紙の本
個人として前向きになれそう、社会変革は無い。
2013/01/18 21:22
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投稿者:くままる - この投稿者のレビュー一覧を見る
大学時代、陽明学好きの朱子学研究者に卒論指導を受けました。本書は内容はわかりやすいと思います。ただ、不思議に思うのですが、革命の学である陽明学が、なぜ右翼的な復古主義になるのでしょう。国士である著者には好感を持てます。
紙の本
「艱難辛苦は人心を鍛える」、現代のストレス社会だからこそ活きるQualitiyOfLifeの心の実学
2004/12/13 23:29
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:平野雅史 - この投稿者のレビュー一覧を見る
知己も含め、ここ数年自殺者が3万人を超えている。PTSD、躁鬱などストレスにまつわる言葉が一般化している。ニートが社会問題化する一方、リラクゼーションが新たなビジネスシーズになる。経済構造調整を経た不確実性と競争の時代にあって、職業観の多様化や専門化が進む過程ではコンテクスト共有が薄らぎ軋轢が増えることは想像に難くなく、また、予定調和ではない変化を受容する個人が求められていく。
学生時代の社会思想史で触れた程度の記憶しかない陽明学だが、複数の企業家、士業者、コンサルタント等に薦められ紐解いた本書。王陽明の生涯やわが国で捻じ曲げられた風評の背景はもとより、「艱難辛苦」が恒常化した現代こそゆえに活きる、EQやAQを高め、ストレスをポジティブなエネルギーに置換し、自らの感情を御して「在りたい自分」を実践する智恵が、平明な言葉を通じて説かれている。
年に一度、また、心痛を抱えた時、読み返して自己の座標軸を再確認する座右足り得る一冊だろう。
このQualitiy Of Lifeの心の実学は、「心即理」「知行合一」「致良知」がその骨格をなす。
「心即理」は、自分自身の良心や価値観、信条と向き合い・明らかにし、これに対して嘘はつかない、自分に正直でいることだと言えるだろう。虚栄の自己像をはた目に作っても無理が祟る。「正しい」と言われる示唆も自らの価値観、信条に合わぬなら身にはならない。知識の価値は扱う者の自律・主体如何で変わる。自らを自認し拡充・育むことを愛すること、自己を乖離させないことが重要なのだと思う。
「知行合一」は、事象全体をありのまま受け容れることであり、二元論的な安易な二極単純化(知識と行動、自分と他人、益と損、敵と味方など)に警鐘を鳴らす。行動は知識を成す過程の一部、双方が同一の循環プロセスにある。知識が優先し過ぎればそれが目的化し、口舌の徒に堕する。加えて、「思いあれば色外に出る」と言う。表面を取り繕うだけでは自分の本質はどこかしら外に出る。表と裏とを統合することこそが自己実現の一歩ではないだろうか。
また、「致良知」は、自分自身の軽傲(人を軽蔑し自ら傲慢になること)な点を知ろうとする能力を発揮することを言う。実践を重んずる過程では間違いも犯す。実践と良知との両立には、間違いを恐れずに実行する勇気、間違った際に素直に謝る勇気が必要だと説くのである。
即ち、自らの座標軸を明らかにしこの実践に努め、利己でも利他でもなく謙虚な姿勢を持って外界と繋がっていくことこそが、Quality Of Lifeの極意であると説く。背伸びをせずに無理なく自分のできることから実践を心がけること、同時に、「静坐」を通じて心の日々の陶治を怠らないこと、これがまずもってのスタートであろう。
以上は、あまりに不完全な今現在の私なりの理解に過ぎない。各読者が読者なりの理解と示唆を得、得心することがなにより重要なことだろう。
「艱難辛苦は人心を鍛える」と言う。『メンタル・タフネス』(ジム・レイヤー著)にも通じるが、ストレスは回避すべきものではなく成長の糧だというポジティブな実学なのだ。艱難をむしろ成長への喜びと捉えること、「狂者」(周囲から反対されても自らが正しいと考えることを実行する人)への陽明学の立場などが、渋沢榮一、岩崎弥太郎、伊藤忠兵衛等を惹きつけた所以ではないか。
もとより、これら変化の主導者に皆がなる必要はないだろうし、到達には遠路があるかもしれないが、予定調和的ならざる時代、ストレスの時代にあって、これを前向きに捉える視座を与える実学ではないだろうか。
