紙の本
幼児ポルノ、っていうきわどい話題ではありますが、私にとっては久しぶりに楽しんだ大江健三郎でした。ミステリ仕立てといってもいいのですが、やはり大江の文体は健在です。
2008/08/20 19:55
6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近、何となく大江健三郎作品を敬遠気味でした。小難しい、っていうか話が暗いし、粘着質の文体が鬱陶しい。それと世界が小さくなって、同じ人たちが何度も登場するので、またか、って思う。この話には終わりがないの?なんて思うんです。要するに、読む側として煮詰まっちゃった。だから新作が出ても、手が伸びません。
この本も出版ニュースは見た記憶がありますが、さらっとパス。でも半年経ってみると、頁数もあまりないし、ちょっとイメージと違う。もしかして、面白いかも・・・。ちなみに目次をみると
序章 なんだ君はこんなところにいるのか
第一章 ミヒャエル・コールハース計画
第二章 芝居興行で御霊を鎮める
第三章 You can see my tummy.
第四章 「アナベル・リイ映画」無削除版
終章 月照るなべ/臈たしアナベル・リイ夢路に入り、
星ひかるなべ/臈たしアナベル・リイが明眸俤にたつ
となって、ちょっと今までとは様子が違う。ま、それは装幀にもいえて、司修を起用したものとは異なり、すこし軽め。そんな装画は山本じん、装幀は新潮社装幀室、初出は「新潮」2007年6月号~10月号です。まず新潮社による内容紹介ですが
ひとりの女優、ふたりの男が生涯を賭けた夢の、ラストシーンが始まる。
かつてチャイルド・ポルノグラフィ疑惑を招いて消えていった一本の映画企画があった。その仲間と美しき国際派女優が30年を経て再び、私の前に現れた。人生の最後に賭ける「おかしな老人」たちの新たなもくろみとは? ポオの美しい詩篇、枕草子、農民蜂起の伝承が破天荒なドラマを彩る、大江健三郎「後期の仕事(レイター・ワーク)」の白眉!
となっています。映画、農民蜂起、というあたりはお馴染みの展開を予想させますが、チャイルド・ポルノグラフィ?今、流行の?と興味津々。で、もう少しだけ書いておけば、その映画企画というのは、本来児童ポルノとは全く関係なくて、30年前の1974年に制作されるはずだったクライスト生誕二百年のプログラム、ミヒャエル・コールハース映画のことがです。
世界中で同じテーマの作品が作られる予定で、韓国版の脚本は詩人の金芝河が書くことになっていたのですが、彼が投獄されたことでアジアでの計画が頓挫し、やり手の映画プロデューサーである木守が思い出したのが、日本のノーベル賞作家である「ぼく」に代役をさせることでした。
冒頭、ぼくの詩『形見の歌』と文庫版『ロリータ』新訳、ポーのアナベル・リイの話が出てきますが、これから、話は予想外の展開を見せます。松山のアメリカ文化センターでぼくが見た、デイヴィッドが撮ったという数奇な運命を辿ったフィルムのことや、京都での女優サクラとぼく、木守の間でおきたことなど、話は謎を孕んでミステリタッチで進んでいきます。
往年の女優、ノーベル賞作家、占領軍、プロデューサー、チャイルド・ポルノ。文体さえ無視してしまえば、アメリカ人作家の手になるハードボイルドといってもおかしくありません。このまま映画化しても、誰もが愉しめるものになるのではないのか、そんな気がする、あるいみ「らしくない」大江作品です。内容についてはこのくらいにして登場人物を紹介しておきましょう。
ぼく:四国生れの大江健三郎らしき70代のノーベル賞受賞作家で、語り手です。同じ「ぼく」でも大江と村上春樹では全く印象が異なります。でも、話はハードボイルド風で似通った部分も。いつかじっくり考えてみたいところです。ぼく、には千樫という名の妻と、光という障害を持つ音楽家でもある息子がいます。
塙吾良:千樫の兄で、飛び降り自殺した映画監督です。今までの話であれば、吾良の話がかなりのウエイトを占めますが、今回は脇役。
アサ:ぼくの妹で、女優サクラのために色々な面で協力をします。
母:「メイスケ母」の伝承を祖母と共にぼくに伝えます。
祖母:村の人のために劇団を呼んでは芝居などを見せていたある意味、有名人。反権力的な「メイスケ母」出陣、という芝居も興行したことがあります。
木守有:やり手の映画プロデューサーで、ぼくとは駒場時代からの知り合い。大学も同じ東大です。
