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  3. SlowBirdさんのレビュー一覧

SlowBirdさんのレビュー一覧

投稿者:SlowBird

809 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本あなたの人生の物語

2004/01/16 00:24

ちんぷんかん魔術だぞ。チャン。

15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この短編集は、1990年からの12年間でテッド・チャンが発表した全作品8作を集めたもの。ほとんどの作品が各種の賞を受賞したり、候補になったりした傑作揃い。各作品のアイデアは、突飛なものから、ほんの明日にでも実現するかもしれないようなものまで多様。個人的には、この本が2003年のベスト。
 だいたい文学っていうのは、一人の人間の経験を通して新しい世界認識の切り口を提示するもの、という見方もできると思う。これがチャンの場合、新しい認識をほんとうに確定させてしまった人の経験とその内面が中心になる。
 特に気に入った作品は「72文字」。設定のアイデアを書いても普通はネタバレということにはならないと思うけど、チャンの場合は日常的な風景の中から少しずつ奇妙な設定が立ち現われてくる過程に一番の楽しみがあると言ってもいいぐらいだと思うので、書かないでおきます。えーっと、当世風に言えばナノテクってことになるのだろうけど…(うずうず)。ただ登場する職人の親方が、短い出番ながら非常にいい味を出しており、特に技術系の人間なら激しく共感できるんじゃないだろうか。
 らしさが典型的に現われているのは「ゼロで割る」だろう。数学(数論)に基づく世界認識の話で、読んでいる最中は、なにかすごくヤバイものを読んでしまったような感覚にとらわれた。ディティールや主人公の内面の描写が緻密で的確なため、これは架空の話なんだって後で自分に言い聞かせなくてはならなかった。
 評判の高い表題作や「72文字」のように、言語の性質を特異な形で利用するところが特徴的かもしれない。中国系アメリカ人であることや、本業としてフリーのテクニカルライターをしているということなどで、言語に対して独特の視点と造詣があるのだろうか。
 どの作品でも、科学にしろ宗教にしろ難解な説明に走らず、登場人物の受け取った印象と、変わっていく人生を描いている。新しい世界認識を人類というレベルで語ることもなく、個人の問題にとどめていても、それ以上は言わないでもワカルって気にさせる構成や表現も魔術的なのだけど、結局は科学による新しい未来なんてものを信じていないのかもしれない。たった8作の短編で作家を語るのも無理があるけど、その意味で実はすこぶる現代的な作家と言えそうだ。
 パチパチピチンコ。

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紙の本

紙の本西洋中世奇譚集成東方の驚異

2010/03/22 13:37

中世史のビックリ箱

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

むむむ、これはたしかにすぎょい驚異。収められているのは「アレクサンドロス大王からアリストテレス宛の手紙」「司祭ヨハネの手紙(ラテン語バージョン)」「司祭ヨハネの手紙(古フランス語バージョン)」の3編。もっともらしい名前がついてるけど、全部偽書です。
「司祭ヨハネ」というのは聖書の人物かと思ったら、架空の人物で、アジアのどこかにある未知の大キリスト教帝国の王であるヨハネさんという人が、ローマに送った手紙ということになっている。この中で紹介されている国土や勢力の描写がものすごく、すごく広大な領地に、すごく強大な兵力とすごい財産があり、また驚くべき野生動物が生息している。「十二本の脚、六本の腕、十二本の手、四つの頭ーそれぞれの頭に二つの口と三つの眼をもっているー怪人」とか、そういうのがてんこもりなわけです。とにかく、よくもこれだけ好き勝手なことを言えましたね、と。これが12世紀頃にラテン語で作られて、各国語によるバージョンが広まったということ。
そしてこの司祭ヨハネの元ネタになったと思われるのがアレクサンドロス大王の手紙で、当然こちらには史書をベースにしているのだけど、それが伝承として伝わるうちに、征服したアジア地域に関する記述がだんだん誇大化していったものらしい。本書に訳されているのは7世紀頃のものだというが、当然それ以前の相当古くから少しずつ膨らまされてきたものだろう。そして次第に、驚異の舞台となるアレクサンドロス大王の版図を、モンゴル帝国に置き換えたイメージで、司祭ヨハネの王国が形作られたのであろうというのは、後世になって分かる理屈である。
さて、話が面白くなるのはここからだ。ローマ教皇らはこのヨハネの王国と手紙が実在のものと考え、司祭ヨハネ宛に書簡を書き、王国の在処を求めて何人もの使者を東方に向けて送り出したのだという。彼らは中国に、モンゴルに、チベットにと辿り着くが、目指す王国には巡り会えない。マルコ・ポーロもまた同じ目的地を持つ一人だった。つまりイスラム帝国に聖地を奪われたまま、幾度の十字軍も跳ね返されて、暗澹たる無力感に、イスラム帝国よりさらに遠方にある巨大帝国による助力というのが、つかの間にでも慰めになったわけだ。そして15世紀にいたっても、イングランド、フランス、ポルトガルなど各国の王もまたこの王国を探索し、その向かう先はアジアだけでなくアフリカにも及んで、これが大航海時代の発端となった。
この偽書がなんとも壮大な歴史を作ってしまったわけで、民衆の想像力が教皇や皇帝の権威をねじ伏せてしまった歴史として見ても面白い。空想の個々の要素を深堀してもまたいろいろと面白い脈流があるらしいのだが、人間の想像力の強さと弱さにしみじみと感嘆するものです。