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逆境の時代のたびに読み直されてきた「東洋思想の華」、日本人のための「実践哲学」の真髄が、今よみがえる。・・・本書ブックデータより。
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タイトル通りずばり、陽明学の入門書としてとても読みやすく、分かりやすい一冊です。
恥ずかしながら、35年生きてきてはじめて、学問としての陽明学をこの本で知りました。
にもかかわらず、読んでみて思ったことは、私が日本人としてこれまで生きてきた中で、両親や仲間・先生・人生そのものから学んできた考え方・哲学といったものに非常に近い考え方・哲学である(でありそうだ)ということです。
これまできとんとした形でこの考え方・哲学を学ばなかったことがとても残念であると同時に、これから少しづつ掘り下げて身に着けていきたい学問・哲学であると感じました。
本書は、大きく3部から構成されています。
第1部では「王陽明の生涯」と題して、王陽明とその時代についてなぞることで、陽明学の形成過程に焦点をあてています。時代が時代だけに神話・伝説的な話も多いのですが、陽明学を知るにあたって一通り読んで損はないと思います。
個人的には、一つの読み物として興味深く読み進めることができました。
第2部では「陽明学の思想」と題して、陽明学の基礎となるいくつかの思想について、初めて陽明学に触れる私のような人間にも分かるように、とても丁寧に記されています。本書の心臓部といえる部です。
第3部では「日本陽明学派の系譜」と題して、近代史における歴史的な人物を引き合いに出し、彼らに・彼らの時代に陽明学がどのような影響を与えたかと同時に、日本にほいて今日までどのように陽明学が受け継がれてきたかが記されています。
この学問・哲学・思想は、意外と(?)我々の身近にあるものであり、かつ日本人の本質的なものにとても近い、そういう印象を受けました。
もっと学びたい、そう思わせる学問であり、そう思わせてくれた一冊でした。
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何とか読了。とりあえず、心に残ったところを残しておく。レビューはまたあとで書く。。。予定。
陽明は34歳のころになって聖人になるための<立志>の大切さを訴え始めている。「人はまず、必ず聖人になるのだという志を立てなければならない」と主張し、陽明のものに門人が多く集まり始めた。
第一部 第一章:立志修行時代
聖人が聖人である理由は、その心が天理と純粋に一体で、人欲の混入がないからであって、それはまるで純金の純金である理由が色合いが完全で、銅や鉛が混じっていないのと同じです。人は、純粋に天理と一体の境地にまで到達すれば、正しく聖人であることは、金が完全な色合いとなれば、純金であるのと同様です。
第二章:受難と悟りの時代
ある人が、道悦という熱心な心学者に、何のために心学修業をしているのか質問した。道悦が答えて言った。「心学に入ります前は、何事につけても、いちいち為に、為にと、『為』を付けて考えたものでした。仕事に精を出すのは妻子を養うためである、信用を得たいためであるといったように、いつもこの『為』という言葉に縛られ、追っかけまわされて、窮屈なせわしない思いばかりをしていました。ところが、心学の道に入ってからは、この『為』という曲者にとらわれずに工夫修行をするようになりました。ただなんとなく勤めるばかり励むばかりです。
人生最大の病患は傲慢の一言に尽きる
第四章:陽明学の確立
陽明学とは?と尋ねられて簡単に答えるとすれば、「心を陶冶する、鍛えることの大切さを主張した教え」「万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤を無くし、不動心を確立する教え」と答えることができる。
第二部 第一章:陽明学とは
「心がすなわち理なのです。この心以外、他にどんな事物があり、どんな理があるというのですか」
