紙の本
謎解きの面白さで読ませながら、研究の事情、時代背景などが興味ぶかく伝わってくる。
2007/06/01 15:22
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
有名な「牧野日本植物図鑑」に「クワセモノ」「インチキ本」と過激な言葉で他の図鑑を批判した巻頭言があるものがあったことをこの本で知った。少し植物観察をしたことがある人なら、開いた覚えのある「牧野日本植物図鑑」。私も学生版は持ち歩き、お世話になった。それほど「植物図鑑=牧野冨太郎」のイメージは強い。著者は古本屋で村越三千男という人物の植物図鑑を見つけ、それが有名な牧野冨太郎の「日本植物図鑑」と発行の日付が殆ど同じことに気がついたことから、牧野冨太郎と植物図鑑をめぐる謎の世界へ入り込んでいく。
写生画が村越、校訂が牧野、という図鑑があったり、村越の図鑑の中に「図が似ているのは自分の挿図を牧野先生が其の儘使ったから」というような弁明があったり。これはなにかあったぞ、と感じさせる。古い図鑑との出会いから出版競争にあらわれた人間関係を少しずつ調べていく様子は、読んでいて謎解きの楽しさがある。そしてそこから、明治以来の植物学研究の状況、教育の問題など、さまざまな図鑑をめぐる時代背景も垣間見えてくる。明治に初めて国定教科書ができたとき、理科は「教科書なし」だったというのもあまり知られていないだろう。
牧野冨太郎が最初は寺子屋で学び、飛び込みで東京大学に出入を許されるようになったことなどから初め、簡単な牧野の伝記にもなっている。明治の、大学ができてまもないころはこんなだったのか、と当時の雰囲気も感じられて面白い。「洋行帰り」のエリートに反抗するような牧野の性格・行状などもよくわかる。考えてみれば図鑑の頭に個人名がついている、というのも不思議なものである。大学の権威には屈しようとしなかった牧野も、有名になれば「名前」という権威を無視はできなかったということだろうか。ここにかかれた植物図鑑にあらわれた「攻防」にも、そんなものがにじんでいる気がする。
どんな形であれ、業績を残そうとするとどこかで他者との競争があり、様々なドラマが残される。ここに書かれた話も、そういったものの一つに過ぎないのかもしれない。しかし、その一つをじっくり見ていくことで、共通するものもまた明らかになる。
なかなか面白くよめる一冊であった。惜しむらくは、著者の推理の真偽のほどは藪の中、ということだけである。
紙の本
牧野富太郎のライバルとは誰だったのか?
2000/12/06 09:59
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:三中信宏 - この投稿者のレビュー一覧を見る
植物学者・牧野富太郎の植物図鑑の出版をめぐる、「ライバル」村越三千男との確執をたどった本であるとのこと。前半(第1章)は「伝記」、後半が「推理」です。巻末の略年表(牧野と村越のかけあい)は、都立大・牧野標本館の開設(1958年)で結ばれています。明治期の植物図鑑群が、ナチュラリスト対象ではなく、主として「初等児童教育」の資料として数多く出版されていたというのは興味深い指摘です。
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目次
序 章:牧野植物図鑑との出会い
第1章:牧野富太郎の人間像−型にはまらぬ破調の美
「博物図」に見入った子供時代
近代植物学の夜明け時に頭角を現す
個性的で話題の多い私生活
牧野富太郎の業績
第2章:牧野植物図鑑の謎を追う
第一の謎●牧野富太郎と村越三千男の間に何があったのか
『日本植物図鑑』と『大植物図鑑』の出版競争
第二の謎●植物図鑑は牧野富太郎の発明品か
植物図鑑のルーツを探る
第三の謎●なぜ明治40年ころには多くの植物図鑑が現れたのか
理科の教科書は身近な自然
第四の謎●牧野が『牧野日本植物図鑑』で「警告」した相手はだれか
おわりに
主な参考文献
略年表
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紙の本
さて、どうやって取り上げられるだろうか。
2022/07/12 00:26
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
牧野富太郎が明治末に関わりを持っていたが、何らかの形で仲違いした(図版を無断引用された?)村越三千男という忘れられた画工出身の著述家について、よく調べたものだ。この本には出て来ないが、検索すると昭和末にはまだ著作が販売されていたようだ。村越の没後に牧野富太郎が監修したという名義の図鑑が再版されたというのも面白い。
「マッサン」が放送された時に新潮文庫で絶版だったニッカの創業者の伝記が復刊していたけれど、来年になったら、この本が復刊するだろうか。あるいは誰が村越をモデルにしたような人物を演じるだろうか。
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植物学者としての業績の他に学者としてノンキャリアだった
ハンデと苦しみ、ライバルとの確執など人間くさい内容が面白い。
西武池袋線大泉学園駅徒歩5分の所に牧野記念庭園があって
牧野さんや植物に関心がある方は是非訪ねられるとよい。
