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  3. SlowBirdさんのレビュー一覧

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先月(2017年2月)

SlowBirdさんのレビュー一覧

投稿者:SlowBird

640 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

西洋中世奇譚集成東方の驚異

紙の本西洋中世奇譚集成東方の驚異

2010/03/22 13:37

中世史のビックリ箱

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

むむむ、これはたしかにすぎょい驚異。収められているのは「アレクサンドロス大王からアリストテレス宛の手紙」「司祭ヨハネの手紙(ラテン語バージョン)」「司祭ヨハネの手紙(古フランス語バージョン)」の3編。もっともらしい名前がついてるけど、全部偽書です。
「司祭ヨハネ」というのは聖書の人物かと思ったら、架空の人物で、アジアのどこかにある未知の大キリスト教帝国の王であるヨハネさんという人が、ローマに送った手紙ということになっている。この中で紹介されている国土や勢力の描写がものすごく、すごく広大な領地に、すごく強大な兵力とすごい財産があり、また驚くべき野生動物が生息している。「十二本の脚、六本の腕、十二本の手、四つの頭ーそれぞれの頭に二つの口と三つの眼をもっているー怪人」とか、そういうのがてんこもりなわけです。とにかく、よくもこれだけ好き勝手なことを言えましたね、と。これが12世紀頃にラテン語で作られて、各国語によるバージョンが広まったということ。
そしてこの司祭ヨハネの元ネタになったと思われるのがアレクサンドロス大王の手紙で、当然こちらには史書をベースにしているのだけど、それが伝承として伝わるうちに、征服したアジア地域に関する記述がだんだん誇大化していったものらしい。本書に訳されているのは7世紀頃のものだというが、当然それ以前の相当古くから少しずつ膨らまされてきたものだろう。そして次第に、驚異の舞台となるアレクサンドロス大王の版図を、モンゴル帝国に置き換えたイメージで、司祭ヨハネの王国が形作られたのであろうというのは、後世になって分かる理屈である。
さて、話が面白くなるのはここからだ。ローマ教皇らはこのヨハネの王国と手紙が実在のものと考え、司祭ヨハネ宛に書簡を書き、王国の在処を求めて何人もの使者を東方に向けて送り出したのだという。彼らは中国に、モンゴルに、チベットにと辿り着くが、目指す王国には巡り会えない。マルコ・ポーロもまた同じ目的地を持つ一人だった。つまりイスラム帝国に聖地を奪われたまま、幾度の十字軍も跳ね返されて、暗澹たる無力感に、イスラム帝国よりさらに遠方にある巨大帝国による助力というのが、つかの間にでも慰めになったわけだ。そして15世紀にいたっても、イングランド、フランス、ポルトガルなど各国の王もまたこの王国を探索し、その向かう先はアジアだけでなくアフリカにも及んで、これが大航海時代の発端となった。
この偽書がなんとも壮大な歴史を作ってしまったわけで、民衆の想像力が教皇や皇帝の権威をねじ伏せてしまった歴史として見ても面白い。空想の個々の要素を深堀してもまたいろいろと面白い脈流があるらしいのだが、人間の想像力の強さと弱さにしみじみと感嘆するものです。

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紙の本

日本霊異記 上

紙の本日本霊異記 上

2011/03/09 23:02

奇怪な話、事始め。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本最古の説話集。奈良時代末から平安初期というから、1200年前の物語集であり、伝えられている説話はさらに4世紀遡る。収集されているものの多くは「今昔物語集」にも採録されている。これらを、素朴な物語たちとして楽しむことはできる。
ただ当時の伝承を集めただけだとしても、グリム童話やカルヴィーノのイタリア民話集のように、語り手の個性や思想は滲み出ざるを得ないのだが、特にこの作者景戒には明確な意図があって、それは郷土愛でも文芸志向でもなく、ひたすら仏教の布教のためだったというところにある。その熱意は純粋で、たぶん当時において最も体系立った道徳規範として仏教を見ていることから来るのだと思う。
道徳と行っても、因果応報ということが中心で、善行とは三宝(仏、法、僧)を敬うことと、範囲は狭い。そのために、仏教伝来以前のエピソードも、因果応報の原理を説くためにいささか強引とも思える流れになってたりして、だがそれが嫌みではない。作者の真摯な人柄ゆえかもしれないし、ともかくもそれで人々がいくらかなりとも幸せになるという考えから来ているためでもあるだろう。
作者が実際に人々を前にして語った説教でもあるらしく、とにかく聞き手(読み手)に伝わるようにという意欲の感じられる文のように思える。冒頭の、雄略天皇に命じられて雷を捕まえてくる話など、痛快な面白さで、むしろこれで掴みはOK的な構成かもしれない。信仰の世界の話になっても、強力の女や、鷲にさらわれた子供の話なども、まだ原始的な驚異に満ちている。それが時代を下るにつれて、法華経を読んでいいことがあったとか、地獄から帰ってきたとか、観音像が不思議な霊験を標るしたとか、教条臭いものも混じってくるが、不可思議さを醸し出しているところは変わらない。僧に悪さをして悪死にしたとか、牛に生まれ変わったとか、キツイ話もどこか読み手に救いを感じさせる。これも景戒の語り口や構成によるものか。
舞台も九州から東国まで、情報収集力はなかなかのもので、これが一人の力によるものか、残されていない先人の業績があったためかはよく分からないが、当時におけるザッツ日本っぽい趣きがある。代々の天皇も当時の呼び名で出てくるし、道鏡のことも変事の一つみたいに言及される。デティールを読み解くと、当時の人々の暮らしや考え方が見えてきて面白いのでしょう。
構成は原文(読み下し文)、現代語訳、語釈、解説となっていて、非常に読みやすい。特に解説部分では、元の話を読んでもやっとするところに訳者による時代考察が示され、すっと腑に落ちることになって、投げ出さずに読み進めることができたのでありがたかった。

