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カイエ・ソバージュ みんなのレビュー

  • 中沢 新一
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みんなのレビュー5件

みんなの評価4.4

評価内訳

  • 星 5 (1件)
  • 星 4 (4件)
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  • 星 1 (0件)
6 件中 1 件~ 6 件を表示

紙の本愛と経済のロゴス

2007/05/30 21:35

刺激的だった

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:仙道秀雄 - この投稿者のレビュー一覧を見る

バリエーションスタート
農民の智慧は大地にあまり否定や過重を加えない介入だけで、満足しようとする。このとき大地は喜んで、コルヌコピアたる自分の体内から豊かな富を生み出し、人間に剰余価値の贈り物を与える。農業労働にはどんなに苦しいものであっても不思議な悦びの感覚がついてくる。それは知らず知らずのうちに、悦楽する大地の身体と一体になっている瞬間を体験するからなのでしょう。
バリエーション1
演奏家の智慧は楽器にあまり否定や過重を加えない介入だけで、満足しようとする。このとき楽器は喜んで、コルヌコピアたる自分の体内から豊かな富を生み出し、演奏家に剰余価値の音楽の美を与える。演奏活動にはどんなに苦しいものであっても不思議な悦びの感覚がついてくる。それは知らず知らずのうちに、悦楽する楽器と一体になっている瞬間(自然としての聴覚と自然現象としての音声の重なりが重なり以上のものをもたらした結果としての音楽的快楽)を体験するからなのでしょう。
バリエーション2
贈与での人とモノの関係にはよそもの感がない。贈り物にはマナ(霊力)が吹き込まれている。よい芸術にはソリがある。緊張感が走っている。スーパーで流れている音楽にはそれはない。交換には流動性を否定する性質がある。何が流動するのか?モノと人とのあいだの行き来という流動である。人が自分がモノでもあること、モノもまたモノであるが、スピノザが言うようにモノにも霊魂は宿っている、人もモノも世界の一部であり同時に世界そのものである。流動性が感知されていれば、このことは、モノと人との間に、瞬時に体得されている。
バリエーション3
資本主義では、自然は資源であり、操作の対象である。これを加工する労働は、時間の長さに換算できる抽象的な労働である。ならば、マルクスの抽象労働、具体労働をもう一度考えなおすべきではないか。時間に還元さえる抽象労働→交換価値→貨幣万能の世だからこそ、使用価値を産む具体労働をこそ見直すべきではないか。

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紙の本対称性人類学

2004/04/18 18:53

スピノザの方へ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 朝日新聞で、天外伺朗がカイエ・ソバージュ全巻の書評を書いていた。量子力学と深層心理学から借用した二つの概念、ボームの「明在系・暗在系」とユングの「集合的無意識」に(たしか)積分論を加味して、好き放題の想像力をふくらませた『ここまで来た「あの世」の科学』は、結構好きな「サイエンス・フィクション」だった。「欲をいえば、本書の内容を頭だけで理解しても十分ではなく、土や森と親しむ自然体験や、瞑想などによる内面の体験を通して身体的に把握できることが望ましい」というカイエ・ソバージュに対する評言も、きわめて真っ当なものだったと思う。(真っ当だとは思うが、「自然体験」や「内面の体験」や「身体的把握」もまた言葉でしかない。だから、ほんとうは言ってもしかたがない。)

 それはそうなのだが、それにしても天外伺朗が中沢新一を論じるというのは、それも、一神教型資本主義(グローバリズム)にたいするオルタナティブを提案できるのは旧石器時代に芽生えた仏教の思想だけだとか、性的体験と宗教的体験は無限集合の構造をもつ流動性無意識が自由に対称性の運動を楽しんでいるときの幸福感=悦楽のあらわれだとか、超準経済学としての普遍経済学というものは絶対に存在するはずだとか、新しい「神即自然」というスピノザ的概念のよみがえりを通じた未知の形而上学革命といった議論が出てくる本書を評するのは、あまりにできすぎた話ではないかとちょっと心配になってくる。

