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カイエ・ソバージュ みんなのレビュー

  • 中沢 新一
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みんなのレビュー5件

みんなの評価4.4

評価内訳

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5 件中 1 件~ 5 件を表示

紙の本人類最古の哲学

2011/01/23 18:21

神話を生き直す

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書の序章にこうある。
「あらゆる神話には、ひとつの目指していることがあります。
それは空間や時間の中に拡がっておおもとのつながりを失ってしまって
いるように見えるものに、失われたつながりを回復することであり、
互いの関係があまりにバランスを欠いてしまっているものに、対称性を
取り戻そうとつとめることであり、現実の世界では両立することが
不可能になっているものに、共生の可能性を論理的に探り出そうと
することです。」

神話は、常に現実との接点において人々の生活の中に太古から存在して
きたものであるが、熱狂のうちに理想的な始原の状態が「ありうる」とする
宗教と違って、あらゆる区別がなくなることなど「ありえない」という
前提の下に、それでもそういう状態を思い浮かべることを願って、
神話的夢は紡ぎ出されてきた。

感覚を離れた観念的論理が一人歩きする宗教やイデオロギーは、
異なるものとの対立の中に接点を見出せずに袋小路に陥ってしまい、
現実の日々が理想から離れすぎて凄惨なものとなって、にっちもさっちも
行かなくなってしまうのだが、神話は、そんな現実に苛まれる生きた
五感を、再び日々の生命の中に解き放つための論理を再構築しようとする。

シンデレラやオイディプス王のような古典的神話の雛形が広い範囲で
残っているのは、人類がその身体感覚において同じ類であることの証で、
話の筋が微妙に違ったりするのは、ある地域での暮らしが他の地域とは
やっぱり違うということで、それはつまり人間が自然や天や冥界と
どんな距離感で持って生きてきたかの証である。その価値はこれから
薄まるどころか、知恵の宝庫として今後ますます発掘が進むことに
なるのだろう。人類の神話は、まだ始まったばかりなのだ。

神話を読むということは、神話の中に語られていることを五感で
感じ取ることで、だから神話の最良の読み方は、それを己の感覚として
生きることである。天地とのつながりの中に己の居場所を見出すこと、
見出そうとするうちに、己の神話は駆動しているのだ。

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紙の本対称性人類学

2004/08/22 17:22

野生の思考としての仏教再生

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る

『カイエ・ソバージュ』1巻で神話の誕生と伝承における環太平洋という枠組みと現生人類という壮大な装置に評者は惹かれ、5巻にたどりついた。「第三次の形而上学革命」をめざして、レヴィ=ストロースを下敷きに、精神科医ブランコ、南方熊楠、数学者ロビンソン、バタイユ、ハイデッガー、フロイト、とさまざまな領域の思考に焦点があてられる。その思考の向かう先はとうぜん4巻までであきらかにされたように、分析的・アリストテレス的論理ではなく対称性の論理につらぬかれていなければならない。第二次形而上学である「一神教型」資本主義がもたらしているグローバリズムに立ち向かうことのできるのは仏教の思想である。ここでいう仏教とは「無意識=流動的知性の本質をなす対称性の論理に磨きをかけて、その可能性を極限まで追求した思想にほかならない」。それは宗教としての仏教ではなく、「これから生み出そうとしている新しい対称性の知性のもっともすぐれた先行者」としての仏教である。

著者は無意識に言及するにさいして、フロイトにくらべて「普遍的無意識」を説くユングについて触れることが少ない。仏性と無意識の共通性に注目するのであれば、自我を脅かす存在としての無意識をとりあげたフロイトよりも、人格の発生源として無意識を提示するユングをとりあげるほうが適切ではないだろうか。さらに、「無意識をとおして人間の『心』は自然に、そして宇宙につながっている」のだから、ユングの普遍的無意識にこそ親和力がはたらいてよいと考えられる。

ユングといえば、ユング派精神分析の第一人者河合隼雄の『ユング心理学と仏教』もまた、個人的・全人類的な問題の解決方法として仏教を提示していたことを想起させる。創作ファンタジーや昔話の分析に豊富な実績をもつ河合と地球規模の神話に焦点をあてる中沢というちがいはあっても、仏教への迫り方は似ている。もちろんアリストテレス的な論理にたいする見方も中沢が対称性論理を優位に置くのにたいして、河合が分析的論理への批判を限定的におこなっているというちがいはある。また一神教型の資本主義の原理を鋭く強烈に批判する中沢にくらべて、河合のばあいは経済についての考察は対象外であるといえる。中沢においては「人間の営む現象」だけでなく「科学的思考も、無意識の領域で直観的につかみだされたアイディアを、非対称の論理に『翻訳』することによって、飛躍を重ねてきた」。ハイゼンベルクが量子力学を発見したのも、ガロアが群論において「異質なレベルのあいだで、対称性をもったまま、ひとつの全体運動がおこなわれている様子」を見出したのもそのような位置付けのなかで展開される。

