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「柄谷行人」・・・よく難しい本を読んでいると出てくる名前。「がらやゆきひと?」「がらたにこうじん?」ではなく「からたにこうじん」でした・・・。どうせ読んでも歯が立たないと思っていたけどコレはなんとかなる感じ。
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ひょっこり読み始めたんですが、なかなかおもしろかったです。というか、本書の中で検討されている「自由」と「責任」の話、私自身も何となく考えていたところだったので、いろいろと言葉を与えてもらった感じです。「自由には自己責任が伴う」とか「自由を確保するためにみんなで自重しよう」とか、そういうおバカなことを言う人が未だにときどきいたりするんですけど、そのテの人たちにはとりあえずこの本を薦めたいですね。自由論に関する手ごろな本を探していたんですけど、本書はなかなかよく問題点を整理できている気がします。さるところで「大学一年生におすすめ」みたいなコメントを見かけましたが、確かにそれくらい読みやすい本です。「テツガクショ」が読めない方にも入門書として。(20070910)
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「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」
あぁ難しかった。集中しないと内容が把握できなかった。大変だったけど、なんとなくわかった気がする。でも、結論がなぜ資本主義の批判になったのかはわからなかった。
存在(ザイン)・・・いかにあるか
当為(ゾルレン)・・・いかにあるべきか
すべての悩みはこの間で揺れ動く中にあるんだけども、当為なくしては何事も始まらない。こういったべき論は煙たがれるのが普通だけど、これがないと人にはなれない。カントが言うゾルレンは道徳的な「善」ではなくて、「自由であるべき」という倫理の話。
たとえば、幸せになるために結婚する。極論かもしれないけれど、これは、他者を幸福を得るための手段として扱ってることでもある。善=幸福という道徳観が当たり前に通用しているけれど、道徳と倫理が異なる概念ならばどうなるだろうか。
自由であるべきと心構えている人は、責任を背負うことができる。道徳は幸福を謳うけど、倫理は人間でいることを強いる。
理想と現実の間で、落ち込んだり自分がイヤになったりすることも多々あるけれど、100年ちょっと前に生きていた人の言葉にいまさらながらに励まされるのだ。
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請求記号:F/ カラタ
資料番号:010735504
「正しさ」を考える3冊③
批評家の本というと難解な印象を持たれるかもしれませんが、本書では啓蒙を意識したわかり易い語り口で「自由」や「責任」の意味が問われています。
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我々が普通自由だと言っていることには、自殺もそうですが、原因がある。ただあまりにも複雑すぎるために、自由だと想像しているだけだと、スピノザは言った。
スピノザは17世紀のオランダにいたから、徳川時代の日本のことをかなり知っていて、日本人はキリスト教とでないにもかかわらず立派に道徳的ではないかと言っています。つまり大事なのは人が何をやっているかであって、それを自らどう考えているかではない、といったわけです。
サルトルは存在と無の段階では、自由と不安である対自存在は、互いに他を物化しようとして、つねに挫折せざるを得ないと考えていました。サルトルは積極的な倫理学を書こうとして挫折し、マルクス主義に近づきます。
ニーチェは道徳を超えた倫理性を提起しているのであって、現状肯定と関係ありません。ニーチェが反ユダヤ主義や国家主義を弱者の塊根として見ていたことを無視した。
仏陀やイエスの現行も死後のことでなく生きている間の倫理を説いている。あの世のことについて何も書いていない。そんなことは重要ではなかった。他者に対する倫理が重要だった。ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちはある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く。まるで自分らが彼らを殺したように。
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カントの倫理思想の解釈を通して、現代における世界市民の立場を確保することや、戦争責任の問題などを考察している。『トランスクリティーク』(批評空間・岩波現代文庫)への導入という位置づけの本。
意志の自律としての倫理が成立する領域を、因果法則の支配する自然の領域から峻別するという本書の議論は、カント倫理学の根本モティーフを確かに捉えていると思う。また、個人の利害や共同体の規範に盲目的に従うのではなく、世界市民的な立場から考えることが「パブリック」ということだという主張に至る議論の流れも、それなりにおもしろく読んだ。
ただ、疑問に思うのは、なぜ著者が今になってこうした主張をするのか、ということだ。
