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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2008.12
- 出版社: 早川書房
- サイズ:19cm/276p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-15-208987-8
紙の本
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2008年カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞映画原作小説。パリ市内の中学校で教師をしている私は、日々ストレスを募らせていた。私語や反抗が目立つ生徒、妨害される授業、学力格...
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商品説明
2008年カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞映画原作小説。パリ市内の中学校で教師をしている私は、日々ストレスを募らせていた。私語や反抗が目立つ生徒、妨害される授業、学力格差、校内暴力、人種間の対立など、次々と難題が持ち上がるが、解決の糸口はまったく見えてこない—教育現場の現実をセンセーショナルに描き、フランスでベストセラーを記録したドキュメンタリー・ノヴェル。ラジオ局フランス・キュルチュールと雑誌「テレラマ」共催の文学賞を受賞。【「BOOK」データベースの商品解説】
パリの中学校で教師をしている私は、日々ストレスを募らせていた。学力格差、校内暴力と難題が持ち上がるが、解決の糸口はまったく見えてこない…。教育現場の現実をセンセーショナルに描いたドキュメンタリー・ノヴェル。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
フランソワ・ベゴドー
- 略歴
- 〈フランソワ・ベゴドー〉1971年フランス生まれ。ナント大学にて現代文学を学ぶ。教職を経て、作家活動に専念。「教室へ」でラジオ局フランス・キュルチュールと雑誌『テレラマ』共催の文学賞を受賞。
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紙の本
ティーンエイジャーの学校教育に興味ある人ならば何かしら楽しめることだろう。移民の多いパリ19区の中学校でフランス語教師をつとめた著者が、教室や職員室の日々の出来事を淡々と綴った記録。
2009/05/07 14:54
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヨーロッパ諸国の教育、とりわけここに書かれたフランス、そして英独あたりの主要国の教育というものは、十全に機能しているのだというのが私の認識であった。
まず、日本の教育はどういう概況か。大学受験というところを目指して小中高が階層化され、その実績を上げることに教師と子ども、保護者のエネルギーや資金が注ぎ込まれる。そのために教師が受験の勝ち抜き術をタテ関係で伝授するけれども、それだけではうまく行かないので塾が担う役割も多い。一見、大学受験にはまだ関係ないと思われる小学校の教育現場も、「いい子」「悪い子」という見方で協調的な子が評価されるようになっており、それは将来中高で静かに受験技術を教える際の基本的態度を身につけさせるものとして機能している。子どもを学ばせ育てていく方法として、このような方向性は果たして妥当なのかと疑問を呈したくなる現況である。
こういった様子とは異なり、英独仏あたりの教育は、子どもの「個性」に注目して、それを伸ばすことに心血が注がれている。そのために授業は、単に知識を詰め込んで行くのではなく、発言の場が多く与えられる大学のゼミナール(コロキウム)形式が主体で、子どもたちはお互いの顔を眺めわたして意見を闘わせたり教え合ったりしながら、ヨコ関係を築いて各自の人格を形成しているのだ。そして進学だけではなく、職業へ向けての教育もきちんと行われているのだというイメージを抱いていた。
ところが、パリのコレージュ(9月の新年度開始時に11~14歳の生徒が在籍する中等教育機関)のフランス語教師が、そこでの授業のありのままをひたすら綴った本書を読むと、フランスの教育がかなり壊滅的状況にあり、機能不全に陥っているということが生々しく伝わってくる。
どの国においても、教育は将来の社会の構成員たる人材を養成していくための制度であろうが、グローバリズムや政治体制、経済状況など、社会を変化させる要素を受け入れる限り、変化に速やかに対応しながら理想を打ち出し、それに沿って望ましい人材育成を軌道に乗せて行くことには、大きな困難がつきまとうのである。
著者ベゴドーの勤務は週4日と特別出勤日。授業があるのは年間33週。かなり時間の融通がきく高等教員ということで、このように教室の日常について記録し、「ちょっとした場面の積み重ねを通して、学校と社会との断絶をあぶり出そうとしました」(P273/訳者あとがきより)という動機で執筆を行ったということである。
この先生、教育の壊滅的な状況に対し、イデオロギーのフィルターを通して、ああすべき、こうすべきという論調で書かれているものにうんざりしていたらしい。
本書は、そのセンセーショナルな内容から賛否が分かれたもののフランス国内で17万部が売れ、2008年に何と著者自身が主演で映画化され、それがカンヌ映画祭で最高賞パルム・ドールを獲得した。
何がセンセーショナルであったかというと、本書の舞台となったパリ19区が移民の多いところであり、それゆえにフランス語学習が難しく、生徒たちの素行に問題が多く、それを扱う教師が無力で居丈高である様子が実に赤裸々に表現されているのである。
