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電子書籍

カイエ・ソバージュ

著者 中沢 新一

神話を学ばないということは、人間を学ばないということに、ほとんど等しいかと思えるほどなのです――(本書より)。宇宙、自然、人間存在の本質を問う、はじまりの哲学=神話。神話を司る「感覚の論理」とは?人類分布をするシンデレラ物語に隠された秘密とは?宗教と神話のちがいとは?現実(リアル)の力を再発見する知の冒険。/ この一連の講義では、旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破してみることをめざして、神話からはじまってグローバリズムの神学的構造にいたるまで、いたって野放図な足取りで思考が展開された。そこでこのシリーズは「野放図な思考の散策」という意味をこめて、こう名づけられている。――「はじめに カイエ・ソバージュ(Cahier Sauvage)について」より

人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1)

税込 1,595 14pt

人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1)

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評価内訳

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紙の本人類最古の哲学

2011/01/23 18:21

神話を生き直す

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書の序章にこうある。
「あらゆる神話には、ひとつの目指していることがあります。
それは空間や時間の中に拡がっておおもとのつながりを失ってしまって
いるように見えるものに、失われたつながりを回復することであり、
互いの関係があまりにバランスを欠いてしまっているものに、対称性を
取り戻そうとつとめることであり、現実の世界では両立することが
不可能になっているものに、共生の可能性を論理的に探り出そうと
することです。」

神話は、常に現実との接点において人々の生活の中に太古から存在して
きたものであるが、熱狂のうちに理想的な始原の状態が「ありうる」とする
宗教と違って、あらゆる区別がなくなることなど「ありえない」という
前提の下に、それでもそういう状態を思い浮かべることを願って、
神話的夢は紡ぎ出されてきた。

感覚を離れた観念的論理が一人歩きする宗教やイデオロギーは、
異なるものとの対立の中に接点を見出せずに袋小路に陥ってしまい、
現実の日々が理想から離れすぎて凄惨なものとなって、にっちもさっちも
行かなくなってしまうのだが、神話は、そんな現実に苛まれる生きた
五感を、再び日々の生命の中に解き放つための論理を再構築しようとする。

シンデレラやオイディプス王のような古典的神話の雛形が広い範囲で
残っているのは、人類がその身体感覚において同じ類であることの証で、
話の筋が微妙に違ったりするのは、ある地域での暮らしが他の地域とは
やっぱり違うということで、それはつまり人間が自然や天や冥界と
どんな距離感で持って生きてきたかの証である。その価値はこれから
薄まるどころか、知恵の宝庫として今後ますます発掘が進むことに
なるのだろう。人類の神話は、まだ始まったばかりなのだ。

神話を読むということは、神話の中に語られていることを五感で
感じ取ることで、だから神話の最良の読み方は、それを己の感覚として
生きることである。天地とのつながりの中に己の居場所を見出すこと、
見出そうとするうちに、己の神話は駆動しているのだ。

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紙の本対称性人類学

2004/08/22 17:22

野生の思考としての仏教再生

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る

『カイエ・ソバージュ』1巻で神話の誕生と伝承における環太平洋という枠組みと現生人類という壮大な装置に評者は惹かれ、5巻にたどりついた。「第三次の形而上学革命」をめざして、レヴィ=ストロースを下敷きに、精神科医ブランコ、南方熊楠、数学者ロビンソン、バタイユ、ハイデッガー、フロイト、とさまざまな領域の思考に焦点があてられる。その思考の向かう先はとうぜん4巻までであきらかにされたように、分析的・アリストテレス的論理ではなく対称性の論理につらぬかれていなければならない。第二次形而上学である「一神教型」資本主義がもたらしているグローバリズムに立ち向かうことのできるのは仏教の思想である。ここでいう仏教とは「無意識=流動的知性の本質をなす対称性の論理に磨きをかけて、その可能性を極限まで追求した思想にほかならない」。それは宗教としての仏教ではなく、「これから生み出そうとしている新しい対称性の知性のもっともすぐれた先行者」としての仏教である。

著者は無意識に言及するにさいして、フロイトにくらべて「普遍的無意識」を説くユングについて触れることが少ない。仏性と無意識の共通性に注目するのであれば、自我を脅かす存在としての無意識をとりあげたフロイトよりも、人格の発生源として無意識を提示するユングをとりあげるほうが適切ではないだろうか。さらに、「無意識をとおして人間の『心』は自然に、そして宇宙につながっている」のだから、ユングの普遍的無意識にこそ親和力がはたらいてよいと考えられる。

