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紙の本
愛国者は信用できるか (講談社現代新書)
著者 鈴木 邦男 (著)
三島由紀夫は言った。「愛国心は嫌いだ」 なぜか!? 新右翼の大物が初心に返って「愛国心とは何か」を考え、その素晴らしさと危うさの両面を説く。天皇制や天皇論についても一家言...
愛国者は信用できるか (講談社現代新書)
愛国者は信用できるか
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商品説明
三島由紀夫は言った。「愛国心は嫌いだ」 なぜか!? 新右翼の大物が初心に返って「愛国心とは何か」を考え、その素晴らしさと危うさの両面を説く。天皇制や天皇論についても一家言を述べる。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
鈴木 邦男
- 略歴
- 〈鈴木邦男〉1943年福島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1970〜73年まで産経新聞社に勤務。新右翼「一水会」を創設。99年、代表を辞任し顧問に。著書に「新右翼」「公安警察の手口」等。
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紙の本
右の人にも、左の人にも読んでほしい。
2006/06/11 18:19
17人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
鈴木邦夫という著者名を見て、手に取ろうとしない人がいるだろうが、右の人にも左の人にもどちらでもない人にも是非読んでほしい。そして、イデオロギーがいかに人を不幸にしてきたか知ってほしい。こうしてみると岸田秀が『ものぐさ精神分析』で書いていたように日本は極端から極端へと振れる国だというのが実感できる。そして、鈴木邦夫がそれにすごく戸惑っているのが読み取れて面白い。少し時間が掛かったようだが、分かる人にしか分からないことに著者も気づいたようである。
戦後まず右翼が反共右翼と成り下がり、思考停止してしまった。高度経済成長以後、左翼は権利主張集団と成り下がり、革命の匂いさえ感じさせなくなった。そして共に日本を愛しているとは思えなくなっていき、人心は離れていった。といって、政権政党が国を愛していたとも言い難い。国民は、最悪だが他よりマシと選んできたように思う。
テロや自決がよいとは思わないし、その誤った表現方法が本質的な論議を妨げてきたことも問題だったと思う。事件が起こるたび、「右翼」「左翼」というレッテル貼ることで、議論する前に社会的に葬り去ることが「どちらでもない人」にも行われてきた。それゆえか1980年前後から、若者を中心に政治的発言を控える人が増えた。
この風潮が本当に日本を駄目にしてきたと思う。何か発言すると、「同志よ、一緒に頑張ろう!」という組織と「許せない!」という組織が現れる。「許せない」集団から身を守ろうと「同志よ」という組織に属したとたん、その組織がその人物の発言を拘束し始める。それが嫌で脱退すれば両方から狙われる。イデオロギー集団とはそんなものである。どうしたらいいのだろう。中学生で『赤頭巾ちゃん気をつけて』読んで以来、ずっと考えてきたが妙案はない。政治課題をこの指止まれ形式の直接民主主義的な多数決で解決したらどうかと考えた時期もあったが、現実には無理だし、今以上に無定見なマスコミに左右される可能性が高い。
高校のころから、右だとか左だとかいうこと自体がおかしいと思ってきたし、言ってきたがなかなか理解されなかった。私が常に彼らに感じてきた違和感は、正しいことを言っている自分が言うことは正義だという同義反復だったんだと思う。この場合で言えば、「国を愛することは正しいだから、私が言うことは正しい。」と信じる人達は、人を「反動だ。」とか「共産主義だ。」となじる。昔で言うノンポリ、流される人達を生んできたのは、そんなイデオロギー論争であり、レッテル貼りだ。
女帝を容認する者がみな左翼ではないし、憲法改正を唱える者がみな右翼でもない。物事の本質を予断なく考え、みんなで日本がより良い国になるためのプリンシプルを築いていくべきだ。
愛国心にしても、例えば愛校心を考えてみれば、愛校心が生まれるのは、整備された教育環境、友人それに尊敬できる先輩や教師の存在ゆえである。だから学校を愛せと校則に謳うより、良き伝統を守り、変革も怠らないことが大切だ。国も同じである大人が子供たちに敬われるような人間となる自己研鑽を怠らない姿を見せ、現状の日本の悪い点は排除し、住みよい社会作りを淡々とかつ優雅に目指すことが大切だ。