サクラ:サクラ・オギ・マガーシャック。世界的な女優でしたが、30年前、ある事件がもとで精神を病んで引退した格好になっています。東京大空襲の時10歳とあるので、1974年当時は39歳になりそうです。
デイヴィッド・マガーシャック:サクラの保護者で、戦争中は軍医の助手をしていました。カメラマンでもあります。
柳夫人:映画撮影中、日本でサクラが身を寄せる鎌倉の資産家の女性。庇護者といってもいいでしょう。
ミヒャエル・コールハース:神聖ローマ帝国時代のブランデンブルグ生まれの、そこに定住権を持つ博労。クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命――ある古記録より』という本もある。公子トロンカに騙され、愛馬と下僕、妻を失い、復讐に立ち上がる。
もし、この小説を村上春樹が翻訳?したら、どんな感じになるんだろう、なんて思います。大江にとっては不本意な評価かもしれませんが、違う文体でも味わってみたくなる、個人的にはこの20年くらいで最も楽しんだ大江作品でした。講談社BOXならさしずめ「こんな大江を待っていた!」とでも謳うんじゃないでしょうか。
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タイトルとモチーフに惹かれて手にした初の大江作品。なので今までの作品の方向性は知らないままなのですが、重厚でありながら断片化された文体は、引き込まれるようでもあり、読み辛くもあり…。かなり読み手を選ぶ作品ですね。どうも読解力の無さを責められているような気になります(被害妄想…)/(2008.02.19読了)
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パレスチナ出身の米思想家エドワード・サイードが2003年死亡 白血病に苦しみながらも楽観的「体調もひどいし、イスラエルとパレスチナの状態も悪かったのだから、あれは意志的な楽観主義だったのだと彼の弟子たちが教えてくれました。サイードは『人間がやることだから、最後には良くなる』と言っていたそうです。その話を聞き、僕も『意志的な楽観主義』を示す小説を書いてやろうと思った。それが、この小説です。もう一作、書くつもりです」
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先を読まずにはおれない「ムナクソ悪い」作品。幼児愛、老化、テーマはともかく、読み始めると引き込まれてしまった。「ロリータ」「ミヒャエルコールハース」を読んだらもっと意味が分かるのかな。
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「水死」とは兄弟のような作品。切っても切れないような。大江健三郎作品はある程度の長さから立ち上がってくるものがあると感じるせいか、まだこの程度の長さ、中篇的な長さでは消化不良な部分もあって。しかし、最後にかけてたたみかけてくる感じは圧巻で、何故、そんな方向に行ってしまうのか、と。「光」の存在が唯一の光だったか。(10/5/5)
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大人の青春小説は、どうやら甘くはないようだ。
アナベル・リイとはエドガー・アラン・ポーの詩にうたわれる少女の名であり、夭折したポーの妻のことを示しているとも言われる。
アナベル・リイ以外の詩にも見られるポーの一種偏執狂的な「若く美しい、死せる少女」への愛は大江にとっても感じるところがあったのだろう。
ナボコフ「ロリータ」に登場するロリータの友人にしてニンフェットたるアナベルとも絡めてストーリーは展開される。
途中大江作品の原風景とも呼べる四国の逸話を織り交ぜながら、大江本人である作家、映画プロデューサーの木守、女優のサクラさんの三人が一つの映画を作るために奮闘する様は、彼ら登場人物が四十代の中年として描かれているにもかかわらず、一種青春小説のような爽やかさをも呈している。
一枚の写真(正確には映画のフィルム)からアナベル・リイの幻影が立ち現れるまでは。
だが「﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」というポーからそのまま取ったタイトルは、この本においては決して悲観的なものではない。