「(前略)たとえば、父に仕える場合ですが、父の体に孝の理を求めたりしません。君には仕えるにしても、君の体に忠の理を求めたりしません。(中略)理と言うのはすべて心の中にあるものなのです。心がすなわち理なのです。」
「この心が私欲に覆われていない状態が、すなわち天理(人為でない点の正しい道理)そのものなのです。それ以上外から何かを付け加える必要はないのです。」
「この天理そのままの純な心を発揮して、父に仕えればそれがすなわち孝なのです。発揮して君に仕えれば、それがすなわち忠なのです。さらに友と交わり民を収める時に発したら、それがすなわち信であり仁なのです。ですから、ただこの心から人欲を取り除いて天理を発揮するように努力しさえすれば、それでいいのです」
権威は教会や旧約聖書にあるのではなく、我が内なる心にある、というのである。なぜなら、人は心が見ようとしたものしか見えないからである。その人の心が見るのであって、目が見るのではない。哲学者はその思想の心で物を見る。宗教家はその宗教の教義で物を見る。この世が金だと信じる人は、そういう価値観で物を見てしまう。心のあり方次第で、物の見え方が違ってくるということになる。ということは、心が浄化されなければ、経典に書いてあるはずの真理すら見えてこないということになる。
本を読んで愛についてのの知識をたくさん吸収することで、本当に愛を理解できるものだろうか。啓蒙には限界がある。川を汚す人は、いけないと知っていて、それでもゴミを捨ててしまう。環境が汚れるのは心が汚れているからなのだ。功利主義、利己主義が心から無くならない限り、川のゴミを取り除いてもまた汚されてしまうだろう。一人一人が心の汚れを取り除き、日々大掃除しなければならない。良知を発揮できるようになるように、心を陶冶(鍛練)しなければならない。
心と理に区別を設けることは、人間と自然、我と汝の間に区別を設けることと同じである。私欲が生じると、心と理に区別が生じ、人間は自然に対立し、他人に敵対する関係となってしまう。私欲は心の平安をかき乱し、自己分裂の危機をもたらし、判断力を狂わせていく。だから陽明は私欲を取り除くことの大切さを主張するのだ。
第二章:心即理
功利主義に慣れて「利益という動機」で物を見ることが習慣となった私たちには、心の中で常に比較し測定して、物や人々を見る、というより評価してしまうのだ。「それがいったい何の役に立つんだ?」という言葉の背後には、比較し測定する心が働いているのだ。言いかえれば、常に比較し測定している心がない時、また偏見や恐怖によって心が曇らされていない健全な心の状態のときのみ、私たちは「あるがままのもの」を見ることができるのである。
私たちの考えは、通常、既に世の中に出来上がっている、あるいはすでに自分の中にある考え方の枠の中で展開する。知らないうちに一定の思考パターンにならされてしまっているのだ。(中略)頭だけで、あるいは知的理解だけで、世界や宇宙の謎や、人間の謎を解き明かせると思っていると大間違いだ。認識する、理解するという行為には、心情を含めて体全体で関わらなくてはならない。
第三章:知行合一
良知に目覚めることは、権威主義・教条主義からの決別を意味する。(中略)良知に目覚めることは、主体性確立への第一歩であり、自由への目覚めである。
(「致良知」とは)究極的には「自分を見る時のように他人を見、我が家を見る時のように国を見、やがては天地万物を自分と一体のものとみなす」ということができるようになる境地である。
第四章:致良知
欲望を抑えること、抑圧することは、陽明学の勧めるところではない。人欲や悪い想念、良くない思いを無くすことはもちろん奨励する。感情を全面的に抑えつけることは、良い思い、善を喜ぶ思い、人を愛する思いまで否定してしまうことになる。人の為になる、人の役に立つことを喜ぶことも感情体験であり、他人が喜ぶところを見て満足するのも感情体験である。魂も心も生き生きとした状態に保つためにも、感情をただただ抑圧することは百害あって一利なしである。
心の本体はもともと天理であるから、そのなすところはもともと礼に合致しないはずはないのです。だから、この心こそが君の真の自己なのです。真の自己は肉体の統率者です。だから真の自己がなければ、肉体はないのです。まことにこれがあれば生き、これがなければ死ぬのです。
第六章:陽明学と感情
一番印象に残ったのが、第四章:致良知の、この一節。
