近代性の構造 「企て」から「試み」へ
著者 今村仁司
鐘楼が時計にかわったとき、近代は始まった。そして、いま――。人種・環境・差別・体制……。山積みの問題に、世界はあえいでいる。のりこえる道はあるのか。切断線としての1968...
近代性の構造 「企て」から「試み」へ
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商品説明
鐘楼が時計にかわったとき、近代は始まった。そして、いま――。人種・環境・差別・体制……。山積みの問題に、世界はあえいでいる。のりこえる道はあるのか。切断線としての1968年の意味を問い直し、時間と機械の精神が支配する「近代性」の根源を洗い出し、脱-近代を「試み」る意欲作。(講談社選書メチエ)
目次
- プロローグ──歴史哲学からみる現代
- 第一章 懐疑される近代──切断線としての六八年
- 第二章 近代性の根源──時間論
- 第三章 制作される近代的世界像──機械論
- 第四章 メカニズムとしての近代市民社会──自己規律論
- 第五章 「排除」と「差別」の近代を超えて──異者共同体論
- エピローグ──「試みの精神」
- 六一人の思想家たち
- ブックガイド
- あとがき
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ラストの禁じ手が強烈です。
2003/08/08 11:27
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:とりふね - この投稿者のレビュー一覧を見る
かたい文章の背後に人がらのようなもの(とてもいい人!!)が見えるので
この先生の書いたものに興味がある。
本書は1994刊と古いが、今の世界とわたしの現実にいちいちあてはまり、
(わたしには難しいところもあるが)面白く読んだ。
講義がもとになっているらしく、同じ著者の
「交易する人間」より平明。できのよい教科書的な読みやすさだ。
著者は1968「プラハの春」「パリの五月」により
第二近代は終焉を宣告され、第三近代への過渡期に入ったと言う。
わたしの個人的な文脈から笑うほどおもしろかったのが下記。
けれども宣告は宣告でしかなく、
我々の現実はまさに第二近代の最先端になっている。
過渡期とは、前時代の勢力が絶頂に達する時期でもあるのだ。
思わず膝を打ってしまいました。
もちろん、例のニューヨークのテロを中心とする
世界や日本の現状にも、なのだが
現在わたしを息苦しくしている
仕事場の現実にあまりにもフィットするので。
なるほど、あれは第二近代の権化であったか。
そう言われると、
息苦しさにネガティヴに反応しているだけの段階から
次の段階にすっと移行できるような気がするから不思議だ。
哲学者の先生はえらい。
マクロもミクロもぴたりとあてる。
よくあたる占い師みたい。
今村先生にファンレターを書いてみたい。
先鋭化した第二近代について語るため、
仕事場のお友達にもついこの本をすすめてしまったことです。
著者の示す近代の特徴。
「正確さ」というものに病的に取りつかれた時代。
「企て」中心の方法主義。体系主義。純粋主義。
直線時間。
「未来」を先取りし、現在に取り込む「進歩」の理念。
自然を、すべてを機械(メカニズム)としてとらえる態度。
非人間を人間から差別し排除する構造。
それをのりこえるために著者は、
あいまいさを代価として支払い
エッセー的スタイルの思考をすることを提案する。
第五章 「排除」と「差別」の構造を超えて は
本書の中でもわたしにはもっともわかりやすかった。
目新しい考え方ではない。
どちらかと言えば、
昔からそれはわかってるよ、
というようなことがまとめられている。
自分が感じ、考えていたことが
間違いではなかったのだな、と確認する。
ただ、おおっと思ったのがラスト。
示した問題に対して
今村先生はどういう解決法をしめすのかなぁと、
興味シンシンで読み進めていくと、
「えーっ、それを言っちゃぁ反則じゃっ!?」
いや、否定するわけではないんですが…。
人間中心主義は人間/非人間の切断線を立てるところには
いつでも発生する。
排除と差別の根絶への期待は絶望的だが、
絶望的だと判断することが、まずは出発点になる。
その判断については古来欺きの言説が多すぎたし、今もそうである。
欺きのイデオロギーの正体をつきとめて、
欺くことに加担しないことが必要だ。
正義は、常に人間ではなく非人間のほうにある。
差別と排除のメカニズムをのりこえるためには
自分の中の「異者」に気づき、
自ら「異者になること」だけがとるべき道である。
って、ねぇ。
そのようなカードをきっちゃってよいのでしょうか??
そりゃ、もう、宗教じゃないの…。でもいい人だ…。
注 わたしは、とくにいじめられっこではありません。
どっちかというと潜在的にはいじめっこかな…。