ディコは階段で他の生徒たちから遅れていた。
「先生、クラスはまだ替えられますか?」
「むしろクラスがディコを誰かと替えたがってる」
「生徒が担任の変更を申し入れることはできるんですか?」
「早く教室入れ」
生徒の多くは理科室の前で待っていた。フリーダがもったいぶって話をするのを、ぐるりと囲んだ女子たちが固唾(かたず)を呑んで聞き入っている。
「あいつに言ってやったの、あたしは売春婦じゃないんだって。したらあいつはあたしに――」
「ほら、教室入れ」
私はあまり寝ていなかった。ケヴィンがモハメドに突き飛ばされて大げさによろけ、入って左の一番手前の机にぶつかった。
「先生、こいつが今ぼく押したの見ました?」
「知らん」(P58-59)
フランスの小中学校では、ベルが鳴ったら教師の引率で整列して教室へ移動するらしいのだが、着席する前にすでにこのような状態。この後も、授業の課題に入る前に、頭にかぶったフードを取れだの、本を忘れたの、別のこぜりあいが始まるだのという具合。14歳のクラスである。
このように教室での描写がいろいろ書かれている他、コーヒーマシンやコピー機に手こずらされている職員室の様子、教師たちの人間関係、子どもたちを評価する職員会議、謝罪文や問題行為報告書など懲罰のこと、生徒と教師の日常が、感想や見解を交えずに記録されつづける。
母語ではないフランス語のややこしい文法に翻弄される生徒も気の毒なら、教育本来の理念など語っていては毎日をやり過ごせない教師たちの虚無も気の毒である。
しかしながら、上に引用したように、著者ベゴドーは生徒たちから「先生の冗談は行き過ぎる」と再三言われる毒舌でありながら、歯に衣着せない口調と姿勢だからこそ、生身どうしの人間がわずかに触れ合うところも多々あって、それが読んでいて非常に痛快である。
大人対子ども、目上の者対目下の者という関係を越え、著者は気に入らないものは気に入らないと言い、自分のひいきのミュージシャンを文法の例文に出してみたり、同僚に飛ばすようなジョークを生徒たちに飛ばしてみたりする。
ここには、青春小説によくあるような、はっきりそれと分かるステップアップもクライマックスも構成としては設けられていない。
だが、いつもいつもフードをかぶって教室に登場するスレイマンは、「フードをとりなさい」と教師に言ってもらうためにフードを取らずに現れるのではないかと思え、それはそれで何か一つの繰り返される信頼関係のようにも思えてくる。また、前に教師が言った冗談を覚えていて、それを繰り返す生徒がいる場面では、「まねび、まなび」という教育の本質からは、そう隔たっていないのだという確信も持てる。
「教育とはこうあらねばならない」という主義主張がない分、何を尊重し、何に注目すべきなのかという点が見えやすくなっている気がしてくるのだ。本書1冊をもってして、フランスや海外の教育と日本の教育との比較ができるわけではないが、現場からの生の発信として、とても大きな意義のあるノンフィクションである。
紙の本
映画が観られなかったので原作を読むことに
2016/04/30 08:20
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:かしこん - この投稿者のレビュー一覧を見る
映画『パリ20区、僕たちのクラス』を結局見逃したので、原作本を読んでみることにした。 早川書房、ソフトカバー。
で、この本の中では学校は19区にあるのである・・・映画が20区を舞台にしているのは何故なんだろう? 違いがあるのだろうか。 多分、違うんだろう。 神戸市の中央区と北区が違うように。 でもその違いはフランス人もしくはパリに詳しい人しか実感としてわからないかも。
フランスの学校制度はよくわからないのだが(バカロレアのことを多少知ってるぐらい)、本の舞台の学校はコレージュ、日本に当てはめれば中学校(4年制なので正確には小学6年から中学3年)というところ。
中身は学校での日々の断片、そのままである。
一応語り手は教師であるが・・・日本の感覚からは「それはどうなんだ!」と言われてしまう(言いたくなる)感じ。
私はあまり寝ていなかった、という表現がとてもよくでてくる。 それはそのときの出来事においていらだつ気持ちを抑えられない理由として、また自分が不用意な言動をしてしまうことの言い訳としても使われる。 正直なところ、かなり教師としての資質に問題ありと思ってしまいたくなるこの語り手を、露悪的な意図と判断していいのかどうか
迷う。 自分が生徒で、もし担任が、教科担当がこんな教師だったらいやだろうな、と思う。
が、そんな感じでいなければ教師という職は続けていけないのか・・・と考えると、フランス教育界の荒廃ぶりというか困惑ぶりというのもわかる気がしたり。
訳がこなれていないのか、原文からそういう雰囲気なのか、非常に読みづらかったです。
語り手の教えていることがフランス語だからってこともあるのでしょうが・・・え、そんな細かな文法的なことまで教えるわけ?(大半が母国語がフランス語じゃない子たちに?)、とびっくりしてしまったせいもあり。
日本の方がまだましですか?、という気がするのは、多くの、あまりに多くの移民を抱えているフランスという実状が問題のほとんどの部分を担っているような気がしないでもないから(日本もいつかそうなるのかな・・・)。
生徒一人一人の実情に迫ったりなどできない(そんな余裕のない)教師たち、理解者を得られないままの子供たち。 問題が大きすぎると判断されれば「退学」にすぐなってしまうというのがすごい。 この教育格差はどうなるんだ・・・と、かなり暗い気持ちになる。
物語としてのカタルシスもないので、読み終えてもすっきりしない。 公教育とは何なのだろう・・・こんな学校ばかりならばほとんど意味がないような気がしてしまう。
原作者が脚本を書き、教師役で出演しているそうなので・・・映画は見なくてもよかったかもしれない。 (2010年9月読了)