紙の本
本というメディアを考えてみよう
2002/03/17 10:44
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投稿者:読ん太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
読んだ後に、何とも言えず幸せな気持ちになれる本だった。
本が好きで、明けても暮れても本を読んでいる私だが、時々、「いったい何のために?」という漠然とした虚脱感に襲われる。記憶力がいいわけでもないので、読んだ端から忘れてしまう。「徒労」という二文字が悲しく頭をよぎっていく。
長田さんは、『読んだら忘れてしまえるというのが、本のもっているもっとも優れたちからです。(中略)再読できるというのが、本のもっているちからです。』と、言う。えっ、そうなの?と、自分の顔がやや明るくなった。が、どうせ忘れてしまうのになぜ読むのだろう? 長田さんは言う、『もう一つの時間への入口を気づかせるということが、そもそも本のいちばん大事な仕事だからです。こちら側だけの考えでは計れないものが、そこにあるということを思いおこさせるのが、本のひそめているちからです。』。すなわち、本は記憶の目安を提示してくれるもの、そして、この記憶の目安を与えてもらうことによって、自分にとってのとりかえのきかない記憶が引きだされ、引きだされた確かな記憶によって自らの日々に必要な物語がつくられる。自分の人生を歩めるというわけだ。
本はこのように読みなさい、とか、名作を読みなさいという類の事を、長田さんは一切言わない。ソフトウェアとしての本について良悪は言わない代わりに、唯一、ハードウェアとしての椅子、読書のための椅子については多くの紙面を割いている。『本を一冊読もうと思ったら、その本をどの椅子で読もうかと考えられるなら、いい時間をきっと手に入れられるだろうと思うのです。「その椅子でその本をぜんぶ読める」ような椅子を見つけられるかどうかで、人生の時間の景色は違ってきます。』と長田さんは言う。私もこの意見には大賛成で、すでに実行に移してもいる。数年前に清水の舞台から飛び降りたつもりで一人用ソファを購入した。何しろ、家中の家具の中で一番高価であり、身の丈以上の買い物であった。しかし、このソファは何時間座っていても疲れない。興に乗ったなら、飲まず食わずで一気に読んだとしても、体のどこも痛くもならない。読んでいる内に眠くなったなら、ピヨッと足をだして体を横たえることも出来る。この椅子によって、私の人生の時間の景色は違ってきたのだ。長田さんの言う、『自分にとって本を読みたくなるような生活を、自分からたくらんでゆくこと』が非常に大切なことを実感している。
子どもの本についても長田さんは熱く語ってくれる。長田さんの言葉によって、私は、子どもの本に対する自分のスタンスの取り方への戸惑いを拭い去ってもらえた。私は今まで、絵本や童話といった、子どもの本を読む場合、子どもになったつもりで読むのがいいのか、子どもに与えるならを頭に置いて読めばいいのか、などとくだくだ考えていた。しかし、長田さんは、『自分がこの本を読んでおもしろいだろうかという新鮮な眼差しで、子どもの本と付きあう』ことが大切と言う。これ、当たり前のことなのだが、自分の中に「もう子どもではない。」という何か必死の思いがあって、子どもの本の前で歪んだ自分を演じてきてしまっていたようだ。子どもの本には、擬人法がよく使われている。木がしゃべったり、人形がしゃべったり踊ったり。私も子供の頃に、ぬいぐるみを片手に、「コンチワ!」と頭の上から声を出してはおしゃべりをさせていた。今でも、声にこそ出さないが、目にする動物や物におしゃべりをさせる癖は残っていて、これは、私にとってはちょっとはずかしいことであった。それで、子どもの本を選ぶ場合も、擬人法が多用されているものは、意識して避けていた。長田さんの言葉によって、吹っ切れるものがあった。嬉しかった。
これからも本の友人として存在していきたいと思った。
紙の本
言葉の宝箱そして矜持
2004/04/04 21:46
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投稿者:高橋波子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
電子書籍の登場でわれわれの読書はどうなるだろう。
私は本に書き込みをする。統一性を持たせようとしたこともあるが、今では気分でなんでも書く。辞書で調べた言葉の意味なども書いてしまう。これらは、ハードが紙だから気軽にできるが、電子媒体ならどこまでが本体で、どこまでが書き込みかを後で見たときに分からないから、多分困る。マーカーでだらしなく線を引くこともある。これは電子の得意とするところだろう。修正も簡単だ。ページを引用するときは、書き写すしかないが、電子ならコピーアンドペーストという便利な手法が使える。
紙の本と電子の本といづれ選択を余儀なくされたらどうしよう。
そんなことを考えていたら、本棚に2年前の正月に買った本書の背表紙が目に留まり再び手にとってみた。
長田は最後に言うのである。
自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが読書です。
この本の裏表紙に私の書き込みがある。この本を買った店のことを書いてある。