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紙の本

好色一代男

好色一代男

2008/11/20 22:59

世界之介参上

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いわゆるところ女偏歴の物語ということになっていると思うが、僕が読むとこれは旅の物語になるのだ。もっとも正直に白状すれば、この岩波文庫版の原文では恥ずかしながら意味がよく読み取れてない部分が多い。自分を例にするのもなんですが、これから読む人には現代語訳(吉行淳之介とか)をお勧めします。
主人公の世之介は、幼い頃から京、大阪あたりをふらふらと遊び回っているが、そのうち勘当されたり、出家するはめになったりして、諸国を流浪せざるを得なくなり、またまた膨大な資産を得るとふらふらと遊び回る。それは駿河、江戸はもとより、信州、新潟、水戸、西は小倉、博多へと。どこへ行っても女郎、花魁、素人など縁があってか好んでか遊びまくるのだが、その土地ごとに風物、習俗は様々で、人もいろいろ。関わり方も千差万別で、まさに遊びを尽くすと言うにふさわしい。それだけの遊びが若い時から出来るというのも、好きだからというだけでなく、言葉、立ち居振る舞い、教養、風流、気遣いと、あらゆる点で人の心を捉える才能があってこそなのも、きちんと描写されているのが侮れないところ。特に遊び場の頂点に立つ太夫に心通わせられるのは、やはり並大抵ではないのだ。才あって様々な経験ができ、経験がまた人格を育てるというのが、この世之介の生涯を通じて感じられる。
そして土地折々の遊びどころ、それぞれの性格、風情もあれば、京などの都会への憧れもある。そこの頂点たる太夫の言動はやはり艶やかで、これがとてもトキメク。特になんといっても京の吉野太夫。いなくなると京から桜が消えたようだと言われるほどの美女。たまりません。
そうやっていろいろな土地のいろいろなシチュエーションで女(遊び)を描いているとも言えるし、女を通じて日本中を描いているとも言える。だから世之介の「世」は、浮世の「世」かもしれないが、世界の「世」じゃないかなんて気もするのだ。女と世界というのは不即不離、一つながりのものとして捉えられているのかもしれない。いや、きっとそうだ。西鶴にとっても、女を描こうとしたのか、世の中を描こうとしたのかなんて区別も無いのだ。世界とはすべからく堪能すべきもので、十分濃厚に味あわせてくれる。
ところで文章が読みにくい一因は、西鶴が俳諧出身ということによるのだろうか、読む時のリズムで文を区切っているせいがあるように思う。逆に言えば、それこそ謡うようなリズムで読み進めれば一層心地よく感じられるということだろう。残念ながらその境地には至りませんでしたが。

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紙の本

続審問

紙の本続審問

2010/12/09 23:04

書物と美の帝国

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1937年から52年までと、長い期間に書かれた文学論集なので、一冊でどうということは難しそうなはずなのだが、一貫した匂いは感じられる。作品の美しさを先ず絶対的に肯定すること。詩人であるボルヘスの、それが絶対的な原点であることが全編から漂う。
そこからの分析を、時には言語や表現の特性に求め、作者の生きた環境や社会的背景に求め、しかしボルヘスに特に際立つのは、作者の抱いた幻想が時間を越えて繰り返し現れることの発見だろう。荘子の胡蝶の夢の逸話はしばしば引き合いに出されるものの一つで、夢見た世界と眠りから醒めた世界のどちらが本当の現実であったかのためらいは、コールリッジが夢に見た宮殿が蒙古帝国に実在したといいったエピソードなどで、その不可解さを深めていく。
カフカの先駆者として、ホーソンやダンセイニを発見するくだりは、特にホーソンに対する現代的は批判を退けて、その夢見た物語の中で現実のしがらみや倫理が溶けていくのを示す過程に戦慄を感じる。
さらにウェルズ、チェスタトンと、幻想の賛美。ホイットマンと『バガヴァッドギーター』、『ルバイヤート』を英訳したフィッツジェラルド、もちろんベックフォードの東洋幻想を重ねて、これらは空間を越えると同時に、時間も越えたリンクなのだ。その中で「世界」を語れば「神」にも言及され、論理を語ればアリストテレスや、ゼノンのアキレスと亀の命題など、古代ギリシャ哲学が引き合いに出される。
そうしてさまざまな文学と哲学を語った下敷きを作っておいて、「新時間否認論」という一文が出てくる。しかしまあ、時間が存在するとか、しないとかは、多分どうでもいい話なんだろうし、答えが出る話でもない。では何なのか、ボルヘス自身が校正中に書いたというエピローグにあった。「宗教的ないし哲学的観念をその美的価値によって、時には奇異で驚嘆的であるという理由から評価しようとする」ああ、たしかにそうだ。無限と瞬間の対立、連続と断絶、唯名論と唯物論、プラトンとアリストテレス、それら組んず解れつして揺さぶられる世界に酔うように楽しんでいるのだ。世界というのはむしろ書物の世界のことだ。書物の世界はすなわちボルヘスにとって、汲めども尽きぬ美の泉なのだ。
だがボルヘスは架空の世界だけに生きているわけでもない。美しい書物を生んだ人々を讃え、もう少しでそうなりそうだった人々を評価し、彼らを呪縛するファシズムや共産主義、その他の迷妄や暴力がしばしば明らかにされる。書物は世界と人間の美をあらわにする器であるがゆえに、尊重され守られるべきなのだ。