信じる、という言葉がよく使われる。たとえば、こんな使われ方をしている。「私は神の存在を信じている」「私はキリストの実在を信じている」等である。
厳密にいえば、こういう場合は「信じたい」というべきであろう。なぜなら、もし神の存在を信じているのであれば、その人は神の教えを実践し、まるで神のごとくに生きていなければならないからだ。そうでないのは、信じきれていないから、神のごとくに生きることができないのである。(中略)多くの人々は、いや地上に生きている人々のほとんどが、信じたくても信じきれないで生きている、というのが現実だ。本当に信じて生きている人が、果たして何人いるだろうか。
つまりは、多くの人々は、心の力を、心にある<良知>の存在を信じきれないのだ。心の機能としての信じる力が弱いからだ。しかし、陽明の教えを実践していかれるなら、きっと心の力を回復できるのである。
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一部 王陽明の生涯を紹介、二部 陽明学の思想を解説、三部日本の陽明学派の系譜の3部構成で陽明学の全体がよくわかる。特に私は三部の日本ではどんな人が陽明学を学び、伝わっていったのかに興味がありました。「安岡の陽明学と三島の陽明学はどこが違うのか」等考えながら読みました。「自分自身の理解はどこまでか」とか自分に問いながら読みました。多くの資料から読みやすく書かれていると思います。
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読破は困難でしたが、読後の満足感は大きいです。
自発的に手に取って読むことなど考えられない本でしたが、縁があって本書と出会うことができ、感謝しています。
もう少し整理してからきちんと感想を書きたいと思いますが、王陽明氏の教えは、ひとつひとつがスルメのように味わい深く、私の中にじわじわとしみるように浸透していくのを感じることができます。
心即理
致良知
四句教
知行合一
など。これらを知っておくだけでも、自らをナビゲートする方位磁石を得たようです。
しかしながら、このレビューの中で分かりやすい言葉で書くには、更なるそしゃくが必要ですので、今日のところはこれにて勘弁してください。
Wikipedia等でも上記の言葉は検索できます。
ご興味のある方はご一読ください。
ただし、読むのはとても疲れます。
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「真説「陽明学」入門」 私は、一応、なんちゃって法学部
出身。ですが、六法全書が苦手でした。
大学三年生のときに選んだゼミも、「法社会学」という
傍流(?)の学問。日本人の法意識だとか、社会と規律
みたいなテーマを議論するゼミでした。日本人の組織文化
や思想に関しても触れる機会もありましたが、仏教や儒学
が日本人のメンタリティに与える影響など、今でも時々
面白く感じたりします。
そんな日本人に大きく影響を与えた学問的思考の一つに
「陽明学」というものがあります。この本は、そんな
「陽明学」の解説書。
正直、この本を読むまで、私は「陽明学」をまったく
知りませんでした。。。
学生時代に日本史を学んだヒトには常識なのでしょうか?
この本を読んで、新しい世界感を知る事が出来きました。
「平成」という元号も、昭和の政財界に大きな営業を与えて
きた陽明学者である安岡正篤氏が名付けたそうですね。
中国の明朝時代、王陽明が、様々な挫折や苦難を乗り越え、
悟り、体現してきた学問が陽明学です。著者によれば、
陽明学を一言で表現するならば、
「万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤をなくし、
不動心を確立する教え」
ということになります。
「理」は自分の心の中にある。知識を学ぶだけでなく実践
しながら、ヒトが生まれながらにして持っている神的な
道徳的な知能を磨き、良知に至るべし。
こうした、「心即理」「知行合一」「事上磨錬」「至良知」
などの考え方が陽明学の中核です。
「万物一体」とは、二元論で考えないこと。
主体と客体、理性と感情、知識と行動、理想と現実、、、
誠に、万物一体でモノゴトを捉えるということの難しさを
痛感しますね。心の中は、葛藤と煩悩だらけです、私!