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紙の本

紙の本バガヴァッド・ギーター

2004/08/24 22:47

ああっ、バガヴァッド様ぁ

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 インドの超長編叙事詩「マハーバーラタ」長く愛され続けている物語ということで、本書序文でその粗筋が紹介されているが、これがまた人と神様が入り乱れてのヤヤコシイ話ですらすらとは頭に入らない。古典的表現の「百年の孤独」みたいなものか。やがて国を二分して親族同士が相対する大戦争に至るのだが、片方の王がこんな戦争をしていいのかって悩み始めちゃうところを、一人のクリシュナ聖バガヴァッドが神学を元に開戦を決心させるという段、ここだけを抜き出して1冊にしたのが本書「バガヴァッド・ギーター」またの呼び名を「神の歌」というわけです。
 知識のヨーガ、行為のヨーガなどを通じてアートマンからブラフマンへ至る道を示して美しく完結した理論であり、恍惚と恐怖を備えてびっくらこくほどに壮大。インドのみならず世界中の人々に影響を与えてきたのは納得できる。
 そして物語の中で語られているため、ある意味インドの思想について分かりやすく学ぶのにお手頃かもしれない。ただしあくまで物語なので、話の進行に都合のいいように教義をねじ曲げて解釈してるのかもしれないし、実はバガヴァッドに意図があって王をうまく言いくるめてるのかもしれない。だっていいのか、そんなに簡単に戦争させて。そこは現代に向けられたミステリーだろう。いかにマクロによきものであっても、ミクロレベルに応用するときに詭弁と化すのは常道。それでもこの流麗な語りなら騙されて幸せだ。
 ついでに、巷でよく耳にする胡散臭い教義に出てくる言葉がいっぱいなので、なんとなく知ったかぶった気分になれます。
 同じ「マハーバーラタ」からの独立した1編として「ナラ王の物語」も岩波文庫で出てますが、こちらはストーリーの中でさらに古代の物語として語られる作中作で、ナラ王と腰あでやかなダヤマンティー姫の芳醇な愛と冒険の物語。インド古代の物語を味わいたい方にはこちらの方がおススメと思います(が、現在取り扱い無しだそうで、店頭で見かけたら)。さらにマハーバーラタの全訳はちくま学芸文庫から出てますが、これは巨大で、読むのはよほどの決意が要るかも。同じ岩波文庫の「インド古典説話集 カター・サリット・サーガラ」全4巻も楽しく読めると思います。
 1冊の半分が訳註と解説という本書はどえらい労作で、真剣に勉強しようと言う人にはうってつけでしょうが、本編を読むだけでも面白さは十分に伝わる、名訳でもあります。

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紙の本

紙の本日本霊異記 上

2011/03/09 23:02

奇怪な話、事始め。

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本最古の説話集。奈良時代末から平安初期というから、1200年前の物語集であり、伝えられている説話はさらに4世紀遡る。収集されているものの多くは「今昔物語集」にも採録されている。これらを、素朴な物語たちとして楽しむことはできる。
ただ当時の伝承を集めただけだとしても、グリム童話やカルヴィーノのイタリア民話集のように、語り手の個性や思想は滲み出ざるを得ないのだが、特にこの作者景戒には明確な意図があって、それは郷土愛でも文芸志向でもなく、ひたすら仏教の布教のためだったというところにある。その熱意は純粋で、たぶん当時において最も体系立った道徳規範として仏教を見ていることから来るのだと思う。
道徳と行っても、因果応報ということが中心で、善行とは三宝(仏、法、僧)を敬うことと、範囲は狭い。そのために、仏教伝来以前のエピソードも、因果応報の原理を説くためにいささか強引とも思える流れになってたりして、だがそれが嫌みではない。作者の真摯な人柄ゆえかもしれないし、ともかくもそれで人々がいくらかなりとも幸せになるという考えから来ているためでもあるだろう。
作者が実際に人々を前にして語った説教でもあるらしく、とにかく聞き手(読み手)に伝わるようにという意欲の感じられる文のように思える。冒頭の、雄略天皇に命じられて雷を捕まえてくる話など、痛快な面白さで、むしろこれで掴みはOK的な構成かもしれない。信仰の世界の話になっても、強力の女や、鷲にさらわれた子供の話なども、まだ原始的な驚異に満ちている。それが時代を下るにつれて、法華経を読んでいいことがあったとか、地獄から帰ってきたとか、観音像が不思議な霊験を標るしたとか、教条臭いものも混じってくるが、不可思議さを醸し出しているところは変わらない。僧に悪さをして悪死にしたとか、牛に生まれ変わったとか、キツイ話もどこか読み手に救いを感じさせる。これも景戒の語り口や構成によるものか。
舞台も九州から東国まで、情報収集力はなかなかのもので、これが一人の力によるものか、残されていない先人の業績があったためかはよく分からないが、当時におけるザッツ日本っぽい趣きがある。代々の天皇も当時の呼び名で出てくるし、道鏡のことも変事の一つみたいに言及される。デティールを読み解くと、当時の人々の暮らしや考え方が見えてきて面白いのでしょう。
構成は原文(読み下し文)、現代語訳、語釈、解説となっていて、非常に読みやすい。特に解説部分では、元の話を読んでもやっとするところに訳者による時代考察が示され、すっと腑に落ちることになって、投げ出さずに読み進めることができたのでありがたかった。

