紙の本
千々に乱れる熱い思い
2007/01/30 16:35
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:hisao - この投稿者のレビュー一覧を見る
ブツダ探しの旅である。
シャカ族出身の王子若きブツダが自ら“悪魔”と名付けた子を捨て、妻を捨て、一族を捨て家を出た謎は何か?
子を捨てる事で得た真理は自らも捨てる事に依ってのみ悟り得た根源的真理、絶対的に“我執”を断つ事による“救い”。
言葉で言えば“四諦”と“縁起”
“四諦”。人生は“苦”、苦の原因は人間の“執着”にあり、苦を滅した境地は“滅”、滅に至る道は“八正道”。
“縁起”。一切のものは独立にあるのではなく、相互の関係性によって成り立つ、無我である。
何故 山折先生は“親捨て”“子捨て”の蔓延る現世救済の真理として敢えて“子捨て”のブツダの教えを持ってこられたのだろうか?
“無我”の真理が現代の“救い”に結びつくのだろうか?
ブツダは練達の弟子アーナンダを通して、ずっと我が子の背中を見ておられたそうだが、まさかに先生だって現在の若者達がこぞって妻子を捨て親を捨てて“真理探究”の旅に出る事をお勧めとは思えません。
一方先生はかようなブツダの教えが日本に入ってくる事でどのように歪曲されて行ったのかを話されます。
聖者エゴイズム“小乗仏教”の克服としての“大乗仏教”への改革。
ブツダの説いた“無我の仏教”よりも“無私の仏教”へ。
“我”の否定より“心の浄化”。人間は死んで“無”に帰するのではなく“仏”になる。
日本に於ける“神仏習合”“本地垂迹”から“先祖崇拝”“葬式仏教”の流れが語られます。
そうした流れの中で日本仏教にはブツダの姿が見えなくなったと言う事です。
しかし だからと言って先生は本音の所“瞑想”と“修行”のブツダの教えに帰れとも仰っていない気がします。
ただ稀薄になったブツダの姿を懐かしみ追い求めておられるだけのようにも見えます。
結局 言わんとされる所、何を先生が求められているのか良く解らなくなりました。
恥ずかしながら私も65歳を越え、あと少しでも“真理”を知っておきたい、少しでも周りの人達のお役に立っておきたい、このままでは“死にきれない”思いにかられる事があります。
年ふるに従い益々いや増す“妄執”と言うのでしょうか、でもそれが人間だと諦めたりもしている毎日です。
天下の碩学に私ごときの“思い”を重ねるのも甚だ不遜な話ではありますが、
先生も75歳程でしょうか?
このご本を読んだ私はブツダの悟りの姿より逆に先生の“千々に乱れる熱い思い”を感じてしまいました。
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キリストにしてもブッダにしても、宗教が組織化され、巨大化すると開祖が本来の姿以上に伝説化、神格化されしまう。本書は出家=家出の頃のシャカの気持ちをなるべく忠実に写し取ろうとした作品。そしてほとんどその記録の残されていない、ラーフラ(悪魔)と名づけられたシャカの子供の気持ちも理解しようと試みる。それが現代の「子捨て」(=少子化)、「親捨て」(=高齢者の介護問題)を乗り越えていくヒントが見つかるのではないか、との思いをこめて。2006.09.20-27
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70歳を超えた著名な仏教学者の本である。
著者の思索をそのまま記述したような内容である。釈迦がわが子にラーフラ(悪魔)と名づけたことや妻子を捨てて出家したことをもと
に現代社会へのヒントなどを考察している。
最後の方は流し読みをした。
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ブッダがいかに開眼し、それ故に子を捨てざるを得なかったかが書かれてるかと思いきや、結局よくわからなかった。
面白かったのは、ブッダ(釈迦)が唱えた仏教は、今、日本に伝わっている仏教とは、少々異なる思想であること。
基本的にはどちらも苦しみから解放されるための無の境地(無常感)を説いているが、
日本の無常感は、平家物語の諸行無常などの言葉からわかるように、風情あるかなりプラスなイメージであるが、ブッダの無常感は、
形あるものいつかは壊れ、人もまた同じくいつかは死んでゆくっていう三原則であった。
やはり、昔は殺伐としていたのだろう。
しかし、ブッダが唱えた仏教では、人生の苦しみは、欲望から来、その欲望を取り除くことが、苦しみからの解放であり、そこから新たな道が開けると、最後は前向きな姿勢で終わっている。そして、ブッダは死後の世界について、ほとんど触れていない。死ねば安らげるのではなく、生きることを楽しむってのがすばらしい!