(モノゴト、という表現自体が、すでに万物一体思考に
反するとも言えるかも!?)。
以前、この日記でも紹介したユングの「個性化」「自己実現」
という考え方とも相通ずるものがありますね。
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一言で言えば、陽明学の魅力に取り付かれてしまった。
幕末の志士については、ドラマや小説など各方面で取り上げられはするのだが、彼らを支えた精神的支柱である陽明学は、不思議なほど取り沙汰されることはない。なぜか。
様々なストレスに取り囲まれ生きる活力を失っている我々現代人こそ、実践哲学としての陽明学を必要とするはずだ。
まだ若いこの歳で出会えて良かったと、既に思っている。
【2周目】
安岡正篤とは何者か。噂ではブッダ、キリストに肩を並べるレベルの存在かつ、終戦後は戦犯の指定を取り消させ、昭和政治の黒幕とまで称された。
始まりは中江藤樹から、佐藤一斎に吉田松陰に西郷隆盛に東郷平八郎、最近では安岡正篤。陽明学を取り戻すことは日本復興に欠かせないことだと思うのは、私だけだろうか。
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陽明学の基本が学べる、第二部を中心に読めばいい。
心即理
知行合一
致良知
の三つの基本思想を伝えている。
自分には、「心を陶冶する」=心を鍛える、というコンセプトがささった。
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1. 本を読んでの感想
色々な考え方・言葉が出てくるが、第一章の冒頭にある通り、陽明学とは要は、「万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤をなくし、不動心を確立する教え」ということに集約するというように思う。
「心はすなわち万事万物の理」という「心即理」は、人間は本来正しい心を持っており、心と理は一体であるということを示す。人欲がなく、本来の正しい心を持てている状態が「良知」であり、それを発現することが「致良知」である。また、心と行動を合わせることが「知行合一」であり、つまりは「致良知」と同じことであると理解した。逆に、私欲が出てしまったり、本心が納得した規範でない外的な「理」に寄りかかったりしてしまうと、心と理が離れ、無理・苦痛が生じる。だからこそ、心の修養に努め、煩悩を取り除く努力が必要と説いている。
そのように理解して思い出したのが、松下幸之助の言った「素直」という言葉である。ここで言う「素直」とは、「性格や態度にひねくれた様がない」ということではなく、「自分の利害とか感情、知識や先入観などにとらわれずに、物事をありのままに見ようとする心」であり、「心即理」や「良知」の考え方そのものであるように思う。松下幸之助は別の言い方で「雨が降ったら傘を差す」とも言っている。これは、私の理解では、「雨が降れば当然傘を差すように、物事を私心なく見れば当然やるべきことは見えてくる」ということである。
本書でもキリスト教や仏教を始め、陽明学に限らない色々な思想が紹介されているが、偉人の言うことは皆似通ってくるし、それだけに真理なのだと思うが、その実行は本当に難しく、「雨が降ってもずぶ濡れ」状態が続くのが多くの場合の現実とも思う。
2. 自らができていなくて、改善すべきと思う点
自らができていない点、つまりここでは、「雨が降ってもずぶ濡れ」状態の点であるが、本書では胸の痛い話が多かった。
まず、特に会社では本音と建前を分けていることである。本書では「嘘をついている」「権威に媚びている」とまで書かれていたが、まさしくその通りで、上位者に対して言い返せない自分がいる。一方で、上司には「上ばかり見て…」と不満を感じることは多々あるが、実は自分も一緒なのかもと時々思う。結果、本書で指摘されている通り、非常に無力感を感じている。
もう一つは、「自分に自信が持てず、情報ばかりを追い求めている」ということである。グロービスに通い始めたのも、会社でどうしたらいいか分からず、何か答えが見つかるのではないかと思っていた節があるのが正直なところである。ただ、最近思うのは「答え」などというものはやはり存在せず、グロービスでの「学び」とは本質的には知識ではなく、思考の鍛錬ということだ。そろそろインプットのモードから、アウトプットにフェーズチェンジが必要だと感じている。
3. 本に書いてあるが納得できない点
書かれていることに異論はないのだが、「では、どうすればよいのか」ということについてあまり論じられていないように思う。王陽明が「百死千難の中から」、釈迦が魔王マーラ、キリストはサタンからの誘惑を退���て獲得した思想をどうやって身に付ければいいのか。この点に関して、最後に松下幸之助の言葉を引用すると、「素直な心になりたいということを強く心に願って、毎日をそういう気持ちで過ごせば、一万日すなわち約三十年で素直な心の初段にはなれるのではないか」ということである。先は長い。
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「経営道場」の課題図書。絶対に自身では手に取らない東洋思想から、心のあり方を学ぶことができた。
【佐久間象山】
読書講学、徒に空言をなして当世の務に及ばざれば、清談事を廃すると一間のみ。
→読書し、あれそれと論じるのは良いが、ただただ言葉遊びに終わり実務につながらないのであれば、高尚な哲学談義が何らの仕事をなさないのと同じである。
【知行合一(陽)⇔先知後行(朱)】
先知後行は簡単に言えば、大学に合格することが目的な受験勉強。学びは出世の手段じゃないよ。ちゃんとアウトプットして、世のため・人のためになることにこそ価値があるのだ、というのが、知行合一。
【アウトプット症候群】
インプットだけは本当に悪い?