「銀座の伊東屋の帰り、教文館書店に寄ってこの本を入れた。長田弘というと、みすず書房と返ってくる店員の質の高さが見事だった。近頃こんな本屋は少ない。カラフルで厚手の丈夫そうなカバーも装着するのが当然とばかりに丁寧につけてくれた。・・・、ただしこの本はNHK出版のもの。」
紙の本
失いたくない言葉の蓄え場所をつくり出す読書
2001/07/09 17:10
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投稿者:アルデバラン - この投稿者のレビュー一覧を見る
詩人、長田弘氏によって語られる読書、つまり「本という考え方」がよく理解できる一冊である。読書というのは「私」を探している本に出会うという経験であると著者が述べているが、それを実感できる本である。
情報が氾濫し豊かとされる現代社会で、言葉は記号のように単なる意味としてしか機能せず、人と人をつなぐべき共通の記憶が貧しくなっていることを静かに批判しながら、著者は今だからこそ言葉とは何か、読書が培うものは何かを教えてくれる。
めまぐるしい毎日、人の発する言葉に翻弄されすぎて、言葉の持つ言外の意味、「言葉によって指し示される心の方向」が見えなくなっている自分。
「自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です」という著者の言葉が、そんな私の心のなかで確かに留まっている。
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以前本の話をしようでお世話になった長田さん。
乱読好きとしては、自分にとっての読書を改めて
見直すきっかけになった。
読書って本を読むことではなくて、自分の中にある
言葉を豊かに育てることなんですねー。んー。考え深い。
言葉の大切さを再認識しました。
あとは子供用の本の大切さも。
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難しい言葉を一切排除したような、わかりやすい文章。
そして、本があるとはどういう生活かを深く考えさせられる。
この本を読んで、人間を人間たらしめているのは、本ではないかと思った。
とにかく数をこなして、たくさんの素敵な本にめぐり合いたいものだ。
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とある試験問題で使われていました そのときから気になって仕方なかった一冊 読書観の見直しにぴったりです 難しい表現などはなく比較的容易に読み進められます なぜかとてつもない共感を感じました
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●本という考え方。
●いい本は、いい時間がある本。
●本は友人
●本は、読まなければ、進まない。
●再読できるのが、本のもっているちから。
→再読は、忘却とのたたかいであり、必要な言葉を自分
に取り戻す方法。
●感受力・・だれかに教えてもらって、育つものではない
自分で、自分の心の器に水をやって育てるしかない。
●読書というのは、実をいうと、本を読む事ではない。
読書というのは、みずから言葉と付き合うことをいう。
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最近読んだ本の中でもかなりお勧めの度合いが高い本。著者である長田(おさだ)さんは私の一押しの詩人。
言葉についてのエッセイを200頁、書いています。
この本、買おうかしら。
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言葉というのは、とどのつまりその人の生き方の流儀であり、マナーです。言葉をゆたかにするというのは、自分の言葉をちゃんともつことができるようになるということです。自分のでない言葉に、流行の言葉や借用の言葉に、けっして自分を傾けてしまわない。どんなにおカネをもっていても、おカネで買えないものが、言葉です。人間の持ち物のなかでも、言葉だけは、赤ん坊が言葉を覚えてゆくときのようにただただ学ぶのでなければ手に入らないのです。
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8年前に読んで再読中です。「自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所を作り出すのが,読書です」
自分が引いた線と、書き込みを読み直しながら,再読の楽しいさを味わっております。
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図書館の大切さにも触れていた本。本は一回読んだら忘れてしまうことがあるが、忘れたら再読したらいい。そのためにも図書館が存在している。図書館愛好家の私としては嬉しい言葉である。
子供の本を大人が読むことの大切さ。私は子供に読み聞かせをしていて、偉人伝を読みたくなるが、図書館では子供のコーナーにしか置いていない。私は子供がいるから子供のコーナーにも入れるが、大人一人ではなかなか入りづらいと著者。確かにそう思う。
著者は詩人なので、最後の方の文は詩や作品から多く引用されていて読書の必要性がよくわかった。いい本だった。