ユングといえば、ユング派精神分析の第一人者河合隼雄の『ユング心理学と仏教』もまた、個人的・全人類的な問題の解決方法として仏教を提示していたことを想起させる。創作ファンタジーや昔話の分析に豊富な実績をもつ河合と地球規模の神話に焦点をあてる中沢というちがいはあっても、仏教への迫り方は似ている。もちろんアリストテレス的な論理にたいする見方も中沢が対称性論理を優位に置くのにたいして、河合が分析的論理への批判を限定的におこなっているというちがいはある。また一神教型の資本主義の原理を鋭く強烈に批判する中沢にくらべて、河合のばあいは経済についての考察は対象外であるといえる。中沢においては「人間の営む現象」だけでなく「科学的思考も、無意識の領域で直観的につかみだされたアイディアを、非対称の論理に『翻訳』することによって、飛躍を重ねてきた」。ハイゼンベルクが量子力学を発見したのも、ガロアが群論において「異質なレベルのあいだで、対称性をもったまま、ひとつの全体運動がおこなわれている様子」を見出したのもそのような位置付けのなかで展開される。

華麗な文体でラディカルな思考をくりひろげる中沢と中庸を行く河合との相違点はいわば、これまでの各々の「縁起」によってもたらされるちがいであるが、いずれも仏教の論理・智恵に個人と人類のかかえる問題解決の指針をもとめるという重要な接点をもつ。かつて『雪片曲線論』で密教による心の解放を追求した著者が大乗仏教に向かうのはある意味必然であろうが、初期の体験と思考に磨きをかけ、東西の華麗な宝石をちりばめて壮大な思考の輝きをわれわれにしめしてくれた。多神教の伝統をたもってきた日本の宗教的社会に希望を見出すべきだという主張とともに、思想としての仏教に惹かれる者にとっては、あたらしい視点から仏教への関心が鼓舞される書である。仏教についてのさらに深化した書が待たれる。

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紙の本人類最古の哲学

2004/06/07 15:40

人類最古の哲学

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る


著者によれば、人類最古の哲学としての神話は新石器時代に根ざしている。ここでもちいられる「神話」とは民話をふくみ、神話学や民俗学、民族学の枠をこえた領域を占めている。著述の大半を占めるシンデレラ物語も民話としてではなく、3万数千年まえから伝承され変形されてきた神話としてとりあげられている。というよりも、脈々とうけつがれてきた世界観から民話と神話という従来の枠をとりはらって、原初のかたちにそって考察をすすめている。
 南方熊楠がはじめて紹介した世界最古の中国のシンデレラ物語が死と水の領域に深い関わりをもつのとどうよう、グリムのシンデレラ物語も妖精の仲介によってもっとも高いものともっとも低いものを結びつける。自己変形のプロセスが大規模かつ執拗にくりかえされ、中国からポルトガル、スペイン、インドネシアへとうけつがれるなかでも、ヘーゼルの小枝や豆、カマドは死者の世界と生者を媒介するもの、あるいは自然状態から文化への大転回を仲介するものとして物語の中核として据えられてきた。北米インディアンのミクマク族はペロー版が現世のしあわせに限定してその価値をおとしめているのを変形して、仲介機能を発見しようとパロディに生き返らせている。
 このように神話とは、大きな矛盾をかかえながら進行する文化にとって論理や構造をとりだすだけでなく、具体性の世界との関わりのなかにのみ価値をもつ。幻覚を利用してきた宗教(オウム?)の側にのみこまれず、材料は現実の社会構造、環境、自然の状態からとりだすのが神話なのだ。著者の言外の主張を推測すれば、ここにこそ、大国主義に汚染され蹂躙されている現代の世界にとって神話復活を意図する意味がある。
 民話や神話に関心をもつ者にとって、その源流は朝鮮や内陸アジア、さらにはインドネシアなどにもとめられることが多かった。あるひとは海上の道に祖先のすがたをおもいうかべ、あるひとは騎馬民族をおもいえがいてきた。著者はレヴィ=ストロースを媒介にすることによって、環太平洋という枠組みを析出し、新石器時代に形而上学の革命を指摘する雄大な構想をえがこうとしている。民族学や民俗学の壁をとりはらって源流への旅立ちをうながす書である。

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紙の本愛と経済のロゴス

2004/06/19 11:30

よりヴィヴィッドな考察を

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る

寡聞な評者にとって、中沢新一は宗教学の人であって経済を論じる人ではなかった。しかし、経済を「暗い生命の動きにまで奥深く根を下ろしたひとつの『全体性』をそなえた現象」として捉え、その考察の跡をたどるときその違和感は薄められた。(『緑の資本論』の著書もある。)

