辺境は遍在する。
2009/01/13 16:45
10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「連続射殺魔」と呼ばれた男に関する短い論考。永山則夫といってもヤングにはわからないかも。「1973年『展望』に発表された」そうだが、今年、単行本化された。偶然か、必然か。短いけど賛も否もいろいろなことを考えさせてくれる。
東北の貧困家庭に生まれ、中学卒業後、「金の卵」として上京。職を点々として、ある日、ライフルを手に入れる。ブログもネットもケータイもなく、孤独な若者は、言葉を発する代替行為で、ライフルの引き金をひく。正月前に、首を切られた非正規雇用社員と重なる。しかし、同情で安易に重ねてはならないだろう。
「日本の近代化の中で、<都会>のために、性格には都市の資本のために、安価な労働力をだまって供出しつづけてきた、「潜在的過剰人口」のプールとして日本の村々、国内植民地として貧しさのうちに停滞せしめられ、しかもその共同性を風化、解体せしめられた辺境の村々の社会的風土というものが、その当事者の意識のうちに、一つの根源的な裂け目をつくりだし、かくも深い自己嫌悪・存在嫌悪の稟性として刻印づける様であった。このような社会的構造の実存的な意味を、N・Nはその平均値においてではなく、一つの極限値において代表し体現している」
この文体が70年代って感じで、当時の社会性を意識して描かれた劇画と通底するものを感じる。たとえば『ガロ』時代の池上遼一の初期の短編とか。地方と都会の対立図式なんだけど、「安価な労働力をだまって供出」ばっかじゃない。と、いまならいえる。都会の儲け(即ち、それは地方出身者の労働のたまものなんだけど)を、地方交付税などにして、地方は道路だの、立派なハコモノなどをつくるなど潤ってきたんじゃないか。「潤って」が的確な表現かどうかも検証。「風化、解体」は何も田舎だけではなくて、現在は、多摩ニュータウンとかでも起こっているし。
それから気になったのが、N・N=永山則夫を「極限値」といっていること。「平均値」の対語といった意味合いの文学的表現なのだろう、たぶん。はずれ値って意味合いなのかな。しかし、N・Nとて最初は「平均値」だったわけで、なぜ「極限値」になったのか。統計学の用語と文学・社会学的表現が混在していて、厄介(「用語」と「表現」が)並列しないのはわかってますだ)。社会学者の狙いなのだろうが。
「(現代日本の)都市が要求し、歓迎するのは、ほんとうは青少年ではなく、「新鮮な労働力」に過ぎない。しかして「尽きなく存在し」ようとする自由な人間たちをではない」
毎日のようにテレビで流れる非正規社員関連のニュースとダブる。「新鮮な労働力」でもいいが、いまなら都合のいい労働力ともいえる。既得権益の保守といわれても否定できにくい労組や企業、派遣会社は、今後どう折り合いをつけていくのだろう。
「われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である」
最後の一文が素晴らしい。四半世紀前に書かれたものが、これほどまでに現況にフィットしようとは。幸せの青い鳥は、どこにいる。実は、そばにいる。実は、天国と地獄は隣り合わせというのか、板子一枚というのか、案外、実態はおんなじなのに、人によって評価が分かれるってことなのかもしれない。
大学で社会学と心理学と哲学の各教授から講義を受けることがあった。いちばん刺激を受けたのが社会学の先生だった。見事に釣られていたわけだ。で、いまとて釣られているし。
他の論文に較べて、非常に分かりにくい文章だと思った
2024/06/23 17:47
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
解説も併せて120ページほどの短い論文である。帯には名論考と唄ってある。しかし、見田宗介の他の論文に較べて、非常に分かりにくい文章だと思った。大澤真幸の解説が、分かりやすく理解を助けるものだった。
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永山則夫が都市で味わった孤独という実存的な地獄を、見田宗介は〈まなざし〉の問題として提起している。現代社会の犠牲者の象徴的問題として有名であるが、いま一度、都市問題の原点を振り返るのに丁度良い。
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「まなざしの地獄」、副題は「尽きなく生きることの社会学」。
この本は1960年代後半から70年代へと至る時期のの本社会にスポットを当てていて、その中でも連続射殺事件を起こした当時19歳の少年N・Nの境遇を基軸を置いている。少年は網走の刑務所で生まれその後青森に渡りそこでで母親に冬の間捨てられた経験を持っている。それゆえ彼は中学校を卒業すると同時に東京に上京する(故郷を捨てる)少年は東京で、“尽きなく生きようとしていた”、つまり自分自身の不可欠な存在としての確証を得ようとしていた。だが東京という都市が彼に提示したのは、社会的上昇と確固たる存在性という甘美なものではなく、「まなざしの地獄」であった。彼がどんなに容姿を整え一生懸命働けども、網走の刑務所の生まれで青森からの上京者という抽象的な表相性を持つ限りにおいて、まなざしは彼のアイデンティティの総体を規定し、そしてとらえる。なぜ“地獄”なのか。それは、まなざしによって自身のアイデンティティを否定的に意味づけられるからだ。(都市のまなざしは、具象的な表相性において、抽象的な表相性においてひとりの人間のアイデンティティの総体を規定し、予料する。)そして少年は、奇しくも犯罪によって、「存在すべからざる者としての存在」についての確証を得たのは、皮肉だと思う。この論文は現代においても応用可能で、秋葉原の通り魔事件や「酒鬼薔薇聖斗」に関する考察も解説部分にある。
この少年はまなざしの囚人になり、発狂したけれども、僕らも彼に比べれば軽度であるけれども十分まなざしにとらわれているんじゃないかって思う。いや、むしろそれが当たり前のことだろう。注がれるまなざしを一方的に思い込むことで外見を気にするし、アイデンティティや生い立ちももちろん気にする。僕もここ東京で、尽きなく生きようとしている一人の人間なんだ。
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「われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である」。