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紙の本

紙の本続審問

2010/12/09 23:04

書物と美の帝国

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1937年から52年までと、長い期間に書かれた文学論集なので、一冊でどうということは難しそうなはずなのだが、一貫した匂いは感じられる。作品の美しさを先ず絶対的に肯定すること。詩人であるボルヘスの、それが絶対的な原点であることが全編から漂う。
そこからの分析を、時には言語や表現の特性に求め、作者の生きた環境や社会的背景に求め、しかしボルヘスに特に際立つのは、作者の抱いた幻想が時間を越えて繰り返し現れることの発見だろう。荘子の胡蝶の夢の逸話はしばしば引き合いに出されるものの一つで、夢見た世界と眠りから醒めた世界のどちらが本当の現実であったかのためらいは、コールリッジが夢に見た宮殿が蒙古帝国に実在したといいったエピソードなどで、その不可解さを深めていく。
カフカの先駆者として、ホーソンやダンセイニを発見するくだりは、特にホーソンに対する現代的は批判を退けて、その夢見た物語の中で現実のしがらみや倫理が溶けていくのを示す過程に戦慄を感じる。
さらにウェルズ、チェスタトンと、幻想の賛美。ホイットマンと『バガヴァッドギーター』、『ルバイヤート』を英訳したフィッツジェラルド、もちろんベックフォードの東洋幻想を重ねて、これらは空間を越えると同時に、時間も越えたリンクなのだ。その中で「世界」を語れば「神」にも言及され、論理を語ればアリストテレスや、ゼノンのアキレスと亀の命題など、古代ギリシャ哲学が引き合いに出される。
そうしてさまざまな文学と哲学を語った下敷きを作っておいて、「新時間否認論」という一文が出てくる。しかしまあ、時間が存在するとか、しないとかは、多分どうでもいい話なんだろうし、答えが出る話でもない。では何なのか、ボルヘス自身が校正中に書いたというエピローグにあった。「宗教的ないし哲学的観念をその美的価値によって、時には奇異で驚嘆的であるという理由から評価しようとする」ああ、たしかにそうだ。無限と瞬間の対立、連続と断絶、唯名論と唯物論、プラトンとアリストテレス、それら組んず解れつして揺さぶられる世界に酔うように楽しんでいるのだ。世界というのはむしろ書物の世界のことだ。書物の世界はすなわちボルヘスにとって、汲めども尽きぬ美の泉なのだ。
だがボルヘスは架空の世界だけに生きているわけでもない。美しい書物を生んだ人々を讃え、もう少しでそうなりそうだった人々を評価し、彼らを呪縛するファシズムや共産主義、その他の迷妄や暴力がしばしば明らかにされる。書物は世界と人間の美をあらわにする器であるがゆえに、尊重され守られるべきなのだ。

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紙の本

紙の本雨月物語 現代語訳付き 改訂版

2009/08/18 00:56

森幽く叢深き淵から

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

幻想的な9編の物語集なのだけど、実にポップでキュート。因業とか怨念とか、そういう要素は満載なのだけど、それだけに淫しない、そういった粘っこく奔放な空想をすること自体が愉しげである。
「白峯」讃岐に旅した西行が恨みを抱いて死んで行った崇徳院の亡霊に出会う話で、その呪いで平家が滅亡していくというストーリー。理屈で追いつめられても強引に押し切るのがよい。「菊花の約」兄弟の契りを結んだ二人の男が、1年後の再会の約束をする。友情の話なのだが、その裏側に友情に縋る孤独な魂の嘆きがある。「浅芽が宿」下克上の時代、下総国の一人の男が一旗揚げようと妻を残して京に上る。「夢応の鯉魚」たいそう絵のうまい僧がいて特に鯉を描くのが好きだったが、鯉になっている夢を見る。「仏法僧」高野山に参拝した町人が、関白秀次の一行に出会う。無論亡霊の一行であるが、ひょいと出て来てひょいと帰っていくところが軽い。「吉備津の釜」釜の占いに反した結婚の結果、夫は女を作って逃げてしまう。「蛇性の淫」蛇の化身の女に見込まれた男の話。何度でも騙される情けなさがおかしい。「青頭巾」秀麗な童児を愛したあまり、その死後に鬼となってしまった僧の話。おぞましい設定と、清々とした結末の対比が不可思議。「貧富論」蒲生氏郷の家臣の一人の家にふいに黄金の精が訪ねて来るが、意気投合して様々なことを語り合う。
かように作品の題材はバラエティに富んでおり、登場する怪異も怨霊、幽霊、鬼、妖怪など様々。それぞれに、畏れ、嘆き、嗤いといった要素が詰まっていて、感応するツボもまた様々だ。古今のどこからでも寄ってらっしゃい、まさにこの国は怪異列島である。旅のつれづれにも、あるいは隣の村へ、隣の家へ行くだけの空間にも、月を眺めた空にさえ、深い森、草むらが密生し、清流のこだま、古い柱木、黴と苔の匂い、怪しの影の息吹が充満しているのだ。
作者の筆致は、そんな世界を乗りに乗って謳い上げるような名調子だ。僕らの棲処がそういう常世なのだということを改めて確認できるのが悦ばしい。
そこで怪しの論理は、世間の常識、人間の論理とは別の次元で進行して、悪びれるところがない。彼らは浮世の義理やしがらみから解き放たれて自由だ。たとえ祈伏されようと、封じ込められようとも、それぞれ貫いたもので、満願成就の趣き。そういう態度は体制批判につながって危ないのではないかと心配させておいて、ラストで黄金の精の語る中に徳川家康へのオベンチャラをちゃっかり混ぜ込んで、これでごまかせたのだろうか。
訳書としての構成は、一編ごとにあらすじ、現代語訳、原文、脚注が付いて、非常に読みやすい。分かりよすぎて申し訳ないぐらい。だけどこの妖美の世界へすぅっと一体化し得るのは、やはり僕らの血がそうさせるのではなかろうか。

