紙の本
「私」だからこそ起こる物語はきっと誰にでもあるはず
2009/12/01 23:11
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:wildcat - この投稿者のレビュー一覧を見る
魔女といえば、
とんがり帽子をかぶり、ほうきに乗って、お供はしゃべる黒ねこ、
大きな鍋で怪しい料理を作ったり、薬草を煎じたり、魔法の本を持っていたり・・・。
特に、魔女に詳しいわけではなくても、これくらいのイメージはあるだろう。
魔女裁判の時代にまでさかのぼると、
魔女のレッテルを貼られて殺された女性たちが大勢いたという
悲惨な歴史がうかびあがってくるのだが、
この歴史を語っているもの意外は、お話の魔女に悲壮感はないように思う。
童話の残忍な魔女にしてもどこかユーモラスなところがあるのだ。
魔女はいつから今のようなイメージになったのか・・・。
追求するとそれはそれで楽しそうだが、それは詳しい方に譲ることにしよう。
本書は、ひょんなことから、
魔女のほうきと黒ねこを手に入れることになった
10歳の少女・ロージーの夏休みの物語だ。
舞台はイギリスなので、それほど「夏」という感じではないのだが、
夏休みの読書の方が、主人公と同じ時間を生きている感じがして、
気分は盛り上がる、かもしれない。
ところで、女の子とほうきと黒ねこから想起されるのは、『魔女の宅急便』である。
魔女の宅急便のキキは、全6巻の世界の中で、少しずつ少女から大人に成長していくが、
本書はロージーのひと夏の冒険がテーマである。
が、ロージーの日常は冒険の前と後では明らかに変わっているのだ。
本書の特徴としてひとつ挙げられるが、
原書の出版年が1955年と思いの外古いことである。
舞台の設定上、この作品は、この時代でなければならない。
というのは、お金の単位が現在とはもちろん、日本語版翻訳時(旧版の1985年)とは異なり、
1961年に廃止されてしまった当時のお金・ファージング青銅貨(ビクトリア女王が描かれている。)でなければならないのだ。
それが黒ねこカーボネルとロージーと結びつけることになるのだ。
児童文学の世界の主人公に大きく影響するのは、その時代もあるが、
大きいのがその家の経済状況である。
その子がお金持ちのうちの子か貧乏なうちの子かで、
まったく住む世界が変わるし、展開される物語も変わる。
そして、その経済状況の差に子どもたちは敏感で、
生活ばかりではなく性格にも大きく影響している。
冒頭でも、ロージーは、自分と他の子の境遇の差をひしひしと感じている。
夏休みにどこか行く場所がある子どもたちに、どこに行くのかと聞かれたのである。
もちろん、彼女がどこにも行くことがないことを知っていてである。
しかも子ども同士でその行く場所の格差を知っていて、比べあったりするのだ!
だが、この物語はロージーにだからこそ、起こったのだ。
父亡き後、縫い物で生計を支える母を助けるために、
夏休みの間、お掃除の仕事でもしよう、
そのためにはほうきを買わなくては
と思ってフェアファックス市(いち)に出かけるのだから。
そこで、ほうきと黒ねこを売り払い、
堅気になろうとしていた魔女・キャントリップ
(そのときのロージーにはただの変なおばあさんにしか見えない。)から
古いほうきを黒ねこ付きで、買ってしまうことになるのだ。
黒ねこは欲しかったのだが、ほうきはあんまりにぼろい。
がっかりしていると、
「きみは、きみが考えてるより、いい買いものをしたんだよ」と声が聞こえ・・・。
黒ねこは、自らを王子・カーボネルと名乗り、身の上を語るのだった。
キャントリップによってかけられた「音なしの魔法」によって、
黒ねこは、よびよせのおまじないを唱えられると
どこにいても何をしていても、駆けつけなければならない。
ロージーは、カーボネルが自らの国に帰れるように、
ほうきのほかに、大釜、魔女の帽子を手に入れ、
「音なしの魔法」を解明するための冒険をすることになる。
カーボネルは、自らが正当に王位を継ぐものというプライドを持っているため、
やや尊大なものの言い方をするが、基本的にねこである。
のどの下を上手になでてもらえば、ごろごろするし、
ご飯が上等だと大感激する。
そのギャップがかわいらしい。
カーボネルの王国、つまりは、ねこの視点で見た街だが、
実は人間が見えていないだけで、それが、あるのだということが、
後半、視点を変えた描写で浮き上がってくるところもおもしろい。
さて、本書は、ねこ好きの気持ちを大いに喜ばせてくれるのだが、
もうひとつの好きを満たしてくれた。
それは、呪文を見るとわくわくして覚えてたくなってしまう気持ちである。
使う場面は今のところなさそうなのだが、
森は生きているの呪文「ころがれころがれ指輪よ~」が
今も私の記憶の隅で眠っていたりするのである。
翻訳でも転がしやすかったあの呪文は、二通りの訳を持つが、
きちんと唱えることを前提に訳されたものだったのだろう。
残念ながら、本書の呪文は、翻訳調の感が否めないところもあるが、
原文では、韻を踏んでいたりするのではないだろうか。
ちなみに唱えやすかったのは、よびよせのおまじない。
これはリズムがよかった。
コウモリと茶色のフクロウよ、
シュロ草とコイナスの根よ、
そのふしぎな力でよびよせよ!
