紙の本
「優雅なる精一杯」で物語としての運命を生き抜いた人。アフリカとの一体感から得た喜びと哀しみを、奇跡に等しい表現の数々で再現することに成功した崇高なる文学。
2004/10/04 12:54
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
いくつものいくつもの素晴らしい文学作品に心躍らせながら、それでも読了するたび「まだあるだろう」「明日はきっと、もっとすごいものに出会えるだろう」と一番好きな本の座はずっと空座にしてきたようなところがある。けれども、これだけのものに出くわしてしまうと、それも自分の内面状態が至極良いタイミングで対峙してしまうと、霊峰の頂上を制してしまった気になり、何やら寂しい。この本を読んだあと丸3日、別の本の世界にまったく入り込めずにいた。
映画化もされ、すでに数多くの読者を獲得している自伝だ。メリル・ストリープとレッドフォードという配役でアフリカの農園を舞台に展開されるドラマチックな出会いと別れがある物語とくれば、いかにもハリウッド的とはいえ見ていていいはずの映画だった。だが、なぜか通り過ぎている。幸運と言わなければなるまい。
ナイロビ近郊の広大な農園の女主人として18年間の長きにわたり君臨した作者は、決してその恋愛物語を本書で隠しているわけではない。だが、積極的に語ることは避けている。
美しく教養あふれるデンマーク貴族の夫人が采配を振るう農園となれば、しかも自ら猟銃を扱いサファリのお供もできるとなれば、貴人たちの来訪も珍しくはない。英国皇太子が訪れた挿話もあり、女あるじ自ら仕込んだ料理人による晩餐が、これだけのものには出くわしたことがないとほめられたともある。
そのような来客の話題に紛らわせて、農園での暮らしのなかで一番うれしいのは友人が訪ねてくることだと告白があり、その友人のリストに連ねられているのが問題の男性である。本の半ばにアフリカに魅せられた同志として男性は登場し、農園を空から眺めさせてくれ、アフリカの雄大さや美しさへの感動を共に分かち合う大切な存在として書かれている。いよいよ農園の経営が立ち行かなくなり整理をする段になって、ふたりの友情はただならぬものだったのだと気づかせられる。
だが、アフリカにいるその人だからこそ、アフリカの一部を成していた彼だからこそ、自分のアフリカへの熱い思いのなかに溶けてその人への思いもあったのだというような書き方しかされていない。おそらく映画のテーマとして生かされている愛情関係は、ここに書かれているものと全く別物なのだろう。
振り返ってみれば20世紀前半は、自分たちは選民だと信じる人種や民族がいて、植民地という形で「劣る」人種や民族を支配していた。宗主国と被支配層という社会構造があり、その関係のなかで異国情調に魅せられた人びとの研究や芸術が栄え、いくつもの傑作が残された。本書もまた、そのなかの最高のひとつとして数え上げられる。20世紀後半になると、その支配と被支配の構造は経済的優劣を軸とするものに転換されただけで、本質的なところに変化はなかったのだろう。
その両方の時代を通して、アフリカという土地と自然、アフリカ人たちには変わらない「魂」としか呼びようのない核があった。ディネーセンがしなやかで豊かな情感に満ちた独自の表現で再現し得たのは、アフリカや特定の人に対する自分の愛情の在り方ではなく、まさにその核であると思う。そして、核に触れながら精一杯に生きた日々そのものと世界である。
高原の澄んだ空気も、心を通い合わせることができた使用人たちの在り様も、野生動物たちの自然の摂理にかなった生活も、そして作者本人の生も、すべてみなアフリカの核の従者として統合的に描かれている。その描写に貫かれた奇跡的な美意識に、幾度でも幾らでも泣かされ揺り動かされる本なのである。
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物語の楽しさ
2000/12/30 23:42
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投稿者:katokt - この投稿者のレビュー一覧を見る
物語の楽しみを味わう本として、懐かしく思い出されるのはこの本だろうか? 映画の「愛と哀しみの果て」の原作だが、物語の一番いいところは当然のように映像化には向かない部分なわけで、印象的な部分は以下に
紙の本
アフリカの日々
2021/06/19 00:50
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヨーロッパからやってきた女性がアフリカのケニアに農園を開き、小作人や周囲のキクユ族、マサイ族たちと日々を過ごした日々を綴ったもの。最初は独身女性が一人であれこれしているのだと思っていたら、途中に「夫」と出てきて驚いた。そういえば「男爵夫人」という呼称も序盤に出てきていて、間違いかとも思ったが、解説によると故意に夫のことは省かれているらしい。