著者によれば、経済の全体性を見ると「交換と贈与と純粋贈与という3つの『体制』がしっかりとひとつに結びあって」いる。交換においては等価交換が原則になっており、贈与ではモノを媒介にして人と人、集団と集団との間を人格的ななにかが移動している。インディアンの有名なポトラッチに見られるように、たくさんの贈り物をされた者はお返しをしないと霊力の流動が滞ってしまうのを怖れて、自分も気前のよい贈り物をしないといけないと考える。この贈与のサイクルからはずれた原理が純粋贈与である。新石器時代人はラスコーやショーベの洞窟で動物を壁面に描き、そのまえで儀式をおこなうことによって動物の増殖を祈った。「洞窟という空間自体が純粋贈与の原理と現実の交点を意味している」。 国家が発生し「貨幣形態に変態をとげた富は、富を生む源泉を社会の内部に持ち込んでしまう」 。これは『熊から王へ』のなかで王の発生が自然の人間化であることが指摘されたように、「社会の『外』にあったものなのにいっさいを人間化してしまう能力をもつ」。
対称的世界から非対称的社会への転換は、『カイエ・ソバージュ 1、2巻』において著者が説いてきたところであるが、ここでもおなじ原理がつらぬかれている。人類が狂牛病などのむくいを受けたのは自然を「あらわにあば」いてきたけっかであり、交換から贈与の原理による全体性にたちもどってあたらしい経済学を樹立していかなければならない。
著者も指摘するように、「経済の合理性を支えているのは、贈与や純粋贈与のような不確実性をはらんだ活動を動かしている人間精神のぶ厚い地層である」。げんざいでは農業でさえも濃やかな愛をそそいで大地に増殖をうながすよりも、化学肥料をばらまき除草剤で手間をはぶいて果実を文字通り搾取せざるをえない。

いっぽう視点をかえて贈与や純粋贈与を現代的な活動のなかでかんがえるとき、ボランティアについての考察をのがすことはできない。とくに福祉の分野での贈与としてのボランティアや有償ボランティア等との関連のなかで、「人格的ななにか」が流動する意味についての考察をしめしてほしいところである。文献からはなれて現実の社会のなかでの経済活動について、その根源的な意味付けを望みたい。本書の冒頭ですこしふれられているが、本論のなかでそれについて詳細な哲学が展開されていればもっとヴィヴィッドな「愛と経済の」哲学になっていたのではないだろうか。

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紙の本熊から王へ

2004/06/15 15:24

王の発生

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る

カイエ・ソバージュの第2巻。1巻ではシンデレラ物語の分析をとおして、神話が新石器時代から生きつづけてきた事実を解明してきた。本書では、神話的社会の内部から王がどのようにして誕生したのかが、モンゴロイドのケースをメインにのべられている。

第1に新石器時代の人類がニューロン組織の進化によって、豊かな比喩をもちいてちがう分野の結合ができるようになり、さらに新しい意味をになったことばを創造できるようになった。神話の誕生である。神話をかたるにさいして生物学的な神経組織を提示するところに著者の独自性がしめされている。

第2に神話的思考の本質はいまある秩序はかりそめのものという能力をもっている点にある。自然界では動物も人間もおなじような権利をもって地球を生きている。ここでいう自然とは即自的な自然ではなく、熊が人間になり人間が熊になれる対称性の世界における自然である。この自然と文化との対称性が本書の基調音をかなでている。

第3に神話的世界をいっぽうにふくみながら世俗的な季節を指導し、安全と平和を確保するのが首長である。それに反して、理性を超越した領域のリーダーがシャーマンであり、戦士や祭りの中心的存在となる秘密結社のリーダーである。権力はこれら理性を超越するものとして自然の領域に存在していた。縄文人や北米インディアンなどのモンゴロイドのなかでは、首長は文化の領域での調停者として機能し、権力者としての王をいただくという考え方は存在しなかった。文化の原理と人間の能力の限界をこえた自然のうちにある力とが合体するところに王が発生する。したがって、モンゴロイドが対称性の原理をもちつづけるかぎり王は発生しなかった。ここで王をいただくことを待望しつづけたイスラエルの民との比較がなされれば、より明確に特徴をしめすことができたかもしれない。

第4にこのようにして発生した王は、自然と文化という対称性を逸脱した文明の支配者となる。9.11以降巨大国家が「文明」にたいする「野蛮」との戦いをよびかけているが、野蛮を生んだのが文明なのだからそれは無意味である。首長の統括する社会では不必要な虐殺などはおこりえなかった。

第5に現代の大きな課題である文明と野蛮の対立を解消するには、自然のうちにあるべき権力を本来の場所に返さなければならない。人間がもってしまった権力を容赦なく食べ尽くし無化する力は、宗教とくに仏教の空概念にある。人間も他の動物もおなじ生きる権利をもつと考える仏教にしてはじめて、国家以前の人間の生き方を指し示し社会から野蛮を排除する道を照らすことができる。

本書は大学の講義をまとめ2002年6月に発行されたものであり、講義のスタートとほとんどどうじに9.11が起こった。野蛮と文明との対立がきわめてヴィヴィッドな課題としてつきつけられ、神話的思考の内部から発生する必然性をさらに重くしている。カビのはえていた神話に新鮮なひかりを当てた書である。『(徹底討議)世界の神話をどう読むか』(大林太良+吉田敦彦)と併読するとさらにアジアやギリシャにも視野をひろげることができ、より緻密で多面的な思考にいざなってくれる。