今の日本の仏教は、死後の世界は天国であるという極楽浄土を説いているが、これは、我々生きている人への気休めであることを理解しておきたい。
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仏教の思想の原点でもあるブッタの考え方が筆者なりに説明されている。
葬式仏教で終わらしたくない人にもお勧めです☆
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「林住期」という言葉を聞いたのが、この本から。
ブッダは若くして「遊業期」を体験し、
子を捨て、悟りの境地を開いていった。
そのためには、子供を捨てる必要があった。
そして、ブッダの弟子となる。
「悪魔」という名前をつけたブッダことシッダールタ。
自分を捨てるために必要だったのかな?
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ずーっと、疑問に思ってました。
「ゴーダマ・シッダールタくん(後の仏陀)って、
要は金持ちの放蕩息子が、
無責任にも妻子を置いてフラリと家出しちゃったってコトでしょ?」
「悟りを開いて、多くの人を救って、幸せにして、
えらいかもしれないけど、
自分の妻子をすら幸せにしないで、
他人を何百人何千人幸せにしても、、、、
それってどうなんだろう?
そとヅラが良いだけの、ダメ男なんじゃ?」
でも、こういう疑問を唱える人は、今まで知る限りいなくって、
「でも、仏陀にとって『家庭』っていうのは小さいターゲットで、
もっと大きなターゲットのために、
小さな犠牲を払うのは、仕方なかったんじゃないの?」
とか、、、悟りを開いた後の功績で、打ち消されちゃったり。
もっと驚きなのは
「でも、後に妻子も仏陀の弟子になって、
結局は多くの人々も、妻子も、みーんな幸せになったから、
いいんじゃないの^^」って!!
それって、妻子のほうがすごくない?!
自分達を捨てた夫・父を許し、
教えを乞う姿勢、、、その妻子の心持ちのほうが
よっぽど尊いように思えるのですけど、、、、。
私の抱く疑問に
「そうだよね」って言ってくれる人はいなくて
「それでも仏陀はすごいんだよ」って言われるばかりで、
どうも納得がいかなかったんだよな〜。
書店で、この本のタイトルと目次を見たとき
「いた!やっぱり自分と同じ疑問を抱く人いたんだ」
とうれしくなった。
(いないほうが、不思議だと思うのですが、
今まで出会えなかった、、、)
読み進めてて、正直筆者の考察には途中からついていけなくなった。
わたし仏教とか僧について、造詣が深いわけでもないので、、、。
結論というか、こたえというか、そういうものは
ない、という感じ。。。
そりゃ、、、推測・想像の域を超えませんわなぁ。
だれか、今まで語られてきた神話みたいな調子じゃなくて、
人間ゴーダマ・シッダールタの人生について
フィックションで良いから、書いてくれないかなぁ、、、
ぜひ読んでみたいな。
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実は今ちょっと「ブッダ」がマイブームです。
それもいわゆる仏教の開祖としてのお釈迦様、という面よりも、古代インドの弱小王国の王子に生まれ、いずれは王国を背負って立つことを期待されながら、それをぶん投げてしまったばかりか、いとこから息子から出家させてしまって、結局自分の国の滅亡に手を貸すことになってしまった、という運命を選択したのはどうしてなのか、なんてことに興味をひかれる……
この本にも出てくるけど、マガダ国の王子アジャータシャトル(阿闍世)の父王殺しとか、今の日本の状況に重なる部分もあって、いろいろ考えさせられるなぁ。
ただし、この本自体はちょっと論理が破綻してる部分もあるので注意が必要。切り口としては面白いけどね。
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長年の謎について、直球タイトル。
仏教について、地域によって根付き方の変化や
人々の思想の変化、思いが著者の深い造詣から紡がれていて
新書にしては内容が濃い本。
内容の濃さと、読みやすさで、仏教の色んな特徴に気付けた。
後半ちょっと思考実験についていくのが難しいかもしれず、☆半分減というところですが、
こういう本の知識も重要だと思うので☆*5
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メモ
・四住期
学生期、家住期、林住期、遊行期
・ブッダの家出を林住期にあてて考察
人間存在としてのブッタの行動
・インドの原始仏教=乾いた仏教
・四諦