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浦野所有
かの有名な『牧野植物図鑑』には、発刊当時、強力なライバルが存在しました。その相手である図鑑づくりの名手・村越三千男と、牧野富太郎の生涯を追いながら、「牧野が現代の『図鑑』のひな形をつくった」という伝説の真相を探ります。牧野富太郎の破天荒な生きざまも紹介されているので、植物好きでなくても、読み物として楽しめる1冊です。
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[ 内容 ]
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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牧野富太郎の厳格で、ずぼらという「破調の美」
という人間性をうまく描き切れていないが、
しかし、その歴史的な流れを詳しく書いてあり、
おもしろい。
1862年 5月22日 に 牧野富太郎がうまれたが・・・
その前日・・・・
5月21日(文久2年4月23日) - 寺田屋事件があった。
坂本竜馬 26歳のとき。
そういう 時代の人であることに 驚く。
牧野富太郎の影の存在としての村越三千男。
村越は、つねに時代感覚にすぐれた
編集者だったのかもしれない。
そういう意味では、牧野は、
つねに植物の「泰斗」たろうとした。
何か、とてもおもしろいものを感じました。
牧野富太郎は 日本の植物学の基礎をつくったことは
間違いないといえる。
しかし、今はほとんど忘れられている 村越三千男 という存在を
うきぼりにしたことがこの本の優れたところだろう。
牧野富太郎の編集能力と村越三千男の編集能力は
時代を捉えるのは あきらかに 村越三千男にあったのだろう。
牧野富太郎は ある意味では 不器用な世の中の生き方をした。
が 結果として 後世に 評価された。
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植物の本ではない。あまりにも有名な牧野日本植物図鑑の裏に、ライバルがいた、という話。
牧野富太郎は「一方でズボラと見える時は必ず一方で精励して持ち前の凝り性を発揮して居る」という、なんだか嬉しくなるような性格の持ち主で、それ故大学でも次々ぶつかっていく。一方のライバル、村越三千男は、残された資料は少ないものの、当初既に植物の権威であった牧野に仕事を頼みながら、やがて離反していく。破天荒でありながらメジャーになった牧野と、無名ながらもその実績は牧野を脅かした村越。後世の名声のほとんどは牧野のものになる。しかし、「牧野日本植物図鑑」と名乗ることになった背景には村越の存在があるはずだと著者はいう。当たり前だと思っていた「一番」の影にあった別の「一番」を知る興奮、好奇心。ニコラ・テスラのことを始めて知った時のような、知らなかったことの愉しさ。
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「自負心」というものについて、考える。牧野富太郎の、植物学に対する並々ならぬ自負心。それが、村越三千男というライバルによって、よいもの、唯一のものへの強いこだわりになったのであれば、植物学の普及において、村越氏の仕事が忘れられていることは残念。エジソンとテスラ?
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日本の植物学の父とされる牧野富太郎の植物図鑑と、それとほぼ同時に発行されたとある植物図鑑にまつわる謎を明治時代のレアな文献までたどって解き明かした、ある意味歴史ミステリー。
今となっては無名の植物図鑑作者にスポットライトを当てつつ、牧野博士の人柄にも迫る。
よくここまで調べたな、と。
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数年前に高知県の牧野植物園で、牧野さんの仕事を初めて知って以来、特にボタニカルアートとも言える、植物の写生や彼の描いた雑誌の表紙の美しさから、彼のちょっとしたファンだった。そんな彼の人間性のようなものを見られる気がして読んだ。
特に驚きだったのは、明治40年頃というのが、日本の理科教育においても、あるいは高山植物を含む植物学の分野においても重要な時期だったこと。そしてその時期に、植物図鑑の出版競争が起こっていたこと。その理由を教育史や登山史にまで求めて記した著者の情報収集の緻密さに感服した。
かなりマニアックなテーマではあったが、面白くてあっという間に読了。次回植物園にいったら、また違った見え方になりそうで楽しみ。
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この本の執筆時点での10年程前(なので1990年ころか)著者の俵氏は古本屋で牧野富太郎の「日本植物図鑑」を買った。さらに数か月後、村越三千男の「大植物図鑑」を買った。そして2冊の奥付をみて驚く。なんと初版印刷日が、牧野のは大正14年(1925)9月21日、発行が9月24日。村越のは印刷大正14年9月20日、発行9月25日。さらに第二版、三版、四版、の改訂日付も追いつ追われつなのだ。そして牧野「日本植物図鑑」は自伝や伝記で言及されていないのだ。これは出版をめぐって何かあったのではないか?