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紙の本愛と経済のロゴス

2007/05/30 21:35

刺激的だった

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:仙道秀雄 - この投稿者のレビュー一覧を見る

バリエーションスタート
農民の智慧は大地にあまり否定や過重を加えない介入だけで、満足しようとする。このとき大地は喜んで、コルヌコピアたる自分の体内から豊かな富を生み出し、人間に剰余価値の贈り物を与える。農業労働にはどんなに苦しいものであっても不思議な悦びの感覚がついてくる。それは知らず知らずのうちに、悦楽する大地の身体と一体になっている瞬間を体験するからなのでしょう。
バリエーション1
演奏家の智慧は楽器にあまり否定や過重を加えない介入だけで、満足しようとする。このとき楽器は喜んで、コルヌコピアたる自分の体内から豊かな富を生み出し、演奏家に剰余価値の音楽の美を与える。演奏活動にはどんなに苦しいものであっても不思議な悦びの感覚がついてくる。それは知らず知らずのうちに、悦楽する楽器と一体になっている瞬間(自然としての聴覚と自然現象としての音声の重なりが重なり以上のものをもたらした結果としての音楽的快楽)を体験するからなのでしょう。
バリエーション2
贈与での人とモノの関係にはよそもの感がない。贈り物にはマナ(霊力)が吹き込まれている。よい芸術にはソリがある。緊張感が走っている。スーパーで流れている音楽にはそれはない。交換には流動性を否定する性質がある。何が流動するのか?モノと人とのあいだの行き来という流動である。人が自分がモノでもあること、モノもまたモノであるが、スピノザが言うようにモノにも霊魂は宿っている、人もモノも世界の一部であり同時に世界そのものである。流動性が感知されていれば、このことは、モノと人との間に、瞬時に体得されている。
バリエーション3
資本主義では、自然は資源であり、操作の対象である。これを加工する労働は、時間の長さに換算できる抽象的な労働である。ならば、マルクスの抽象労働、具体労働をもう一度考えなおすべきではないか。時間に還元さえる抽象労働→交換価値→貨幣万能の世だからこそ、使用価値を産む具体労働をこそ見直すべきではないか。

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紙の本対称性人類学

2004/04/18 18:53

スピノザの方へ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 朝日新聞で、天外伺朗がカイエ・ソバージュ全巻の書評を書いていた。量子力学と深層心理学から借用した二つの概念、ボームの「明在系・暗在系」とユングの「集合的無意識」に(たしか)積分論を加味して、好き放題の想像力をふくらませた『ここまで来た「あの世」の科学』は、結構好きな「サイエンス・フィクション」だった。「欲をいえば、本書の内容を頭だけで理解しても十分ではなく、土や森と親しむ自然体験や、瞑想などによる内面の体験を通して身体的に把握できることが望ましい」というカイエ・ソバージュに対する評言も、きわめて真っ当なものだったと思う。(真っ当だとは思うが、「自然体験」や「内面の体験」や「身体的把握」もまた言葉でしかない。だから、ほんとうは言ってもしかたがない。)

 それはそうなのだが、それにしても天外伺朗が中沢新一を論じるというのは、それも、一神教型資本主義(グローバリズム)にたいするオルタナティブを提案できるのは旧石器時代に芽生えた仏教の思想だけだとか、性的体験と宗教的体験は無限集合の構造をもつ流動性無意識が自由に対称性の運動を楽しんでいるときの幸福感=悦楽のあらわれだとか、超準経済学としての普遍経済学というものは絶対に存在するはずだとか、新しい「神即自然」というスピノザ的概念のよみがえりを通じた未知の形而上学革命といった議論が出てくる本書を評するのは、あまりにできすぎた話ではないかとちょっと心配になってくる。

 ──読み終えて一月以上経つので、細部はほとんど覚えていない。ここでは、いまだ鮮烈に残っている読後の印象を二つ、書いておきます。その一。中沢新一が語っていることは、たとえばプラトンやハイデガーがついに語らなかった事柄(語り得なかった事柄ではない)であり、たとえばニーチェやバタイユが身をもって生きようとした(より精確には、言語=表現をもって上演しようとした)究極の「哲学」(サイエンス・フィクション)だったのではないかと思ったこと。

 その二。レーニンの『国家と革命』と柳田国男の『石神問答』を「発展させ完成に近づけていくことこそ、自分にあたえられた重大な人生の課題ではないか」(『精霊の王』あとがき)と考えた中沢新一が、『フィロソフィア・ヤポニカ』(2001)と『精霊の王』(2003)で『石神問答』を、『緑の資本論』(2002)と『カイエ・ソバージュ』(2002〜2004)で『国家と革命』をそれぞれ発展させたこと。(さらに言えば、それぞれを完成させるためにはあと二冊、一つはちゃんとした数学書、いま一つは本格的な仏教論が書かれなければならないと思ったこと。)