 ──読み終えて一月以上経つので、細部はほとんど覚えていない。ここでは、いまだ鮮烈に残っている読後の印象を二つ、書いておきます。その一。中沢新一が語っていることは、たとえばプラトンやハイデガーがついに語らなかった事柄(語り得なかった事柄ではない)であり、たとえばニーチェやバタイユが身をもって生きようとした(より精確には、言語=表現をもって上演しようとした)究極の「哲学」(サイエンス・フィクション)だったのではないかと思ったこと。

 その二。レーニンの『国家と革命』と柳田国男の『石神問答』を「発展させ完成に近づけていくことこそ、自分にあたえられた重大な人生の課題ではないか」(『精霊の王』あとがき)と考えた中沢新一が、『フィロソフィア・ヤポニカ』(2001)と『精霊の王』(2003)で『石神問答』を、『緑の資本論』(2002)と『カイエ・ソバージュ』(2002〜2004)で『国家と革命』をそれぞれ発展させたこと。(さらに言えば、それぞれを完成させるためにはあと二冊、一つはちゃんとした数学書、いま一つは本格的な仏教論が書かれなければならないと思ったこと。)

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紙の本神の発明

2003/06/28 20:10

神のマテリアリズムを探求する学術エンターテインメント

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 講義録「カイエ・ソバージュ」シリーズ──旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破することをめざした野放図な思考の散策──全五冊のハイライトとも言える本書で、中沢新一は「神のマテリアリズム(唯物論)」を試みた。

 それは「神(ゴッド)の観念」の出現を、マルクス・エンゲルスの顰みに倣って「自然史の過程として」探求しようとするもので、中沢氏が議論の出発点に据えた「マテリアル」とは脳、それも認知考古学が想定する現生人類の脳──スイス・アーミー・ナイフのようなネアンデルタール人の「特化型」の脳ではなく、認知的流動性をもった「一般型」へと進化した現生人類の脳(スティーヴン・ミズン『心の先史時代』)──である。

 ホモサピエンス・サピエンスの脳=心の内部の出来事としての超越、つまり「内在的超越」(スピノザ)という現生人類の心の基本構造をもとに、「超越性」の発生、つまり人間の心が神を発明する物質的=精神的プロセスを明らかにすること。具体的には、日本古語の「モノ」が含意する「タマ」や「カミ」、つまり精神的なものと物質的なものとの界面で立ち上がる「半‐物質」的な「スピリット」を「心の胎児・心の原素材」として、そのトポロジー変形を通じて「多神教宇宙」が、ついで「唯一神」が出現するプロセスを解明すること。

 中沢氏一流のほとんど名人芸の域に達した軽やかでのびやかな語りが堪能できる本書は、唯一神の誕生という「スリリングな話題」に関する部分が「抑圧」の一語で片づけられていて、やや説明不足の感を拭えない点を除き、知的刺激と興奮に満ちた、新しい学──観念論と唯物論、心の科学と物質の科学がひとつにつながるレベルを示す「二十一世紀の思考」、あるいは一神教の成立、科学革命に続く第三次の「形而上学革命」をもたらすもの──の可能性を予感させる学術エンターテインメントである。

 とりわけ興味深いのは、キリスト教の三位一体の教義のうちに「情報」(父と子の同質性)と「生命力」(聖霊の増殖する力)という二つの機構を抽出し、それらを「生命」と「経済」と「神」の三位一体的関係をめぐる議論へと敷衍した上で、生命力=増殖力としてのスピリット(精霊・聖霊)の未来を透視する終章だ(それは、「カイエ・ソバージュ」シリーズ最終巻のテーマを予言するものなのだろうか)。

