紙の本
大人の男のすなる<純文学>
2007/03/08 21:30
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:そら - この投稿者のレビュー一覧を見る
人の本をちょっと手に取り、読み始めた。
ああ、純文学ってこんな感じだったなあ、と少々懐かしい。
「純文学」という言い方、ジャンルが未だあるかどうかも疑わしい昨今、吉村昭の「死顔」は、文学とは道を求めると同義であった時代を回顧することにもなった。
死をテーマとした五編を収録したこの短編集は吉村昭の遺作となった。
巻末に著者の妻である津村節子が「遺作について」という短文を寄せている。
それによると著者は、平成17年に舌癌を宣告されてから、入退院を繰り返し1年7ヶ月後に死亡した。
彼の生は、自然死と自殺のあわいで絶たれた。死が間近に迫っていることを感じた著者は、点滴の管と首の下に埋め込んであったカテーテルポートの管を自ら引き抜いた。
死が確実な時に、自らその不可逆の時間を短縮したとしても「自殺」と呼ぶことに私は躊躇いを覚える。
逃れようもない死がやって来る時、わずかのショックでも人は死を早めるものだろう。
とすれば受身的と見える行為ですら、実は死を早める無意識的な動きである場合が実は決して少なくないのではなかろうか。
作家の行為はひどく意識的にうつる故に「自殺」とさえ看做される。
ここに、作家は「死を書けるか」という命題が浮かび上がってくるように思う。
死の約二ヶ月前吉村昭は日記に次のような言葉を書きつけている。
「・・・死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。急速に死が近づいてくるのがよくわかる。ありがたいことだ・・・」
この言葉は、それを読む読者にとっても年齢を問わず意外に差し迫って感じられるリアリティを持っているのではなかろうか。「ありがたい」と感じるのは読者の方だ。
しかし、どんなクソリアリズムも死の直前までを私小説として描写することは不可能だろう。臨死体験を除いて。
人間の生を至高のものと捉え、最期の最期まで延命を試みる近代医学。それはやがて、資本の論理に利用されるようになり、遺産相続などの人事によってもゆがめられているのではないか。
次兄の死をあつかった「死顔」は、死というものを作家がどう捉えていたか明瞭になる一篇である。
一般に葬儀のクライマックスに参列者は、棺の中に花を捧げながら、死者の「死顔」を見つめつつ最後のお別れをする。
この何の疑問も持たれず進行する儀式に、作家は否を呈する。
別れはもうすでに終わっているのだ。棺の中の死者は、誤解を恐れずに言えばすでにモノなのである。だからこそ生前の人格を尊ぶがゆえに、死者の顔はごく少数の近親者を除いて参列者の視線にさらされることなく封印されねばならない。
積年の違和感が解けた思いで、今は亡き作家の考えに共感した。
いかにきれいに死化粧を施されていようとも、死の苦痛を戦い抜いて果てた人の顔を直視すべきではないと思うのである。
また社会的な義務から参列する者は、深い愛情関係によって結びついた家族の、絆を確かめる尊い一瞬をわずかでも冒してはいけないとも思う。
或いは延命して、ぎりぎりまで見つめた死について書き残すのが、<純文学>の作家の使命なのかもしれない。
そうして、死という最期の経験すら、大人の男のすなる<純文学>は、行間にもの言わせ、くれぐれも書きすぎてはいけない。
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大好きな作家吉村昭氏の遺作。
「油蝉とニイニイ蝉の混合した激しい鳴き声で、それが宿を密度濃く包み込んで、他の音はきこえず無音状態になったようにさえ感じられる。(著書より抜粋)」
こういう描写がすごいスキ。
心よりご冥福をお祈りします。
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この作品集を読んだあと、たとえば若い作家が書いた現代小説を読むと、いかにテーマが平和的かつ皮相的かということがよくわかる。
その流れを否定しようとは思わないが、それらが、「しょせん、?お話?をこしらえるために取り出されたマイナー出来事、だから何なの?」と思わせるのは、結局『死顔』がそれだけ重かったということかなあ。
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吉村昭氏の遺作。
著者の周りにあった死の話。
死生観。
吉村さんの文章の確かさと柔らかさが
とても好きです。
新しい作品を読むことができないのは
悲しい。
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著者最後の短編集。
歴史の検証を自らの足で行い、徹底した調査による事実の掘り起こしによる作品は、どれも興味深く読める。
自分の死顔は他人には見せるな。死を3日間隠し、その間に葬儀を済ませよ。葬儀の日取りなどは知らせるな。
これらはすべて人様に、気を遣わせたりしないためだったという。
また、死の直前、自ら点滴の管を抜き、見守る家族が慌ててつなぎなおすと今度は首に入れているカテーテルを引き抜いたという。
自らの死を悟った時、どう受け入れて、どう死んでいくのか。
深く考えさせられた一冊だ。
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強く実体験に基づいた三篇と、小説一編、ノンフィクション一編。
このまとまりのなさも、遺作という意味においてまとまりを見せる。
次兄の死というモチーフは、「二人」と「死顔」の二篇に展開され、その上に遺作に寄せた妻・津村氏のあとがきも含めると、ただ短編集というよりは、強く死生についてを思うこととなる一冊。
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延命処置をせずに死を受け入れた作家:吉村さんの
遺作です。