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紙の本神の発明

2003/06/28 20:10

神のマテリアリズムを探求する学術エンターテインメント

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 講義録「カイエ・ソバージュ」シリーズ──旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破することをめざした野放図な思考の散策──全五冊のハイライトとも言える本書で、中沢新一は「神のマテリアリズム(唯物論)」を試みた。

 それは「神(ゴッド)の観念」の出現を、マルクス・エンゲルスの顰みに倣って「自然史の過程として」探求しようとするもので、中沢氏が議論の出発点に据えた「マテリアル」とは脳、それも認知考古学が想定する現生人類の脳──スイス・アーミー・ナイフのようなネアンデルタール人の「特化型」の脳ではなく、認知的流動性をもった「一般型」へと進化した現生人類の脳(スティーヴン・ミズン『心の先史時代』)──である。

 ホモサピエンス・サピエンスの脳=心の内部の出来事としての超越、つまり「内在的超越」(スピノザ)という現生人類の心の基本構造をもとに、「超越性」の発生、つまり人間の心が神を発明する物質的=精神的プロセスを明らかにすること。具体的には、日本古語の「モノ」が含意する「タマ」や「カミ」、つまり精神的なものと物質的なものとの界面で立ち上がる「半‐物質」的な「スピリット」を「心の胎児・心の原素材」として、そのトポロジー変形を通じて「多神教宇宙」が、ついで「唯一神」が出現するプロセスを解明すること。

 中沢氏一流のほとんど名人芸の域に達した軽やかでのびやかな語りが堪能できる本書は、唯一神の誕生という「スリリングな話題」に関する部分が「抑圧」の一語で片づけられていて、やや説明不足の感を拭えない点を除き、知的刺激と興奮に満ちた、新しい学──観念論と唯物論、心の科学と物質の科学がひとつにつながるレベルを示す「二十一世紀の思考」、あるいは一神教の成立、科学革命に続く第三次の「形而上学革命」をもたらすもの──の可能性を予感させる学術エンターテインメントである。

 とりわけ興味深いのは、キリスト教の三位一体の教義のうちに「情報」(父と子の同質性)と「生命力」(聖霊の増殖する力)という二つの機構を抽出し、それらを「生命」と「経済」と「神」の三位一体的関係をめぐる議論へと敷衍した上で、生命力=増殖力としてのスピリット(精霊・聖霊)の未来を透視する終章だ(それは、「カイエ・ソバージュ」シリーズ最終巻のテーマを予言するものなのだろうか)。

《しかし、そんな人類に変わっていないものが、ひとつだけあることを忘れてはいけません。それは私たちの脳であり、心です。数万年の時間を耐えて、原初のみずみずしさをいまだに保ち続けている、現生人類の脳だけは、いまだに潜在的な可能性を失ってはいません。そこにはまだ、はじめて現生人類にスピリット世界が出現したときそっくりそのままの環境が、保たれ続けています。根本的に新しいものが出現する可能性をもった場所と言えば、そこにしかありません。私たちはそこに、来るべき未来のスピリットを出現させるしか、ほかには道などないでしょう。》

 ──ところで、本書の全編にわたって繰り広げられる人文知と科学知との比喩的重ね合わせ、たとえば、スピリット世界から多神教宇宙への精神力学的過程を物理学の「対称性の自発的破れ」の概念でもって説明したり、多神教的な神々の宇宙の基本構造「高神‐来訪神」を、ラカンの心のトポロジー論を援用して「トーラス型‐メビウス縫合型」と表現しているところなどは、それがほとんど本書の魅力と可能性の中心であるだけに、アラン・ソーカル(『「知」の欺瞞』)流の批判への無防備さが気になる。

 しかし、よくよく考えてみると、本書の全編、というより「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体が、まさにソーカル流の一見妥当な外観をもった批判に対する、よりスケールの大きな回答になっている。

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紙の本神の発明

2004/07/10 23:31

刺激的な書

3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る

タイトルから推測されるように、本書では神がどのような思考のプロセスをへて生まれてきたか、を考察する。ここでいう神とは、「超越者として世界を創造し、秩序を与えている」抽象的な神(ゴッド)と「森羅万象に住む」具体的なスピリットとしてのカミが前提とされる。本シリーズの他の巻でもそうであるように、キイワードは「流動的知性」と「対称性」である。