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紙の本

紙の本好色一代男

2008/11/20 22:59

世界之介参上

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いわゆるところ女偏歴の物語ということになっていると思うが、僕が読むとこれは旅の物語になるのだ。もっとも正直に白状すれば、この岩波文庫版の原文では恥ずかしながら意味がよく読み取れてない部分が多い。自分を例にするのもなんですが、これから読む人には現代語訳(吉行淳之介とか)をお勧めします。
主人公の世之介は、幼い頃から京、大阪あたりをふらふらと遊び回っているが、そのうち勘当されたり、出家するはめになったりして、諸国を流浪せざるを得なくなり、またまた膨大な資産を得るとふらふらと遊び回る。それは駿河、江戸はもとより、信州、新潟、水戸、西は小倉、博多へと。どこへ行っても女郎、花魁、素人など縁があってか好んでか遊びまくるのだが、その土地ごとに風物、習俗は様々で、人もいろいろ。関わり方も千差万別で、まさに遊びを尽くすと言うにふさわしい。それだけの遊びが若い時から出来るというのも、好きだからというだけでなく、言葉、立ち居振る舞い、教養、風流、気遣いと、あらゆる点で人の心を捉える才能があってこそなのも、きちんと描写されているのが侮れないところ。特に遊び場の頂点に立つ太夫に心通わせられるのは、やはり並大抵ではないのだ。才あって様々な経験ができ、経験がまた人格を育てるというのが、この世之介の生涯を通じて感じられる。
そして土地折々の遊びどころ、それぞれの性格、風情もあれば、京などの都会への憧れもある。そこの頂点たる太夫の言動はやはり艶やかで、これがとてもトキメク。特になんといっても京の吉野太夫。いなくなると京から桜が消えたようだと言われるほどの美女。たまりません。
そうやっていろいろな土地のいろいろなシチュエーションで女(遊び)を描いているとも言えるし、女を通じて日本中を描いているとも言える。だから世之介の「世」は、浮世の「世」かもしれないが、世界の「世」じゃないかなんて気もするのだ。女と世界というのは不即不離、一つながりのものとして捉えられているのかもしれない。いや、きっとそうだ。西鶴にとっても、女を描こうとしたのか、世の中を描こうとしたのかなんて区別も無いのだ。世界とはすべからく堪能すべきもので、十分濃厚に味あわせてくれる。
ところで文章が読みにくい一因は、西鶴が俳諧出身ということによるのだろうか、読む時のリズムで文を区切っているせいがあるように思う。逆に言えば、それこそ謡うようなリズムで読み進めれば一層心地よく感じられるということだろう。残念ながらその境地には至りませんでしたが。

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紙の本

紙の本山海経 中国古代の神話世界

2005/12/25 13:37

奇書にあらず

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 古代中国における、各地の地理、生物、生活などを一網打尽にまとめた書と言えばいいかと思う。無論それらは今日的な地理学でも生物学でも社会学でもない、当時の水準に基づく記述と情報収集力によるものであるから、現代人の感覚で読めばかなりぶっ飛びものの記述なのは当然のこと。本書の解説を水木しげるが寄せているぐらいである。
 特に印象的なのは、人々と動物、それに土地ごとの神々の姿だ。その人々もまた、時には神の子孫、王の子孫から、鳥の子孫までがいる。想像力豊かどころか、考えられるあらゆる組み合わせで書いてるだけとちゃうんか、と思えるほど無尽蔵でバラエティに富んだ造形、「山海経」を奇書と呼ぶに十分にふさわしい。紀元3世紀の東晋の時代にすでに奇怪奇抜と述べられているぐらいだ。しかもこれらが挿し絵付きなのだから堪えられない。
 しかし、例えばある動物が現れると日照りになるとか、疫病が流行るなどは、まあ神話、言い伝え的にはありそうかもしれなが、土木工事が増える、食べると悋気をしない、となるとえらく具体的だ。架空性のレベルがてんでバラバラであって、つまりただ空想を並べ立てたものではない。おそらく現在では喪失されているその時々、土地ごとの歴史やお伽噺などを集めて来て、そのうちで地誌的なことだけを抜き出して記録したために、その背景が分からすに奇怪に見えるだけなのだ。
 してみると、この書に1行か2行ほどに記された地誌の一つ一つに、その土地の人々の生活から滲み出た物語があったはずだ。単なる神話時代の牧歌的な暮らしでではない、現代人にも共感できる社会生活の中で育まれた物語である。そう思うと、人々の生き生きとした、あるいは時に苦難に満ちた生活のイメージが浮かんでくるようだ。中国世界の中心近くでは記述が細々しているのに対し、外縁部に向かうほど大胆でスケールが大きかったりするところにも、妙なリアリティを感じる。
 ここから出発して、描かれた世界と幾多の物語を再構成することも可能ではないだろうか。最近は水滸伝や三国志が人気らしいけど、次は「山海経」が来ますよ。(来ねーよ)
 むろん、手元に置いて、ときたまパラパラとめくってみるだけでも十分に楽しいです。