《しかし、そんな人類に変わっていないものが、ひとつだけあることを忘れてはいけません。それは私たちの脳であり、心です。数万年の時間を耐えて、原初のみずみずしさをいまだに保ち続けている、現生人類の脳だけは、いまだに潜在的な可能性を失ってはいません。そこにはまだ、はじめて現生人類にスピリット世界が出現したときそっくりそのままの環境が、保たれ続けています。根本的に新しいものが出現する可能性をもった場所と言えば、そこにしかありません。私たちはそこに、来るべき未来のスピリットを出現させるしか、ほかには道などないでしょう。》

 ──ところで、本書の全編にわたって繰り広げられる人文知と科学知との比喩的重ね合わせ、たとえば、スピリット世界から多神教宇宙への精神力学的過程を物理学の「対称性の自発的破れ」の概念でもって説明したり、多神教的な神々の宇宙の基本構造「高神‐来訪神」を、ラカンの心のトポロジー論を援用して「トーラス型‐メビウス縫合型」と表現しているところなどは、それがほとんど本書の魅力と可能性の中心であるだけに、アラン・ソーカル(『「知」の欺瞞』)流の批判への無防備さが気になる。

 しかし、よくよく考えてみると、本書の全編、というより「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体が、まさにソーカル流の一見妥当な外観をもった批判に対する、よりスケールの大きな回答になっている。

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紙の本神の発明

2004/07/10 23:31

刺激的な書

3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る

タイトルから推測されるように、本書では神がどのような思考のプロセスをへて生まれてきたか、を考察する。ここでいう神とは、「超越者として世界を創造し、秩序を与えている」抽象的な神(ゴッド)と「森羅万象に住む」具体的なスピリットとしてのカミが前提とされる。本シリーズの他の巻でもそうであるように、キイワードは「流動的知性」と「対称性」である。

現世人類はニューロンの革命的進化によって思考自体について思考することができるようになった。その流動的知性が生み出した神には、常在神としての「高神型」—グレートスピリットや南島の御嶽の神など—と遠方から来訪する「来訪神型」がある。高神が生の領域のみを支配するのにたいして、来訪神—スピリット—は死と生、裏と表の領域を往き来できる対称性をもつ。高神は来訪神の対称性の原理と多神教宇宙のなかに共存しあっている。流動的知性が開く超越の領域と自分たちの外にひろがる自然のあいだをつなぐ通路をスピリットたちが飛び交っている。スピリットたちが活動する世界に「対称性の自発的破れ」がおこると、その切れ目を縫い合わせようとして神々のイメージが生まれる。さらに自分自身が全体性そのものになろうとする思考によって、多神教の宇宙が構想される。さらに、この世を秩序ある、知的にも理解可能なものにするためにことば的表現で満たそうとして「高神+来訪神=ゴッド」の世界がつくられた。しかし、現実はことばの象徴的秩序によってつくられるという考えそのものが「空虚な穴」を必然的に生み出してしまう。そこで一神教の神だけがこの空虚を満たすことができると考え、「完全な知性」としての神が発明された。キリスト教の唯一神のもたらした「あらゆるものを商品化し、管理する今日のグローバル文明」に代わって根本的にあたらしいものを生み出す流動的知性がもとめられている。「地球上のあらゆるものにたいして慎ましさの感覚をもつ」ことが必要である。それを実現するのは、「現生人類の脳」が誕生したときとおなじように、高次の対称性をもつスピリット世界を人類の心によみがえらせることによってのみ可能である。言い換えれば、スピリットは観念論と唯物論を統一し、野生の思考をとりもどす精神世界の救い主である。

ユダヤ教のヤハウェやアポリジニの神、日本の神社信仰などを示し、華麗な比喩を交えながら神の発生学が心の構造の表現としてときあかされている。かつて『雪片曲線論』で密教による心の解放を追求した著者が「全体性の思考」の必要性をアピールするいっぽう、著者自らが宗教全体を精神考古学として総括している。仏教との関連はもっとも深いと考えられるが、それは『カイエ・ソバージュ第5巻』で展開されると思われ本書ではほとんど触れられていない。また王と国家の発生と神の発生が具体的にどのように対応してきたのか、近い将来明らかにされることを望みたい。文化人類学や民俗学・民族学に関心をもつ者、あるいは宗教にひきつけられながらも組織の束縛や権力のもたらす腐敗、おぞましい暴力や絶対主義の独善性にためらい、現実の宗教活動にはふみだせない者にとって刺激的な書である。