その観点からも、「愛国心は国民一人一人が、心の中に持っていればいい。口に出して言ったら嘘になる。また、他人を批判する時の道具になるし、凶器になりやすい。」(p.192)は、真理だと思う。他にも口に出したり、活字にすると嘘になり、凶器になる言葉がある。言葉を振り回さないことが大事だ。まして、強制はいかがなものか。「言挙げ」が不幸を招くことは多い。「秘するが花」とも言う。
紙の本
もっとも危険な思想家
2006/07/11 21:20
16人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:喜八 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の鈴木邦男さんは1943年福島県生まれ。民族派政治団体「一水会」前代表・顧問。現在はテロリズムを否定して言論活動に専念していますが、若いころは実力行使も辞さない「行動右翼」でした。
本書『愛国者は信用できるか』は40年にわたって愛国運動にかかわってきた鈴木さんの集大成的「愛国心・愛国者」論です。「憂国」と「愛国」の違いに関する考察、三島由紀夫(1925-1970)の「愛国心──官製のいやなことば」論、「右翼思想家」里見岸雄(1897-1974)の紹介など読みごたえがあります。
「右翼」だからといって鈴木邦男さんは他の人に「愛国心」を無理強いするわけではけっしてありません。逆に学校で国旗・国歌が強制されるような現状を強く批判されています。また昨今むやみに増えた威勢のいい”愛国者”たちにも閉口されているようです(以下は本書132頁からの引用)。
実際のところ最近の鈴木邦男さんは、若い”愛国者”たちから「左翼に甘い」「生ぬるい」とか、あげくの果ては「非国民」「売国奴」とまで言われてしまうそうです。どこから見ても「全身愛国者」の鈴木さんが「売国奴」とは、まったくもって不思議な話です。
鈴木邦男さんは一見して穏やかな紳士だし、これみよがしの大言壮語や虚勢とは無縁の人ですから、(経験の浅い)若い人たちにすれば「何を言ってもいい」相手に見えるのかもしれません。が、これは大変な思い違いです。
たとえば故・見沢知廉(1959-2005)氏の証言(注1)によれば、鈴木邦男さんは「東北のベストランキングに入る暴力組織の親分」に「要するに、ウチと戦争やりたいわけね……いいですよ、いつでもやりますよ、あんた」と恫喝されたとき、自分たち(一水会)は思想に命を張っているのだから殺すなら殺せと怒鳴り返すような胆力をもった人物なのです。
これは見沢知廉氏ら4人が内ゲバ殺人事件を起こした際、実行犯を逃走させるか自首させるかで、上部2組織の意見が分かれた会合での話です。ちなみに一水会側は鈴木邦男・見沢知廉・木村三浩(現一水会代表)氏の3人だけ。相手の暴力組織側は親分のほか「筋肉巨体の面々」がずらりと並んでいたそうです。
ちなみに本書『愛国者は信用できるか』には著者の現住所と電話番号が明記されています(注2)。言論に命を張っているというのは誇張でもなんでもありません。鈴木邦男が現代日本におけるもっとも危険な思想家のひとりであることは、明白な事実です。
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鈴木さんは純粋で好ましいとは思うけれど、でもちょっと待って。何で、国=天皇制なんだぁ?
2007/07/26 22:28
13人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:りっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
鈴木さんは、四十年間、愛国運動をやってきて、そのことに誇りを持ち、同時に反省すべきこともあるって。愛国心を表わそうとして暴走したり、また愛国心さえあればすべてが許されると思ったこともあるって。それだけ、愛国心の危うさをよくご存知だそうです。
・・・ところが、今の日本は、「ともかく愛国心を持て」「愛国心は常識だ」「愛国心さえ持てばいい生徒、いい日本人になれる」と言っている。冗談じゃない。そんな単純なものではない。だから、この本では初心に返って愛国心とは何か、を考えてみた。愛国心は宝石にもなるし凶器にもなる。一面だけを見るのは危険だ。その素晴らしさと危うさの両面を皆に教えてやろう。うん、これは僕にしか書けない本だろう、といささか自負している。・・・
40年間一筋で、学んでもいる。赤軍派などとも付き合って、民族主義という点で一致していることも確認しているし、すごい人だなぁとおもう。私は、左翼の端くれと自称もするけれど、まぁ、生き方としては平凡な人間でもあるから、トロツキーのことまで教えていただいちゃってありがとうって感じ。
「愛」と「恋」の講義も勉強になりました。私の片思いは、恋であって愛ではなかったんだぁ。私の胸の中の彼が現実の彼とは違って当然なんだなぁ。ということは、鈴木さんが思っている「国」も、もしかしたら想念の中だけではないかしら?