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紙の本

紙の本戦争は女の顔をしていない

2018/06/09 17:34

反逆する女神たち

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

第二次世界大戦のソ連では多くの女性兵士が前線で戦闘に加わった。それは看護婦や医師、看護兵の他にも、歩兵、砲兵、工兵、あるいは狙撃手、飛行機パイロット、被占領地でのパルチザンなどもいた。彼女らは、女の兵士など要らないという司令官を押し切って熱烈に志願して軍に入った。そして戦闘の悲惨な現実を体験し、それでも勇敢に勤めを果たす。もちろん戦地での恋愛もあり、戦後になって結婚した者もいた。だがほとんどは戦後は軍にいたことを隠し、普通の女性として生活することを望んだ。
そして数十年が経って、彼女らへのインタビューを試みたところ、堰を切ったように話し出したというのがこの本ということになる。時間が彼女たちを少しだけ自由にさせていた。だがこのインタビュー集はソ連において出版は困難だった。ペレストロイカの時代になって、検閲を経たのちに出版され、ソ連崩壊後に削除なしでの出版がかなったというもの。それでもなお、その内容に多くの抵抗があったという。
ソ連ーロシア人にとって、あの戦争は勇敢な英雄の物語でなくてはならなかったが、女性たちの見た戦場では、無残な死体が散乱し、傷病兵も医療が追いつかずに次々に死んでゆく。物資は不足し、彼女らはだぶだぶの戦闘服と、だぶだぶの靴で、次の任地までは泥だらけになって、ひたすら歩いていくしかない。勲章につながるはなばなしい活躍もあったが、悲惨な光景を徐々に受け入れるように彼女たちの精神も変わっていく。男たちにとっての戦争は、そんな現実はなかったものとして、ひたすら栄光のみが存在したものでなければならなかった。そうでなければ戦争の正当性、つまり体制の正当性が否定されてしまうことを分かっていた。
第二次世界大戦=大祖国戦争が神聖な位置づけにされるのは、新しく生まれた共産国家にとっても犯すべからざるような神話が必要だったというのが、たとえ矛盾であったとしても、妥協のない徹底抗戦を選択したスターリンは本能的に気づいていたのではないだろうか。ソ連がぼろぼろに傷ついて崩壊した後も、神話はまだ効力を発揮していることが、その直感を支持している。
しかし神話に登場する女神たちは、作られた理想のままではない、生身の人間であろうとすることを隠さなかった。それは現代の必然だ。神話が変容していくように、国家も変容していく。世界の変化は、この最初の原稿の中に予言されていたはずだが、どんな神話でもそれが神話であると気づくまでには、長い時間がかかるのだろう。

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紙の本

大東亜戦争のリアル

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

外交評論家であり知米派の清沢は、また熱烈な愛国者であり皇室崇拝者でもあった。ただ戦争の行く末は読めていた。大東亜戦争末期の頃には、親しい人からは、あなたの言っていた通りになったと言われるが、憲兵には目を付けられ、少し東京を離れていると逮捕されたと噂されたりする。
その清沢は外交史の研究の資料とする目的で、断続的に日記を書いており、そのうちの昭和17年末から20年5月に疎開するまでの期間に書いていた分をまとめたのが本書。新聞の切り抜きや外電などのニュースと、それに対するコメントが主だが、仕事のこと、見聞きした話から、日常の出来事も率直に記載されていて、それらも実に興味深い。
著作や記事を書き、講演で各地を回り、自宅の庭を耕して甘藷を作り、空襲で火のついた自宅を消火し、無差別爆撃に怒り、官僚の硬直性と統制と言う名の社会主義経済に怒り(清沢は強硬な自由主義者)、玉砕に嘆く。東条に舌鋒鋭く、小磯に呆れ、鈴木貫太郎はやや褒め、新聞記事や徳富蘇峰に怒り、中野正剛の死(東条に追い詰められて自死)に衝撃を受ける。一日畑をしての感想、列車の大混雑、防空訓練に駆り出されたお手伝いさんの一言、空襲後の東京を見て。芦田均や石橋湛山と親交が深く、文人、要人との交流も多い。自分が捕まったときにこの日記が見つからないようにと、いろいろ気をつけてたらしい。
また「未刊行論文集」として、日記の同時期に「東洋経済」誌などに発表した論説も収録されている。日記と言ってることが全然違うやんけーという名調子しかし鋭いものもあれば、日記そのままの内容で度胸に感心するものもある。巻末の年譜によると、大戦前まで世界各地を飛び回っていた。昭和5年のロンドン軍縮会議に取材に行き、その欧州行で英国首相マクドナルドやムソリーニとの会見もしている。吉田茂(ロンドンで会う)のことは相当褒めている。そして日記の最後から幾日か後に、終戦を見ずに肺炎で急死。食料不足で痩せたと嘆いていたところに、空襲、疎開で疲労したのだろうか。
本書は、ちくま学芸文庫版もあり、また岩波文庫で抄録版も出ている。せっかく読むのであれば全文版の方を薦めたし。
戦争のこと、戦時中のことは、今も限り無く語られているが、臨場してなおそれらを客観視しての、何たばかることないリアル。「重光外相の議会演説ー外交攻勢に期待す」の一節で「強硬外交に迷信的な信仰を有している国民」と日本人を評するは、現代にも通じる勇気ではなかろうか。