初期作品(それこそ、芽むしり仔撃ちのような)にある瑞々しく鋭角的な線は薄れ、「芸術家としての作家」から「文化人としての作家」へと姿を変えてはいるものの、展開の緻密さや救済に至る描き方などはその力をいや増し、小説に確かな手ごたえを与えている。
ただ、「芽むしり仔撃ち」「万延元年のフットボール」「ロリータ」など、頻繁に大した説明もなく書籍名や作家名が登場するため、楽しく読むためには多少の予備知識があると良いと思われる。
また「アナベル・リイ」についても、作中で引用されている日夏訳は一見ではなかなか難解な部分があるため、平易な英語である原文か阿部保訳をあらかじめ参照しておくと良いのではないだろうか。
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タイトル買い。プロローグ、エピローグを除いた本質的な部分が水っぽくて、何も記憶に引っかからなかった。
もっと極端なエロかグロかに転んでも良かったような気はするけど、そもそもこの人の本を読んだのは初めてなのでなんとも言いがたい。これがこの人の作風なのかな?
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書棚にあった本。実に面白かった。大江健三郎にどう取りついたものかしばらく悩んでいたのだが、この本は時間を言ったり来たりしながらの美しいフィクションになっている。個人的には著者や「障害を持った息子」があまり登場しないから息が詰まる感じがしなくてよかったのかもしれない。主人公は「アナベル・リー」なのだ。同時に「自身を語る」を読んで、深く大江健三郎に共感したのだった。本当に真摯に生きている人だなあ。
ささいなことだけど、本文と帯にあるit's only movies, but movies it is、、って文法的にはこれでいいんでしょうか。
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いつの頃からか、この作者の作品を読んだと素直に人に言えなくなりました。本当に書かれていることを理解できたかと問われ、答えるのが気恥ずかしくなったからです。さて今回も、最後まで読みました。芳醇なイメージが頭の中を占領し尽くして、いつもの空間を忘れさせました。読後、心豊かな印象があります。
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ノーベル文学賞を受賞して、まだ存命にも関わらず、おそらく近年の大江健三郎の作品は国内で売れてる、読まれているとは言えないだろう。
作家は名声を得て歳を取ると、自らの政治的発言に心酔したり、過去の人間関係に依存したりする。
今でもなお「個人的な体験」を書き続け、それを作品という形に仕立て上げ、出版が許されるのは誰も何も言えないから、か?
晩年の作品はもはや本人とその周辺、身近な人々だけがニヤリとするようなエピソードで構成されており、読者に疎外感を与えることによって、もはや批評することさえ許されない。
きっと、後世に残るのは初期の作品だけだ。
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美しい文章だった。
どちらかというと『水死』の方が好きだったけれど、それは深さ、ひいては長さの問題ではないかと思う。あるいは、この小説の方がよりストーリーらしきものがある、ということだと思う。より言葉そのものを味わうための、ストーリー性の排除ということを考えた。もちろん、小説である限り、ストーリーはあるのだけれど。
大江の他の作品ももっと読んでみたい。
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誰の訳で読んだのかはわからないけれど、アナベル・リイの詩には思い入れがあったので、日夏耿之介訳の言葉づかいに驚いた。ああ、こんな言葉があったのかと思った。それと同時に、過去と現在を行き来する物語、『万延元年のフットボール』や他の大江作品とも通じる物語、として、興味深く読んだ。永遠。忘れていても、知らなくても過去や血は自分の中で継続中。といったようなことを感じた。
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装丁が古風で何年か前に買って積読だった一冊。
どこまでがフィクションか、
どからがノンフィクションなのか
久しぶりに読んだ著者の本に