冨山和彦氏は、日本の大学で教えているものは、大多数の平均的な人にとって、「何の役にも立たない」と言い切っている。(HBR別冊、2015年5月号にもG型、L型教育について論じています)
以前、内田樹氏の「邪悪なものの鎮め方」という本に、「なぜ学ぶのか?」という記事がありましたが、それが私の信じるところに近いので引用します。
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「これはそのうち何かの役に立つかもしれない」というのは、「これ」の側の問題ではなく、実は「私」の側の問題だったのである。「これ」の潜在可能性が発見されたのは、「私」の世界の見方が変わったからである。
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全てが実益につながらないものはムダ、というのはちょっと違う、という谷さんの話は、あらためて上記を考える上で参考になりました。
【絶対的なものはあるのか?】
・育った環境が出会った人で<絶対>は異なる。
・更には、育った環境と出会った人が一緒でも、自分で立志しなければ、<絶対>はゆらぐ。
・立志=自分の軸をもつ、と同意と捉える。個人、家族、会社(組織)、関西、日本、アジア、世界、地球…の中で優先順位をつけられているか?
→「私は●●に殉じることができる」と言えるものをもちたい。
【それでも絶対的なものはある】
・絶対善があるという決まりの中で生きるのであれば、外からだが<絶対>はある(不本意な絶対善ともいえようか)。その点で、陽明学は危険思想(独裁差の思想)である部分もある。。。
※性善説とは…
絶対善がある前提で、性善説とは人は善をもって生まれてくるという考え。ただし、生きていると汚れてくるので、その汚れを落とすことで善を保ち続けようという発想。
一方で、性悪説は最初は悪だが、結局は絶対善があるからそこに向かっていきましょうという教え。
→どちらも例外は生じるのは、誰もが感ずるところ。結局は相対善の中で生きている。
【あなたはどのタイプ?】
孔子、孟子、荀子、韓非子、墨子、孫子
「如し我を用ゐる者有らば、吾は其れ東周を為さんか」
【成功・失敗よりも立志】
・最終的には他人から学ぶという��度を克服しなければならない。道理を書物・講師に求めるばかりでは、真の<自由>とは言えない。
・人は志がないことを心配するだけで、実績のないことを心配しなくていい。
・道理を外側に求めるのは誤りで、聖人の道は自分の中にある。
→自分の内なる<感性>を引き出すべき。自分と向かい合うことで、自分の中に絶対的な何か、自信、自分を受け入れる寛容さ、自己効力感からの人生の充実、を得られるのではないか?
