紙の本
<宗教化>する現代思想
2008/07/13 10:02
7人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:学者くずれ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の<あとがき>で、著者は統一教会に所属していた経験を本にしないかと勧められ、その理由が書かれている。著者によると、統一教会を脱会したあと、その経験を書こうとしたことがあったようだが、結局、書かなかったようだ。今も書かない理由として、彼に<深い>問いかけをしてくれる人がいないので書かないようなことを書いているが、だからといって、著者自身、<深い>問いかけそのものがどういうものなのか、分からないというようなことを書いている。
彼の著作の多くを読んできた<気持ちの悪い>読者である私には、彼が統一教会そのものの経験をインタビューを通して語ったものを彼の本の後半に掲載したものを除いて、彼がまともに向き合って統一教会について書いてこなかったことがあるにしても、たとえば、彼の修士論文や博士論文を通して、彼が統一教会に所属して考え、生きた経験がそれらの論文の余白にあふれているように感じたと言えば、言いすぎだろうか。
彼が多くの著書において、統一教会そのものをテーマにしてずばり書くということと次元は異なるとしても、<対象化>できないものを<対象化>することではなく、<対象化>できないものがあるということを書き続け、それに耐える姿勢を主張してきたと勝手に解釈している私にとって、この<あとがき>を読んで思うことは、彼が統一教会についてまともに書かないことが、彼がこれまで本を書き、今も書き、これからもおそらく書くだろうという行為のエネルギーになっているように思えるのだが。
だからといって、彼が将来、統一教会についてまともに書くことがあったとして、彼の本を書くというエネルギーが枯れるとも言えないのだが。
まわりくどい書き方をしてきたが、彼の統一教会での経験が、彼が書く一連の著書の隠し味となって、彼の著書に時々登場する<宮台真司>がどんなにあがいても出せない味が出せている、というのが私の率直な感想だ。これまた<気持ち悪いこと>を書くが、消費できない著書があり、著者がいる、ということだ。
電子書籍
哲学の本だった
2022/10/22 21:48
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:アコ - この投稿者のレビュー一覧を見る
何となく購入して見たのだけど、タイトルには書いてないけど哲学ジャンルの本だった。個人的には難しく感じたのだけど、著者がかつてとある宗教の信者だった経歴もあって宗教と絡めて書いてあるのは興味深かった。
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著書の仲正氏は統一教会に12年居た。そして現在金沢大学法学部教授である。
仲正氏は、統一教会のような新新宗教に長年居たからこそ、自分には物申すべきことがある、と。
それは、「哲学の宗教化」である。つまり、キリスト教のような宗教を持っていない例えば右翼や左翼も、その他のマルクス主義やら哲学の諸派も、立派な宗教だ、と。
そのように仲正氏は言い、古代から現代にかけての哲学史をさらいながら、宗教化している哲学を問題視する。
それが非常に上から目線であり、哲学を嘲笑し、あたかも自分が哲学や現代思想をすべて理解したかのようなスタンスを取っている。これでは困る。
批判するのは良いが、批判だけで終わっている。彼は果たして古代から脈々と引き継がれた哲学というものを越える論理を持っているのだろうか。
そして、冒頭でいきなり「ネオリベ」の宗教化について痛烈にかつオーバーに批判しているが、じゃあ、ネオリベ以外に何が問題なのだろうか。
そして二項対立をつくりやすいのが哲学である、と言っているが、仲正氏自身があたかも正当であるかのような態度を取られているのが、アイロニカルな没入であろう。
「哲学者は常に謙虚でなければならない。」と、ネオリベ批判の白石氏が言っていた言葉が響いた。仲正氏は、単なる食わず嫌いにしか見えないような気がする。
そのかわり、この本自体は読みやすいと思う。というのは、古代から現代までの大雑把な思想の流れが分かるからだ。
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プラトン以降の西欧哲学・思想史において、"すぐれた哲学・思想"と思われているものが、いかに擬似宗教(形而上学)化の危険性と隣り合わせにあり、そのことが哲学者・思想家によってどのように問題化され、論じられてきたのか。
本書では、現代思想に特に強い影響を与えたハイデガー、アーレント、デリダなどの論考をてがかりに、思想史の概観を試みる。
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最も正しく真理を示しているかのように見えて、どこかのポイントで説明できないはずの価値判断に基づいていることが隠れてしまっている、現代思想の危険について書かれた本。それは、隠れてしまっているとか、隠してしまっているとか、無自覚であるとかではなくて、結局は受け手がその人の立ち位置を判断すればいいことなのでは?論理の組み立て(考え方の過程)自体が宗教的な思想、というのは面白い指摘だと思った。
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宗教についてまったく知らなくても、
なんとなくわかるように書かれている。
とっつきにくい場合は、同著者の他の本を読むべし。
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信じようとする「宗教」と疑おうとする「哲学」。しかし、形而上なものは排除しきれないが、それを「信じ」ようとしてしまうゆえの宗教化。/無条件に受け入れられている「理性」/告白、告悔による司牧権力
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普遍的真理を探究し、誰にでも分かるように証明する「哲学・思想」には、もともと疑似宗教的な共同体を作り上げる傾向が付随する。ある一定の真理を得られたとしてもそれをもまた吟味して問い続ける営みが哲学なのだが、哲学が疑似宗教にはまってしまう危険性を、いかにして思想家(とくに現代思想家)たちが問題化としてきたのかを本書では思想史を概観しながら取り上げている(とはいえ、ハイデガー、ハンナ=アーレント、デリダがメインだが)。