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紙の本

怪奇小説傑作集 新版 5 ドイツ・ロシア編

凍る大地から来た妖女その他

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ドイツ編とロシア編です。ドイツと言えばまずホフマン、「イグナーツ・デンナー」は一人の篤実な狩人が謎の盗賊、その実は魔術使いであるイングナーツ・デンナーに取り憑かれる物語。デンナーの生い立ちや、秘法の根源などが明きらかになるにつれ、その邪悪さや宿命がますます重くのしかかってくる。恐るべき奸知と魔力に、人々は翻弄され、次々に繰り出される悪魔の計略に物語は二転三転する。その中で魔術あるいは錬金術が、単なる驚異や怪奇でなく、使い手と人々の運命を弄ぶという点で悪魔的なものであることが、丹念な人物描写の中から浮き出てくる迫力は並々ならぬ。エーヴェルス「蜘蛛」は、魔に取り憑かれ、破滅していく男を描いているが、早いうちに展開が読めてしまうのだが、そしてたぶん主人公自身もそうでありながら、悲劇へまっしぐらに向かっていく人間心理を止めることがどうしてもできない。舞台(TV画面)に向かって「志村ーっ、後ろーっ」と叫ぶ子供の気持ちそのままのようなドキドキものだ。クライスト「ロカルノの女乞食」は一風変わった幽霊ものだが、劇的な展開がうまい。ケルナー「たてごと」は悲しく美しい愛の物語。
ロシア編は、社会主義リアリズムの時代には黙殺されていた、ロシアの幻想物語を苦労して採集したとのことで(本書は1969年刊)、しかしいずれも迫力ある作品となっている。ゴーゴリ「妖女」は土精と呼ばれる伝承の魔女の恐怖を描いたもので、波のように繰り返して襲いかかる恐怖は、ジェームズ・キャメロンの映画のようでもある。さすが文豪。チェーホフ「黒衣の僧」は、狂気、幻覚とも幻想ともつかない思想に溺れていく男、自己の精神の動きを見つめる主人公の誠実さに打たれる。さすが。A.N.トルストイ(文豪じゃないトルストイ)「カリオストロ」は、かの怪人カリオストロ伯爵がペテルブルグに滞在した帰り道に引き起こす騒動の一つということになるだろうか。カリオストロは死者を蘇らせる秘術を披露するが、物語は混乱していて、恐怖と錯乱、愛と邪悪が錯綜する。それは、カリオストロというストレンジャーを迎え入れた人々が陥る混乱とも言えるだろう。そういう世間から外れた価値観やテクノロジーを持つ、ストレンジャーの存在の発見の物語なのかもしれない。するとアルツィバーシェフ「深夜の幻影」も、超自然的驚異の姿に借りて、新しい観念に対する人間の知力の限界を揶揄しているとも読めなくもない。レミゾフ「犠牲」は寓話的な物語だが、寓話がどこまでも残酷になれることを突き付けるのは、もちろん現実自体の残酷さにも比されるに違いない。
ロシア編への編・訳者原卓也氏による解説が、上に触れたようにまさに悪戦苦闘記とも、民衆の視点での文学状況記とも読めて興味深い。
本書のシリーズは怪奇小説と謳ってはいますが、ホラー小説と呼ばれる色彩よりは、幻想文学という範疇の怪奇寄りのものを集めたという印象で、お化け屋敷系の苦手な人でも読みやすい本です。そして本書に顕著なように、怪奇、恐怖と言うよりは人間の暗黒な面に注目してできた文学シリーズと言えそうです。

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紙の本

ルポ戦後縦断 トップ屋は見た

紙の本ルポ戦後縦断 トップ屋は見た

2009/03/31 01:02

昭和30年代の社会矛盾に現代人は向き合えるだろうか

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昭和33年から42年までの「文藝春秋」その他に掲載された梶山のルポ集。つまり「黒の試走車」などで人気作家になる前の雌伏期と、その後しばらくの期間が混じっているが、読んでいてもその差は感じられない。最初から完成した芸だったようだ。
収録テーマは、国鉄の鶴見脱線事故、赤線廃止後の街、王子製紙の労働争議、たぶん流行語にもなった「蒸発」、豊かな暮らしを実現した原始共産制の村、国有財産払い下げの不審、貿易自由化での通産省の舵取り、敗戦を信じなかったブラジル移民達、解体された財閥の復活、大宅壮一とともに訪れた生まれ故郷の韓国の状況、十数年を経て苦しみの続く被爆者たち、など。いずれも一時ニュースを賑わしはしたが、忘れ去られていった出来事や人々のその後を丹念に、センセーショナルさを排して取材したものだ。現地へ行き、当事者に会い、事実と推測は明示し、ルポの教科書のような地道なもので、決して華やかで人目を引くものとは言えない。しかし確かに事件は起きていたし、また世間の流れのターニングポイントとなるような、あるいは日本社会の本質を映すような事件である。
国鉄の事故については、戦前からのいきさつでの資金不足、政治家による赤字路線の建設、過密ダイヤなどにその原因を求めているのは、慧眼としか言えないだろう。40年後にもほぼ同じことが指摘されているのだから。法律で赤線が廃止されても需要があれば供給が生まれるイタチごっこ、毎年1万人以上の家出があり理由のトップが「動機不明」、そういった現実と我々はこれまで綺麗ごと抜きで真摯に向き合ってきたろうか。大蔵省や通産省の意思決定の過程を丁寧に再現してみれば、「お役所」というものの本質、ありもしない無謬性を主張せざるを得ない組織の限界というものが露呈されている。
一番驚くのは、昭和25年頃までブラジル移民の間で、日本は勝ったと信じる「勝ち組」と、「負け組」がいて、対立どころか殺し合いにまで発展しており、昭和40年に至っても一部の「勝ち組」は生き残っているらしい、といったこと。そしてそれらは単純な愛国心によるものではなく、それを金銭利益、すなわち詐欺の手段として利用する人々がいて生まれたのだということだ。熱くて純朴な人、この場合はそれに強い望郷の念が重なって騙されることになった次第なのだが、そういう構図が決して特殊な例でないことがこの複雑な経緯がら読み取れる。逆に正しいはずのイデオロギーが必ずしも人間を幸福にしないというのが、大規模ストライキの例である。
当時の景気悪化を心配する箇所が文中の所々にあったりもするが、大小様々な問題を抱えつつも日本はその後世界で最も豊かな国にまで突っ走ったわけで、その意味で結果オーライ的な面もあるかもしれないが、さらに一段階上へ進むためには、小手先の改良だけではなく、40年前の指摘の中に社会制度や人間そのものの矛盾の普遍性を見いだすことも有用なのではなかろうか。

