

国辱女が書いた中国へのラブレター

21人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書からは最初から最後まで作者の中国語に対する愛が過剰なほどに伝わってくる。ためしに前書きを引いてみよう。

<中国語は魅力的な言葉です。広大な中国を始めとして世界各地で使われている国際語であり、また悠久の歴史を持つ文明の言葉でもあります。そして古くからヨーロッパ人に「音楽的」と形容されてきたように、類い稀なる麗らかな響きを持ち、全身に快感をもたらす優美な魔法の言葉でもあるのです。(P3)>

のっけからこの調子である。「中国語は美しい」と書いた本は数多く目にしたことがあるが、「快感をもたらす」とまで書いてあるのを見たのはこれが初めてである。また別の箇所には「快楽をもたらす」とまである。

著者の新井一二三女史は早稲田大学在籍時に中国語と出会い、そこからずっと中国語の虜なのだそうだ。ただ虜になるだけならいいのだが、いつの間にか言葉に関する感覚までが中国語基準になっているのは困りものである。いくつか例を挙げよう。

<(中国語は)一人称単数が「我」の一種類に限られており、(中略)それにひきかえ日本語ときたら、「わたし」「わたくし」「ぼく」「おれ」、(中略)等等と、人称代名詞が豊富なようでいて、実際の使用は性別や年齢によりひどく制限されているのが実情である。私も日本の会社に勤めた二十代のころは、相手を「あなた」呼ばわりして叱られた経験が数知れない。 しかし、「あなた」と呼んでは失礼で、「~さん」では無礼だからと、「~副部長」だの「~主任」だのと肩書きを敬語的にしか使うことしか許されないのでは、そもそも平等な立場での会話など成り立つはずがない。(P138)>

<日本語という言語は平等な個人対個人として話すことを許さない仕組みになっているのだから、個人が育つ場も、生存する空間もあるわけはないのである。(P140)>

言いたい放題である。日本語に対する憎しみや蔑みが行間からひしひしと伝わってくる。「人称代名詞の使用が制限されている」とはなかなか出てこない発想だ。さらにすごいのは上司に「あなた」と呼びかけるという下りだ。まともな日本語の感覚を持っていれば、とても上司に対して「あなた」なんて呼びかけはしない。呼びかけられた上司が怒るのも無理はない。妻が夫に対して使うのを除けば、一般に「あなた」には相手を見下したニュアンスが含まれている。例えば「あなたって人は…」とあった場合、読者諸兄はどのようなニュアンスを感じ取るであろうか。たとえ述語が省略されていても、「あなた」という単語が入っていれば、それは絶対にプラスの意味ではないと、感じるのではないだろうか。

また肩書きに関してだが、元々これにやかましいのは中国である。中国人の名前に関する規則は非常にややこしく、一般的に言って身分が高い人ほど名前(というか身分や役職)が増え、代わりに本名を呼ばれる機会は減っていく。例えば昔の中国で本名を公的な場で呼ぶのは、ものすごく失礼なことである。今だってそんなに状況はかわってない。部長なら「部長」、社長なら「総経理」と役職をつけて呼ぶのがルールである。たとえ役職がなくても「先生」などと敬称をつける。だいたい肩書きにうるさくない欧米諸国だって、例えば大統領に向かって「おい、ブッシュ」なんて言えば、さすがに失礼だ。程度の差こそあれ、洋の東西を問わず、相手の名前をみだりに呼ぶのは失礼なことなのである。

そもそも「日本語に平等な関係はない」といっているが、友人だって家族だって、親しい間柄ではふつう敬語は使わないで会話している。この著者だってきっとそうだろう。そうでなければこの人がここまで敬語を使えない理由がわからない。この著者の文章を読んでいると、 自分が敬語を使えないもんだから、日本語が嫌いになったのではないかとしか思えない。著者はよく日本人から中国人と間違えられて「日本語が上手ですね」と言われるらしいが、それは中国語をしゃべっているからだけではなく、敬語がうまくしゃべられないことにも原因があるからではないかと、つい邪推してしまう。

この本は一事が万事この調子である。中国語の良さを語る本なのだから、中国語を良く語ることはまったく問題ない。だがその過程で日本をこき下ろすのは問題があるだろう。しかもおまけにその内容のほとんどが首をかしげるものばかりなのである。

<中国語の世界でもコンビニエンスストア「便利店」で普通にお握りが売られる時代となり、各地に出回っている「御飯団」。(中略)中国語で握り飯を指す「飯団」にも「御」をつけてみました、どう、日本風でしょ? というネーミングである。しかし「御飯団」となった時、もともとの日本語の「お握り」というネーミングの貧乏臭さをからかわれたようで、赤面してしまう。(P161)>