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紙の本

終わりの無い物語

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本に囲碁ブームを巻き起こした革命的な作品もこの巻で完結。すばらしい作品でした。作者のほったさん、小畑さん、監修の梅沢さんには、本当にご苦労さまと言いたい。
 連載終了時には物議をかもしたらしいエンディングですが、しっかりまとまっていると言える。
 日中韓の若手棋士による対抗戦北斗杯、ここで終了することの妥当性は是非があると思うが、どこで終わっても実はあまり変わらない。この物語を、小学生だった主人公のヒカルが、囲碁を始め、棋士となって成長していく過程の青春譜として捉えれば、勝負の世界の激闘にもまれ、自らの棋士としての人生に意義を見い出したところから、一人の勝負師としての人生が始まる。始まりが一つの物語の終わりとなる、ある意味でこれ以上は無い終わり方と言える。
 ラストは、ヒカルの言葉に、ライバルの塔矢アキラ、韓国のコ・ヨンハの言葉が重なり、さらに未来を見つめる塔矢行洋の言葉と、過去からの時間を繋ぐ藤原佐為の面影が重なる。
 そして巻末のサイドストーリーでは、ヒカル達に続く世代が描かれる。北斗杯団長の倉田が自分を脅かす新しい世代と呼んだヒカル、アキラのさらに若い世代。ヒカルもいつのまにか追われる者の立場に立たされている。これらの重層こそが、この作品のテーマであった「神の一手を極める」その途方もない夢の、地上に蒔かれた種なのだ。
 このマンガで囲碁に興味を持った人、碁界に興味を持った人も多いと思う。不思議に思ったんじゃないかな。ライバルのヒカルとアキラが北斗杯直前に自発的に合宿したり、日中対抗戦に出場した伊角さんが敵の中国棋院に暖かく迎え入れられたり、勝負と友情の不思議な関係もこのマンガの見どころ。
 ヒカル達のこれからがどうなるのか気になる方は、これから彼等の進む先にある現実の棋士の世界に触れてみてはどうだろう。実際の日中韓の関係にも触れた「囲碁界の真相」、ヒカルの目指す一流棋士群像を描いた「昭和囲碁風雲録」などの本がおススメ。もちろん囲碁のルールを覚えてからヒカ碁を再読すれば、一段と楽しさが増すことも請け合いです。