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紙の本愛と経済のロゴス

2003/03/02 00:35

世界をかたちづくっている論理

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 「カイエ・ソバージュ」シリーズはきまって海外の新作小説と並行して読んできました。『人類最古の哲学』はミシェル・ウエルベックの『素粒子』、『熊から王へ』はル・クレジオの『偶然』、そして『愛と経済のロゴス』はドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』といったぐあいで、『素粒子』はシリーズ全五作に共通する序文のなかでも引用されているので関係は明白ですが(人類の思考が超越性の次元に達した「第一次形而上学革命」というシリーズのキモになる言葉はウエルベックの小説に由来する)、後の二冊についてはそれこそ偶然たまたま併読したにすぎないのになぜかそれぞれに深く響きあうものがありました。

 ここではせめて『愛と経済のロゴス』と『ボディ・アーティスト』に通底するもの、私がみるところではそれは「身体と時間と言語」というなにやら拍子ぬけするくらい平板なものでしかありませんが、このことについて考えをめぐらせるための手掛かりを後の考察のために残しておきたいと思います。

 ──三つのもの、輪でも星でもなんでもいいし具象物でなくて想像物や観念でもかまいません、この三つのものをかりにA、B、Cと名づけ、それらに「A⇒B」「B⇒C」「C⇒A」がなりたっているものとします。ここで「⇒」と表示した関係は「A⇒B」がなりたつときは「B⇒A」はなりたたないという約束に反しないかぎり、何を想定してもかまいません。たとえば「右側にあるものは左側にあるものより弱い」とすれば先の三つの関係はジャンケンに典型的な三すくみの関係をあらわしていますし、「⇒」を「<」に置きかえれば形式論理上の矛盾をきたしてそのような三つ組の数は存在しえなくなります。

 ここで「⇒」は「右側にあるものは左側にあるものから発生する」を意味しているものと考えます。そうすると先の三つの関係のうち任意の二つは同時になりたちますが三つが同時になりたつということはちょっと想定しがたいですね(子供が実は先祖さまの生まれ変わりだとすれば話は別ですが)。

 部分部分はなりたつがそれらの全体を一挙に思惟することはできない。それは(『はじまりのレーニン』で中沢氏によって聖霊論的にとらえられた)ヘーゲルの論理学の世界であり(同じく『緑の資本論』でイスラームとの比較で論じられたキリスト教的一神教の)三位一体の論理であり、かつまたエッシャーの不思議な階段でありペンローズの三角形(あるいは『心の影』で図示された「プラトン的世界⇒物理的世界」「物理的世界⇒心的世界」「心的世界⇒プラトン的世界」)であり、そしてジャック・ラカンのボロメオの結び目(心の構造をあらわすトポロジー)そのものでもあります。

 このような関係こそ中沢氏が本書でいうところの「愛」や「経済」が一つに融合している「全体性の運動」にほかなりません。そうした「全体」がなりたつように働いている力が「ロゴス」(世界をかたちづくっているさまざまなものごとがバラバラにならないよう根本のところでとりまとめる能力)なのです。

 実は以上に述べたことが本書の、というよりはおそらく「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体の核心です(というのも超越性は「A⇒B」「B⇒C」「C⇒A」という「全体性の運動」のうちにしっかりととらえられていますから)。あとは「A=贈与・子・想像界」「B=交換・父・象徴界」「C=純粋贈与・聖霊・現実界」と置きかえて、経済学的思考と神学的思考と(中沢氏によれば愛を直接の対象とした唯一の学問である)精神分析学的思考が交錯し、かつマルクスやらワグナーやらが面目を一新する装いで登場する中沢氏のスリリングな語りにわくわくと身をゆだねひととき言葉と時間を失ってみることです。

