紙の本
スコットフィツジェラルドの自伝的な要素を感じる作品
2023/06/30 06:39
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投稿者:a - この投稿者のレビュー一覧を見る
人生の中で決して良いとはいえない決断をしてしまった人々の悲哀を丁寧に暖か味を持った描き方をしている短篇集です。フィッツジェラルド自身の苦悩に満ちた後半生が反映されています。
紙の本
フィッツジェラルドの作品には固有の世界がある
2001/02/17 02:05
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
五編の短編と一編のエッセイからなる。いずれも絶品。最初の一頁からフィッツジェラルドの世界が広がり、一読、後を引く(というより、何かの拍子に叙述の細部から全体に漂う雰囲気まで含めて丸ごとふいに甦ってきそうな)独特の香りが残る。心の中にしっかりとフィッツジェラルドのための一区画が用意されたようだ。つまり、これから先いつでも安心して彼の作品を読むことができるということ。安心してとは、扱われる題材や登場人物の差異を超えて、あらかじめ期待する読後感がそのつど新鮮な思いとともに得られるという意味。
フィッツジェラルドの作品には固有の世界がある。たとえばこのことを、私がいちばん気に入った作品「氷の宮殿」で見てみよう。これは輝かしい文壇デビューを飾った1920年、24歳の時に書かれた作品で、あらすじはとてもシンプルだ。南部育ちの少女サリー・キャロルは北部の青年ハリーと婚約して、雪の季節に彼の故郷を訪れる。地上三階建ての氷の宮殿で催された松明行列を見物したあと、サリー・キャロルは宮殿の地下迷路でハリーとはぐれ、二時間ばかり氷の中に置き去りにされる。発見されたとき、彼女は「家に帰りたい!」と絶叫する。
この作品はまるで合わせ鏡のように、異なった世界を混在させている。南部と北部、金色の陽光と雪の洞窟の中の松明、怠惰と快活、犬科の人間と猫科の人間、共同墓地と氷の宮殿、そして青いりんごと青い桃。反復と象徴的再現がこの作品の特徴的な「技巧」だ。そして物語は完結しない。
第1章では、「絵壷を彩る金色の絵の具」のような陽光の中で、サリー・キャロルは青いりんごをかじりながら欠伸をこらえている。北部の男と婚約したことを非難する男友達にむかって彼女は言う。私の中には二人の私が棲んでいるの。一人はあなたの好きなものぐさでけだるい私。だけどそれとは別に私の中には一種のエネルギーのようなものがあって、それが私を冒険へと駆り立てるの。
第2章。サリー・キャロルはハリーと共同墓地を訪ね、29で死んだマージェリー・リー(サリー・キャロルは彼女の生年と没年、名前しか知らない)への憧れに似た思いを語る。
第3章。ハリーの住む街へ。初めて見る雪。そこで9歳年上の文学部教授デンジャラス・ダン・マグルーと出会い、好きになる。「犬科」のハンサムな男達の中にあって彼は南部の男と同じ「猫科」であった。
第4章。ハリーの母親と妹への嫌悪。因習の化身で個性のかけらもない女達。そしてハリーの「まったく南部人ときた日には」という何気ない言葉に端を発する深刻ないさかい。
第5章。10年ぶりのカーニヴァルで作られた高さ50メートルの氷の宮殿での松明行列。地下の迷路での出来事。「北の化身」とともに闇の中に取り残されたサリー・キャロルの脇にマージェリー・リーの幻影が現われ、デンジャラス・ダン・マグルーが彼女を発見する。「ここから出して! 家に帰りたい! 明日よ! 明日よ!」
第6章。再び金色の陽光の中でサリー・キャロルはけだるく青い桃をかじって男友達がやって来るのを眺めている…。
物語は一巡して振り出しに戻っている。はたしてその間の出来事は彼女の夢だったのか現実だったのか。この作品で駆使されたフィッツジェラルドの「技巧」は決してきらびやかでも独創的でもない。でも、完璧に人生の(というより「青春」の)時間の構造を再現している。
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例えば人生に置ける喪失だとか、過去の栄光だとか、そういう体験を文章で追うことに、どんな意味があるんだろうか。
でも、ただただエンターテイメントな小説ばかりならつまらない。
すくなくとも、心に残るこの重みは心地いいなと思う。そしてたぶん、それを作り出せる作家は本当に少ない。
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単純だが、「翻訳夜話」に影響されて…。フィッツジェラルドは「華麗なるギャツビー」しか読んだことがなかったが。短編も彼の個性が溢れている。美しい文章と印象的なセンテンスとそこはかとない喪失感と哀しさ。冒頭の村上春樹によるフィッツジェラルド解説を読むといかに彼と彼自身の作品が不可分であるかがわかる。本当に作家とは因果な商売なんだな…。タイトルの「マイ・ロスト・シティー」は、フィッツジェラルドの「失楽園(ロストパラダイス)」なんだな、とも思える。 (2003 Sep)
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手ごろな長さのフィッツジェラルド短編集含むエッセイ。「氷の宮殿」「残り火」「マイ・ロスト・シティー」が好き。ですがグレードギャツビーほど身にしみて感動はしなかったかもしれない。冒頭の村上さんみたくいつかいきなりバーンと思い出すことがあるのかなー、と楽しみにしつつ。夜はやさしも読みたいな。
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夕闇の気配を前に自身の前途を鑑みて叫び、逃げ出したくなった時、この本のことを思い出しました。
嘘ばかりの本ですが、とても優しい本です。
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フィッツジェラルドの6つの短編集。