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紙の本

暗黒日記 戦争日記1942年12月〜1945年5月

大東亜戦争のリアル

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

外交評論家であり知米派の清沢は、また熱烈な愛国者であり皇室崇拝者でもあった。ただ戦争の行く末は読めていた。大東亜戦争末期の頃には、親しい人からは、あなたの言っていた通りになったと言われるが、憲兵には目を付けられ、少し東京を離れていると逮捕されたと噂されたりする。
その清沢は外交史の研究の資料とする目的で、断続的に日記を書いており、そのうちの昭和17年末から20年5月に疎開するまでの期間に書いていた分をまとめたのが本書。新聞の切り抜きや外電などのニュースと、それに対するコメントが主だが、仕事のこと、見聞きした話から、日常の出来事も率直に記載されていて、それらも実に興味深い。
著作や記事を書き、講演で各地を回り、自宅の庭を耕して甘藷を作り、空襲で火のついた自宅を消火し、無差別爆撃に怒り、官僚の硬直性と統制と言う名の社会主義経済に怒り(清沢は強硬な自由主義者)、玉砕に嘆く。東条に舌鋒鋭く、小磯に呆れ、鈴木貫太郎はやや褒め、新聞記事や徳富蘇峰に怒り、中野正剛の死(東条に追い詰められて自死)に衝撃を受ける。一日畑をしての感想、列車の大混雑、防空訓練に駆り出されたお手伝いさんの一言、空襲後の東京を見て。芦田均や石橋湛山と親交が深く、文人、要人との交流も多い。自分が捕まったときにこの日記が見つからないようにと、いろいろ気をつけてたらしい。
また「未刊行論文集」として、日記の同時期に「東洋経済」誌などに発表した論説も収録されている。日記と言ってることが全然違うやんけーという名調子しかし鋭いものもあれば、日記そのままの内容で度胸に感心するものもある。巻末の年譜によると、大戦前まで世界各地を飛び回っていた。昭和5年のロンドン軍縮会議に取材に行き、その欧州行で英国首相マクドナルドやムソリーニとの会見もしている。吉田茂(ロンドンで会う)のことは相当褒めている。そして日記の最後から幾日か後に、終戦を見ずに肺炎で急死。食料不足で痩せたと嘆いていたところに、空襲、疎開で疲労したのだろうか。
本書は、ちくま学芸文庫版もあり、また岩波文庫で抄録版も出ている。せっかく読むのであれば全文版の方を薦めたし。
戦争のこと、戦時中のことは、今も限り無く語られているが、臨場してなおそれらを客観視しての、何たばかることないリアル。「重光外相の議会演説ー外交攻勢に期待す」の一節で「強硬外交に迷信的な信仰を有している国民」と日本人を評するは、現代にも通じる勇気ではなかろうか。