<「御雑煮」と「御煮染」。ご丁寧な「御」の字を除けば、実に殺風景な「雑煮」と「煮染」。千数百年も漢字を使ってきて、もう少ししゃれたネーミングは考えられなかったのだろうか?(中略)控えめが悪いとは言い切れないだろうが、それにしても「雑煮」とか「煮染」は、地味を通り越して、あまりにもぱっとしない気がするのだが。(P162)>

大きなお世話である。別に「雑煮」が特に殺風景だと感じたこともないし、ぱっとしないと感じたこともない。おにぎりにしたって、シンプルで実にいいネーミングではないかと私は思う。「貧乏臭い」と言ったって、別にそれは中国人に直接言われたわけではなくて、「あなたが勝手にそう思い込んでいるだけでしょ!」とつっこみたい。あ、いま「あなた」という言葉を使ったが、「あなた」はこういう文脈で使われるのだよ、新井女史。上司に使ってはいけないってことがわかったのではないだろうか?

本書はもともと中国および中国語の世界に対する興味を促進させるために書かれた。確かに中国のいいところを挙げたり、べた褒めしたりすれば、興味を持つ人は増えるかもしれない。ただその過程で自国をけなしたりするのはやはり良くない。外国や外の世界を理解するためには、自分・自国というものをある程度しっかりと理解し、それに誇りを持たなければならないだろう。ただただ外国を礼賛するのは文化的植民地根性丸出しの、非常に恥ずべき態度である。最後に新井女史が書いたこの本の前書きを引用してこの文の結論としたい。

<二十一世紀の世界で、英語が世界の共通語の地位を占めることは明らかです。けれども英語的な物事の考え方だけでは、広い宇宙を、人類の歴史全体を、見渡し得ないこともまた確かではないでしょうか?>

まったくそのとおりである。ただしこの文は「英語」を「中国語」に改めると、それはそのまま新井女史にも当てはまることなのだ。しっかりとわが身を省みていただきたいものである。

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紙の本

紙の本中国に人民元はない

2008/05/30 00:39

白馬非馬説…ってそんなバカな

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昔から日本では中国に関心を持っている人が多いが、その割には中国という国の実態を知っている人はあまり多くない。そのためか年に何冊も「中国という国はこうだ!」と解説する本が刊行される。本書もそんな中国解説本の一種だ。

だが、その解説には首をかしげる内容が多い。著者は「産業コンサルタント」なる職の人物らしく、そのためか経済にまつわる話が多い。筆者は経済に暗いので著者の経済に関する話の正当性をつまびらかにしないが、それ以外の話はヘリクツの連続で読むに耐えない。

「中国に人民元はない」とは鬼面人を驚かせるタイトルだが、その項の要旨は以下の通りである。

「人民元は和製中国語である。中国語では人民幣というから、中国には人民元はない。」

冗談に聞こえるかもしれないが、本当に要約するとこんな内容なのだ。こんなヘリクツが許されるなら、アメリカではドルのことを「dollar」と言うから、アメリカにドルはない、という理屈も成り立ってしまう。

無論そんなことはない、人民元だろうが人民幣だろうが、その指す内容は同一であり、現に中国国内では人民元は流通しており、まっとうな貨幣として通用している以上、その存在は疑うべくもない。

驚くのはこの理屈が他の項でも出てくることだ。曰く「中国語では中華料理などいう言葉はない。ゆえに中国に中華料理はない」…おいおい、冗談も休み休みに言ってくれ。

確かに中国語に「中華料理」という単語はない。また中国の料理は北京料理・広東料理の如く地方ごとに分かれていて、それを総称する語がないのも知っている。だが外国人から見れば北京料理も広東料理も同じ中国の料理である。それを「中華料理」と称している以上、中華料理という言葉に実在しているのだ。

「~は中国にない」と断定するのはいいが、詭弁を弄し、読者を誤解させるタイトルをつけるのはいただけない。春秋の昔中国に公孫竜という思想家がいて、「白馬非馬説(白馬は馬ではない)」と説いてまわったそうだが、本書の理屈はこの「白馬非馬説」に非常に良く似ている。

ちなみに韓非子には、この白馬に乗り関所で馬の通行税を支払うのを逃れようとした男が、役人に「馬は馬だろう」と一蹴されて、結局は馬の通行税を支払ったという話が載っている。願わくは「中国には人民元はない」などと吹聴して、周りから「じゃあ中国には通貨がないのか」などとツッこまれる人が現れませんように。

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