華麗な文体でラディカルな思考をくりひろげる中沢と中庸を行く河合との相違点はいわば、これまでの各々の「縁起」によってもたらされるちがいであるが、いずれも仏教の論理・智恵に個人と人類のかかえる問題解決の指針をもとめるという重要な接点をもつ。かつて『雪片曲線論』で密教による心の解放を追求した著者が大乗仏教に向かうのはある意味必然であろうが、初期の体験と思考に磨きをかけ、東西の華麗な宝石をちりばめて壮大な思考の輝きをわれわれにしめしてくれた。多神教の伝統をたもってきた日本の宗教的社会に希望を見出すべきだという主張とともに、思想としての仏教に惹かれる者にとっては、あたらしい視点から仏教への関心が鼓舞される書である。仏教についてのさらに深化した書が待たれる。

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紙の本人類最古の哲学

2004/06/07 15:40

人類最古の哲学

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る


著者によれば、人類最古の哲学としての神話は新石器時代に根ざしている。ここでもちいられる「神話」とは民話をふくみ、神話学や民俗学、民族学の枠をこえた領域を占めている。著述の大半を占めるシンデレラ物語も民話としてではなく、3万数千年まえから伝承され変形されてきた神話としてとりあげられている。というよりも、脈々とうけつがれてきた世界観から民話と神話という従来の枠をとりはらって、原初のかたちにそって考察をすすめている。
 南方熊楠がはじめて紹介した世界最古の中国のシンデレラ物語が死と水の領域に深い関わりをもつのとどうよう、グリムのシンデレラ物語も妖精の仲介によってもっとも高いものともっとも低いものを結びつける。自己変形のプロセスが大規模かつ執拗にくりかえされ、中国からポルトガル、スペイン、インドネシアへとうけつがれるなかでも、ヘーゼルの小枝や豆、カマドは死者の世界と生者を媒介するもの、あるいは自然状態から文化への大転回を仲介するものとして物語の中核として据えられてきた。北米インディアンのミクマク族はペロー版が現世のしあわせに限定してその価値をおとしめているのを変形して、仲介機能を発見しようとパロディに生き返らせている。
 このように神話とは、大きな矛盾をかかえながら進行する文化にとって論理や構造をとりだすだけでなく、具体性の世界との関わりのなかにのみ価値をもつ。幻覚を利用してきた宗教(オウム?)の側にのみこまれず、材料は現実の社会構造、環境、自然の状態からとりだすのが神話なのだ。著者の言外の主張を推測すれば、ここにこそ、大国主義に汚染され蹂躙されている現代の世界にとって神話復活を意図する意味がある。
 民話や神話に関心をもつ者にとって、その源流は朝鮮や内陸アジア、さらにはインドネシアなどにもとめられることが多かった。あるひとは海上の道に祖先のすがたをおもいうかべ、あるひとは騎馬民族をおもいえがいてきた。著者はレヴィ=ストロースを媒介にすることによって、環太平洋という枠組みを析出し、新石器時代に形而上学の革命を指摘する雄大な構想をえがこうとしている。民族学や民俗学の壁をとりはらって源流への旅立ちをうながす書である。

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紙の本愛と経済のロゴス

2004/06/19 11:30

よりヴィヴィッドな考察を

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る

寡聞な評者にとって、中沢新一は宗教学の人であって経済を論じる人ではなかった。しかし、経済を「暗い生命の動きにまで奥深く根を下ろしたひとつの『全体性』をそなえた現象」として捉え、その考察の跡をたどるときその違和感は薄められた。(『緑の資本論』の著書もある。)