(図書館)
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図書館でそのタイトルが目に入って手に取る。2001年発行の、詩人の読書、ことばについてのエッセイだった。
最初は、主題について似たような言い回しで、長い言い回しで外堀から埋めていくようにぐるぐる説いていくその文章が読みずらいと感じたが、読み進めるうちにその違和感も消えていた。長田さんの本への、言葉への思いがぐんぐん伝わってくる、そんな本だった。
自分の、言葉との向き合い方を。そして、娘にも何を、どう伝えていくべきなのか。どう見守っていくべきなのかということを。考えさせられた。
言葉が出ないから、赤ちゃんは泣く。だんだんと、自分の感情を伝えるための言葉を獲得していく。
育児において、まずは自分が丁寧に、大切に言葉に向き合うことが大切なのだと改めて感じた。娘が言葉をスポンジのように吸収している今、このタイミングで本書を読めて良かったと思う。
娘が小学生になるころ、再読したい。そして自分のなかの読書のあり方や、子どもと本について、その時改めて見つめ直してみたい。購入候補。近ごろは、何を読んでもどうしても育児につなげて考えてしまう。
一番、心にとどめておきたいと思ったフレーズ。
「あいまいさを切り捨ててゆくことによってでなく、あいまいさそのものを明るくしてゆくところに、求められる言葉の方向はあり、そうした方向感覚をうながすものは、競争力でなくて、感受力です。 感受力というのは、受容するちからです。他の存在によって、自分が活かされていると感じる。そうした他の存在というものをありありと感得させる。そういう言葉を手にできるかどうかで、社会の見え方、世界の見え方はまるで違ってきます。」...p144
2017/6/16
◆引用
・p75...言葉の貧しい人は貧しい、言葉をゆたかにできる人はゆたかだということを、忘れないようにしたい。そうでないと、わたしたちは自分たちの頭を、自分たちが信じてもいない言葉のがらくたで一杯にしてしまいかねないからです。
・p75...人間は言葉のなかに生まれて、言葉のなかに育つのであり、そうして、言葉のゆたかさを手に入れた人だけが幸いな人であるだろうという事情は、何一つ変わっていない。
・p79...これから質されるのは、みなおなじという等質な社会のあり方のなかから、自分のものでしかない価値、自分という独自性を見つけられるかは、どんな言葉をどのように使って、自分で自分を自分にしてゆくことができるか、あるいは自分というものがその言葉によって、どのように表わされてゆくだろうかということに、深く懸かっているでしょう。
→これまで悩んだ時や迷いがある時、日記に書くことで自分の気持ちや状況を見つめ直して救われることが多くあった。そしてAIが台頭してくるこれからの時代、人間にしかできない仕事とはと考えると、自分の経験や考えを言葉にして伝える力が大切だと近ごろ考えるようになった。そして、娘にはそんな力を身につけて、好きなことを仕事につなげられるようになってほしいとも感じている。本著は2001年の発行。15年以上前に、長田さんはこんなことを考えていたのか。
・p91...子どもの本というのは、子どものための本なのではあ��ません。大人になってゆくために必要な本のことだというのが、わたしの考えです。
・p98...大人の本の世界の前段階にあるというのでなく、大人の本の世界とむきあっているもう一つの本の世界としての、それ自体が自立した世界をもつ、子どもの本という本のあり方です。
・p103...本は上手に読まないと、うそみたいに何ものこらない。上手に読むというのは、読んでよかったと、自分で自分に言える経験をするということです。
・p111...本を読むというのは、その本のもっている時間を手に入れるということなのだということを、よくよく考えたいのです。
・p111...共通の話がなくなっている 情報のチャンネルがふえ、ツールがふえ、情報が氾濫すればするほど、めいめいはむしろ、分断されて、孤立しがちになり、かつてはともにできたものも、おたがいのあいだ共にできなくなった。そしてそのことを、だれももう怪しみません。 共通の話がなくなっているのは、共通の時間を分かちもつという感覚が失せてきているということです。こっちではこれ、そっちではそれ、あっちではあれというふうに、選択肢がふえて、ますます情報がゆたかになったはずが、その反対に、共通の話、共通の時間をどれだけ共にできているかということでは、じつは以前よりずっと貧しくなってきているのではないでしょうか。
・p117...アメリカで(中略)いままで物語なんか書いたことのない人たちが、それも50歳を過ぎてから初めて物語を書きはじめて、上梓されるや、注目されて広く読まれるということがつづきました。(中略)ロバート・J・ウォーラーの『マディソン郡の橋』(中略)『リバー・ランズ・スルー・イット』という映画になった、ノーマン・マクリーンの『マクリーンの川』(中略)ハワード・オーウェンという人の『リトルジョンの静かな一日』(中略) どの物語にも共通なのは、自分にとって大切な記憶とは何かを主題にしていること。記憶が主題になるのは、わたしたちはいろいろなものをゆたかに手に入れてきたと思っているが、どうも大切な記憶をなくしている。書くと言うのは、そうしたなくした記憶をみずからたずねるという行為です。