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紙の本

凍る大地から来た妖女その他

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ドイツ編とロシア編です。ドイツと言えばまずホフマン、「イグナーツ・デンナー」は一人の篤実な狩人が謎の盗賊、その実は魔術使いであるイングナーツ・デンナーに取り憑かれる物語。デンナーの生い立ちや、秘法の根源などが明きらかになるにつれ、その邪悪さや宿命がますます重くのしかかってくる。恐るべき奸知と魔力に、人々は翻弄され、次々に繰り出される悪魔の計略に物語は二転三転する。その中で魔術あるいは錬金術が、単なる驚異や怪奇でなく、使い手と人々の運命を弄ぶという点で悪魔的なものであることが、丹念な人物描写の中から浮き出てくる迫力は並々ならぬ。エーヴェルス「蜘蛛」は、魔に取り憑かれ、破滅していく男を描いているが、早いうちに展開が読めてしまうのだが、そしてたぶん主人公自身もそうでありながら、悲劇へまっしぐらに向かっていく人間心理を止めることがどうしてもできない。舞台(TV画面)に向かって「志村ーっ、後ろーっ」と叫ぶ子供の気持ちそのままのようなドキドキものだ。クライスト「ロカルノの女乞食」は一風変わった幽霊ものだが、劇的な展開がうまい。ケルナー「たてごと」は悲しく美しい愛の物語。
ロシア編は、社会主義リアリズムの時代には黙殺されていた、ロシアの幻想物語を苦労して採集したとのことで(本書は1969年刊)、しかしいずれも迫力ある作品となっている。ゴーゴリ「妖女」は土精と呼ばれる伝承の魔女の恐怖を描いたもので、波のように繰り返して襲いかかる恐怖は、ジェームズ・キャメロンの映画のようでもある。さすが文豪。チェーホフ「黒衣の僧」は、狂気、幻覚とも幻想ともつかない思想に溺れていく男、自己の精神の動きを見つめる主人公の誠実さに打たれる。さすが。A.N.トルストイ(文豪じゃないトルストイ)「カリオストロ」は、かの怪人カリオストロ伯爵がペテルブルグに滞在した帰り道に引き起こす騒動の一つということになるだろうか。カリオストロは死者を蘇らせる秘術を披露するが、物語は混乱していて、恐怖と錯乱、愛と邪悪が錯綜する。それは、カリオストロというストレンジャーを迎え入れた人々が陥る混乱とも言えるだろう。そういう世間から外れた価値観やテクノロジーを持つ、ストレンジャーの存在の発見の物語なのかもしれない。するとアルツィバーシェフ「深夜の幻影」も、超自然的驚異の姿に借りて、新しい観念に対する人間の知力の限界を揶揄しているとも読めなくもない。レミゾフ「犠牲」は寓話的な物語だが、寓話がどこまでも残酷になれることを突き付けるのは、もちろん現実自体の残酷さにも比されるに違いない。
ロシア編への編・訳者原卓也氏による解説が、上に触れたようにまさに悪戦苦闘記とも、民衆の視点での文学状況記とも読めて興味深い。
本書のシリーズは怪奇小説と謳ってはいますが、ホラー小説と呼ばれる色彩よりは、幻想文学という範疇の怪奇寄りのものを集めたという印象で、お化け屋敷系の苦手な人でも読みやすい本です。そして本書に顕著なように、怪奇、恐怖と言うよりは人間の暗黒な面に注目してできた文学シリーズと言えそうです。

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古くて新しい幻惑世界

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ホフマンというと幻想的な作品でよく知らしのれているが、本書では狂気ともつかない激烈な幻想「黄金の壷」、奇妙な犯罪の真相が改名される「マドモワゼル・スキュデリ」、モーツァルトのオペラにまつわる奇妙な話「ドン・ファン」、奇妙な音楽楽長の手記「クライスレリアーナ」の4編を収録。裁判官を本業とし、音楽家としても活動したホフマンの多彩な面をまとめたものになっている。
「黄金の壷」は運の悪い大学生の日常が、瞬く間に幻想世界との往還に変わってしまう過程が剛腕だ。言われるところによると、神や悪魔、妖精といったものの存在が前提とされる世界を描くのでなく、そういったものが狂気の産物とされる現実世界における幻想として描かれるところがホフマンの19世紀初頭当時における新しさであったということ。宗教や神秘主義、民間伝承などの世界を伝道的に表現するのでなく、題材として処理しているのは、それらが精神の所産であるという近代的合理性によるわけで、その上でさらにアラビア的幻想や、アトランティス伝説まで駆使して組み立て上げた、精緻にして甘美な人工世界が膜一枚を隔てて我々の生活空間に隣接している。その一方でホフマンの同時期やそれ以降の時代においても、信仰の世界を生きる人々の世間や文学というものがなお並立していたわけで、作品の構造や面白さとともに、ホフマンを当時の人気作家に押し上げた世相的背景も興味深い。
登場する神々や魔法使い達について、当時の教養が無いとどの程度のオリジナリティがあると考えていいのか分からないのだが、甘美な夢想を掻き立てる具合からして、相当インチキ臭い風を感じる。ただ無粋な俗世間から解き放たれて未知の国へ飛翔する欲望を刺激するだけでなく、そこに誘惑される心理さえ部品にして幾何学的に設計された小宇宙としても魅力的な作品だ。
古くは「スキュデリ嬢」と訳されていた作品が、この新訳ではドイツ人の書いたものを日本語にしてなぜ「マドモワゼル」になっているかというと、フランスを舞台にした作品だからで、この辺の言語感覚は非情に悩ましいものがあったと思う。異常心理による犯罪を描くにも、ある種の狂気の分析と言う点では幻想作品にも共通する。そして俗情的な捜査や裁判という流れと、論理との対決というのも永遠の人気テーマなのかもしれない。そして単なる対決ではなく、このマドモアゼルの老獪さや上品さを通して筋道が造られる掻痒的な過程もまた楽しめる。
作品選択も総花的だが、訳文も穏当な感じで、個人的にはもっとゴリゴリしててもいいように思ったが、それは僕の脳が犯されてきたせいかもしれない。むしろ爽やかでさえある文体は、怖くないからねといって誘う、本当の悪魔の囁きなのであろう。