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紙の本

雨月物語 現代語訳付き 改訂版

紙の本雨月物語 現代語訳付き 改訂版

2009/08/18 00:56

森幽く叢深き淵から

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

幻想的な9編の物語集なのだけど、実にポップでキュート。因業とか怨念とか、そういう要素は満載なのだけど、それだけに淫しない、そういった粘っこく奔放な空想をすること自体が愉しげである。
「白峯」讃岐に旅した西行が恨みを抱いて死んで行った崇徳院の亡霊に出会う話で、その呪いで平家が滅亡していくというストーリー。理屈で追いつめられても強引に押し切るのがよい。「菊花の約」兄弟の契りを結んだ二人の男が、1年後の再会の約束をする。友情の話なのだが、その裏側に友情に縋る孤独な魂の嘆きがある。「浅芽が宿」下克上の時代、下総国の一人の男が一旗揚げようと妻を残して京に上る。「夢応の鯉魚」たいそう絵のうまい僧がいて特に鯉を描くのが好きだったが、鯉になっている夢を見る。「仏法僧」高野山に参拝した町人が、関白秀次の一行に出会う。無論亡霊の一行であるが、ひょいと出て来てひょいと帰っていくところが軽い。「吉備津の釜」釜の占いに反した結婚の結果、夫は女を作って逃げてしまう。「蛇性の淫」蛇の化身の女に見込まれた男の話。何度でも騙される情けなさがおかしい。「青頭巾」秀麗な童児を愛したあまり、その死後に鬼となってしまった僧の話。おぞましい設定と、清々とした結末の対比が不可思議。「貧富論」蒲生氏郷の家臣の一人の家にふいに黄金の精が訪ねて来るが、意気投合して様々なことを語り合う。
かように作品の題材はバラエティに富んでおり、登場する怪異も怨霊、幽霊、鬼、妖怪など様々。それぞれに、畏れ、嘆き、嗤いといった要素が詰まっていて、感応するツボもまた様々だ。古今のどこからでも寄ってらっしゃい、まさにこの国は怪異列島である。旅のつれづれにも、あるいは隣の村へ、隣の家へ行くだけの空間にも、月を眺めた空にさえ、深い森、草むらが密生し、清流のこだま、古い柱木、黴と苔の匂い、怪しの影の息吹が充満しているのだ。
作者の筆致は、そんな世界を乗りに乗って謳い上げるような名調子だ。僕らの棲処がそういう常世なのだということを改めて確認できるのが悦ばしい。
そこで怪しの論理は、世間の常識、人間の論理とは別の次元で進行して、悪びれるところがない。彼らは浮世の義理やしがらみから解き放たれて自由だ。たとえ祈伏されようと、封じ込められようとも、それぞれ貫いたもので、満願成就の趣き。そういう態度は体制批判につながって危ないのではないかと心配させておいて、ラストで黄金の精の語る中に徳川家康へのオベンチャラをちゃっかり混ぜ込んで、これでごまかせたのだろうか。
訳書としての構成は、一編ごとにあらすじ、現代語訳、原文、脚注が付いて、非常に読みやすい。分かりよすぎて申し訳ないぐらい。だけどこの妖美の世界へすぅっと一体化し得るのは、やはり僕らの血がそうさせるのではなかろうか。

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紙の本

今東光/五味康祐

紙の本今東光/五味康祐

2008/12/13 16:04

美しくもなき人斬り稼業

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今東光と五味康祐の合本。
今は「人斬り彦斎」勤王志士で、人斬りとして恐れられたという人物、佐久間象山を斬った男。肥後細川藩士で、元は茶道をもって仕えたのが、独学で剣技を磨き、突如脱藩したという。佐久間象山は信州真田家臣、蘭学で大きな影響を与えた人物だが、公武合体論を唱えたことで勤王派に目をつけられた。このような人物を暗殺することが国のためによいわけがないのだが、血気にはやった若者達には勤王という目的と手段の取り違えも分からないわけで、ただ実行者だけが行為の結果におののく。象山を斬って京を落ち延び、長州の奇兵隊に身を寄せて、長州征伐も体験する、その流浪の中で茶人としての感興を深めていく。こういう志士にしろ人斬りにしろ是とも非とも言うのは詮無いことだが、一つの人間の精神遍歴として苛烈な印象を残す。
これを執筆した頃の今東光は、菊池寛との対立などで文壇を去ってしばらく経ち、河内で住職を勤めながら執筆を再開し始めた頃で、放浪の中で生まれるものへの撞着があったのだろうか。京での酒色の暮らし、命がけの逃亡、幕軍との角遂、新撰組との対立など、この道筋でなければ経験できないことがあり、また様々な一人称視点など、小説という形でしか表現できないことを追求しているように思える。
五味は「喪神」「一刀斎は背番号6」は有名として、「指さしていう-妻へ」は売れる前の苦しい生活の中での妻との結婚前後のことを書いたもの。登場する「私」は社会不適応者のように描かれ、実際に相当気持ち悪い人物に見える。文学のために他のことを犠牲にする、それ以上の駄目人間だが、それが「喪神」で芥川賞を取り、「柳生」で超人気作家になる、その経緯までは書いてないが、古い美意識に固執して戦後文学の流れに取り残されながら、それが却って時流を掴んだ作品を産んだ、奇妙な皮肉には感ぜざるを得ない。「魔界」もまた、自殺した川端康成をくさすだけの下品な文章で、だがその下品な自分が、人間川端を愛したということではある。堕落とか無頼派と言うにも未熟すぎる思想と、完成度の高い文体のアンバランスさ、そのこと自体が読者の中に、熱いうねりをもたらすような、危うい魅力がある。
この「近代浪漫派文庫」というシリーズで、今と五味が一冊に収められるという意図は一切書かれてないので(単なる年代的切り分けか?)、この本全体が何なのかは判別し難いが、貴重なのでとりあえず買っとけ(読んどけ)ということは言える。

