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収録作品一覧
招き猫 | ブルース・スターリング 著 | 9-38 |
---|---|---|
クラゲが飛んだ日 | ブルース・スターリング 著 | 39-114 |
小さな、小さなジャッカル | ブルース・スターリング 著 | 115-198 |
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紙の本
日本びいき
2001/07/15 03:48
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:トリフィド - この投稿者のレビュー一覧を見る
スターリングというと『スキズマトリックス』、『蝉の女王』という人は、この短篇集にはちょっと違和感を覚えるかも。
〈生体工作者/機械主義者〉シリーズの、暗黒の深宇宙と異質な人々(いや、「ポストヒューマン」か)、異様な概念に満ち溢れた、日常からも現在からも遠く隔たった変容したあの世界をスターリングの名前と重ね合わせている人は、ちょっと驚くかもしれませんね。
90年代の短篇を集めたこの短篇集では、物語の舞台はこの地球へ、それどころか日本へと、日常に近い世界、見知った世界、馴染みの世界へと移ってきています。ハイテンションでとんがっていて、少々パラノイアじみた雰囲気のあったサイバーパンクのスターリングと比べると、カドが取れたというか、丸くなったというか、おとなしくなったというか、地に足がついたというか、ちょっと淋しい気もしました。
著者序文にいろいろと書いてあるのですが、スターリングの日本びいきは本格的ですね。最初の作品「招き猫」は東京を舞台にしていますが、日本人の作家が書いたとしても違和感がないくらいぴったりはまっています。オドロキです。
表題作でありヒューゴー賞受賞作でもある「タクラマカン」は、昔っぽいというか、『スキズマトリックス』的なスターリングが顔を覗かせていて良い感じでした。大変楽しめた短篇集でした。
解説によると、未訳のスターリング作品がたくさんあるようですね。どんどん翻訳されてほしいものです。
紙の本
全方位の視線
2001/02/17 01:30
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:檜 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者序文の日本礼賛がこそばゆい。
不況にあえぎ政治の混迷する日本にスターリングはエールを送ってくれているのだとは思う。
でもやっぱりこそばゆい。
目玉であるチャタヌーガ三部作は、なにかを書くにはぼくの手に余るので——正直なところ、スターリングのとっつきにくさ大爆発だ。わからないということはないが、疲れる。表題作「タクラマカン」は文句なしにおもしろいけど。大森望氏は「自転車修理人」のラストで爆笑したそうだ。なにがそんなに可笑しかったのだろう?——冒頭の「招き猫」に触れたいと思う。
最初に日本に書き下ろされたこの小品は、ネット社会の未来についておもしろい視点を持っている。
ぼくたちが思い描くコンピュータ未来社会は——サイバーパンクの悪影響かもしれないけれど——いささか暗い。深刻なプライバシー侵害、ネット詐欺、クラッカーの暗躍。
しかし「招き猫」が描く日本はそれと正反対だ。
そこにあるのは善意なのである。ネットを通じてだれもがその人が必要としているものを知ることができ、それを融通しあっている。アメリカのエージェントは既存の秩序を守ろうと汲々としていて、やりこめられる。
スターリングの視線は全方位に向いている。
あと、テクノスリラー「小さな、小さなジャッカル」も楽しい。だってほんとうに“テクノ”だから。
紙の本
“箸休め”なしの贅沢な短編集
2001/02/19 17:25
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:冬樹蛉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
たとえば、あなたが一日に必要な緑黄色野菜を野菜ジュース一本で摂るタイプの人であったとしたら、向こう一年分の“SF成分”必要最少量は、最近出た二冊で十分に摂取できる。グレッグ・イーガンの『祈りの海』(山岸真訳、ハヤカワ文庫SF)と、この『タクラマカン』だ(あくまで“必要最少量”ですぜ)。
小川隆氏の解説にもあるように、スターリングはもはや“サイバーパンク”の作家ではなく、SF界を代表する作家だ。そう目される理由はいろいろあるだろうが、私はスターリングの最大の強みを二点に絞りこんでいる。
ひとつは、彼はもともと“未来人”である点だ。視点ははじめから未来にある。たまたまなんらかの方法で現代に現われて、故郷のようすを小説に書いているだけなのである。よって彼の小説は彼にとっては“いま”の話で、彼にとっての“いま”の種になる(と彼は知っている)現代のことどもを、まるで懐かしむがごとくに小説に盛り込むのだ。え? それじゃあ、未来の通常小説になってしまって、SFらしくないのではって? たしかにウィリアム・ギブスンはそうかもしれないが(それはそれですごいことだ)、そこがスターリングの不思議なところだ。未来人じゃない作家が現在を描いてSFを成立させることができるように、未来人のスターリングは、未来の目で未来を見ているのに、ちゃんと未来人をも驚かせるにちがいないものの見かたをしてくれる。彼は、未来から過去にやってきて未来のことを書けば自動的にSFになるだろうなどと甘いことは考えていないはずだ。未来でもSFと楽しめるものでなくては、過去の人(つまり、われわれだけどね)の度胆を抜くこともできないと知っている。
いまひとつのスターリングの強みは、SFで“中景”が描けることだ。SFの強みであり同時に弱みでもあるのは、個人の物語、いわば“近景”が、いきなり神やら宇宙やらの物語、“遠景”に繋がってしまいがちなところで、力量のない作家がそれをやると、はなはだ薄っぺらい、おもちゃっぽい印象を与えてしまう。だが、スターリングはちがう。個人の“ひとまわり”外にあるコミュニティーや組織や社会や国家といった“中景”を、切れば血の出るリアリティーで骨太に描くことができる。個室に閉じこもって宇宙をオモチャにしているつもりのオタクの妄想とはわけがちがうのだ。
本書は、そんなスターリングのラディカルな作品が詰まっている、いま最も贅沢なSF短篇集である。どの作品も濃密で“箸休め”などない。ラディカルであることは現実的であることだ。最もラディカルな思索は、最も地に足の着いた頭脳が飛翔するときに生み出される。とくに、《チャタヌーガ三部作》と呼ばれる「ディープ・エディ」「自転車修理人」「タクラマカン」の三篇は、まさに個人−社会−宇宙をテクノロジーで串刺しにするスターリングSFの醍醐味を存分に味わわせてくれる。NAFTA、EU、アジア協力圏と第三世界が対立する二一世紀半ばの近未来でひと癖もふた癖もある“ディープ”な人物たちが躍動する物語は、どんな倍率のレンズで読む者も魅了せずにおかないだろう。
(冬樹蛉/SFレヴュアー http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ray_fyk/)