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ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか みんなのレビュー

  • 入不二基義(著)
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みんなのレビュー1件

みんなの評価4.3

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同じ問題が何度でも変奏される

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 序章に『維摩経』の話題が出てくる。「不二の法門(さとりの境地)に入るとはいかなることか」。維摩が発した問いをめぐって、菩薩たちが自説を展開する。生と滅、幸福と不幸といった二分法的な概念から解放されることが「さとり」である。いや、そのような二項対立、すなわちPか非Pかという「動」だけではなく、そのどちらでもないという「不動」まで含めて「二」なのであって、だから「不二」とはいっさいをしないこと、すなわち「無作為」なのである。
 最後に文殊師利が発言する。ことばの本質的な働きは「二」(根元的な分割)である。だから、ことば自体を捨てること、すなわち「無語、無言、無表示」こそが不二の境地に入ることだ。文殊師利はそう説き、維摩自身の答えを求める。「維摩の一黙、雷のごとし」。文殊師利これを称えていわく、「そこには文字もなく、ことばもなく、心がはたらくこともない」。
 こうした三段階の議論を紹介した後で、著者は、維摩の沈黙が不二の実践(さとりの境地)であったか、ただの沈黙(呆け)だったか──「不二」をめぐる言語ゲームの「内」にあって、ことばでは到達不可能
「外」をことばの「内」へと巻き込んで働いているものであったか、それとも言語ゲームに巻き込まれている「外」よりもっと「外」にあるものだったか──は紙一重だと書きそえている。
 ここに本書の議論のすべてが、あらかじめ入れ子式に反復されている。『論理哲学論考』をとりあげた第一章では、「いわゆる独我論」の「私」(「世界」を包み込む「私」)と素朴な実在論の「私」(「世界」の中の「私」)の二項対立が、それぞれの「私」を純化していくその極限において反転・一致するダイナミックな思考のプロセスが叙述される。『青色本』等の考察を論じた第二章では、直接経験を非人称的なのものと考える「いわゆる無主体論」と、それらが「一人称以上に私的」であるからこそ無主体なのだと考える「ウィトゲンシュタインの無主体論」が比較され、後者における最強度の「私」が「私」の無化と接していること、すなわち「独我」と「無我」の一致へと至るメカニズムが摘出される。
 そして、『哲学探究』を扱う第三章では、私的言語の想定がはらむディレンマ──それが理解されることによって「われわれの言語」の圏内に回収され、あるいは逆に「われわれの言語」の圏内に位置づけられないならば端的に無意味である──の分析を通じて、私的言語は肯定も否定もできないから端的に「ない」のではなく、肯定も否定もできないまま言語ゲームに「潜行伴走」し続けること、すなわち「ある」ことと「ない」こととが紙一重である状況が描写される。
 第一の議論がメビウスの帯の構造(裏と表の一致)をかたどっているとしたら、第二の議論はクラインの壺のフォルム(内と外の通底)をまとっている。第三の議論の論理のかたち(「ある」と「ない」の紙一重の接近)を表現する図形の名を、私は知らない。たとえば五つの点が相互に等距離に位置する4次元多様体がその候補だが、おそらく次元がもう一段高いのではないかと思う。しかも、それぞれの議論のうちに実は全体が入れ子式に反復されていて、「同じ問題が、形を変えて何度でも変奏される」のである。そのような思考を図式化して理解することなど本来できない。とりわけ後半、一気に加速し、高密度・高次元の思考不能領域へと突入していく本書を「ことば」でもって理解することはできない。「遂行的に理解すること」。哲学とは、問いを問い続けること。問いを生きること。本書は、そのようなウィトゲンシュタイン=入不二哲学のエッセンスをみごとに造形している。

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