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紙の本

一遍聖絵

紙の本一遍聖絵

2007/03/31 14:53

念仏が伝えた一遍聖人のやさしさ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一遍聖人は踊り念仏を広めた人物として知られていると思う、少なくとも僕の認識はその程度だった。聖人の興した時宗も、現在では際立って興隆しているという宗派ではないと思う。ただたぶん比較的新しい認識だと思うのだけど、彼の教団に所属した多くの非定住民の中には芸能の才のある者もいて、彼らは室町時代にかけて武家や幕府に接近し、同朋衆、阿弥衆と呼ばれてさらに芸能に磨きをかけた。その中で、猿能楽、茶道、生け花、俳諧といった現代に通じる芸能が生まれ、発展した。ついでに言うと、踊り念仏も現在の盆踊りの源流だという。
だから僕の聖人に対する関心は、そういった芸能を育てる環境の創始者として、どのような人物であったか、取り巻く人々はどういう感情でどういう生活をし、後の芸能発展に繋がる(制度に縛られない自由な?)小社会を形成していったのか、ということだ。
聖人の生涯を伝える伝記として、死後10年して書かれた本書絵伝がある。聖人の特に親しい従者で、弟とも言われる聖戒が中心となって編され、生涯を旅に過した聖人の足跡を辿って、それぞれの地での出来事を絵にして遺したものだ。本文庫版は詞の部分を中心としていて絵の部分の所収はわずかだが、近年では民俗学の貴重な資料ともなっているというそれらの絵は、建物、人々、背景の道々山々もみな精緻で、見事なもの、そこにいた人々の暮らし振りがよく伝わって来るというのは過剰な表現ではない。
詞の部分この100ページほどからも、聖人の生き方、考え方はよく伝わってくる。おそらく人の心理、生理というものを、よく知り抜いている人なのだと思った。人を惹き付ける力がある。一つ寺院に居していれば、周辺の人々をまとめあげた大教団を作ることも出来たカリスマだと(蓮如などのように)。しかし彼は日本全国を旅して回り、その上で念仏の布教に殉じる道を選んだ。結局人は一人で、孤独なのだという、なにかしらの深い諦念があったのだろうか。それでも彼の周りには多くの人々が集まり、彼に帰依した。
公家や武家も集まった。またある旅路で「異類異形」の男7、8人に囲まれ、連れて行かれた。彼らは猟師漁師などで、あるいは腰には得物を下げ、毛皮を身に纏っていたのかもしれない。聖人は彼らのところにも逗留し、念仏を授ける。そのようにして拡大していく教団のありようは、当時の安定した生活基盤を持たない人々に取っての桃源郷めいた社会だったのではないかと想像するする。
古文なので、内容をよく読み取れたとは言えないのだが、僕にとっては深く実り多き読書になった。

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紙の本

熊野詣 三山信仰と文化

紙の本熊野詣 三山信仰と文化

2006/12/22 13:59

神仏と死者と僕達

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

熊野と言っても広うござんす。行ってみたいとは思っても、観光で満足できるような旅行になるとはとても思えない。とりあえず気分だけでも、などと思って読むと、実は熊野を象徴するいくつかのテーマ毎に掘り下げられていて、むしろ深い精神史に玄妙な心持ちになる。
熊野を象徴すると言えば、サッカー日本代表のシンボルでもあるヤタガラス。なぜこれが神鳥となったかは、日本古代の葬送方法に関わりがある(ゾクゾク)。これと死者の国の観念から、日本人の死生観が解き明かされる。
補陀落渡海もよく知られる伝説だが、山の国であると同時に海の国でもあるニ面性が、この実相に妖しい魅力をもたらす。
一遍上人にとっても、熊野は特別な地。念仏に開眼し、一遍と名乗るきっかけとなった場所である。仏教史と離れて、神仏習合の世界における熊野巡礼の一つとしてこの道筋を辿るのは、視野の広がりを感じる。
それから熊野が重用な役割を果たすのが「小栗判官」の物語。病の体の小栗の乗った土車を、行きずりの巡礼者が少しずつ紐で引いて熊野湯まで連れて行く。これは当時の風習としてあったことで、現代の奇蹟は科学の力で病を治すが、中世の奇蹟はみなの善意で病の者を慰めることであったと著者は述べる。中世という時代の人々の心のありようを掴むのは難しいが、この言葉はそれを見事に表現していていると思う。現代とは価値観も宗教も社会も異なるのに、そうして人の心の連続性が感じられるのは、ひどく嬉しい。
庶民の熊野詣と同様に行われた、天皇、上皇による熊野御幸については、御鳥羽上皇に伴した、というか設営に働いた藤原定家の足跡を、定家の日記を元に丹念に追った記述が楽しい。つまり一行の本体よりも常に一足先に進んで、宿や催しごとの準備をするのだ。宮仕えの役人として汗をかき、早朝、深夜を問わず走り回る。それでいて歌会にも出席しなくてはならず、目が回るような忙しさ、実際に回ってしまったらしい。このあたりの心情にも共感してしまう。
こういった旅路を著者が実際に足を運び、目にした風景、生活と対比させながら語られ、伝統のあるべき姿というのがぼんやりと読者の中に形作られるだろう。伝統をいたずらに振り回す必要もないが、知っておくことには大きな価値がある。改めてそれを刻み込まれたように思う。