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「永山基準」で有名な、1968年に起きた連続射殺事件の本人・永山則夫が立脚していた意味世界を、見田宗介が鮮やかに描いた論考。
集団就職の時代、郷土から上京してきた青年は転職を繰り返した挙げく逸脱行為に走る。しばしば背景は、「都市が不可避的に課す孤独でや労働の問題である」と語られる。親密圏の形成や、労働疎外は現代でも無縁社会論や派遣の問題との布置連関で語られる。だけど、物事はそう単純ではない。
見田宗介が指摘するのは、「孤独」ではなく翻って「濃密な人間のまなざし」。上京青年を対象に行なった当時の統計資料をもとに、彼らが最も欲しかったものは、自分独りの空間と時間。
永山則夫を逸脱に走らせたのは、都市が含有する「他者のたえざるまなざし」、まなざ地獄であったのだと。
本当によく書かれています。
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端的でわかりやすい。30年以上前に書かれたもので、少し自分の認識とズレがあるようには感じたが、それでも、こういう視点で社会を見渡せたら面白いだろうな。こういうものの見方ができるようになりたいな。
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永山則夫についての本。
ラベリング理論についての本として読むことができるが、
素直だが社会的に弱い立場にいる人間が周りの人からの心無い視線や一方的なラベリングによって苦しみ、自分の精神を守るために非行や不法行為に走ってしまうことを生々しく想像させられる。
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卒論のために読了。
見田さんの社会学的な思考がすばらしい。発言のひとつひとつからその時々の思考の変化を読み取り、特殊な事例から社会的な事例へと昇華させている。
2本収録されているが、一本目は有名な「永山基準」の基となったN.Nから、社会の「まなざしの地獄」が書かれている。二本目は「新しい望郷の歌」という、一家心中から社会を考察する論考が収められている。
その解説では、「まなざしの地獄」から「まなざしの不在」へと変化していることが書かれている。この思考方法が、現代社会においてどのように適用されているのかを示す好例であろう。
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言葉が手に取るように分かるとき、意味は胸に浸み込む。本書を読むと、ビジネス本の堅い言い回しが空疎に感じられてならない。本書は1968年周辺の世相を題材に取り、田舎から「金の卵」として大量に都市へと送り込まれた若者たちの孤独を鋭く抉り、『無知の涙』で知られる連続ピストル射殺事件の犯人の実像に迫る。1968年は僕らが現代日本を考える上で重要だ。それは、安田講堂落城、3億円事件、連合赤軍といった歴史的な事件があったせいではなく、貧しかった僕らの両親が青春時代を過ごしたからだ。本書で指摘されているように、「金の卵」と呼ばれた若者たちは従順な労働者として重宝されたのであって、自由意志を持つ者は「生意気だ」と排斥される。この構図はいまの僕らの時代にも大きく影を落としているわけで、「終身雇用」の完成のために多くの若者の夢が押しつぶされてきたというわけだ。もうひとつの論点として、都市への若者世代の流入が東北をはじめとした田舎を疲弊させ貧しさに拍車をかけたことが指摘されているが、いまの僕らの時代も同じことが起こるように思う。今度はグローバルなスケールで。TPP参加など世界はフラット化する一方であり、日本が環太平洋の中で過疎化するのではという危惧を最近強くしている。英語が話せる程度ではなんともならんのではないのか(僕は英語もロクにしゃべれません!)。価値を産み出すにはどうすればいいのか。いまこそ自由意志をもつべきだと思う。
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今まで読んだ本の中で1番衝撃的だった。他人に対してひどいことをしていなくても、我々の気づかぬうちに人を傷つけていく。そしてそれが他人の人生を変えてしまう可能性が十分にあるということ。今まで知らなかった自分が恥ずかしい。今後どのように人と接していけばいいのか考えさせられる内容だった。
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周囲の視線に苦しむことは決して他人の事ではない。
また直接的な視線に苦しむこともあるが、無関心というまなざしが一番怖い事がよくわかる。
考えさせられる内容だった。
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1968年の連続射殺事件の犯人・永山則夫を対象とし、個からそれを取り巻く当時の社会構造と変動を総体とした社会学論考。
他者からのまなざしは個人の現在と、そして未来をも呪縛する。具象的であれ抽象的であれ、ある表層性において人間を規定するまなざしと、その記号化に囚われ、陥凹し、存在と離脱された一つの事例がN・Nである。その背景としての当時の社会として、高度経済成長期に合わせた集団労働力としての地方から都市への出稼ぎ者の流入、地方の貧困、家郷の喪失、といったことがある。
この内容を、個から総へ、そしてまた個へと行きつ戻りつしているのが本書である。社会学者ならではの表現と言い回しは、もっとわかりやすくならないのか!といらだちを抑えつつ辛抱していくと、ジワーっと内容が入ってくる(気がする)。
貧困とは貧困以上のものであること、というのは本事件の核心であり、社会情勢の変化のなかでの影の部分の発露であることがわかる。
特に解説が良く、内容だけではなく、数十年たった事件の論考がなぜ再度まとめられたかということの補完にもなっており、現代と比較することで社会学的な意味合いが増していることがわかる。
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死刑囚永山則夫の生涯を下敷きに社会からのまなざしに病んだ当時の(そして現代も)社会を切り取る。永山則夫の死刑が執行された年は、神戸の少年Aによる事件が起きた年。見られることから逃れる犯罪から、見られようとする犯罪へ。まなざしというキーワードで語られた見田宗介の社会学の名著。
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誰もが犯罪者になりうることを示している。
個人責任論を見つめ直すきっかけになる作品。
文学チックで素敵。