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紙の本人類最古の哲学

2002/01/20 21:18

第三次「形而上学革命」への見取り図

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 来日したレヴィ=ストロースの講演を京都で聴いたことがある。マスコミ関係者を装って夜のレセプションにもぐりこみ本人と握手した覚えがあるのだけれど、これは記憶違いかあるいは後になってでっちあげた妄想なのかもしれない。肝心の講演は、大学で六年も「勉強」したフランス語がさっぱりで皆目理解できなかった。ただレヴィ=ストロースの肉声に直に接することだけが嬉しくて、たしかスサノオという言葉が再三出てきたことをいまでも鮮烈に思い出す。

 中沢新一の新著は「カイエ・ソバージュ」シリーズ全五冊──「旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破してみることをめざして、神話からはじまってグローバリズムの神学的構造にいたるまで、いたって野放図な足取りで思考が展開された」一連の講義録──の一冊目「神話学入門」で、このシリーズ名にせよ本書で展開される人類最古の哲学(=神話)の論理の探求にせよ、そこにレヴィ=ストロースへの「敬愛と憧憬」が込められ『神話論理』に結晶したその研究が「多いに活用」されていることは、著者自身がそう書いているのだから間違いない。

 本書の中心は第一章から第六章まで、かぐや姫(結婚したがらない娘)の物語に出てくる子安貝をめぐる考察(南方熊楠『燕石考』)に始まり、神話的思考法と西欧哲学的思考法との「ちょうつがい」の働きをしたピタゴラス派(この秘密結社には「ソラ豆を食べてはいけない」とか「燕が家の中に巣をかけてはいけない」といった掟があった)と神話に出てくる豆や燕がともに仲介機能をもった両義性的な存在であることの論証をはさんで、「人類的分布をする神話」としてのシンデレラの物語が「気の遠くなるような深い古代性と波乗りのように浮わついた資本主義の一側面」をひとつに結びつけた「神話的思考の残骸」であったことを実証する「原シンデレラ」の探求譚である。

 とりわけ、シャルル・ペロー(サンドリヨンまたは小さなガラスの靴)からグリム兄弟(灰かぶり少女)、ポルトガル民話版(カマド猫)や熊楠(『西暦九世紀の支那書に乗せたるシンデレラ物語』)が発見した中国のシンデレラ(葉限)、そしてミクマク・インディアンが鋭い批判精神をもって創作した「パロディ」版のシンデレラ物語(見えない人の話)へと遡行し、最後に、シンデレラが脱ぎ落とした片方の靴の謎をめぐるレヴィ=ストロースの推定やギンズブルグの研究(『闇の歴史』)やシンデレラ物語の異文「毛皮むすめ」を踏まえて、シンデレラとオイディプス(=跛行者)との共通性(生と死の仲介者=シャーマン)を摘出して、神話的思考法のエッセンスである「仲介機能」(著者はこれをヘーゲルの弁証法と関連づけている)と「感覚の論理」(著者は言及していないが、レヴィ=ストロース後のフランスのたとえばドゥルーズの思考と関連づけることができはしまいか)を実地に示してみせるくだりは圧巻。

 この本編は確かに面白い。だけど私にとってもっと面白かったのがその前後、「はじめに」と序章と終章で提示される八千年から一万年前の新石器革命を巨大な転換点とする「人類の哲学史」とミシェル・ウエルベック(『素粒子』)の論を踏まえた第三次「形而上学革命」(ウエルベックによれば、キリスト教=一神教の登場と科学革命に次ぐ第三次の形而上学的変異は、あらゆる個人が同一の遺伝子コードを持つ新種=人間の似姿=「神」の創造をもたらす)への見取り図だ。「カイエ・ソバージュ」シリーズの完結が待たれる。

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