村越三千男とはどんな人物なのか? 俵氏は仕事の合間に、明治大正昭和の植物図鑑を調べ、その謎に迫ってゆく。そこに現れたのは、明治初期の日本の初等理科教育の実情と植物図鑑の関係、そして図鑑という形式そのものの発現過程だった。また牧野の一生を植物図鑑出版史もからめながら人間像を記した。これがおもしろい。いままで読んできた自伝や小説のなかで一番わかりやすく、実のあるものだった。
文部省は明治37年に国定教科書を作ったが理科だけは自然に親しむとして作らず、それが明治40年前後に植物図鑑類が多数出版される状態を作った。そういった中で元教師の村越は教師のために次々と植物図鑑類を作った。だが明治44年に理科も国定教科書が作られると、大正時代には図鑑類出版は停滞してしまう。そして村越「図解植物名鑑」(1924)を経て、大正14(1925)の村越「大植物図鑑」と牧野「日本植物図鑑」の時代になってゆく。・・さらに昭和15年(1940)「牧野日本植物図鑑」が完成。これは現在も増補改訂されて出版されている。
メモ
著者は1930年生まれ。千葉大園芸学科を出て国立公園レンジャーの第一期として働く。学生時代、仕事とも「牧野植物大図鑑」は必需品だった。
さて村越三千男とは明治5年(1872)埼玉生まれ。牧野より10歳下。埼玉師範、東京美術講習科を卒業して、浦和高女、熊谷中学校(現熊谷高校)で植物学と絵画を教えていた。が、当時の小学校教師などの植物知識のばらつきを感じ、植物図鑑を編集すれば役に立つのでは? ということで明治38年に教師をやめ、明治39年6月「普通植物図譜」を発行。その時牧野富太郎に校訂を頼んだ。これは小学校の先生方に好評を博した。さらに続けて牧野の校訂で明治40年「野外植物の研究」「実用学校園」、明治41年「植物図鑑」を発行。・・だが発行元の経営不振により版権が北隆館に移ると、牧野は校訂料を北隆館に請求するも筋違いとして却下。しかし本は好評で版を重ねると、奥付から村越の名前が消えてしまう。・・最初はいい関係だったがだんだん二者は離反してゆく。
村越はさらに充実した植物図鑑を着手中と大正9年ころから自身の出版物で記す。一方北隆館に版権の移った「植物図鑑」は好評で売れていたが、牧野の弟子で植物学者の三宅麒一が、最新の知識で大改訂の必要があると主張し、北隆館は、原著者の村越とは縁が切れてしまっているので、大正11年改訂を牧野に頼んだが、なかなか進まず、出版期日の迫った北隆館は最終校訂を牧野にみせずに出版。だが出来上がった本をみて牧野は直ちに34葉からなる正誤表をつけた。・・というわけで大正14年の「日��植物図鑑」は牧野にとっては不本意な出版物になってしまった。おまけに村越の「大植物図鑑」には仲たがいした松村教授が序文を寄せていた。と、なかなかにドラマチックな出版史なのだった。
現在も名が残る牧野、対して忘れられた村越。この差は? これは学者・研究者と一般編集者の違いだったのかな、と感じた。東大の研究室対師範学校か。俵氏は1998年に木村洋二郎東大名誉教授と小野幹夫東京都立大学名誉教授に直接会い、村越と牧野のことを聞いている。木村氏は若い時「牧野日本植物図鑑」の原稿の下書きを手伝った。中学生時代には村越「大植物図鑑」を愛用し植物の名を覚えたという。小野は小学生の時から牧野主催の植物愛好会に参加、都立大で牧野標本の整理をした人。二人によると、当時の東大関係者は村越のことをまったく意識していなかった、という。・・・要するに村越はあくまでもアマチュアであり、専門の植物研究者ではなかった、ということだろう、と俵氏はしめる。
さらに、牧野が1940「牧野日本植物大図鑑」の巻末で囲みの警告文を書き、勝手に使ってはならぬ、インチキ本もある、とした相手は村越か、との問いには木村先生は、それ以外には考えられないんじゃないですか、と答えた。
村越三千男は植物学の専門家ではなかったが、図鑑を通じて植物知識を普及することに関しては、明治末期から昭和の戦中・戦後まで大きな足跡を残した。それにスポットをあてたい、との願いもこの本には込められている。
1999.9.21初版第1刷 図書館