現世人類はニューロンの革命的進化によって思考自体について思考することができるようになった。その流動的知性が生み出した神には、常在神としての「高神型」—グレートスピリットや南島の御嶽の神など—と遠方から来訪する「来訪神型」がある。高神が生の領域のみを支配するのにたいして、来訪神—スピリット—は死と生、裏と表の領域を往き来できる対称性をもつ。高神は来訪神の対称性の原理と多神教宇宙のなかに共存しあっている。流動的知性が開く超越の領域と自分たちの外にひろがる自然のあいだをつなぐ通路をスピリットたちが飛び交っている。スピリットたちが活動する世界に「対称性の自発的破れ」がおこると、その切れ目を縫い合わせようとして神々のイメージが生まれる。さらに自分自身が全体性そのものになろうとする思考によって、多神教の宇宙が構想される。さらに、この世を秩序ある、知的にも理解可能なものにするためにことば的表現で満たそうとして「高神+来訪神=ゴッド」の世界がつくられた。しかし、現実はことばの象徴的秩序によってつくられるという考えそのものが「空虚な穴」を必然的に生み出してしまう。そこで一神教の神だけがこの空虚を満たすことができると考え、「完全な知性」としての神が発明された。キリスト教の唯一神のもたらした「あらゆるものを商品化し、管理する今日のグローバル文明」に代わって根本的にあたらしいものを生み出す流動的知性がもとめられている。「地球上のあらゆるものにたいして慎ましさの感覚をもつ」ことが必要である。それを実現するのは、「現生人類の脳」が誕生したときとおなじように、高次の対称性をもつスピリット世界を人類の心によみがえらせることによってのみ可能である。言い換えれば、スピリットは観念論と唯物論を統一し、野生の思考をとりもどす精神世界の救い主である。

ユダヤ教のヤハウェやアポリジニの神、日本の神社信仰などを示し、華麗な比喩を交えながら神の発生学が心の構造の表現としてときあかされている。かつて『雪片曲線論』で密教による心の解放を追求した著者が「全体性の思考」の必要性をアピールするいっぽう、著者自らが宗教全体を精神考古学として総括している。仏教との関連はもっとも深いと考えられるが、それは『カイエ・ソバージュ第5巻』で展開されると思われ本書ではほとんど触れられていない。また王と国家の発生と神の発生が具体的にどのように対応してきたのか、近い将来明らかにされることを望みたい。文化人類学や民俗学・民族学に関心をもつ者、あるいは宗教にひきつけられながらも組織の束縛や権力のもたらす腐敗、おぞましい暴力や絶対主義の独善性にためらい、現実の宗教活動にはふみだせない者にとって刺激的な書である。

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紙の本愛と経済のロゴス

2003/03/02 00:35

世界をかたちづくっている論理

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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 「カイエ・ソバージュ」シリーズはきまって海外の新作小説と並行して読んできました。『人類最古の哲学』はミシェル・ウエルベックの『素粒子』、『熊から王へ』はル・クレジオの『偶然』、そして『愛と経済のロゴス』はドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』といったぐあいで、『素粒子』はシリーズ全五作に共通する序文のなかでも引用されているので関係は明白ですが(人類の思考が超越性の次元に達した「第一次形而上学革命」というシリーズのキモになる言葉はウエルベックの小説に由来する)、後の二冊についてはそれこそ偶然たまたま併読したにすぎないのになぜかそれぞれに深く響きあうものがありました。

 ここではせめて『愛と経済のロゴス』と『ボディ・アーティスト』に通底するもの、私がみるところではそれは「身体と時間と言語」というなにやら拍子ぬけするくらい平板なものでしかありませんが、このことについて考えをめぐらせるための手掛かりを後の考察のために残しておきたいと思います。

 ──三つのもの、輪でも星でもなんでもいいし具象物でなくて想像物や観念でもかまいません、この三つのものをかりにA、B、Cと名づけ、それらに「A⇒B」「B⇒C」「C⇒A」がなりたっているものとします。ここで「⇒」と表示した関係は「A⇒B」がなりたつときは「B⇒A」はなりたたないという約束に反しないかぎり、何を想定してもかまいません。たとえば「右側にあるものは左側にあるものより弱い」とすれば先の三つの関係はジャンケンに典型的な三すくみの関係をあらわしていますし、「⇒」を「<」に置きかえれば形式論理上の矛盾をきたしてそのような三つ組の数は存在しえなくなります。

 ここで「⇒」は「右側にあるものは左側にあるものから発生する」を意味しているものと考えます。そうすると先の三つの関係のうち任意の二つは同時になりたちますが三つが同時になりたつということはちょっと想定しがたいですね(子供が実は先祖さまの生まれ変わりだとすれば話は別ですが)。

 部分部分はなりたつがそれらの全体を一挙に思惟することはできない。それは(『はじまりのレーニン』で中沢氏によって聖霊論的にとらえられた)ヘーゲルの論理学の世界であり(同じく『緑の資本論』でイスラームとの比較で論じられたキリスト教的一神教の)三位一体の論理であり、かつまたエッシャーの不思議な階段でありペンローズの三角形(あるいは『心の影』で図示された「プラトン的世界⇒物理的世界」「物理的世界⇒心的世界」「心的世界⇒プラトン的世界」)であり、そしてジャック・ラカンのボロメオの結び目(心の構造をあらわすトポロジー)そのものでもあります。