そうそう、こんな感じと。
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大江の所謂「後期の仕事(レイター・ワーク)」につながる作品であるとともに、『さようなら、私の本よ!』でも言及されているナボコフの代表作『ロリータ』にインスパイアされた作品でもある。二十世紀で最も小説家らしい小説家として、ナボコフの名を挙げる大江は、ナボコフがらみの物語を作る試みについて前作だけでは物足りなかったらしい。
『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバートがニンフェットに惹かれるようになった原因はE・A・ポオの詩「アナベル・リイ」を思わせる少女に寄せる愛がもとであった。エリオットをはじめ、詩の引用の多い大江だから、ポオの詩から始まる作品があっても不思議ではない。しかし、今回の作品は少し毛色が変わっている。限りなく作家自身に近い小説家が語り手であるのはいつものこととしても、呼称としてKenzaburoという作家自身の名前がそのまま出てくる。そればかりではない。小説中に新潮文庫版『ロリータ』の解説が引用され、その内容が作品の中に登場するヒロインにつながっていく。つまり、創作と事実の垣根がこれまで以上に低く設定されているのだ。
「私は十七歳の時、創元選書『ポオ詩集』でこの詩を発見し(実在する、私にとってはまさにそのような少女に会うことがなかったとはいわない)、占領軍のアメリカ文化センターの図書室で原詩を写した。」と、日夏の訳詩を紹介した後で、大江は女性記者に「あなたはロマンチック・ラブの小説を一冊も書いていません」と言われたことについて触れ、「確かに「ロマンチックな小説」こそ書かなかったけれど、私が十七歳の時に出会った幻想のアナベル・リー、そして現実のアナベル・リーは自分から一瞬も去ったことがない」と、解説の末尾に記す。自作の小説ではない。他の作家の、しかも文庫本に附された解説の文章中に挿入された個人的な逸話のようなものを伏線として一篇の小説を書き上げるなど、ナボコフを向こうに回して、大江もなかなかやるわい、と思わせる。
私は散歩中、駒場時代の旧友木守に声をかけられる。木守と私は三十年前共に映画を作っていたが、事情があって挫折していた。突然の来訪はその再開を促すものであった。映画はクライスト作『ミヒャエル・コールハースの運命』を下敷きに、作家の郷里に伝わる一揆を描いたもので、サクラという国際的女優が主演する予定であった。サクラには少女時代に撮影された「アナベル・リー」をモチーフにした映画があり、私は松山の占領軍のアメリカ文化センターでその映画と、同じ少女を撮った裸の写真を見ている。その少女こそ後に映画スターとなったサクラその人であり、私の「幻想のアナベル・リー」であった。映画は、スキャンダルが原因で頓挫するのだが、サクラは断念できない。木守は真相を明らかにするが、その衝撃でサクラは病気がぶり返し入院生活を送ることになる。木守が現れたのは、彼女の恢復を示すものであった。
東京大空襲で孤児となったサクラは預けられていた屋敷で進駐軍の将校の保護を受ける身となる。ロシア系の言語学者でもあるデイヴィッドはナボコフを思わせる。しかも、彼には少女の猥褻写真を集める趣味があり、サクラと彼の関係はロリータとハンバートのそれに擬されている。クライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』を、自身の『M/Tと森のフシギの物語』に出てくる「メイスケさん」の逸話とを関連づけ、大江ワールドの中に引き込んでしまう力業は、文学から文学を作るブッキッシュな作家大江健三郎、自家薬籠中のものである。
トラブルに巻き込まれた作家の悪戦苦闘ぶりを一種悲哀に満ちた眼差しで自虐的に見つめ、自身を滑稽視してみせることが多い大江の作品は、決して後味のいいものではない。しかし、いつもは肉体的にも脆弱で無様な姿ばかりをさらす「私」がリーチの差のある木守を殴るというマッチョな姿さえ描かれたりしているのは、レイター・ワークの所為でもあろうか。作品の色調も、妹アサと村の女性たちとの共同作業が傷ついたサクラさんの「恢復」をもたらすという終わり方で、終章を彩る森の紅葉とともに、明るいのが印象的である。
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