「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
読割 50
紙の本
アフリカの印象 (平凡社ライブラリー)
ブルトンが熱讃し、レリスが愛し、フーコーがその謎に魅せられた、言葉の錬金術師レーモン・ルーセル。言語遊戯に基づく独自の創作方法が生み出す驚異のイメージ群は、ひとの想像力を...
アフリカの印象 (平凡社ライブラリー)
アフリカの印象
ワンステップ購入とは ワンステップ購入とは
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
商品説明
ブルトンが熱讃し、レリスが愛し、フーコーがその謎に魅せられた、言葉の錬金術師レーモン・ルーセル。言語遊戯に基づく独自の創作方法が生み出す驚異のイメージ群は、ひとの想像力を超える。—仔牛の肺臓製レールを辷る奴隷の彫像、大みみずがチターで奏でるハンガリー舞曲、一つの口で同時に四つの歌をうたう歌手、人取り遊びをする猫等々、熱帯アフリカを舞台に繰りひろげられる奇想の一大スペクタクル—。【「BOOK」データベースの商品解説】
仔牛の肺臓製レールをすべる奴隷の彫像、大みみずがチターで奏でるハンガリー舞曲、ひとつの口で同時に4つの歌をうたう歌手、人取り遊びをする猫等々、熱帯アフリカを舞台に繰りひろげられる奇想の一大スペクタクル。〔白水社 1980年刊の再刊〕【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
レーモン・ルーセル
- 略歴
- 〈レーモン・ルーセル〉1877〜1933年。パリ生まれ。作品に「ロクス・ソルス」「額の星」「無数の太陽」などがある。生前その作品は理解されなかったが、死後フーコーなどにより再評価される。
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
アートとしての魔術から科学まで
2010/08/12 20:49
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
奇態、奇天烈な物語だ。フランス船が南アフリカ近くポニュケレ国の沖で座礁し、助けられた乗客達は皇帝タルー七世の元で摩訶不思議な見聞をする。彼らは皇帝の前で演じ、披露される奇妙な発明や舞台を見る。その珍奇さ、斬新さは呆れるばかりなのだが、ただ冒頭にこのシーンが延々描かれるので面喰らう。これは一体何なのか。
続いて、彼らが如何なるいわくでこの国に辿り着き、これらの発明を生み出すに至ったのかが語られて、ようやく謎解きとなる。だがその皇帝の客であったり人質であったりする人物達がここに至った道筋も驚異に満ちている。その経歴からすると、妙チキリンな発明達も必然の産物であったことも分かる。
この新大陸へ向かう船に乗っていたフランス人はもとより、ヨーロッパ各地を出身とする、科学者、芸術家、建築家、女優、サーカス団。かつてヨーロッパに連れて行かれて過酷な体験の後に故郷に帰ってきた黒人。皇帝の愛人の、そのまた愛人の愛人の・・・。ヤンチャだが機知に富んだ皇帝の息子達。そしてポニュケレ国が生まれるまでの波乱の歴史、怨恨の連鎖。
人々の野望と、皇帝の意向が重なり合って生まれたのは、新発見の元素を用いた実験や、魔術的な精密さを持つ機械、かと思えば超人的な歌唱、まったく新しいシェークスピアの解釈。鳥や、ウミウシもどきの生物の奇妙な生態を利用した見世物、そしてチターを弾く大ミミズ。あるいは例を見ない手段で為される公開処刑。
科学技術、芸術、自然の驚異、いずれも人間の心を揺さぶるものであり、また人類文明を変えて行くものでもあって、いずれも人間の苦悩の積み重ねで生まれ発見されることが、突飛な空想の中から描き出される。ポニュケレ国の神話的成立と二重になって、夢幻の世界のようでもありながら、ヨーロッパ人の彷徨も、アフリカの権力抗争も、生身の人間の物語としては等質なものだ。空中に浮かんだ異世界のような舞台であっても、日常世界に地続きな場所であり、現実離れした発明も緻密な想像力の産物であったことは、執筆から1世紀を経た現代においての方がはっきり感じられるだろう。
本作はまた言語的実験の産物としても知られているということで、その言語実験を主体に書かれたようにも見られるが、やはりそれは韻律にも似た言語的「制約」であり、とめどない想像力に一定の枠と方向性を与え、発明を造り出す深い論理を紡ぐ形式として採用されたとも考えられる。雑多で、まったく繋がりの感じられないような個々の発明や芸術は、しかし技巧、技芸を凝らした成果であるアート(art)という観点で見れば、心血を注いで完成に漕ぎ着けるまでの執念ともども、統一的な構成を果たしているし、そして文学としての本作自身もまたその一列に加わりさえするのだ。その痛快さを訴え、人類の偉業に対する尊敬を表現する文学形式として、本作は問われていいのではないだろうか。