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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2008.8
- 出版社: 角川書店
- レーベル: 角川oneテーマ21
- サイズ:18cm/174p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-04-710147-0
読割 50
紙の本
俳句脳 発想、ひらめき、美意識 (角川oneテーマ21)
芭蕉も脳トレをしていた? 夏目漱石の俳句観、桑原武夫「第二芸術」への反論など、俳人と脳科学者が俳句のひらめきについて激論。言葉の不思議な営みを明らかにする。【「TRC M...
俳句脳 発想、ひらめき、美意識 (角川oneテーマ21)
俳句脳 ――発想、ひらめき、美意識
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商品説明
芭蕉も脳トレをしていた? 夏目漱石の俳句観、桑原武夫「第二芸術」への反論など、俳人と脳科学者が俳句のひらめきについて激論。言葉の不思議な営みを明らかにする。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
茂木 健一郎
- 略歴
- 〈茂木健一郎〉1962年東京生まれ。理学博士。脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。
〈黛まどか〉1962年神奈川県生まれ。俳人。「京都の恋」で山本健吉文学賞受賞。
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紙の本
俳句を詠んで脳を活性化させよう
2008/09/28 19:28
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「俳句は助走がいらない稀有の表現形式です。」(103頁)脳科学者茂木健一郎と俳人黛まどかの共著である本書の、黛まどかによる第三部「俳句脳-ひらめきと余白」の冒頭の一節である。五七五のわずか十七文字の短詩でありながら、多くの俳人や有識者が「俳句とは何か」と問い続けている。俳句界の巨星高浜虚子は「俳句は自然(花鳥)を詠い、また、自然(花鳥)を透して生活を詠い人生を詠い、また、自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である」(『俳句への道』)という。しかし、そのような考え方が歪められて「俳句は年配者のするもの」という誤解や偏見も生んだともいえる。めまぐるしい時代にあって花鳥を愛でるということがゆくりとした行為に見えてしまうのだろう。
私は「俳句とは創作にかたよった表現形式」という見方をしている。冒頭の黛氏の意見に近い。俳句がわずか十七文字の文学であり、しかもそのリズムが小さい頃から馴染んだものであるという点で、黛氏がいう「基礎練習や助走なくしていきなり」創作を愉しむことができる表現方法だと考えている。同じ創作でも、読むことを趣味にする人は多いが、誰にでも書けるというものではない小説は「鑑賞に比重をおいた表現形式」といえる。その点、俳句は名句をひとつも読まなくても、それらしき短詩はできてしまう。そして、そのことが俳句の光と影をなしているように思う。俳句人口が隆盛を極めているのもそういう俳句の一面からだろうし、新たな潮流が生まれにくいのも鑑賞力が弱いせいではないかと推測できる。俳句とは、読むのに難儀で詠むことにたやすい文芸である。
しかし誰もが文学者にはなりえないのであるから、多くの人が生活の場で「創作」という機会を作りうるのであれば、俳句は生活により潤いを与えるものとしてもっと評価されていい。本書のように脳科学者である茂木氏が自身のフィールドで俳句を語ることはそういう点からしても意味深い。では、茂木氏は俳句をどうとらえているかといえば、「一瞬のうちに通り過ぎていってしまう感覚を記憶に留め、言葉によって顕現化するというまさに<クオリアの言語化>」(17頁)ということになる。クオリアというのは脳科学の分野で頻繁に使われて言葉で、「知覚の正体」だという。ふっと何気ない場面で五七五のリズムと言語が浮かぶ時、脳が「俳句脳」となって活発に活動をしていると思えばいいのかもしれない。
ただ、俳句は極めて不自由な表現形式でもあることは黛氏も本書の中でしばしば語っている通りだと思う。十七文字の「定型」があり、「季語」がある。そういう不自由さから俳句という文芸が成立していると考えるべきだ。これが俳句を創作する時の最低限のルールだと思っている。そのような不自由さをまといながら、名句の数々は限りない広がりをもつものだと知ることが、俳句をより愉しむコツのようなものではないだろうか。
紙の本
俳句、読者と作者が共同で創り上げる自然=生命への賛歌
2012/04/12 18:35
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:hisao - この投稿者のレビュー一覧を見る
テレビの“アハ体験”で著名な脳科学者・茂木健一郎先生と俳人・黛まどか先生が“俳句”を語ります
老若男女、古来多くの人々に親しまれた“俳句”とは?
茂木先生は俳句と言う文学は“今、ここから一瞬のうちに通り過ぎていってしまう感覚(クオリア)を記憶に留め、言葉によって顕現化するというまさに「クオリアの言語化」”と言われます
その作業が脳を活性化する、俳句作りの効用を語りながら、論理以前の感覚を直接言語化する“作句”が木一本草一本に至まで本来自分と対等なものとして接する極めて日本的美意識に基づく事に注目します
“俳句的思考の特長である「小さなものへの慈しみ」や「ふとした瞬間の気持ちを的確に捉えること」は論理的思考を優先する西洋的近代には見られない、独自の伝統である”
一方黛先生は俳句のプロとして、より具体的・実践的に私たち門外漢にも“俳句のツボ”を教えてくれました
先生は“俳句は生命(自然)への挨拶”だと言われます
と言っても、この“挨拶”、さほど簡単ではありません
自然を凝視して、その音や香りを聞き、気配を感じ取り、わが身を自然に置き自然と交歓して初めて得られる“挨拶”です
自然(生命)へのあふれる思いをたった17音の挨拶に委ねて投げかけるのです
俳句には一見不自由に見える“定型・季語・切れ”と言った固有の“縛り”があります
この“縛り”の意味する所を先生は解りやすく説明してくれました
俳句は“孤独な営み”ではなく、古来の“俳諧の座”や“結社”“同人”集団として発達してきたのは大きな特徴でした
人と人との“共感”を呼び起こす上で俳句固有の“縛り”が果たした役割を先生は次のように説明されています
茂木先生は主に俳句創作の効用を語っておられますが、俳句創作のプロ・黛先生がむしろ読者・作家共感の場としての俳句を取り上げられているのは面白い対象です
短い“定型”が句に“緊張感”を漲らせ(能や歌舞伎の「様式美」も同様、狭いから広がるのです)日本人共有の五・七・五のリズム感を与えます
多くを語らずして多くを伝える役割を“季語”が担います
俳句は短いが故に論理的説明を嫌うと言うか出来ません、直感・ひらめきは一人称ですが、万人共通に感ずる言葉、“季語”を入れる事で読者もその背後に大きなストーリーを共感する事が出来るのです
また“切れ字”は“余白”を生む音韻です
俳句は饒舌な叙情を拒みます
“俳句は「物」の文学、「事」の文学ではありません。事柄を直接詠うものではなく「物」に事柄やストーリーを託して、余白に漂わせるのです”
さて余白を紡ぐのは“読者と作者の共同創作”です
読者と作者が一体となって17文字の奥に隠された余白・余韻に耳を傾けます
俳句が“読者と作者が共同で創り上げる自然=生命への賛歌”である事がお二人の手で解き明かされました