当然植民地での事を白人目線で記しているので、現代的には許されない点もあるだろうが、概ね著者の立場は現地の人々に寄り添ったものだったのではないだろうか。他の白人たちに対しても相対的な見方がされているようなきがするし、著者によるアフリカやアラブ、インドなどへの敬意が感じられる気がする。
紙の本
シドニー・ポラック監督映画化原作
2018/05/09 17:26
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
デンマークの貴族の妻であった女性が、ある日突然に全てを投げ捨ててナイロビの農園へと旅立っていく姿が心に残りました。自分の居場所を見つけることの素晴らしさが伝わってきました。
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世界の拡がりを求めて。想像を超えた何者かに出会う期待を胸に。究極の欲望を大いに満たしてくれるアフリカの日々。
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18年間にわたるアフリカでの農園経営の体験をに基づいた、半自伝的な小説・・・というか物語というか見聞録というか。
ヨーロッパ人から見たアフリカということでレッシング『老首長の国』から引き続いて読んでみたが、個人的にはディネーセンの方が好み。
一番の違いは、ディネーセンはアフリカの環境・文化・価値観をあるがままで認め、それを受け入れる点である。レッシングは異なる価値観のもの同士を何とか自分の価値観の枠内で理解しようとして苦しむが、ディネーセンはそこにあるものはそれとして受け止める。
そんなディネーセンの半自伝的な記録は、非常に活力に満ち、アフリカの民族・広大な自然の魅力を圧倒的な存在感で伝えてくれる。著者がいかにアフリカを愛しているかがひしひしと伝わってくる名著。読んでてこちらも著者と一緒に一喜一憂させられる、いい読書体験をした。
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-山の輪郭は、距離というものの力によって次第にやわらげられ、やすらかな面影となって、私の記憶に残った-
アフリカの農園当主となった女性の人生ドラマ。男として生きることを決意したディネーセンと重なります。アフリカの大地は荒々しく、やさしく、そこに生きる人の心と体を創るんだなあ。小さな島国で、小さな日常に悩むより、外に出て深呼吸して生きていこう、と思えます。生命力美。描写力がまたすばらしい。映画『愛と哀しみの果て』の原作。
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デンマーク出身の作者がケニアでコーヒー農園を経営し、そこでの自然や現地の人々、喜びと絶望を綴った半自伝小説です。
特筆すべきは、彼女の風景描写。
はっきりと存在感を持つ大気と濃い緑、恵みの雨、逞しくも優雅で自由な動物たち、そして黒く魅力的な肌を持つアフリカの人々。
ハッとさせられる程、繊細に美しく紡ぎ上げられています。
作者の視点は、清少納言と通じるものがあり、数ページ読んだだけで、あっという間にかの広大な大地の息吹を感じさせてくれます。
ちょっとした合間に、少しずつじっくりと読み味わって頂きたい作品です。
(福岡教育大学 院生)
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当然すべてが事実ではなく創作の部分が多いはずだが、女性として魅力的。アフリカも魅力的に描かれている。
貴族の植民者と現地の人の綺麗ごとのエピソードが多い中、現地人が土地を所有することを禁じられていたという、植民地時代の真実もチラッと出てくる。植民地時代という時代なりの制限と環境のなか、懸命に生きている。自分の生を精一杯生きるたくましさに引き付けられる。
続けて4作読んで、好きな作家になっている。
楽しみながら、すこしずつ大切に味わった。読み終わってしまうのが惜しいと思える作品。
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「アフリカの日々」はディーネセンがアイザックという男名前のペンネームで書いた自伝小説である。
1914年、北欧からアフリカへと渡り、ケニアでコーヒー園を経営する女農場主として18年生きた間の、土地の人々との出来事。アフリカの大自然との出来事。白人との付き合いなどが、緻密な筆で描かれている。
最初は、「キャッチャーインザライ」と「1Q84」に出てくる本なので興味を持った。翻訳本特有の読みにくさに閉口したが、次第にアフリカの世界観へと引きずり込まれた。乾いた大地にやって来る雨期。部族の習慣と気質。特にマサイとキクユは印象的だった。