国=天皇制?国民の天皇への尊崇の情?少なくとも、私や身近にいる人達の感覚とは全く違う。「国」で一番重要な構成員はまず国民ではないかしら?そういう意味でも、玄洋社の憲則の順番は間違っていると思う。鈴木さんの言うように、「民権」を大事にしていたのなら、そのために「国権」(天皇制)が必要なのだと考えていたのなら、一番に「人民の権利を固守すべし」、が来るはず。
国民、言語、文化、歴史、習慣、それらが「国」なのでは…日本の歴史の中で天皇の出番って少ないのよ。明治が一番権力を持っていた時代ではないかしら?私は江戸時代が好きなの。ルーツが辿れるから親しみが湧くのね。徳川家の御家人だったから、天皇って、悪いけれど、どうしても端っこで生きている人って感覚なのね。これって多分出身地で、だいぶずれる感覚だと思う。
万世一系とかって聞くと、うん、上手に泳いできた血筋だからねぇ、と思っちゃう。だから、終戦の時に命乞いをしていたという話もそうだろうなぁとうなづいちゃうんだよね。
鈴木さんは若いころに刷り込まれちゃっているのと、とっても素直な方だから、「天皇が聖断を下した」なんて、いいほうに取れてしまうのでしょうけれど・・・
鈴木さんのように血気にはやるタイプはどこかで家系が切れてしまいそうだけれど、天皇家はしぶとい。それがいけないというのではないのよ。それはそれなりにその家の持ち味。ただ、日本には、天皇家だけでなく一杯何とか家はある。鈴木家も伊藤家も山田家も…。風土記に出てきた神様の数だけその子孫はいるのよ。それでも、あれは天皇家が編纂したものだから、差っ引かない(足すかな?)といけない部分もあると思うけれど…
民族主義を自称するなら、民俗学の本も読んでほしいなぁ。伝統文化もいろいろあるから…各地方の祭り、伝説も。文学や音楽も。日本的なものは一杯あるよ。ちっとも国(政府)から大事にされていないけれどね。そう言えば、国=政府という見方もあったね。本当なら、国民の代表者であるべきなんだけれど、今は、ブッシュのポチ路線だからねぇ。国民の生活はどんどん脅かされている。国民のために働くことを忘れた官僚と政府は、愛されなくて当然。
鈴木さんが、幅広い日本らしさの中で、天皇制が一番日本らしいというのなら、鈴木さんの意見として尊重するよ。代わりに、私は違う感覚だよというのも認めて欲しいな。
で、きっとそれがわかる人だと思うから、右翼でも好ましい人と思えるんだろうなぁ。
「護憲」という言葉も誤解の元なんだろうけれど、憲法前文にある通り、九条自身、世界の平和につながっているのよ。もっと広げる、活用すべき時でもあるよね。鈴木さんの「愛国心」も、広がりのあるものだと思います。
紙の本
日本一の反日書、売国本?いや、「愛」について考える本。
2006/09/13 11:58
14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
毎週「恒例の」街宣車の流す軍歌を背景音にしながらこの本を読んだ。
「愛国心は国民一人一人が、心の中に持っていればいい。口に出していったら嘘になる・・・」。わかりやすい言葉で、「愛国」をもう一度ひとりひとりに問いかけてくる本である。「愛」について考える本である。
昨今、「品格」とか「美しい」とかという言葉をつけて、「愛国心」を言う本が目に付く。憲法にまで書こうという。なんだかおかしいと思う。そんな気持ちを40年愛国運動をやっている、という著者がやはりおかしい、と論じている。立場・方向は違うかもしれないが、賛成できる部分がたくさんあった。それはおそらく、著者が長年、真摯に考え続けてきたからなのであろう。こちらも真面目に、鵜呑みの意見ではなく自分の意見で対峙しなければいけない気持ちにさせられる。
三島由紀夫が「愛国心ー官製のいやな言葉」と書いていたことも初めて知った。愛国心は天皇制容認のことでないことも、改めて書かれるとそのとおりである。天皇や王を持たなくても愛国心と民族主義に燃えている国は幾らでもある。「お国のため」の「国」が「藩」であった時代もある。「愛国心」という単語がいつごろ、どのように使われ始めたか、よく知らないで随分安易に使っていたのではないだろうか。言葉を上手く利用されているのではないだろうか。良く考えて見なくてはいけない。
「愛国」という言葉ではなく違う言葉にしようとか、忌まわしい記憶もあるので国家や国旗も変えようという意見もある。それに対しては、変えることによってそれまでの忌まわしい部分を忘れてしまう危険がある、と著者は書く。思い出したくないけれど、覚えていなくてはいけないこともある。きれいな、美しい部分だけ持とうとしてはいけないという著者の意見はもっともではないだろうか。嫌な事は忘れたい、というのも人間の性ではあるが。。。「愛」というなら、良いも悪いも受けとめるものであって欲しいと思う。
そういう人も多いと思うが、私も著者の名前をみただけで読むのをためらった一人である。この本にも写真が載っているが、著者も以前は街頭で演説し、街宣車を走らせていた人である。それがなぜこのような論調に変わったのか?それも知りたい気がした。
まえがきで「この本では、初心に返って愛国心とは何か、を考えてみた。」と書いた著者は、あとがきにはこう書く。「書き始めて後悔した。愛国心は諸刃の剣だ。これこそが本当の愛国心だと言挙げしているうちに、その刃は自分にも向ってくる。」「愛国者になることも難しい。そのことだけでも分かってもらえればいいか。」「いっそ日本一の反日書、売国本と呼ばれたい。」
もう一度振り返って、著者の複雑な心境を、本の題名に感じた気がした。
あなたはどんな風に「愛」しているのか、「愛」したいのか。「愛」しているのか、それとも「恋」しているのか。対象は「国」なのであるが、なんだか「愛」についても考えさせられてしまったような気がする。「愛する」というのは基本的に、勝手にそうする、そうなってしまうものである。いろんな形がある。それでも何かをするならば責任も発生する。そっと、各自が、自分の形で愛していればいいのではないか。「愛している!」と声高に広めたり「こういう風に愛さなくてはいけない!」と強要することは陳腐である。「愛」とはそういうものではなかったろうか。