 このような関係こそ中沢氏が本書でいうところの「愛」や「経済」が一つに融合している「全体性の運動」にほかなりません。そうした「全体」がなりたつように働いている力が「ロゴス」(世界をかたちづくっているさまざまなものごとがバラバラにならないよう根本のところでとりまとめる能力)なのです。

 実は以上に述べたことが本書の、というよりはおそらく「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体の核心です(というのも超越性は「A⇒B」「B⇒C」「C⇒A」という「全体性の運動」のうちにしっかりととらえられていますから)。あとは「A=贈与・子・想像界」「B=交換・父・象徴界」「C=純粋贈与・聖霊・現実界」と置きかえて、経済学的思考と神学的思考と(中沢氏によれば愛を直接の対象とした唯一の学問である)精神分析学的思考が交錯し、かつマルクスやらワグナーやらが面目を一新する装いで登場する中沢氏のスリリングな語りにわくわくと身をゆだねひととき言葉と時間を失ってみることです。

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紙の本人類最古の哲学

2002/01/20 21:18

第三次「形而上学革命」への見取り図

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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 来日したレヴィ=ストロースの講演を京都で聴いたことがある。マスコミ関係者を装って夜のレセプションにもぐりこみ本人と握手した覚えがあるのだけれど、これは記憶違いかあるいは後になってでっちあげた妄想なのかもしれない。肝心の講演は、大学で六年も「勉強」したフランス語がさっぱりで皆目理解できなかった。ただレヴィ=ストロースの肉声に直に接することだけが嬉しくて、たしかスサノオという言葉が再三出てきたことをいまでも鮮烈に思い出す。

 中沢新一の新著は「カイエ・ソバージュ」シリーズ全五冊──「旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破してみることをめざして、神話からはじまってグローバリズムの神学的構造にいたるまで、いたって野放図な足取りで思考が展開された」一連の講義録──の一冊目「神話学入門」で、このシリーズ名にせよ本書で展開される人類最古の哲学(=神話)の論理の探求にせよ、そこにレヴィ=ストロースへの「敬愛と憧憬」が込められ『神話論理』に結晶したその研究が「多いに活用」されていることは、著者自身がそう書いているのだから間違いない。

 本書の中心は第一章から第六章まで、かぐや姫(結婚したがらない娘)の物語に出てくる子安貝をめぐる考察(南方熊楠『燕石考』)に始まり、神話的思考法と西欧哲学的思考法との「ちょうつがい」の働きをしたピタゴラス派(この秘密結社には「ソラ豆を食べてはいけない」とか「燕が家の中に巣をかけてはいけない」といった掟があった)と神話に出てくる豆や燕がともに仲介機能をもった両義性的な存在であることの論証をはさんで、「人類的分布をする神話」としてのシンデレラの物語が「気の遠くなるような深い古代性と波乗りのように浮わついた資本主義の一側面」をひとつに結びつけた「神話的思考の残骸」であったことを実証する「原シンデレラ」の探求譚である。

 とりわけ、シャルル・ペロー(サンドリヨンまたは小さなガラスの靴)からグリム兄弟(灰かぶり少女)、ポルトガル民話版(カマド猫)や熊楠(『西暦九世紀の支那書に乗せたるシンデレラ物語』)が発見した中国のシンデレラ(葉限)、そしてミクマク・インディアンが鋭い批判精神をもって創作した「パロディ」版のシンデレラ物語(見えない人の話)へと遡行し、最後に、シンデレラが脱ぎ落とした片方の靴の謎をめぐるレヴィ=ストロースの推定やギンズブルグの研究(『闇の歴史』)やシンデレラ物語の異文「毛皮むすめ」を踏まえて、シンデレラとオイディプス(=跛行者)との共通性(生と死の仲介者=シャーマン)を摘出して、神話的思考法のエッセンスである「仲介機能」(著者はこれをヘーゲルの弁証法と関連づけている)と「感覚の論理」(著者は言及していないが、レヴィ=ストロース後のフランスのたとえばドゥルーズの思考と関連づけることができはしまいか)を実地に示してみせるくだりは圧巻。

 この本編は確かに面白い。だけど私にとってもっと面白かったのがその前後、「はじめに」と序章と終章で提示される八千年から一万年前の新石器革命を巨大な転換点とする「人類の哲学史」とミシェル・ウエルベック(『素粒子』)の論を踏まえた第三次「形而上学革命」(ウエルベックによれば、キリスト教=一神教の登場と科学革命に次ぐ第三次の形而上学的変異は、あらゆる個人が同一の遺伝子コードを持つ新種=人間の似姿=「神」の創造をもたらす)への見取り図だ。「カイエ・ソバージュ」シリーズの完結が待たれる。