印象的と言うとブッシュバックのルルのエピソードやンゴマの祭りがそうだった。
やがて農園は行き詰まり手放す事となり、彼女もアフリカを後にした。
壮大なアフリカのサーガというだけはある。しみじみアフリカの土埃っぽい風を吸い込んでみたい方は是非どうぞ。
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名著というものの条件を問われたら、すかさず「再読に耐える著作であること」と答えたい。世の中には、一度読めば十分といった書物が少なからずある。いや、一度読むのさえ無駄と思えるものの方が多いと書くと、語弊があるのかもしれないが。
加藤周一の「読書術」を読んだのは、僕が大学生の頃のことであった。そこには、何を読むかではなくて何を読まないかを考えて、読書する術が述べられていたと記憶する(何分、彼の著書を読んだのが四半世紀も前のことなので定かな記憶がない)。それ以来、僕は、何を読まないかということを意識しながら、本を選んでいた(と思う)。普通、人は、何を読もうと思い、本を探すわけであるから、僕の行ってきたことは、一般から逆行しているわけである。
「少年老い易く学成り難し」ということわざからも分かるように、一生の間に読める本の数などたかが知れている。読めて数千冊である。いかに無駄な読書を行わないようにするか、もしも無駄な読書を行うぐらいなら、自分の考えを深めたいのだと生意気なことを考え始めた十代後半の僕は、そんな思いを抱いて、学校の図書館や、書店や古書店をうろついていたし、今もなおうろついている。
そうなると不思議なもので自ずと読むべき本が限られてくる。流行の書物は敬遠するようになる。実学書も敬遠する。明日にも価値がなくなるものに時間を費やすわけにはいかない。金の亡者ならぬ、時間の亡者となった僕の選ぶものは、古典文学であるとか、思想書といったものばかりとなったことはいうまでもない。
読書術といったものを意識するようになってからはやいもので四半世紀が過ぎたが、未だに僕は、自分がこれまで選んできた術が間違っていたとは考えていない。もうここまで続けてきたわけだしするから、明日も同じことを考えて書見するのである。
このように自分にとっての名著の条件をくだくだと述べてきたのも、これから書く「アフリカの日々」を、僕にとっての名著の一冊としたいので御託を述べたまでだ。それほど、感動的な一冊であった。さて、これだけ動かされた心のことをどのように人に伝えたらいいだろうか。
まず断っておきたいことは、「アフリカの日々」は、記録文学ではないし、ここに物語られている内容は珍聞奇聞といった類いのものでもないということである。アフリカという遠く離れた地域に起こる、珍妙な物事を書くだけでもアフリカを知らない人々の興味や関心を惹くことができるだろうし、それはちょっとした読み物になるだろうから。
なるほど著者は、西欧からやってきた人間であり、この地を訪れた当初は、見聞きするさまざまなことが新奇であったにちがいない。だが、彼女は旅行者ではなかった。自分の土地を所有し、自分の家を構え、大地からの恵みで生計を立てることにより、アフリカに生きたのであった。彼女は自然の中で生活し、この地に生まれ生活する人たちとともに人生を送った。
自然は彼女の生活の糧ともなったが、ときに猛威をふるい、襲いかかってくることもあった。雨期が訪れないだけで、農園経営は経済的に大打撃を受けてしまう。「雨のおとずれをむなしく待つ日���をかさねるにつれて、農園の見とおしは暗くなり、希望は消えていった」。降水量が数インチ少ないだけで、コーヒー豆の収穫量が減収してしまう。イナゴが群れが農園を通り過ぎるだけで、「河岸につくっていつも水をきらしたことのない私の菜園はただの土埃と化し、花も野菜も香草類もすべて消えうせていた」。これらはあくまで一例に過ぎない。
だが、どんな苦難の中にあっても、彼女には、「この高地で朝目がさめてまず心にうかぶこと、それは、この地こそ自分が居るべき場所なのだというよろこびである」と感じられるのであった。
自然だけではない。彼女のもとを訪れる動物や人間達もまた彼女のアフリカであった。
屋敷を出入りする無邪気なハウスボーイ達や、彼女の忠実な雇われ人ファラとの平穏な生活。ルルと名付けた幼いアンテロープがやがて成長し自然に帰る様を描くディネーセンの筆は、まるで人間について語っているかのようである。アフリカの大地では、人間さえ動物と同じ大地に暮らす生き物の一種と意識される存在なのである。