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天地明察 上

紙の本天地明察 上

2012/05/31 00:42

キラ星達のエリミネーションマッチ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

渋川春海は、碁家の生まれだが、この安井家というのは元は畠山氏を祖にする源氏の流れの武家、戦国の世が続けばどこかの合戦か関ヶ原あたりで討ち死にしていてもおかしくなかった身の上だ。それが父の一世安井算哲が囲碁にすぐれて、公家や武家に可愛がられたことで、碁打ちとして生計を立てるようになった。生まれも育ちも京で、公家屋敷などに出入りするのもしばしばであった二世算哲少年は、様々な人々との交流があり、広い見識を身に付けることができたと思う。神道や占星術、算術もあれば、歌も書もあり、その幾つかには才能を発揮したかもしれない。
それに対して、囲碁の上でのライバルとして描かれる本因坊道策は、石見の国から幼少時に江戸へ出て、若くして師の道悦の域に達し、さらに新しい囲碁理論を完成させて、囲碁のレベルを飛躍的に向上させた、この道の天才にして革新者。春海とはまったく違った内面構造を持っていたろうが、二人はお互いをどのように見ていたろうか。
春海の意識を形作った背景には、かつて花開いた東山文化があり、それは戦乱の世のために居場所を失ったが、脈動を伝える人々は残り、平和が訪れた安土桃山から江戸時代へと大きく花開かせた。文化人達にとって精神的な意味も含めての最大のパトロンは天皇家であり、その威光に近づこうとした秀吉も家康もまた、文化振興策を取るのは必然だったかもしれない。春海や彼を取り巻く人々は、そんな世の流れによって才能を開花させたという見方もできるだろう。
一方で、安井家は会津藩にも縁が深く、保科正之ら幕府初期体制を構築した人々にも春海は薫陶を受ける。その武断政治から文治政治へ移行する流れの中に春海を位置づけたのが、本作の独創的な点であり、物語の力強さを生み出している。
現代風にモラトリアム意識の強い性格に設定された春海は、当時の囲碁界に(あり得ない設定ではあるが)真剣勝負が無かったということの物足りなさから、算術の世界にのめり込み、そこから改暦プロジェクトに抜擢されることになる。筋道自体はある種の成長物語であるし、成功物語であって、挫折を乗り越えて名誉を勝ち取るまでの描写は痛快に楽しめる。ただ彼のどこが周囲に評価され、またどのような内面の成長があったのかはさっぱり分からないままで、少年マンガ風に必殺技を編み出しながらひたすら勝ち進んでいく話でもある。
春海自身がどうであれ、彼の中には彼を支え、信じてくれた人々の思いが積み重なっていく。暦法は世を治める知恵であり、様々な文化や学問を統合した一つの集大成だ。春海という一人の人間は、実はこの時代のある種の人々の思いの集合体として存在している。剣術や武力で活躍した武士、武将だけでなく、これらの人々もまた時代を形作った人々であり、光を当ててみれば幾多のロマンがあることが知れるだろう。そこには発展もあれば、衰退も諍いもあり、希望も哀しみもあるだろう。そういった物語達の一つの入り口にもこの作品は位置づけられるのではないだろうか。

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少年キム

紙の本少年キム

2011/04/17 23:16

人も世界も灼熱の塊

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

パキスタンに近いラホールの街で、路地から路地へと走り回っている親の無い少年。そのまま成長すれば、普通のインドのおっさんになっただろう。ただ彼は白人で、親は英国人だった。それはプラスにもマイナスにも働くだろうが、機転が聞いて好奇心旺盛、それで一人の通りがかりのラマ僧に出会う。「通りがかりの」と言っても、これが果てしない通りがかりで、ブッダの伝説にある河を探して、チベットから旅して来た高僧なのだ。
少年は僧の人徳に惹かれ、高位を投げうって放浪に出た老僧は少年の、多分躍動する生命力に惹かれたのだろうと思う。二人は旅の道連れとなる。
この僧が、博識で、敬虔で、誠実で真摯で、それでいて野心的で、知的好奇心が旺盛で、大胆で、慈愛に熱情にあふれて、まったく素晴らしいのだ。そしてチベット仏教の法話や教えを説く彼が、インドの人々に尊敬され、愛され、すっかり馴染んでいるのは、土地の文化によるものと、彼の人徳によるものと、半分ずつなのだろう。
それから少年は資金を稼ぐ必要があり、アフガニスタンの馬商人の仕事を請け負う。やがて少年の出生のいきさつから、彼は英国人としての教育を受け、今まで使い走りとして働いて来た仕事の真の意味を知る。それは大英帝国の権益を守るために、インドに触手を伸ばしつつある強国の動きをスパイすること。特に目前の敵はロシアだ。
こうして少年は、精神の師としてラマ僧の薫陶を受けて、一方で世界への参加という体験を組織によって得る。少年に見所があると評価されるのは、土着の事情に通じ、そこを軽やかに泳ぎ回る術を心得ているとことにある。少年はインドという土地、英国の政治、そして師の三つの環境を得て、経験を積んで実力を身に付けていく。
かといって少年の成長物語とも見えにくい。むしろ少年に象徴されるインドと英国のふたつの世界に、ラマ僧が挑んでいくように見える。それほどこの枯れきったような老僧は、能動的で魅力的だ。それは読者である僕も東洋人だからだろうか。この複雑な構造の物語で、もし読者の立場によって見方が変わるのだとしたら、多分ディティールも構成も巧妙に作られているのだろうし、それで手に汗握る展開であることも、その世界の仕組みをよく知悉していることに支えられている。
この奥深く得体の知れないインドという世界、そこでスマートな支配をしていると思っている英国人、たしかにいくらかの搾取はされていたとしても、支配者には理解できない世界を形作ってマイペースで生きるアジア人達。多様な宗教、それらをうやまう人々、東西から行き来して交錯する人たち、それらが実に生き生きとの描かれていて、植民地支配の是非などとは別に、少年より老僧よりこの亜大陸そのものが作品の主役となっているようにも思える。少年が身につけなんとする叡智も、パワーゲームの力学も、埃まみれの街角の悪人も、一つに溶け合った巨大な塊を見せつけられた思いがする。