小枝のほうきの、黒いどれいを、
すばやく、音もなく!
「小枝のほうきの、黒いどれい」とは思っていないが、
(ロージーもこのくだりは気に入っていなかった。)
唱えたら黒ねこが来ないかな、と思ってみたりしながら、
また呪文に記憶容量を使ってしまったのだった。
さて、この冒険に続編はない。
それが完全にそれが終わったことを示す、象徴的な出来事が起こるからだ。
彼女自身が行ったこともあれば、意図していなかったのに起こってしまったこともある。
彼女は、冒険の前よりも確かに良くなった「日常」の中を生きていかなくてはならない。
だが、その日常には、冒険の置き土産が確かに残り、それが心を和ませてくれるのだ。
不公平だ、不平等だと思うことは、
たくさんたくさんあるけれど、
自分にはなくて、人にはあるものがうらやましくてしょうがないことだって、
たくさんたくさんあるけれど、
「私」だからこそ起こる物語はきっと誰にでもあるはずだ。
それを味わって生きてみよう。
そうすれば、あなたのところにしかこない魔法に
きっと気づくことができるはずだ。
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まずはこの表紙の絵がいいですよね~。 空飛ぶ箒にまたがった女の子と黒ねこ。 まるで「魔女の宅急便」を彷彿とさせるシーンです。 これでとんがり帽子を被っていて大釜で何か得体の知れないものをグツグツと煮ていたらもうそれだけで無条件に魔女認定できちゃうところ(笑)です。 でも実はこの女の子、魔女じゃありません。 彼女(ロージー)が跨っている箒こそ「魔女の箒」なんだけど、彼女自身は普通の女の子です。
そんな普通の女の子(しかもできすぎといっていいほど良い子)が、何の予定もないひと夏の夏休みに、生活費を稼ぐためのアルバイトでもしようかと購入した箒(これが、偶然にも魔女の箒だった!) & それにグリコのおまけの如くについてきた黒猫が物語の発端で、これらを手にしてしまったことによりロージーが体験することになった楽しくワクワクするようなちょっとした冒険の物語が描かれます。
因みに箒の後ろでお行儀よく座っているのが、この本のタイトルにもなっている黒猫のカーボネルです。 で、このカーボネル、実は猫王国の王子さまという出自らしい・・・・・。 で、昔ながらのおとぎ話にありがちな「悪い魔女による拉致・誘拐」という大事件に巻き込まれ、以来ロージーに出会うまでは魔女の僕として苦難の道を歩いてきたらしい・・・・・。
王子だったという出自を胸に誇りだけは持ち続けたカーボネル。 だからそんな風に扱われた経験もないくせにどこか偉そうで、ちょっと尊大な物言いをするにゃんこなんだけど、それが嫌味にならない程度なのがいい感じです。 そしてできすぎの感もあるロージーが悪い魔女によってカーボネルにかけられた「呪いの魔法」を解くために、頑張る姿が何とも微笑ましい物語になっています。
ロージーはもともと魔女ではなくて普通の女の子なので、必要以上に魔法には頼らない(というより頼りたくても頼れない)ところが素敵だと思うんですよね。 でも、魔女にかけられた呪いを解くためにはやっぱり「魔女のとんがり帽子」やら「魔女の大釜」が必要になるし、そして魔女修行をしたこともないロージーに必須となるのが「魔法の本」で、「魔女」と言う言葉から連想される小道具が次々と登場するのが又、楽しい♪
アイテムで楽しませてくれ、それっぽい呪文でも楽しませてくれ、ついでに決して経済的には豊かではなく、ようやく日々を無事に営んでいるとっても地味なロージーの日常にひょんなことから訪れた非日常のあれこれにワクワクさせてくれ、更には続編はどうしたって書けなくなってしまうような結末の潔さに不思議な感銘を覚える読書だったと思います。