冒頭に、日本でフィッツジェラルドが再評価されるきっかけを作った村上春樹による「フィツジェラルド体験」という文章があり、この文章自体が歴史的価値があると思う。
ここに訳された6つの短編小説はいずれもそれまで日本語訳が存在していなかったという。こんな有名な小説家のすぐれた短編がよく半世紀の間翻訳されずに放置されていたものだと思う。いかにそれまで日本でフィッツジェラルドに対する注目度が低かったかということだと思う。
僕は6つの短編にもましてこの村上の文章自体に高い価値を認める。わくわくするような文章だ。
最初に「残り火」という強烈な印象を与えるものを置いている。小説技法的にはストレートでひねりがないが、内容がガツンとくる。
この本で僕がいちばんいいなと思ったのは「失われた三時間」。O.ヘンリみたいにトリッキーで、しかも心にしみる。
「アルコールの中で」は、最後に出てくるあるイメージがこの小作品の核になっているが、「ノルウェーの森」「太陽の南国境の西」「スプートニクの恋人」あたりの村上作品に共通するものを感じる。
「哀しみの孔雀」と「残り火」はテーマに共通のものがあるが、「残り火」はフィッツジェラルドの初期の作品、「哀しみ-」は作家としての人気が凋落した後に書かれたもので、その雰囲気の違いが興味深い。僕は「残り火」のしっとりした情緒をより愛する。
「氷の宮殿」は小説技法という意味でうまく、いい雰囲気も持っているが、内容としてフィッツジェラルドの本質から遠いのであまり強い印象を持たなかった。ただこの作品はフィッツジェラルドの中でもかなり評価が高いようだ。
この本のタイトルにもなっている「マイ・ロスト・シティー」は小説ではなくてエッセイ。小説技法を期待してよむと肩透かしをくらう。しかし20年代のアメリカの風俗を知るうえで貴重な資料だと思う。
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僕の手もとにある単行本の奥付を見たら、
昭和58年刊行でした。
ちょうど大学にはいった頃か、
ボクは文学部にいて、
片っ端から、本を読んでました。
ネットもケータイもなかった時代、
ボクたちはアジアの片隅の小さなアパートから、
本だけをたよりに、世界を眺めていたのでした。
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ちょっと変わった構成の短編集で、エッセイが一本入っている。でも、雰囲気は収録されている小説と似ている。軽いんだけど、物哀しい。都会的なんだけど、素朴さが残っている。それがフィッツジェラルドの魅力なんだね。それにしても、村上春樹の翻訳は読みやすい。
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※自分用メモ
【出会い】
ブックオフ105円でなんとなく。
【概要】
スコット・フィッツジェラルド短編集。村上春樹訳。
【感想】
冒頭に訳者の時代背景を含めた解説があり、それを踏まえると作者の心境へ想像をはせながら読むことができる。
もしかしたら、時代背景という点ではバブル世代は共感をもって読めるのかもしれない。
個別の作品としては、「失われた三時間」の凝縮された起承転結と心情描写に魅せられた。
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The Crack-up がフィッツジェラルドの影響によるものということから。
フィッツジェラルドの代表作といわれるものではない作品6編を収録。訳は村上春樹。冒頭には彼による詳しいフィッツジェラルドの伝記も載っている。
どんな幸せにも哀しみが混じる。同じ場所にとどまることはできないから。それでも、その土地で生きた人々の証は身体から離れることなく、いつも傍にあるというやさしさ。1920年代というアメリカに生きたフィッツジェラルドだからこそ、移りゆく時の酸いも甘いも噛み分けられるのだと思う。
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「偉大なるギャツビー」で有名なフィッツジェラルドの短編集。
村上春樹の訳だったので学園祭の古本市で買ってみました。
全体的に悲しいというか寂しい作品が多かったように思います。
それは前書きで村上春樹が言っているように、フィッツジェラルドの転落人生から来るものなのかもしれない。
言葉選びがとてもよくて、フィッツジェラルドと村上春樹がうまく調和しているように思いました。
すごく深いというかなんというか、読めば読むほど味が出て、胸が苦しくなって、言葉が心にしみてくる、そんな短編集だったような気がします。
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訳者の想いが冒頭にあるため、必然的に村上春樹の世界に引きずられてしまうような気が、、、
それはともかくどの短編も諦めと言いましょうか、静かな悲しさに包まれた雰囲気を纏っている。
狂騒的な時代に嫌悪感を感じつつ、それに合わせていかないと様々な意味で生きていけない自己および市井の人々の悲哀をこの作家は本能的に嗅ぎつけ、かつ意図して淡々と描き出して見せた気がする。
今回の読書後の一番の好みは『残り火』かな。
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フィッツジェラルドの、美しくてどこか哀しい短編を、若かりし村上春樹が訳しているもの。このころの村上春樹の翻訳文体は、なんだかクリスプで少し感傷的で、風の歌を聴けとかピンボールとかを思い出す感じだった。なんとなく哀しさに酔っているような。それはそれでとても心に刺さるのだけれど。翻訳自体は、わたしは岩波のフィッツジェラルド短編集がとてもとても好きなのだなと改めて感じた。
フィッツジェラルドは相変わらず、ストーリーをそこまで克明に思い出せないのに、読後感だけズルズル引きずってしまうような短編ばかりだなあと思う。ちょっと古いけれど、いい本だなあ。