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紙の本

紙の本ルポ戦後縦断 トップ屋は見た

2009/03/31 01:02

昭和30年代の社会矛盾に現代人は向き合えるだろうか

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昭和33年から42年までの「文藝春秋」その他に掲載された梶山のルポ集。つまり「黒の試走車」などで人気作家になる前の雌伏期と、その後しばらくの期間が混じっているが、読んでいてもその差は感じられない。最初から完成した芸だったようだ。
収録テーマは、国鉄の鶴見脱線事故、赤線廃止後の街、王子製紙の労働争議、たぶん流行語にもなった「蒸発」、豊かな暮らしを実現した原始共産制の村、国有財産払い下げの不審、貿易自由化での通産省の舵取り、敗戦を信じなかったブラジル移民達、解体された財閥の復活、大宅壮一とともに訪れた生まれ故郷の韓国の状況、十数年を経て苦しみの続く被爆者たち、など。いずれも一時ニュースを賑わしはしたが、忘れ去られていった出来事や人々のその後を丹念に、センセーショナルさを排して取材したものだ。現地へ行き、当事者に会い、事実と推測は明示し、ルポの教科書のような地道なもので、決して華やかで人目を引くものとは言えない。しかし確かに事件は起きていたし、また世間の流れのターニングポイントとなるような、あるいは日本社会の本質を映すような事件である。
国鉄の事故については、戦前からのいきさつでの資金不足、政治家による赤字路線の建設、過密ダイヤなどにその原因を求めているのは、慧眼としか言えないだろう。40年後にもほぼ同じことが指摘されているのだから。法律で赤線が廃止されても需要があれば供給が生まれるイタチごっこ、毎年1万人以上の家出があり理由のトップが「動機不明」、そういった現実と我々はこれまで綺麗ごと抜きで真摯に向き合ってきたろうか。大蔵省や通産省の意思決定の過程を丁寧に再現してみれば、「お役所」というものの本質、ありもしない無謬性を主張せざるを得ない組織の限界というものが露呈されている。
一番驚くのは、昭和25年頃までブラジル移民の間で、日本は勝ったと信じる「勝ち組」と、「負け組」がいて、対立どころか殺し合いにまで発展しており、昭和40年に至っても一部の「勝ち組」は生き残っているらしい、といったこと。そしてそれらは単純な愛国心によるものではなく、それを金銭利益、すなわち詐欺の手段として利用する人々がいて生まれたのだということだ。熱くて純朴な人、この場合はそれに強い望郷の念が重なって騙されることになった次第なのだが、そういう構図が決して特殊な例でないことがこの複雑な経緯がら読み取れる。逆に正しいはずのイデオロギーが必ずしも人間を幸福にしないというのが、大規模ストライキの例である。
当時の景気悪化を心配する箇所が文中の所々にあったりもするが、大小様々な問題を抱えつつも日本はその後世界で最も豊かな国にまで突っ走ったわけで、その意味で結果オーライ的な面もあるかもしれないが、さらに一段階上へ進むためには、小手先の改良だけではなく、40年前の指摘の中に社会制度や人間そのものの矛盾の普遍性を見いだすことも有用なのではなかろうか。

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紙の本今東光/五味康祐

2008/12/13 16:04

美しくもなき人斬り稼業

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今東光と五味康祐の合本。
今は「人斬り彦斎」勤王志士で、人斬りとして恐れられたという人物、佐久間象山を斬った男。肥後細川藩士で、元は茶道をもって仕えたのが、独学で剣技を磨き、突如脱藩したという。佐久間象山は信州真田家臣、蘭学で大きな影響を与えた人物だが、公武合体論を唱えたことで勤王派に目をつけられた。このような人物を暗殺することが国のためによいわけがないのだが、血気にはやった若者達には勤王という目的と手段の取り違えも分からないわけで、ただ実行者だけが行為の結果におののく。象山を斬って京を落ち延び、長州の奇兵隊に身を寄せて、長州征伐も体験する、その流浪の中で茶人としての感興を深めていく。こういう志士にしろ人斬りにしろ是とも非とも言うのは詮無いことだが、一つの人間の精神遍歴として苛烈な印象を残す。
これを執筆した頃の今東光は、菊池寛との対立などで文壇を去ってしばらく経ち、河内で住職を勤めながら執筆を再開し始めた頃で、放浪の中で生まれるものへの撞着があったのだろうか。京での酒色の暮らし、命がけの逃亡、幕軍との角遂、新撰組との対立など、この道筋でなければ経験できないことがあり、また様々な一人称視点など、小説という形でしか表現できないことを追求しているように思える。
五味は「喪神」「一刀斎は背番号6」は有名として、「指さしていう-妻へ」は売れる前の苦しい生活の中での妻との結婚前後のことを書いたもの。登場する「私」は社会不適応者のように描かれ、実際に相当気持ち悪い人物に見える。文学のために他のことを犠牲にする、それ以上の駄目人間だが、それが「喪神」で芥川賞を取り、「柳生」で超人気作家になる、その経緯までは書いてないが、古い美意識に固執して戦後文学の流れに取り残されながら、それが却って時流を掴んだ作品を産んだ、奇妙な皮肉には感ぜざるを得ない。「魔界」もまた、自殺した川端康成をくさすだけの下品な文章で、だがその下品な自分が、人間川端を愛したということではある。堕落とか無頼派と言うにも未熟すぎる思想と、完成度の高い文体のアンバランスさ、そのこと自体が読者の中に、熱いうねりをもたらすような、危うい魅力がある。
この「近代浪漫派文庫」というシリーズで、今と五味が一冊に収められるという意図は一切書かれてないので(単なる年代的切り分けか?)、この本全体が何なのかは判別し難いが、貴重なのでとりあえず買っとけ(読んどけ)ということは言える。

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