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カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)
11月初め。フョードル殺害犯として逮捕されたミーチャのまわりで、さまざまな人々が動きだす。アリョーシャと少年たちは病気の友だちを見舞い、イワンはスメルジャコフと会って事件...
カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟4
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商品説明
11月初め。フョードル殺害犯として逮捕されたミーチャのまわりで、さまざまな人々が動きだす。アリョーシャと少年たちは病気の友だちを見舞い、イワンはスメルジャコフと会って事件の「真相」を究明しようとする。そして裁判で下された驚愕の判決。ロシアの民衆の真意とは何か。【「BOOK」データベースの商品解説】
【毎日出版文化賞(第61回)】【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
本当にミーチャが殺したのか?
2018/04/09 16:45
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Ge.UK - この投稿者のレビュー一覧を見る
という観点から読んでいると、善人アリョーシャの言葉が引っ掛かります。彼が、知っている事実があれば包み隠さず打ち明け嘘はつかないという意味での善人なのか、あるいは兄弟を守る為なら嘘も厭わないという意味での善人なのか…という探りどころが出てきます。
ここに着目することによって、法廷で争われているミーチャが殺したのかあるいは癲癇持ちの料理人が殺したのかに加え、さらに別の容疑者が浮かんできます。
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ロシアの文豪ドストエフスキーの名作第4巻です!
2016/09/25 12:16
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、ドストエフスキーの名作の第4巻です。11月はじめ、フョードル殺害犯として逮捕されたミーチャの周りで様々な人が動き出します。アリョーシャと少年たちは病気の友達を見舞い、イワンはスメルジャコフとあって事件の真相を究明しようとします。そして、いよいよ裁判が始めります。ここで下された判決とはどのようなものだったでしょうか?ロシアの民衆の真意とは一体なんだったのでしょうか?いよいよクライマックスに近づき、読者は目も話せないストーリーに魅了されることでしょう。
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怒涛の展開
2016/02/24 17:45
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けy - この投稿者のレビュー一覧を見る
3巻の気になるラストから物語のクライマックスまで一気に駆け抜ける。
思想と人間の衝動を見事に描いきながら、面白い小説へと綺麗にまとめ上げていた。
世界最高クラスの小説の力を見せつけられた。
紙の本
16歳の少女が斧で警察官の父親を殺害した。つい最近の出来事である。同種の事件は過去にもいくつもあった。現在日本の刑法に尊属殺人という概念は消えている。にもかかわらず私たちには大変ショッキングな犯罪である。私のどこかに親は敬うべきものと儒教思想の残滓があるのかもしれない。
2007/10/06 17:50
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
『カラマーゾフの兄弟』が扱うのはキリスト教社会において最悪の犯罪とされる父殺しだが、今の私には同様の重さでこのテーマを感じることができる。
第4部はミーチャが父殺しの容疑で起訴された裁判シーンでクライマックスを迎える。はじめにびっくりしたことだが19世紀末の裁判が公開の場でしかも検事、弁護士、裁判官、陪審員が均衡をなし、証拠主義が一貫するなど公平が担保される現在の裁判制度と同質のシステムでおこなわれていた事実である。
ところで、ミステリーには法廷ミステリーというジャンルがあって、そこではこれら当事者の丁々発止のやりとり、意外な展開が魅力的なのだが、このジャンルの上質な現代ミステリーを読む同じ興奮と迫力と意外性で「第12編 誤審」を楽しむことができる。それは現代の裁判制度と同質のシステムが機能しているからである。
そして文豪ドストエフスキーの推理小説家としての異能ぶりにも舌を巻くことになる。心理学の名手とされる頭脳明晰な検事補・イッポリートの立論も凄いが、対する「天才的」弁護士・フェチュコーヴィチの手腕には目を見張るものがある。現代ミステリーに登場する辣腕弁護士そのままに検察側証人の証言のあやふやさを突き、あるいは証人の人格上の問題をあげつらう変化球など、とにかく、時代のズレを全く感じさせない攻守戦の展開がある。この作品にはいろいろと難解さはあるものの、そこはあっさりと読んで、父殺しの謎解きだけ追った読者でもここで満足できるのではないかと思われるぐらいだ。
ミステリー論はさておき、フェチュコーヴィチの弁論には別な観点での新鮮な思想が見出され、ここでも私は驚かされた。彼はミーチャの無罪を主張するのだが、次善の策である情状酌量を念頭に置いて、キリスト教の倫理感覚とは肌合いの違う論理的で説得力のある父親論を展開する。
「子どもをもうけただけではまだ父親ではない。父親とは、子どもをもうけ、さらにそれにふさわしいことをした者のことだ」
『父たるものよ、汝の子らを悲しませるな』
性欲のままに子をなし、愛情のかけらも示すことなく、食うものも身につけるものもろくにあたえず、常識、分別を教えることを放棄した父親に父の資格はない。子が青年に成長しようが
「父親と呼ぶに値しない父親の姿は、とくに、ほかの同世代の子どもたちのりっぱな父親とくらべた場合、青年の心にいつのまにかなやましい疑問を呼びおこすものなのです」
被害者・フョードルがそういう親であった………と彼は断言する。したがって
「こんな父親を殺しても、父殺しとは呼びません。このような殺人を父殺しと見なすことができるのは、ただ偏見によるのみです!」
ここで父殺しを最悪の罪とするキリスト教社会の倫理観を偏見と言い切るのだが、傍聴者のほとんどがこの論理に感動し、賛同する。読んでいる私も人の子、父親だ。内心忸怩たる思いを持ちながら同感します。まして最近の親が子に加える虐待、冷酷の数々を見聞きしているからなおさらだ。19世紀末のロシアのお話とはとてもとても思えないではないか。このくだりは「第十二編 誤審 第十三章 思想と密通する男」なのだが、「思想と密通する」という倫理と論理が微妙に綾なすこのタイトル、なんと思索的かつ文学的修辞であることよ!