やせこけた体をして、ほかの子供達から離れて生きるカマンテは、彼女の農園で土地を借りている者の息子だ。「ごく幼いころ、彼のなかでなにかがねじまがり、封印されてしまったのだ。そして今、彼にとっては正常なものが異常だとして受け取られるようになっていた。彼はまことの侏儒の魂の傲然たる偉大さをもって、自分のこうした隔絶状態を認めていた。全世界に対して自分が異物であるなら、逆に彼にとっては全世界が異物であるとするのだ」。彼女は後に彼の中に宿る料理人としての才能を開花させる。
かつての戦闘種族であるマサイ族は周辺の部族から恐れられた存在であった。だが、いまや馴化され戦うことを禁じられてしまった彼らは保護区の中を移住するだけの存在となっている。飼いならされてしまい、牙を抜かれてしまっても彼らの中にはいまだ気高さが息づいている。
「盲目になって農園にたどりついた」デンマーク人のクネッセン老は、死ぬまでのときを孤独な生き物として「自分のみじめさに打ちひしがれ道を歩きまわった。そのみじめさの重みを荷なうことで力を使いはたし、長いあいだ口をきかなかった。時たま話すことがあっても、その声は狼かハイエナの要に悲しげだった」。
これらは登場人物のほんの一部に過ぎない。
こうして書いていても、この物語に登場する一人ひとりがあまりに魅力的であり、一人ひとりのことを詳しく紹介したい衝動にかられるほどである。中でも、僕の好きな登場人物は、エマヌエルソンとデニス・フィンチ—ハットンだ。
何もかもに失敗したエマヌエルソンは、ひとつの賭けに出る。ナイロビを飛び出し、ライオンやマサイ族がうろつく草原をまるっきりの手ぶらで渡り、90マイル先にあるタンガニーカまでの徒歩旅行にでかけるというのだ。それは現地の人たちにとても無謀な、死を意味する行動であった。その旅にでかける前夜、彼はディネーセンの屋敷で夕食と一晩の宿を乞う。
「このごろひとつ考えついたことがありまして、いくらか突飛にきこえるかもしれませんが、つまり、全人類のなかで、誰かがいちばんつらい立場を荷なわなければならない、ということなのです」。
このいくぶん滑稽であり、また悲劇的でもある告白に込められたエマヌエルソンを自分の中に認めない人間がいるだろうか。
デニスの死は、本作のハイライトといえるものだ。が、僕はあまりに語りすぎた感がある。
アフリカのあまりに厳しく、あまりに雄大な自然を緯糸とするならば、さしずめこの物語に登場する数多の人たちは縦糸に相当するだろう。それらの糸が交叉して織り成されるのが、大地と人間との讃歌である、この「アフリカの日々」である。
間違いなく名著であり、再読に絶える作品である。
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サリンジャーのライ麦畑や、村上春樹の1Q84でタイトルだけ出ていたので気になっていた。主人公が意外にも面白かったとか、そんなことを言っていたのでなおさら。
率直な感想は、面白かった。読書を通じ、こんなに心が躍り、慰められ、哀しさがこみ上げ、じっくりと考え込む。久方ぶりの濃厚な読書体験だった。それはプロットの巧みさによるものではない、著者の心理描写、情景描写から来るものなのだ。ストーリーの起伏にはダイナミスムはない。我々の日常と違う、アフリカにおいて、しかし当然の日常をアフリカのそのままを愛する白人の目で追い、語られる素朴さが私の心象風景を刺激する。
主人公は文明を享受し生きてきたデンマーク人である。夫の事業の関係かなんかでアフリカ・ケニアにおいて広大なコーヒー農園を経営していた。農園内に住むキクユ族の一団と、また時折現れる戦士・マサイ族と、そして文明からはじかれ住処を最後の楽園に求めたヨーロッパの移住者と、商売熱心なインド人と、時が止まったのではないかと錯覚するような、境界のないアフリカでの著者の生活を描写する。文化人類学ではない。文明を邪魔者のようには扱わないし、土着の文化を称揚もしない。ヨーロッパ人としての自分を保ちつつ、アフリカというむき出しの「自然」を愛する人間のポートレートである。外来の白人たちを受け入れつつ、その文明を取り入れながらも、精神的な価値はかわらないアフリカ。アフリカの震えるような土地と人間の「自然」を愛しながらも、内面的ヨーロッパを抱える著者の、相互的あり方が美しい。
シュヴァイツァーの医療宣教を批判する人たちがいる。アフリカをキリスト教化するのは間違っていると。どのような意見があってもいいし、それが真実を表しているとは思っていない。シュヴァイツァーは現地の黒人たちを取り残された幼き弟だと思っていた。だから50年共に住んだ。レヴィストロースはブラジルの内面的自然を愛し、宗教と文明が人間を自然と遠ざけたとうら悲しそうな声を上げる。自壊的な悲しき熱帯の内的自然に、人間らしさがあると彼は感じたのだろう。ディネーセンはアフリカ人に対する自分の意見を持たない。持っていたとしても、それを述べていない。ただあるがままを共に喜び、共に悲しんでいるだけである。友なのである。