西洋哲学・思想史の流れとして、万物を遍く普遍的真理を探究し、その真理の名の下に世界や人間のあるべき姿や政治、科学などを説く、ソクラテスやプラトンに代表されるギリシア思想の流れと、唯一の超越的な神による無差別無償の愛を受けることができる、かけがえのない存在としての人間観を説くキリスト教(ユダヤ教)の流れがある。両者ともに<理想とすべきモデル/不完全な現実>との二項対立を描き、いかにして理想に近づくために物事を行うべきかを主張する形而上学が展開された。中には民を扇動しようとするものが表れるが、その実践家の考えにそぐわないものは即座に異端の扱いを受けてきた。特に時代が進むにつれてそれが顕著になったのがマルクス主義思想やナチス思想で、自らの理想のユートピア(Utopia)の建設のために(=言わば「神の思し召しに従って」)異端と見なしたものを次々と処刑・粛清していった。マルクス主義のような思想も実はキリスト教的世界観の考え方に満ち溢れていて、形而上学が抱える二項対立から逃れることはなかった。
このように、著者は哲学が抱える形而上学という疑似宗教性の危険性を踏まえなければいけないことを説く。ここから著者の悪口めいた毒舌(特にサヨクに対して)が出る。著者曰く、こうした西洋哲学・思想の伝統や背景を知らずに思想家の論を展開する日本の論壇(「ウヨク・サヨク」)も、自分たちには関係ないと思っている疑似宗教化に見事にはまっていて、他の人たちを自分たちの考えにそぐわないと判断したら即座に強烈に敵対し完膚なきまでに叩き潰そうとする。ここら辺の毒舌がちょっと本書に占める割合が高く、むしろ書かないほうが本書のクオリティが高かったと思う。とは言え、毒舌は本書の重要な部分ではないのでスルーして全く問題ない。この部分を抜けば面白い本である。
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[ 内容 ]
プラトン以降の西欧哲学・思想史において、“すぐれた哲学・思想”と思われているものが、いかに擬似宗教(形而上学)化の危険性と隣り合わせにありそのことが哲学者・思想家によってどのように問題化され、論じられてきたのか。
本書では、現代思想に特に強い影響を与えたハイデガー、アーレント、デリダなどの論考をてがかりに、思想史の概観を試みる。
新興宗教体験を持つ著者だからこそ、現代日本の思想業界に、“生き生きとしたラディカルな思想”を中心とした「真の共同体」を求めるかのような、擬似宗教化の風潮が生じていることが分かるのである。
[ 目次 ]
序章 擬似宗教化する現代思想と「私」
第1章 「真理」の「共同体」
第2章 「比喩」と形而上学
第3章 キリスト教と西欧哲学
第4章 「疎外」と「エデンの園」
第5章 「私」という幻想
第6章 「内面性」の形而上学
第7章 「形而上学」と共存する
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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面白かったし読みやすかった。もとUCという特殊な文脈がシンパシーとしてひきつける。どのようなラディカルな思想であろうとも「形而上学」的な側面からは離れることができない。それを自明なものとして、それぞれの人生から思想も活動も、特に知的な分野に身を置こうとする場合は、それらを心にとどめておく必要がある。
まあ、それはめちゃくちゃわかっていたが、改めてしっかり確認。結局一周して「無知の知」ということだろうか。
収穫はデリダですかね。エクリチュールに考えさせられるところがある。ポスト構造主義理解の足掛かりになってくれたらうれしい。
17.4.14
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「形而上学」的な論拠を批判したはずの現代思想でちらつく「形而上学」的論拠を、哲学思想史を通じて見通す本。やはりキリスト教文化がここでもでてくることを確認する。
元統一教会員という特異な経歴を持つ著者の視点が徹底的な懐疑と誠実さを滲ませるのかと思った。相変わらずの明快なポイント整理の巧みさと皮肉な言い回しに感心する。
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哲学と宗教の架け橋をかけようとして、その違いと類似性を明らかにしようとした本だと思った。ただ、門外漢の自分にとっては、少々難しい部分が多かった。
内容は、哲学と宗教の違いから形而上学の大きさについて説き、ギリシャからの哲学、キリスト教、マルクス経済学、実存哲学などから、形而上学との関連を解くが、最終章では人間は形而上学の問題を解決できないとしている。
もう少し自分の知識をつけたうえで、現代思想の整理のために読みたいと思った。自分が評論できるレベルにはないと感じた。
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ただただ面白い。社会思想・比較文学の研究者である著者が現代日本の思想地図にちょいちょい茶々を入れながら、思想史をかなりわかりやすく説明してくれている。何かを語ろうと思えば不十分であろうが、教養として楽しむには充分。
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人間が世界の在り方について語るには、常に何らかの形而上学的前提に頼らざるを得ない。その点では、マルクス主義もキリスト教もポストモダンも共通しているという。仲正昌樹は、この「〈宗教〉化する現代思想」の中で、先人の形而上学的な思考枠組みを克服するつもりが自らもその形而上学的な思考枠組みに陥ってしまう過程を延々と描いている。
この循環を脱する方法は著者曰く存在しない。このような状況の中で私たちはどのようにしたらよいのだろうか。著者は哲学・思想において重要なのは結論ではなく、その思考過程にあるとする。無意識レベルの形而上学的な前提を「適度に」疑いつづける「相対主義者」であることを著者は勧めているように思える。