ところでわが国で尊属殺人の刑の加重が廃止されたのは1973年の最高裁判決を経てまだ最近の1995年の刑法改正である。事実、そこでは大宝律令以来の刑法の原則について、被害者・尊属に重大な過失があっても加害者・卑属を例外なく重罰にする必然がどこにあるのかと問題にされたのだ。つまり同じことなのである。フェチュコーヴィチは時を超えて現代の日本に生々しく登場したわけだ。
このシーンだけではない。遠くドストエフスキーが伝えるところの多くは今を生きる私たちにとっても同じ波長のメッセージであって、それだからこそ驚きをもってさらに強く大きく共振させられるのである。ドストエフスキーは未来を予見できた人だとちょっと神秘性を誇張した見解がでるのも不思議ではない。しかし、千変万化する世の中であって、明日は今日の延長にはないのだが、一方いつになってもどこにいても変わらないところが同居しているものだ。人間、あるいは人間の営みにある普遍性だ。ドストエフスキーはいくつもの極限状況に遭遇した原体験から人並みはずれた洞察力を持っていて、この普遍性を摘出することができたのだろう。ドストエフスキー、その人物の大きさははかりしれない。
大勢の個性が登場する。その個性の断片に自分にも似たところがあるなと感じる。あるいは身の回りの人にその影を見出す。さらに日本の現状に同様の悲喜劇性を重ね合わせることができる。ドストエフスキーを読む楽しみはこんなところにもある。
紙の本
ドラマはクライマックスへ
2007/09/24 14:51
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:桑畑三十郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「第11篇 兄イワン 5 あなたじゃない、あなたじゃない!」の章で、イワンとアリョーシャが、誰が父フョードル・カラマーゾフを殺したかについて議論している時、イワンはカテリーナが、長男ドミートリーが父を殺したことを数学的に証拠立てる文書を持っているという。それに対し、アリョーシャはそれを否定し、イワンにこう言う。「ぼくが知っているのは、ひとつ」「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」と。イワンはこのときすでに精神を病みはじめていた。心優しいアリョーシャはそれを知っていた。それなのになぜこんな思わせぶりなことを言ってイワンを苦しめたのだろうか。疑問に感じていたが、この点について、エピローグ別巻解題280ページに詳しく解説されていた。この小説の奥深さを改めて感じさせられた。
「9 悪魔。イワンの悪夢」の章では、イワンが幻覚である悪魔と対話する。そこで悪魔は言う。「もしかしたら、いまの地球自体、もう十億回も繰り返されているかもしれないんですよ。いったん寿命を終えて、凍りついて、ひび割れて、粉々に砕けて、構成元素に分解して、それからまた、大気にわけのわからない溶媒が満ちて、それからまた彗星が現れて、太陽が現れて、またまた地球が生まれて -」 ここで地球が凍りつくと悪魔は言っているが、それはガブリエル・ウオーカーが著書「スノーボールアース」で述べている過去数回、全地球が凍結したという説と一致する。また地球自体が繰り返されるというところも川合光著「はじめての超ひも理論」で述べられている「我々はビッグバン、ビッグクランチのサイクルを繰り返した後の宇宙に住んでいる」という説と共通するものがある。これらの説が提唱されたのはごく最近のことである。ドストエフスキーは自然科学についても驚くべき先見性があったということがわかる。ちなみにこの章で「ホザナ」という言葉が出てくるが、これは新潮文庫版(原卓也訳)の訳注によると、「神の賛美」という意味らしい。
さて「第12編 誤審」で、いよいよドミートリー・カラマーゾフの父殺しの裁判が始まる。「4 幸運の女神がミーチャに微笑みかける」の章で証人に立ったアリョーシャは、突然ミーチャとの別れ際の仕草について思い出す。これは第1部421ページに登場するエピソードだ。第1部終盤の出来事を、第4部の大事な場面で急に主人公に思い出させるあたり、ドストエフスキーが読者の記憶力に挑戦しているようで、改めてこの小説の構成に感心させられる。その後証人に立ったイワンはスメルジャコフから預かった金を証拠として提出し、ドミートリーは犯人でないと証言する。しかし幻覚症がひどくなったイワンの言うことを誰も信用しない。そこへヒステリーを起こしたカテリーナが前述のドミートリーが父を殺したことを数学的に証拠立てるという文書を暴露してしまう。法廷内は混乱していく。さあ裁判の行方はどうなるのか。物語は怒涛のクライマックスへと突き進む。