彼女の描写を追っていくと、シュヴァイツァーがいうことに理があるように思う。キリスト教的な救いとは別に、アフリカ人は幼い子供のようである。固着の文化から離れることができない、そして実に実利的ないきかたを取る。それは利己的というわけではなくて、動物的な感覚が強いという意味である。生きることにかかわること以外に、関心を持たない。我々はそれ以外に時間と金をかけすぎる。じゃらじゃらと何を引きずっているのだろうか。それは善しも悪しもあるだろうが、余計なものは余計なものだと思ってしまう。
幼い弟を自立させ育てようとしたシュヴァイツァーに対し、ディネーセンは共に生きようという。それだけなのだ。だから押しつけもしない。内的自然を尊重する。それによって彼女が救われているのだ。
コーヒー農場の経営が立ち行か��くなり、アフリカを去る日がきた。アフリカに居心地の良さと愛着を感じてしまった自身をどうしたらいいのか、悩みあえぐ著者の姿が生々しい。キクユの集団も彼女を愛している。そして自身の生活を心配している。ゆっくりと、古くなったかさぶたが少しの痛みを伴いながら、痕を残しながらはがれていくように、彼女はアフリカを去った。
2014/5/18
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ディーネセンは『バベットの晩餐会』が有名だけれどもこの本はその前に書かれている、男爵と結婚してアフリカ(ケニア)にわたり農場の経営者となるのだが、そこで現地の人々とのかかわり合いが丁寧に描かれている。
おそらく医者の免許は持っていないのだが、現地の人々の怪我や病気の人の面倒をみたり、火傷には蜂蜜を塗ってあげたりしているうちに、手先の起用な子供が料理が得意だということがわかり調理の使用人になる。筆名はアイザック・ディーネセン(男性の名前)、本名はカレン・ブリクセンであり、ブリクセン男爵夫人とも呼ばれたが、もちろんそんなことはアフリカの人々には関係ない。自宅には時々ヨーロッパの要人が来客してくる。この物語の語り手はどうも女性であるらしいというのはだんだん分かってくるのだが、あくまで著者は男性名なのである。
現地人の独特の言い方、考え方には日々発見がある。丘の火事を知らせるのに「神がやってくる」と伝える言い方にはっとさせられる。しかし神もいろいろなのだ。アフリカで信者を獲得しようとするキリスト教にも複数の宗派が存在し、回教徒(イスラム教徒)もいたりする。はたして神に違いはあるのか。
あるときは美しいガゼルの子を見つけて自宅で飼いならす。可愛さのあまり犬より手厚くもてなすが、成長したある日ふいに屋敷から出て行ってしまう。その後、パートナーの鹿と子供を連れて庭に帰ってくるシーンには心動かされる。
今の時代に日本語で読むことになる読者は、著者が「カレン」という名の女性であることを知っているわけで、男爵夫人のはずなのに、本の中に旦那がどうして出てこないのかと思えば、出版は「アイザック」という男名なわけで、性が分かるようには確かに書いていないのであった。(後で分かる箇所がある)
ヨーロッパの白人女性がアフリカでこんなふうに暮すのかと知ることができるということは純粋に面白く読める。映画『愛と哀しみの果て』の原作。
長い本だった。長い旅をしているような読書だった。あとがきにまた別の物語がある。男爵夫人となったディーネセンは気の毒にも夫に性病をうつされて治療のためにヨーロッパに戻ったこともあったとか、ハンナ・アーレントはそれを知っていたらしいということまで今となって分かっているのだが、さすがに梅毒云々というところまでは本には書かれていない。
おそらく多くの人が読んだであろう、歴史がある手垢のついた本を、図書館から借りて読んだ。その共有すら、愛おしい。
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ちなみに村上春樹の『1Q84』BOOK3単行本p105に天吾が看護婦に『アフリカの日々』を読み聞かせるシーンがあるが、サリンジャーの『ライ麦』にも『アフリカの日々』が登場するシーンがあり、春樹はそれを意識しているのかもしれないが、どう繋がるのかはいまいち不明。
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少しずつ時間をかけてゆっくり読んだ。
アフリカの自然に囲まれて動物や人々と触れ合いながらのんびりと過ごしてみたい。
いつかは行ってみたいアフリカ。
運命に抗わず、全てを受け入れる風土に憧れる。
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2016年神保町ブックフェスティバルで購入。
著者がアフリカで農園を経営していた時代のことが綴られている。
風景描写の美しさと、ノスタルジーに溢れた内容が魅力的だった。結果的に経営は失敗で、アフリカを去らざるを得なかったのが、全編に漂う郷愁の原因なのだろうか。