・p122...だれもがみんな別々ですが、だれもがみんな別々というのは、多様性とは違います。
・p123...世界の見え方を左右するもの 子どもの本という本がおおきな意味をもってくるのは、まさしくそうした、おたがいをつなぐべき共通のもの、共通の価値観、共通の記憶というものに係わってくるのが、子どもの本という本だからです。 自分の目の前に、こういう子どもの本があったということを、大人になった自分のなかに、どれだけ記憶としてもっているか、もちつづけているか、あるいは逆に、そういう記憶をまったくもっていないというのでは、もうそう言ってよければ、世界の見え方は思う以上におそろしく違っているでしょう。
・p137...これからやってくるだろう、子どもがどんどんすくなくなってゆくだろう社会において変わらざるをえないのは、そのような勉強というもののかたちです。学ぶということが、勝つための、あるいは勝てなかったら負けてしまうような、競争のための勉強とは違ったかたちをもつことができなくては、先がなくなって���るからです。(中略)子どもがどんどんすくなくなってゆく社会では、他人に勝つために勉強する必要より、もっとずっと必要なのは自分を確かにするためにする勉強であり、自分を確かめる方法としての勉強がいっそう求められます。 自分を確かにするのになくてはならないものは一つだけ。言葉です。自分を確かめるちからをくれるのが言葉です。
→激しく共感した。娘の将来を考えた時、思うことがまさにこのことだった。寿命もさらに延び、AIが台頭してくるであろうこれからの世界。伝える力を身につけて、自分の好きなことを、興味があることを仕事につなげられる人に、生きる力につなげられる人になってほしいと思っている。
・p142...わたしたちは言葉のなかに生きていますが、意味のなかに生きているわけではありません。そうではなくて、むしろ、あいまいさのなかで生きていると言うほうが正しいかもしれません。何だかわからないけれども、そのあいまいさのなかに、コツンと当たるものがある。確かな当たりをもつ何かがある。あいまいな自分の現在というものを確かなものにしてくれるのは、その何かです。
・p143...どんなに技術革新がすすんでも、はっきり言って、自分を確かにしてゆく言葉を見つける手立ては、あいかわらず自分という得体の知れないものしか、手がかりがないのです。ですから、得体の知れないものを、得体が知れないからといって粗末にすれば、自分というものがどんどん貧しくなっていってしまう。
☆・p144...あいまいさを切り捨ててゆくことによってでなく、あいまいさそのものを明るくしてゆくところに、求められる言葉の方向はあり、そうした方向感覚をうながすものは、競争力でなくて、感受力です。 感受力というのは、受容するちからです。他の存在によって、自分が活かされていると感じる。そうした他の存在というものをありありと感得させる。そういう言葉を手にできるかどうかで、社会の見え方、世界の見え方はまるで違ってきます。
・p144...経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にはならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかでなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです。
・p144...「耳を洗え」と良寛は言った (中略) 良寛の「見地」というのは「我見」ということ。すなわち、大事なのは、自分の先入観、自分の意見をもって、ものごとを見ないこと。
・p150...情報はとても言葉に似たものですが、言葉とは違います。情報は現実のコピーですが、言葉は現実のコピーではありません。言葉は概念をふくみますが、現実のなかにないのが概念です。そのため、情報は概念を斥けます。芸年は現実的ではないからです。 言葉で世界をとらえるのが、概念です。わたしたちのあいだにとりもどさなければならないのは、どこまでもあいまいな世界をとらえる、生き生きとした概念を生みだす言葉のちからです。
・p157...Nはノース、Eはイースト、Wはウェスト、Sはサウス。NEWSという言葉のなかには東西南北が入っている。東西南北を知って、自分��身の位置を知るのがニュースです。(中略) 今日を象徴するのは、ニュースに代わって、情報です。
・p161...トルストイのロシア民話集、『イワンのばか』(中村白葉訳、岩波文庫)に、「鶏の卵ほどの穀物」という、わずか6ページほどの、短い、しかしとても胸にのこる話があります。(中略)3人目の老人の答え(中略)「それは、人が自分で働いて暮らすということをやめてしまったからです」
・p166...トルストイのこの小さな民話につらぬかれているのは、進歩あっての文明というもののあり方に対する痛烈な逆説です。
・p167...読書というのは、実を言うと、本を読むことではありません。読書というのは、みずから言葉と付きあうということです。みずから言葉と付きあって、わたしたちはわたしたち自身の記憶というものを確かにしてきました。 記憶を確かにするということは、自分がどういう場所にいて、どういうところに立っているか、東西南北を知るということです。