ところで・・・・・・
この物語を読んでいる間、もう一つ何気に楽しかったことがありました。 それはね、そんなに重要な役周りの人物ではなかったりもするんですけど、どこかで聞いたことのある名前がチョロチョロと出てきたんですよね~。 例えば・・・・・・・
トンクス とか 例えば
ペティグリュー とか 例えば
モリー とか・・・・・
彼の国でこれらの名前がどこまで一般的な名前なのか、残念なことに KiKi はよく知らないんだけど、この物語が発表されたのが1955年だったことを考えると、ひょっとすると「あのお方」も子供時代にはこのお話を楽しく読んだのかもしれません。
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カーボネルは、のどのおくをゴロゴロと鳴らしていました。
「ぼくは、心から感謝してあなたのところへきたのです。この気もちは、どんなまじないよりも強く、ぼくたちを結びつけてくれるんだ。」
そういうと、カーボネルは、あたたかい舌で、きずだらけになったロージーの両手をなめました。
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魔女といえば、
とんがり帽子をかぶり、ほうきに乗って、お供はしゃべる黒ねこ、
大きな鍋で怪しい料理を作ったり、薬草を煎じたり、魔法の本を持っていたり・・・。
特に、魔女に詳しいわけではなくても、これくらいのイメージはあるだろう。
魔女裁判の時代にまでさかのぼると、
魔女のレッテルを貼られて殺された女性たちが大勢いたという
悲惨な歴史がうかびあがってくるのだが、
この歴史を語っているもの意外は、お話の魔女に悲壮感はないように思う。
童話の残忍な魔女にしてもどこかユーモラスなところがあるのだ。
魔女はいつから今のようなイメージになったのか・・・。
追求するとそれはそれで楽しそうだが、それは詳しい方に譲ることにしよう。
本書は、ひょんなことから、
魔女のほうきと黒ねこを手に入れることになった
10歳の少女・ロージーの夏休みの物語だ。
舞台はイギリスなので、それほど「夏」という感じではないのだが、
夏休みの読書の方が、主人公と同じ時間を生きている感じがして、
気分は盛り上がる、かもしれない。
ところで、女の子とほうきと黒ねこから想起されるのは、『魔女の宅急便』である。
魔女の宅急便のキキは、全6巻の世界の中で、少しずつ少女から大人に成長していくが、
本書はロージーのひと夏の冒険がテーマである。
が、ロージーの日常は冒険の前と後では明らかに変わっているのだ。
本書の特徴としてひとつ挙げられるが、
原書の出版年が1955年と思いの外古いことである。
舞台の設定上、この作品は、この時代でなければならない。
というのは、お金の単位が現在とはもちろん、日本語版翻訳時(旧版の1985年)とは異なり、
1961年に廃止されてしまった当時のお金・ファージング青銅貨(ビクトリア女王が描かれている。)でなければならないのだ。
それが黒ねこカーボネルとロージーと結びつけることになるのだ。
児童文学の世界の主人公に大きく影響するのは、その時代もあるが、
大きいのがその家の経済状況である。
その子がお金持ちのうちの子か貧乏なうちの子かで、
まったく住む世界が変わるし、展開される物語も変わる。
そして、その経済状況の差に子どもたちは敏感で、
生活ばかりではなく性格にも大きく影響している。
冒頭でも、ロージーは、自分と他の子の境遇の差をひしひしと感じている。
夏休みにどこか行く場所がある子どもたちに、どこに行くのかと聞かれたのである。
もちろん、彼女がどこにも行くことがないことを知っていてである。
しかも子ども同士でその行く場所の格差を知っていて、比べあったりするのだ!