「ゲーデル問題」などに関する論考で著者が考察していた問題は、形式化された体系の内部に自足的にとどまっていることは不可能であり、外部からの侵犯という事実が不可避的に入り込んでしまうということだった。むろん今日では、著者の「ゲーデル問題」という表現が、せいぜいのところ比喩としてしか通用しないものだったことが判明しているが、個人的には、そのことを理由に著者の一連の理論的仕事を一顧の価値もないと切り捨ててしまうべきではないと思う。たとえば、それらの議論から、意志の自律に基づいて超越論的領域を確保する「自己言及的」な体系は純粋さを保ちえず、そこには不可避的に事実のレヴェルからの混淆が生じてしまうという洞察を引き出すことは可能だし、そうした問題は現在でも考察に値する重要性を持っているのではないか。
ところが本書で著者は、かつて自身も格闘したはずのそうした問題をすっ飛ばして、カント倫理学における規範性の領域が当然に成り立つかのように論じている。現代思想における上述のような争点を知悉しているはずの著者が、本書のような素朴な仕方で超越論的な規範性の領域が可能だと考えるに至った理由が、どうにもよく理解できないでいる。
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やれ自分がこんななのは親のせいだ、やれ貧乏な家に生まれたから自分はこんななんだ、といった言説を頻繁に耳にする。「私」そのものが他者の影響のもとにできあがっているのだから、自分の過失に対して原因を求めれば、必然的にこれは自分の問題ではない、という結論に至る。それはある意味で正しい。だが、この結論に到達したからといって、問題が解決するわけではない。新たに何かしらの問題が生じると、性懲りもせずそれを誰かのせいにして自分を納得させる。果たしてそこにあなたの主体的な契機、あるいは自由はありますか?‐そんなあなたへ。
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某国公立大の現代文の入試問題で引用されていたのが記憶にあった。
五十歩百歩の中にも、五十歩の差異は「絶対」としてある。
我々は絶対的視点から罪人であることに置いて同等であり、そこに相対的な見方は意味を成さないが、「ドングリの背くらべ」の小さな差異はやはり厳然としてあるということか。
人間の中にある根源的な罪や悪について考えさせられる。
自由とは何か。
ただ他者の欲望を自分の欲望とした自由は自由ではありえない。
私たちの考える自由は本当に自由かといえば他律的な自由でしかない。
責任とは何かという問題。
子の犯罪の責任は親にあるのか。世間は自分に利害がないのに責任を取って死ねと暗黙的に圧力をかける。
また原因の問題。
人が罪を犯すとき、確かに環境などの原因が背景にあるがそれは無限にある。
しかしその人の罪は許され責任がなくなるかといえばそういうことではない。
罪がないといえば、彼は自由な主体としての尊厳を失う。
同じ環境や生まれでも、犯罪者になる人間もいれば、成功者になる人間もいる。
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読み直したさ:★★☆
責任論。
カントにおける「自由」。
カントにおいて、他者は「物自体」として登場する(という読みをする)。
因果関係(形而下)を遡及するだけでは責任(形而上)は明らかにならない。
刑事責任を考える場合、「自由」な意思によって行為に及んだというためには、「自然的・社会的因果性」を「括弧に入れる」必要がある。決定論からの脱出。
〈感想〉
倫理学を総ざらいするものではないが、著者の感心からみる責任論は非常に面白い。
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メモ→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1368491714210451457?s=21
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スピノザ〜カントとたまたま最近の読書が繋がった。「他者を手段とするのみならず、目的として扱え」、円地文子『食卓のない家』の父親(連合赤軍の父としての責任とは?)、天皇の戦争責任、ヤスパースの四段階の戦争責任、共産党の非転向など、現代の諸問題を足がかりに、責任とはなにか、倫理的であるとはどういうことかを考える。
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前半の章は倫理一般について書かれていたので、興味深く読んでいたけれど、中盤後半からは政治や国家についてだったので知識不足と関心がなかったため楽しく読めなかった。それでも読みやすくていい本だった。
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原因を知ること=認識=自然と、責任を追及すること=実践(倫理)=自由の領域が別々に存在するのではない。両者は同じ一つの事柄であり、片方を括弧に入れることでそれは自然として現れるし、方や自由として現れる。
自由は「自由であれ」という当為のもとでのみ、可能であるとカントは考えた。ここでいう自由は、他社の自由も含んでいる。他社を手段としてだけでなく、同時に目的として使わなければならない。資本制経済において、貧富の差や格差は国内の階級問題として現れる。次に、それは南北問題となる。先進国は後進国を手段とすることができるから。最終的に、先進国の中に南が存在するようになる。こうした欠陥を止めるときに、未来の人間は合意に参与できない。