著者によれば、経済の全体性を見ると「交換と贈与と純粋贈与という3つの『体制』がしっかりとひとつに結びあって」いる。交換においては等価交換が原則になっており、贈与ではモノを媒介にして人と人、集団と集団との間を人格的ななにかが移動している。インディアンの有名なポトラッチに見られるように、たくさんの贈り物をされた者はお返しをしないと霊力の流動が滞ってしまうのを怖れて、自分も気前のよい贈り物をしないといけないと考える。この贈与のサイクルからはずれた原理が純粋贈与である。新石器時代人はラスコーやショーベの洞窟で動物を壁面に描き、そのまえで儀式をおこなうことによって動物の増殖を祈った。「洞窟という空間自体が純粋贈与の原理と現実の交点を意味している」。 国家が発生し「貨幣形態に変態をとげた富は、富を生む源泉を社会の内部に持ち込んでしまう」 。これは『熊から王へ』のなかで王の発生が自然の人間化であることが指摘されたように、「社会の『外』にあったものなのにいっさいを人間化してしまう能力をもつ」。
対称的世界から非対称的社会への転換は、『カイエ・ソバージュ 1、2巻』において著者が説いてきたところであるが、ここでもおなじ原理がつらぬかれている。人類が狂牛病などのむくいを受けたのは自然を「あらわにあば」いてきたけっかであり、交換から贈与の原理による全体性にたちもどってあたらしい経済学を樹立していかなければならない。
著者も指摘するように、「経済の合理性を支えているのは、贈与や純粋贈与のような不確実性をはらんだ活動を動かしている人間精神のぶ厚い地層である」。げんざいでは農業でさえも濃やかな愛をそそいで大地に増殖をうながすよりも、化学肥料をばらまき除草剤で手間をはぶいて果実を文字通り搾取せざるをえない。

いっぽう視点をかえて贈与や純粋贈与を現代的な活動のなかでかんがえるとき、ボランティアについての考察をのがすことはできない。とくに福祉の分野での贈与としてのボランティアや有償ボランティア等との関連のなかで、「人格的ななにか」が流動する意味についての考察をしめしてほしいところである。文献からはなれて現実の社会のなかでの経済活動について、その根源的な意味付けを望みたい。本書の冒頭ですこしふれられているが、本論のなかでそれについて詳細な哲学が展開されていればもっとヴィヴィッドな「愛と経済の」哲学になっていたのではないだろうか。

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紙の本熊から王へ

2004/06/15 15:24

王の発生

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る

カイエ・ソバージュの第2巻。1巻ではシンデレラ物語の分析をとおして、神話が新石器時代から生きつづけてきた事実を解明してきた。本書では、神話的社会の内部から王がどのようにして誕生したのかが、モンゴロイドのケースをメインにのべられている。

第1に新石器時代の人類がニューロン組織の進化によって、豊かな比喩をもちいてちがう分野の結合ができるようになり、さらに新しい意味をになったことばを創造できるようになった。神話の誕生である。神話をかたるにさいして生物学的な神経組織を提示するところに著者の独自性がしめされている。

第2に神話的思考の本質はいまある秩序はかりそめのものという能力をもっている点にある。自然界では動物も人間もおなじような権利をもって地球を生きている。ここでいう自然とは即自的な自然ではなく、熊が人間になり人間が熊になれる対称性の世界における自然である。この自然と文化との対称性が本書の基調音をかなでている。

第3に神話的世界をいっぽうにふくみながら世俗的な季節を指導し、安全と平和を確保するのが首長である。それに反して、理性を超越した領域のリーダーがシャーマンであり、戦士や祭りの中心的存在となる秘密結社のリーダーである。権力はこれら理性を超越するものとして自然の領域に存在していた。縄文人や北米インディアンなどのモンゴロイドのなかでは、首長は文化の領域での調停者として機能し、権力者としての王をいただくという考え方は存在しなかった。文化の原理と人間の能力の限界をこえた自然のうちにある力とが合体するところに王が発生する。したがって、モンゴロイドが対称性の原理をもちつづけるかぎり王は発生しなかった。ここで王をいただくことを待望しつづけたイスラエルの民との比較がなされれば、より明確に特徴をしめすことができたかもしれない。

第4にこのようにして発生した王は、自然と文化という対称性を逸脱した文明の支配者となる。9.11以降巨大国家が「文明」にたいする「野蛮」との戦いをよびかけているが、野蛮を生んだのが文明なのだからそれは無意味である。首長の統括する社会では不必要な虐殺などはおこりえなかった。

第5に現代の大きな課題である文明と野蛮の対立を解消するには、自然のうちにあるべき権力を本来の場所に返さなければならない。人間がもってしまった権力を容赦なく食べ尽くし無化する力は、宗教とくに仏教の空概念にある。人間も他の動物もおなじ生きる権利をもつと考える仏教にしてはじめて、国家以前の人間の生き方を指し示し社会から野蛮を排除する道を照らすことができる。

本書は大学の講義をまとめ2002年6月に発行されたものであり、講義のスタートとほとんどどうじに9.11が起こった。野蛮と文明との対立がきわめてヴィヴィッドな課題としてつきつけられ、神話的思考の内部から発生する必然性をさらに重くしている。カビのはえていた神話に新鮮なひかりを当てた書である。『(徹底討議)世界の神話をどう読むか』(大林太良+吉田敦彦)と併読するとさらにアジアやギリシャにも視野をひろげることができ、より緻密で多面的な思考にいざなってくれる。

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