だが、この物語はロージーにだからこそ、起こったのだ。
父亡き後、縫い物で生計を支える母を助けるために、
夏休みの間、お掃除の仕事でもしよう、
そのためにはほうきを買わなくては
と思ってフェアファックス市(いち)に出かけるのだから。
そこで、ほうきと黒ねこを売り払い、
堅気になろうとしていた魔女・キャントリップ
(そのときのロージーにはただの変なおばあさんにしか見えない。)から
古いほうきを黒ねこ付きで、買ってしまうことになるのだ。
黒ねこは欲しかったのだが、ほうきはあんまりにぼろい。
がっかりしていると、
「きみは、きみが考えてるより、いい買いものをしたんだよ」と声が聞こえ・・・。
黒ねこは、自らを王子・カーボネルと名乗り、身の上を語るのだった。
キャントリップによってかけられた「音なしの魔法」によって、
黒ねこは、よびよせのおまじないを唱えられると
どこにいても何をしていても、駆けつけなければならない。
ロージーは、カーボネルが自らの国に帰れるように、
ほうきのほかに、大釜、魔女の帽子を手に入れ、
「音なしの魔法」を解明するための冒険をすることになる。
カーボネルは、自らが正当に王位を継ぐものというプライドを持っているため、
やや尊大なものの言い方をするが、基本的にねこである。
のどの下を上手になでてもらえば、ごろごろするし、
ご飯が上等だと大感激する。
そのギャップがかわいらしい。
カーボネルの王国、つまりは、ねこの視点で見た街だが、
実は人間が見えていないだけで、それが、あるのだということが、
後半、視点を変えた描写で浮き上がってくるところもおもしろい。
さて、本書は、ねこ好きの気持ちを大いに喜ばせてくれるのだが、
もうひとつの好きを満たしてくれた。
それは、呪文を見るとわくわくして覚えてたくなってしまう気持ちである。
使う場面は今のところなさそうなのだが、
森は生きているの呪文「ころがれころがれ指輪よ~」が
今も私の記憶の隅で眠っていたりするのである。
翻訳でも転がしやすかったあの呪文は、二通りの訳を持つが、
きちんと唱えることを前提に訳されたものだったのだろう。
残念ながら、本書の呪文は、翻訳調の感が否めないところもあるが、
原文では、韻を踏んでいたりするのではないだろうか。
ちなみに唱えやすかったのは、よびよせのおまじない。
これはリズムがよかった。
コウモリと茶色のフクロウよ、
シュロ草とコイナスの根よ、
そのふしぎな力でよびよせよ!
小枝のほうきの、黒いどれいを、
すばやく、音もなく!
「小枝のほうきの、黒いどれい」とは思っていないが、
(ロージーもこのくだりは気に入っていなかった。)
唱えたら黒ねこが来ないかな、と思ってみたりしながら、
また呪文に記憶容量を使ってしまったのだった。
さて、この冒険に続編はない。
それが完全にそれが終わったことを示す、象徴的な出来事が起こるからだ。
彼女自身が行ったこともあれば、意図していなかったのに起こってしまったこともある。
彼女は、冒険の前よりも確かに良くなった「日常」の中を生きていかな���てはならない。
だが、その日常には、冒険の置き土産が確かに残り、それが心を和ませてくれるのだ。
不公平だ、不平等だと思うことは、
たくさんたくさんあるけれど、
自分にはなくて、人にはあるものがうらやましくてしょうがないことだって、
たくさんたくさんあるけれど、
「私」だからこそ起こる物語はきっと誰にでもあるはずだ。
それを味わって生きてみよう。
そうすれば、あなたのところにしかこない魔法に
きっと気づくことができるはずだ。
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ひょんなことから魔法のほうきを手に入れた少女は、黒ねこの王子に掛けられた魔法を解くために駆け回るのだった。
派手さはないものの、じっくりと読ませる物語ですね。魔法を解くために魔女が売った道具を取り戻す下りは、妙に現実味を帯びてますし。それがこの作品の面白みに繋がっているのですが。生意気でプライド高く毒舌家の黒ねこのカーボネルがいいキャラクターしてますし、主人公ロージーが段々しっかりと強くなっていく様もいいですね。
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Carbonel 1955年
母とふたりで暮らす少女ロージーは手伝いの時に使うほうきと猫を買ったがそのほうきは魔法のほうきだった。
猫を助けるため頑張る少女がいい。別れがきてしまうのが辛かった。
お茶の時間があるってのが魅力的でいい。
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ある日、魔法使いになったら何をするだろう?http://surikomi.blogspot.com/2011/05/blog-post_20.html
絵を描きました。