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チベット旅行記 1

紙の本チベット旅行記 1

2010/11/03 12:05

超人、、、ですよね

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河口慧海さんっていうお坊さんなんですけどね、原点のお経を手に入れなければならないっていうのでチベットに行こうと、三蔵法師みたいなことを言い出すわけです。だけど当時のチベットは鎖国中で、特にその頃にはイギリスあたりのスパイが入り込んで来ないかということに神経を尖らせていて、日本人など入国は認められない。
そこでインドからネパール経由で、当時は宗主国的扱いだった清国人を装って入ろうとする。
道筋をいちいち書くとキリがないのだけど、とにかく歩いていくわけです。インドでチベット語を習い、清国から来たと言って怪しまれないように大迂回をしてラマを目指す。
道中で虎が出ます。山賊が出ます。吹雪の雪道を行きます。雪解け水の河を渡ります。ヤクの糞で火を起こし、麦焦がしを練って食べます。完全に菜食で、一日二食を厳守。農家や遊牧民のテントに泊めてもらうと、お礼に「説教」をしたり、お経を詠んだりします。絶景にのぞんで歌を詠んでしまいます。
まるきり聖人のような人です。吹雪に逢って凍死しそうになると、座禅を組んで耐え切ってしまう。
ダージリンからラサまで、時々の長逗留も入れて2年あまりの道のり。ラサに1年ほど修行僧として滞在するが、日本人だとばれそうになって出国する。その間、苦難の体験ばかりでなく、土地の習俗、宗教、政治、外交までを、細かい観察眼でレポートしている。宗教以外は専門外だが、見たままを語る語り口に実直な人柄が現れている。土着の宗教と仏教の混交や純粋化などその歴史の一様でないことも、その当時の国内勢力図もイギリスやロシアの野心も整理されているし、一妻多夫制や家族関係、衛生観念から家計の事情まで述べられている。ラサに入ると修行僧として暮らしながら経典集めにかかるのだが、ちょっとしたきっかけで医学の心得があると勘違いされて、医者の扱いをされてしまう。明治期の日本の一般人の知識レベルで、言い伝えやまじないに頼る当地ではすごい医学のように見られてしまったわけで、とうとうダライ・ラマの侍従医に迎えられんというほどの名声を得てしまう。そうやっていろいろコネもできて、ラサの寺院の様子などにとどまらず、政府内部や交易などについての知識も自然に集まってくる。
とにかく、人柄が篤実、敬虔で、理想のためには時に強情でもある。そういう性格でありながら密入国を企てるのだから油断がならない。そして知力、精神力に加えて、たぶん体力も人並み以上なのでしょう。その活躍は秘境冒険小説かヒロイックファンタジーかと思うほど、まさに手に汗握るハラハラドキドキの連続でもある。それでいて周囲の人々への思いやりが深く、衆生のために身を投げ出すことも厭わない。こういう明治人がいたんですねえ。

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小説GHQ

小説GHQ

2010/03/03 23:39

一年間の大河小説

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敗戦の衝撃で日本人たちが呆然としている中、これぞ金儲けのチャンスと考えた男がいた。軍事物資の横流しを手始めに、かつての上官や、喰い詰めた大学生をブレインにして、物資の売買で大きな利益を上げ、そこで大きな商売のターゲットとしてGHQに目をつける。GHQに取り入れば、いろいろなことがフリーパスで行える。日本の役人など目ではない。その上、GHQによる需要は、米軍住宅や、慰安施設の建設、運営など、とにかくビッグビジネスのタネなのだ。
それと並行して、占領軍の一人として進駐した日系士官の視点を通して、GHQを始めとするアメリカ人たちの差別意識、不公正さ、組織上の限界や矛盾が描き出される。そこに、GHQを利用してのし上がろうとする没落華族夫人も登場。占領を従順に受け入れたかに見える日本とアメリカの、水面下での凌ぎ合いの境界線上にいる人々は、いつしか利害関係の中で共闘するような形で出会っていき、財閥解体を巡るさらに大きな時代のうねりにも巻き込まれていく。
といってこれは実録小説というわけではない。財閥の名前は実名だし、このためにGHQと交渉する人物についたあだ名が「ミスター・ホワイ」というのは最近注目された白州次郎がモデルかと思ったりするが、あえてノンフィクションの形をとらずに軟派な小説仕立てにするのがいつもの梶山流。そうすることで庶民の本音、表では出しにくかった欲求や疑問に率直に応えることができ、強い印象を残すのだろう。政治も経済も素人でありながら本国のなんとか委員会の方針を忠実に実行して成果を上げて、一刻も早く帰国したい将校たち、もちろん彼らは政策の妥当性も辻褄の合わなさも、その結果日本がどうなろうと知ったことではなく、日本側の抵抗は出世の妨げでしかない。あるいは大統領選に出ようとしているが思うにまかせないマッカーサー。戦前の日本商社の海外展開力をどうしても削ぎとりたい経済界。いくらかの小銭を稼いだり、その日の欲求を晴らすことで頭がいっぱいの軍人たち。それらの圧力に抵抗できずになすがままの政府、官僚と、自分たちの力で築いたものを必死で守ろうとする民間人たち。うまく立ち回って大儲けを果たす人々。
人物たちの主張や配置は単純化されているかもしれないが、複雑怪奇な迷宮のような戦後社会を大きく俯瞰した、日本人の物語になっている。一人一人では如何ともできなかった占領軍の横暴に、彼らの弱みを突いた痛快な活躍には溜飲が下がる。
そうしている中にも、わずか1年あまりの中で日本社会では新しい生活と産業が立上がっていく気配を漂わせ始める。政治的な主張や裏話の暴露といった方向性にも重点はあるが、それと同時に、占領軍兵士の暴力にもインチキ政策にもめげずに社会の大転換を遂げる日本人たちの力強さが強く訴えかけられているような、1975年作品。河盛好蔵はこれを読んで「梶山さん、あなたは、大デュマです」と言ったのだそうです。

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