・p168...それは言葉ではっきりと言えないし、かたちもはっきりとわからないけれども、そこに問題があるということは、はっきりと感じられるし、はっきりと自覚してもいる。そういう心のなかにもっている問題を、自分で自分にちゃんと指さすことができるかどうか。そのことが人の言葉との付きあい方の深さを決める。 (中略)どうしてもその言葉で言い表せない、あるいはその言葉で言い切れない、その言葉の外に余ってしまうものがあると感じる。その感じをくぐるうちに、自分の心のなかにある問題を発見する。 そのように、言葉で言えない、かたちはとりにくいけれども、はっきりそこにあると感じられる問題というものを、一つずつ自分の心のなかに発見してゆくということが、ひとが成長すること、歳をとるということだろうというふうに、わたしは思っています。
→言葉にすると、意味が限定されてしまって伝えきれない。思ったことをまるっと言葉にできない。そう感じることが今まで多かった。だからそういう時は、日記につらつらと考えていることを、たどたどしくも長ったらしくなろうとも、ひたすら書くということをしてきた。そうする中で、自分が何を感じているのか、伝えたいのかということが少しずつ輪郭を帯びてくる、より言葉で伝えられるようになってくる、という経験。まさにこのこと。
・p170...情報がふえればふえるほど、逆にコミュニケーションはすくなくなってゆく。あるいは、浅く、小さくなってゆく。
・p196...『薔薇の名前』という壮大な想像された図書館の物語を書いたウンベルト・エーコという作家は言いました。図書館というのは「生き物」なのだ、と。
・p197...すべて読書からはじまる。本を読むことが、読書なのではありません。自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です。
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図書館新年福袋企画「読書の効果」に同封されていた一冊。出会えてよかった。さすが長田氏、日本語が綺麗で本を読むことについて多方面から表す。
本の文化を成り立たせてきたのは、忘れるちから。
忘れるが故、再読できる。忘却との戦い方でもあれば、必要な言葉を自分にとりもどす方法でもある。
読書のための椅子。ジョージナカシマ、ラウンジチェア ←すごく欲しくなった!
本を読むためのハードウェア、そのための時間や場所をつくる
「私でなければいけないものは何か」これからの難問、と2001年に仰られている…
☆言葉というのは、言葉の使い方の問題。自分がどう使うか、その言葉のなかに自分をどう表してゆくか、それができるか、できないか、これからは社会のいちばん重要な錘となってゆくようになるのではないかと思うのです。
子どもの本は、大人になってゆくために必要な本のことだというのが、わたしの考えです
子どもの本になくてはならない3つ
1. 古くて歳とったもの
2. 小さいもの
3. 大切なもの
何度も読み返したい一冊だと思った。
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本とは何か、がわかる本。
人生を確かなものに近づけてくれる友人である。
印象に残った言葉
●同じマフラーでも人によって巻き方が違うのと同じで、自分の言葉をどう結ぶか。
●人の有りようにとって重要なことが書かれてきたのは本。
●本を開く、閉じるは人生と同じ。生き方と同じ。
●他人に勝つための勉強ではなく、自分を確かにするための勉強が必要。
●読書の核は努力、情報の核は享受。
●読書は個別的な時間を作り出し、情報は平等なじかんを分け合う
●心の中に失いたくないもの、言葉の蓄え場所を作り出すのが読書
●人の不確かな人生に読書がもたらすものは存在であり、また存在の痕跡である
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テンポよく進められなかった。
人々が本を読まない時代に、人々の間に失われるのは友人を見つける能力。確かにね
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著者、長田弘さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。
長田 弘(おさだ ひろし、1939年11月10日 - 2015年5月3日)は、日本の詩人、児童文学作家、文芸評論家、翻訳家、随筆家。
2015年5月3日、胆管癌のため東京都杉並区の自宅で死去。75歳没。死去前日まで仕事を続けていたという。
で、今回手にした、『読書からはじまる』。
この本の内容は、次のとおり。(コピペです)
「読まない本」にゆたかさがある。「たくさん読む」が正解ではない。「一生忘れない」なんて嘘?最も長く、最も深く人類と共に在り続けてきた「本」というメディアは、私たちの想像よりもずっと優しく、あらゆることを許してくれる友人だ。本はあなたを孤独にしない。読書が苦手、活字に疲れた―そんな本音にもあたたかに寄り添う、「人間」を楽しむ至高のエッセイ。
この本の目次
1 本はもう一人の友人
2 読書のための椅子
3 言葉を結ぶもの
4 子どもの本のちから
5 共通の大切な記憶
6 今、求められること
7 読書する生き物
8 失いたくない言葉