苦、集、滅、道
滅→道であって道→滅でない
「彼は欲望からの解放それ自体に最後の価値をおいてはいない。
そうではなくてむしろ、欲望からの解放に向かってかぎりない努力を傾注せよ、
と言っているからである。道→滅が重要なのではない。滅→道が人間にとって不可欠の生きる道なのだ。」
「聖者になることが自体が目的であってはならない、聖者をめざす簡潔にして誠実な生き方のほうがはるかに意味があり、重要である」
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宗教にはあまり興味はないけれど、中村光の『聖☆おにいさん』の3巻を読んで、ブッダとラーフラのことが気になってしょーがなくなって買ってしまったこの本。だけど買って損をしたと、ハッキリと言える。まず、どんどん酷くなる筆者の山折氏の電波ぶりについてけない。ブッダの気配を感じたり、天の声を聞いたり、ブッダに助けを求めたり、川の向こう岸に西行法師の顔を浮かべたり・・そんなものは自分の日記にでも書いていてほしい。ただ筆者の思いついたようなことをダラダラ書いているだけ。しかもラーフラとアーナンダの関係とか・・推測を超えて妄想のようにしか思えなかった。確かに長年多くの学者が、そして筆者自身、仏教やブッダについて調べているので、新しい事実もそうないとは思うけれど、やっぱり推測・・というより想像の域に留まってしまう。もちろん得るものもあった。ブッダの思想と現在日本に伝わっている仏教の思想とは違うということ。でも結局タイトルにある疑問に対する考察は物足りない。
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タイトルに惹かれて買ったが、タイトルに対する明確な解答は無かったような...。むしろ、「子捨て」という事象よりも、仏教の歴史的変遷を考察する事で、ブッダの生き様を炙り出す、ブッダの教えを考え直すといった内容に思われた。ただ、内容的にはわかりやすいので、仏教の考えを学ぶにはいい入門書にはなると思う。
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[ 内容 ]
北インド・シャカ族出身の王子でありながら、自らの子に“ラーフラ(=悪魔)”と名づけ、さらに妻子を捨て、一族を捨てて家を出た若き日のブッダ!
この仏教最大ともいえる謎に、宗教学の第一人者が挑む。
そこから浮かび上がってきたのは、日本の仏教とはあまりに隔絶したブッダその人の思想であった。
少子高齢化の時代を生きる二十一世紀の日本人にブッダは何を語りかけてくるのか。
いまの日本にブッダを呼び戻し、その教えの真髄に迫る画期的な試み。
[ 目次 ]
第1章 ブッダは、なぜ家を出たのか(「家出」にはじまる 理想の人生 ほか)
第2章 ブッダは、なぜ子を捨てたか(シャカも、捨て子同然であった 親を失った子どもに未来はあるか ほか)
第3章 ブッダの思想の真髄とは、どのようなものであったか(わが骨にかかずらうな アーナンダの裏切り ほか)
第4章 ブッダの教えは、日本へどのように広まったか(アジアの周辺の国々へ 旅をする僧たち ほか)
第5章 ブッダは今、どこにいるのか(ブッダの姿をさがして 今なら死ねるか ほか)
[ 問題提起 ]
ブッダを生涯通して神格化しようとする仏典から距離を置いて、成道前のブッダ=シャカを人間的な迷いや疑いの中にあった存在として捉えなおし、家族も子どもを捨てて「家出」した本心を探る。
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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タイトルにひかれて読んだ。しかし70歳を超えた筆者の推測・思い込みと、それからの論理の飛躍・客観性のない展開が続く。
ラーフラに寄るアーナンダのイメージは身体的でよかったが、大悟後のブッダをも子を捨てた時のシッダールタの延長だけで評価するのは、それこそ自らは修行をおこなわずにブッダの想いを理解してない現れだろう。
仏教の歴史を述べているから、その全体をとおして考えているかと思いきや、結局日本で誰もが知ることの出来る経典・書籍・有名人しか知らないようだ。ごく私的かつ狭い視野の意見だけで恥ずかしげもなく話を進めていく。
老いて宗教好きな年代になった人の与太話。
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センセーショナルなタイトルですが、仏教の根本を読み解こうとした書物。5年前の出版ですが、大震災後の今こそ読むべきエッセンスが詰まっています。