若い頃に自身の結核や戦争で死に直面して死生観が
確立された吉村さんが描く死への冷静ですが揺れ動く
心象が見える作品です。
静かに死を自分との距離で見つめている感じですかね。
改めて人生の大きな命題は死に対する姿勢と
感じました。
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「死」というものに対して、改めて思わされた5編。
戦後、療養のために長逗留した温泉宿で、女中が幼子を抱き険しい渓谷に身を投げるに至った出来事を語った、「ひとすじの煙」。
死期の迫った自身の兄について、すでに世を去っている親兄弟の死について、自身の死生観をについて様々な思いが伺える、「二人」「死顔」。
老々介護の末に夫を殺害した妻。
その妻の保護観察を続けた男が最後に気づくひとつの思い、「山茶花」。
「死顔は、自分の息子と娘以外には見せたくない」という夫婦の意見。
そこに至るまでの思いなど。
久々にずっしりときた1冊だった。
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遺作になった「死顔」を含む5編の短編収録。
やっぱり三浦哲郎氏と作風の(私小説を書くという点でも)似ていて好きだなあ。
「二人」と「死顔」はかなり重なる部分も多い。
著者は幼いころから「死」というものを間近に見てきて、また自分自身肺結核で一度は命をあきらめたという経験もあることから、「死」に対する具体的なイメージや思いが強かったのだろう。
「二人」はがん宣告を受ける前の作品である(たぶん)にもかかわらず、その時点で既に、死と直面しながら書きあげた「死顔」と同じ理念でまとめられていることからもそれが見てとれる。
あとがきで、最期の時、著者が自分で「もう死ぬ」といって点滴やカテーテルを引きぬいたと津村節子氏が書いているが、事実としては知っていたものの、奥様の言葉として読むと、一層その壮絶さが胸にしみる。
ご家族の複雑な思いを思うと、なんとも言葉がない。
一番印象に残ったのは殺人を犯した出所者の保護司の話「山茶花」かなあ。
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昨日津村節子『紅梅』読了。
吉村昭の遺作小説集『死顔』が本棚にあったのを見つけ、読み終わった。5編の小説や小説の材料が収録されている。
絶筆となった『死顔』は最後まで校正を重ねていて、まだ終わってないことを気にしていた作品。
次兄の死のことを書いている。
疲れるのでお見舞いを早く切り上げること。
亡くなった後、自分は弟であるがあえて駆けつけず、家族だけで別れを惜しむ時間ににしてあげたこと。
死者の顔を見るのは家族にまかせ自分は遠慮したこと。
これらのことは吉村昭自身の遺書にも反映されている。
いかなる延命処置をしないこと、家族だけでの別れ、遺体を焼いてから身内のみの家族葬、死後三日間公表しないこと、弔問、弔花は断り、電話も「取り込んでおりますので失礼します」と取り次の人に答えてもらうことと残った家族への気遣いにあふれている。
弔電、書簡にもいっさい返事を出さぬこと、
死顔を家族以外の第三者には見せぬことも明記されている。
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最後に帰結するかんじの、死についてのお話。
これが遺作、となるとちょっと薄ら怖いかんじはしますね。
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戦争中に母は九男一女を産んだが兄弟たちは貧しい時代に病で次々と死んでいき、高齢になった今、残ったのは二人の兄と自分だけだった。
そのうちの一人の兄が死を迎えようとしており、横浜に住むもう一人の兄と見舞いを済ませた矢先に、彼は逝った。
その他短編。
中学生のときに肺結核を発病し、療養のために温泉地へ滞在していたときに起きた女中の無理心中。
死にゆく兄の隠し子問題と残された兄弟二人だけになりしみじみとなる冬。
保護司として介護苦のすえに夫を絞殺した光代の世話をすることになった滋夫の複雑な思い。
鎖国以来、外国に不条理な条約を結ばされ屈辱を味わった日本人だが、根からの真面目さが垣間見たロシアのクレイスロック号遭難事件。
兄弟たちや父母の死を見届けてきて、新たに兄の死を経験し、生き残ったのは兄と自分二人となった心境。
吉村昭氏と津村節子さんが夫婦だと、今更知ったよ。
単体では知っていたからつながってびっくり。
人が死んでいくのは当たり前なんだけどなんだか切なくなるものだね。
どの短編もよかった。
遺作についてを読んでああ更にしみじみ。)^o^(
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淡々とというんか、お話ではないお話。
どんなふうに『死』に逝くときに向き合えるのか・・・・
そんなことを考えたくって選びました。
あるひとつのむかえ方・・・という感じに読めた本です。
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「二人」「死顔」は次兄の死を目の当たりにした吉村昭さんの死生観について書かれている。
その他の作品も生と死について真摯に向き合う著者の心が伝わってきて、命の儚さや重さについてとても考えさせられた。
津村節子さんのあとがきで吉村氏の遺言や最後の彼の姿を知り、私の中でこの本は完結したように思う。
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吉村昭(1927.5.1~2006.7.31)著「死顔」、2006.11発行、5編が収録され最後の「死顔」は著者の遺作となりました。「新潮」2006年(平成18年)10月号に発表されたものです。父の死、次兄の死のことが書かれています。次兄の妻が病院側の延命措置の申出を辞退したことに「それは正しい。そうであるべきだ」と。また、死は安息の刻、自分の死顔は家族のみに限りたいとの思いを吐露されています。