【心が全て】
・プラセボ効果、あの人が好き、この仕事は嫌い、というのは心が決めている。
→人は見たいものを見て、聞きたいものを聞く。全て、心持1つ、なのだ。心のCtrlは事前に察知できるものに関しては、鍛錬していきたい。
【邪な考えは罪か?】
頭の中で考えるあんなこと、こんなこと、考える=行動している、という陽明学の考えではいくら犯罪を犯しても犯しきれないのではないか…笑。
→ただ、理解できるのは、あまり思考≠行動にすると、何が自分なのかが分からなくなったり、自分らしさを出せずにストレスを感じることはあるだろう。そんなに難しく考えずに、<良心に従う>。これが出来たらそれだけで、自分を好きになれるだろうなぁと思う。だから、挨拶は笑顔でするし、困った人がいれば声をかけてあげられる人になりたい。
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・陽明学とは、他人との関わり合いである社会生活の中に身を置き、仕事上や家庭上でのさまざまな苦難困難を克服するという工夫や努力の中でのみ、心が鍛え上げられるのだ、という現実生活に密着した現世重視の実際的な教えなのである。
・山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。まずは背伸びをしないで、無理なく自分にできるところから実践を心がけること。と同時に、心の日々の陶冶を怠らないことが我々の当面の課題である。私一人ぐらい、という消極的で、投げやりな生き方は、自分の人生の充実感を高めてくれるはずもない。そして私一人ぐらい、という考え方や、私の心の問題と自然環境や社会問題とは関係ないとみなす考え方の根底には、世界を「私」と「私でないもの」という対立する二つのものに分ける考え方が潜んでいるのである。
・私とあなた、人間と自然、心の内側と外側、という区別を当然のこととして生きている。しかし陽明学は心の内と外、自分と他人との間に区別を設けることをかたく戒めている。ものごとを分けて考えないことが、利己主義を克服することにつながり、博愛の精神や「万物一体の仁」につながると主張している。
・知行合一…知と行は別々のものではない。だから少しでも思念が生じれば、それがすなわち行ないである。世の中やそれぞれの人生を混乱に陥れているのは、ものごとを二つに分けて考えるところに原因している。
・陽明学とは、相対立する二つのものによってできているように見えるこの世界が、実はひとつのものである、という世界観なのである。見るものと見られるもの、人間と自然などのように、二つのものを対立し競合させていく考え方の克服であった。ということは、心と身体の統一と人間性の回復を目指したのである。
・いまの人の学問では、知と行を分けて二つのものとするから一念が動いた場合、たとえそれが不善であっても、実際の行動の上に現わさなければ罪悪でないとして、あえてこれを禁止しようとしないことがある。このような考えを否定して、人に一念が動いたとき、それはすなわち行なったことであることを、よく知ってほしいから。念慮が動いたときに不善があれば、この不善の念を克服させて、必ず徹底的にその一念の不善が胸中に潜伏して、残ることのないようにさせること。「行」という場合、情が動くのも「行」に含まれる、とするのが陽明学である。
・何事につけ、ものごとを分けて考える、そのことに問題がある。知と行を分けて考えることが、心に邪悪な考えがあっても行わなければ良いとする考えにつながり、心の内を改めようとはしなくなるのだ。『大学』では、「君子は必ずその一人を慎む」という。誰にも見られていない一人でいるときこそ、修行に勤めなければならないという。言い換えれば人から見られているからきちんとする、見られていないからだらける、という区別を設けるのは、ものごとを分ける考え方の弊害に陥ってしまっているのである。
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何を隠そう、本書は、私のデビュー作の増補改訂版である。1994年の秋に刊行されて以来、他社から文庫化の話もあったが、三五館では単行本のままで売り続けて、未だに売れ続けているロングセラーである。
グロービス経営大学院の堀義人学長の愛読書だったことも手伝い、グロービス経営大学院では必読書となり、かつ教科書として採用されて久しい。今では、本書の英語版(ただし、第3部はカット)も、グロービスから刊行されている。
第3部第5章の「西郷隆盛と陽明学」は自信作だ。本稿を超えるものは、未だ目にしたことがない。
要望があれば、本書では書けなかった、陽明学の実践体得の方法論について、書いてみようかとも思っている。とはいえ、今では持病がいくつかあり、 体力が無いのが嘆かわしい。
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・知行合一
- 行いは知の完であり、知は行の始めなり。
- 実践できて初めて意味を成す
・事情練磨
- 日々心を鍛えることがポイント
・致良知
- 心を磨き、良心に基づいて行動すること
- 良心には、一般的に言う良心と個人に基づく良心がある
絶対あきらめないこと、物事の優先順位等
・自分と他人を分けない。
→自尊心を捨てる。チームの一員という意識。
わがままがなくなる
・欲を捨てる
・
・経営者が陽明学を好む背景には、経営者が都度求められる意思決定の拠り所となると推察される。自己内基準を明確化する
心を鍛えることが、ぶれない意思決定となる。
→esで積み上げる