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商品説明
「メメント・モリ」から20年。これまであらゆる祈りを拒否し続けてきた著者が、愛するものの死をへてたどりついたもの。それは、なにも願わない。ただ、手を合わせる。人の死と別れを描いた写文集。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
藤原 新也
- 略歴
- 〈藤原新也〉1944年福岡県生まれ。東京芸術大学油絵科中退。第3回木村伊兵衛写真賞、第23回毎日芸術賞受賞。著書に「インド放浪」「東京漂流」「メメント・モリ」など、写真集に「俗界富士」など。
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紙の本
死と向き合い、どう折り合いをつけるか。
2004/03/06 21:33
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ポカ - この投稿者のレビュー一覧を見る
人の死。
藤原新也氏は、『メメント・モリ』で、「本当の死が見えないと、本当の生も生きれない」と書いていた。
たしかに、最近のわたしたちの生きる世の中は、「死」についての実感がどんどん希薄になっているように思える。
それは、同時に「生きること」の実感も希薄だということにつながりはしないか。
人の死を弔うということは、同時に生きている者が、「死」というものにどう折り合いをつけるか。
その作業は、これからを生きていくのに重要なことであり、必要なことなのだと思う。
人の死と向き合い、それをどう自分のなかに受け入れていくか。
ここを乗り越えないと、生きていかれない。
前へは進めない。
人の死と向き合うことは、同時に、自分自身と向き合うということだ。
人の死を考えることは、生きることを考えること。
だからこそ、「死」から目をそらしてはいけない。
この作業は、苦しい作業だ。辛い作業だ。
しかし、静かで穏やかな世界でもある。
しんとしたなかで、心に耳を澄ますような静けさがある。
そして、藤原氏の写真と文章は、静かな祈りのようだった。
紙の本
生きているうちに、死を想え。そして自分のために祈るのだ。
2004/01/22 23:24
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:綾瀬良太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
親しい人が他界すると、生に向かう気持ちが変わってくる。自らも死に向かって生きている生物であることを自覚する。深い思索を続ける藤原新也は、兄の死を契機とした四国巡りの際に「祈りの迷走」を繰り返す。
やがて題名のような境地に至る。それは悟りとは異なる、藤原新也流の「祈り」だ。彼は独白する。
「海のような自分になりたい」
解脱ではない。超越でもない。荒れ果てようとする、俗世間に生きることを自覚し、他者の不安や心の荒廃をも受けとめようとする、強い意志である。それは放置したまま、やり過ごすのでなく、抱きしめるような姿勢だ。
生きている者が死を想うとき、生を見直す機会になる。同書からあふれる藤原新也の視線は、「東京漂流」のころから比べると、ずいぶん慈しみにあふれているように映る。だからといって藤原の批判精神が鈍ったわけではない。いや、本質をつまびらかにする視線は、すこぶる鋭敏だ。けっして錆びてはいない。
同書に挿入された自作のカラー写真は、哀しく美しい。しかも、はかない。藤原の目に映る世界が、ゆるやかに変化している。それは「許すこと」を受け止める強さであろう。家族の死を受け止め、そして自身の老境を受け止める。
「なにも願わない手を合わせる」には、静かな晴れた午後だが、冷たい風が吹いている。その冷たさは緊張感をもたらすほど心地よい。身が引き締まる一冊だ。
紙の本
作品としての浄土夢を見たい
2003/10/10 22:59
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
藤原新也のHPは、よく訪問する。メメント・モリの動画は何分間であろうか、いや、一分もないかも知れない。にもかかわらず、永遠の刻を感じさせる。彼の著作集の中で一作をあげるとするなら、やはり『メメント・モリ』だ。本書は写文集であるが、生と死を想うメメント・モリの一連の彼の仕事に繋がる藤原節の真骨頂が伝わる良い仕上がりになっている。
収載されている写真は兄の死を契機として四国巡礼した時に撮られた写真である。藤原新也独特の幻世が立上る気配写真は、物語性が過剰だと嫌悪する人がいるかも知れないが、同年のオヤジは素直に癒される。
精々数頁の二十二編の随想は四国巡礼の記が導入部になっている。
なにも願わない。
そしてただ無心に手を合わせる。
母の死、兄、愛犬、友、死蝶、彫刻家の死と、様々な死に遭遇しながら、愛おしむように彼等の生を刻みつける。
残された写真家、作家は不思議な「浄土夢」を見る。
《私は今では、たとえば町の喧噪の中でも、ただちにその浄土夢を記憶から取り出し、まるで映画を観るかのようにそれを眺めることが出来る。そしてそれを何度も繰り返すうちに、その浄土風景の完成度を高めるべく、その細部に今度はこちらが意識的にさまざまな他の光景を付け加えはじめている。/私はいつかその浄土夢を巨大なキャンバスに描いてみたいと思う。》ー215頁ー
彼は画家でもあったのだ。だが、私にも、生きている誰でも、それぞれの「浄土夢」を蔵しているはずだ。もし、藤原新也に嫉妬するとしたら、彼にはキャンバスが、カメラが言葉が、鍛え抜かれた技法として用意されているということであろう。そんな狭量は間違っている。彼の表現が「浄土夢」に成就したならば、それはわれわれに贈与として、重ね合った既視感のある贈り物に違いない。私が生きているうちに、藤原新也の「作品となった浄土夢」を観たい。同年なので、その可能性は五分五分かな。