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紙の本人類最古の哲学

2002/04/24 22:15

宗教的熱狂とは似て非なる神話的思考の魅惑

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:藤崎康 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 中沢新一の強みは、彼が「超越的なもの」に魅入られた「使徒」であるにもかかわらず、いわゆるニューエイジかぶれの「神秘主義者」やオカルト・マニアとは一線を画す、しなやかな現実感覚と幅ひろい宗教学・思想・文学の知見をバランス良く身につけている点だ。こうした中沢の武器は、このたび刊行された「神話学入門」というべき本書でも、おおいにその「通力」を発揮している。
 中央大学の講義をもとにしているという本書は、旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破することをめざしたシリーズの第1巻だという。そして、とりわけ、中心テーマのひとつである「シンデレラ物語」のさまざまな異文(異なるヴァージョン)を比較検討していく部分は、著者の手堅い資料調査と奔放なイマジネーションとが相乗効果を上げていて、ひじょうに読みごたえがある。
 中沢によれば、民話には現実の世界では解決できない矛盾を、はなやかなしつらえを通して解決してみせようとする、さまざまな機構が発達している。「シンデレラ」でいうなら、シャルル・ペロー版よりグリム版のほうが、よりナマのかたちで神話的思考が露出しているが、それは後者では、恵まれない境遇といった負の要素をその反対物である幸福や調和へと結びつける「仲介機能」が総動員されているからだという。さらにポルトガル版では、水界を介して死者の領域とのあいだに通路が開かれ、シンデレラ物語の最古層が見え隠れするという刺激的な分析がつづく。そしてさらに、中国や北米インディアンのミクマク族のシンデレラの異文が、あざやかに分析されていく。また、終章「神話と現実」では、現在の日本のゲームソフトにみられる形骸化した神話的思考が、現実の世界とのつながりを失い、バーチャルな宗教的思考に取り込まれる危険をはらんでいる、という中沢の指摘には、オウム事件をくぐり抜けた宗教学者の言葉ならではのリアルさがある。中沢はまた、神話は現実に熱狂(オージー)を求める宗教とちがって、つねに理知の制約を受けていて、非合理の水際に限りなく接近しながら、そこに溺れてしまうことはない、という。もっとも、チベット密教の修行を積んだ中沢にしては、この発言はやや腰が引けているように思うのは、こちらの邪推だろうか。ともあれ、続編が鶴首して待たれるシリーズ第1弾である。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.04.25)

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紙の本熊から王へ

2002/07/04 22:15

人間を超越した「人食い」の権力が、王と国家を発生させる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:藤崎康 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破する試みである、中沢新一の「カイエ・ソバージュ」シリーズ。その第二弾が本書である。
 中沢は冒頭近くで、9・11事件が、本書の内容とのっぴきならない関係にあることを書きしるす。すなわち、あの大惨事があった夜、中沢がまっさきに思い浮かべたのは、宮沢賢治のことであり、賢治が『氷河鼠の毛皮』や『注文の多い料理店』で描いたように、圧倒的な非対称の関係が築き上げられた世界──そこでは対話や富の公正な配分が阻まれている──では、しばしばテロが誘発されると言う。じっさい、本書におけるキーワードのひとつは「対称性の社会」──「神話的思考」があまねく行き渡った社会──である。
 中沢によれば、動物と人間が交流する万物照応的(ボードレール!)な「対称性の社会」にとって、富の一極集中や階層化やディスコミュニケーションといった「非対称」は悪であり、そういった状況をつくりだした諸悪の根源は、「王」が君臨する「クニ=国家」にほかならない。こうした文脈において、第八章「『人食い』としての王──クニの発生」は、とりわけ興味ぶかい。すなわち、現生人類である後期旧石器時代の人間は、熊の発揮する威力を、自然の奥にひそんだ、人間の力をはるかに凌駕する力能=権力の象徴として畏怖していた。熊は多くの神話の中で、人間の友人であると同時に、人間を超越した「人食い」(自然権力、カンニバル)の概念として表現されていたのだ。この力能は、祭りや戦争の期間中の芸術的・宗教的昂奮の範囲内でのみ──戦士やシャーマンをとおして──解放される、というようにストッパーがかけられ、厳しく管理されていた。ところがある時から、みずから「人食い」を体現すると主張する王(神人?)が出現し、その超越的な権力を社会に波及させてしまい、クニを発生させるのだ。
 その一例は日本神話における、スサノオノミコトによる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の物語である。この大蛇は自然の恐ろしい力をあらわしており、毎年の祭りに人間(生け贄)を食べにやってくる「人食い」だ。大蛇と親和性のあるスサノオは、大蛇を退治し、自然権力(大蛇の体内から出てきた草薙の剣に象徴される)を手にし、出雲の王となるのである。また一般的に言って、「王」の権力が盛大な宗教的儀式によって演出されるのは、そのように、王権というものが理性とは別種の力に触れているからだ、と中沢は言う。そうしなければ、「王」の恐るべき力能は、国家権力の中枢にみなぎり、血なまぐさい「野蛮」として暴走してしまうからだ。──直感と論証にささえられた見事な分析である。が、神話のネガティブな面──たとえばバルトの分析した神話作用──について、中沢はどう考えているのだろう。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.07.05)

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