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タイトル通り黒猫の王子の話でもありますが、たまたま魔女になった少女の冒険の話でもあります。クライマックスにはアクションシーンもあるし、気の効いた魔法も使うし親子で十分楽しんだのですが、僕としてはなにか違和感が残りました。考えてみたところ、それは主人公の少女ロージーが節制が効いていて良い子すぎるというか、魔女の能力に対する欲が少ないというか、少女らしいキャラが立ってないということなのかもしれません。ただそれも黒猫カーボネルの立場が強いこと、ロージーも魔法を習ったことがあるわけでもないことを考えれば、設定から来る必然なのかもしれません。それに前半では魔法とカーボネルに十分興奮してましたね。そういう風に解釈はするのですが、それでも後半の無欲さがあっさりしすぎた印象でした。
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お母さんと二人でつつましく暮らしていたロージーには、夏休みに遊びの予定がありません。市場で手に入れることになったほうきと黒猫は、魔女のものでした。猫の魔法を解いてあげようと、ロージーの不思議で面白い冒険が始まります…。
猫たちの王子にうまれついてるという気位の高い黒猫カーボネルと実直な子どもたちのやりとりや、出会う人々と優しいお母さん、お話を通して(作者の)優しいまなざしが感じられるのもいい。
また、大社玲子さんの挿絵は、確か『ちびねこグルのぼうけん』でもいいなと思ったように、どこかほんわかとする柔らかな雰囲気が伝わってきます。
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「魔女の宅急便」が好きな人と猫好きには鉄板。
市場でホウキ買ったら魔女の呪いをかけられた猫の王子カーボネルがついてくるなんて、夢のような設定ですね。
ときどき出てくるケーキやサンドイッチがおいしそうでいい。
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2013年7月28日に開催された、第7回ビブリオバトルinいこまで発表された本です。
テーマは「夏休み」。
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ねこの本を探しているときに見つけたけれど、物語のなかでは夏休みだから、読む時期をはかっていた。
そろそろ初夏だなぁと思って借りた。
十歳の女の子・ロージーは、お母さんと二人暮らしで、夏休みなのに予定がありません。
買いものにでかけた市場で手に入れたのは、魔女のほうきと黒ねこでした!
夏休みなのに予定がない、という子どもたちにやさしい、夢のある本だ。
クライマックスで飽きかけたけれど、最後までおもしろかった。
魔女の描写がリアルにいやらしい。
おはなしに登場するものごとがうまく話を進めていて、パズルが進んでいくようだった。
ほうきの上から地上の列車と光がみえた。
ネコまっしぐら なところを見かけたら、そういうことなのかもしれませんね。
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そのおじいさんは、綿の商売で財産をつくり、そのあと、その財産をどうしてつくったかわすれてしまおうとして、南の方へひっこしてきたのだということでした。(本文85ページ)
流石イギリスの児童文学。財産を築いた平民が田舎地主となり、上流化(正確にはアッパーミドル化)していく過程がさりげなく描かれています。
本筋とは全く違うけれど、一番印象に残ったのはここ。
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読みたい! と思った時に既に、絶版?になっており。地道に古書店巡りして探すしかないと思っていたのに、普段あまり行かない書店に行ったら、なんと新品で売っていた! 出合える時は出合えるものだなぁ。
黒猫のカーボネル(猫の王国の王子様)が、人間に媚びない感じでなんか新鮮。
ロージーもいい子だし、ジョンと仲良くなれて本当に良かった。私もこんな夏休み過ごしたかったよ……!
これを子どもの頃に読めたら幸せだったろうな~。大人になった今、読んでも普通に面白かったけれども。
できれば続編の『カーボネルの王国』『ジェサミー』も読みたかったけれど、日本語訳出てないのか、残念……。
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日本版は1985年出版、オリジナルは1955年イギリス。
(作中で主人公ロージーが「たのしい川辺」を読もうとするシーンがあった。)
都会の母子家庭に育つロージーが、偶然から黒猫の王子カーボネルの主人になり、その囚われの魔法をとく手伝いをする話。
魔法に必要な道具を集め回るシーンが長い。
のみの市の古道具屋のおじさんがいいキャラだった。
魔法を使うのには詩作の才能が要るというのが面白い。
ところどころに、おっと思わせる台詞があって楽しい。魔法の本は、めいめいに魔女が自分で新たな魔法を書き足すのを、お料理の本みたいね、とか。
全編通して、猫のカーボネルが偉そうで可愛い。やっぱり猫はこんなかんじ。
相棒のジョン、本名はランスロットっていうのかーーここだけ興奮。ジョン自身は本名を嫌な名前だと言っている。そうなんだ、古臭い名前という認識なのかな。
ロージーが魔法でカーボネルを解放するシーンがとても素晴らしい。
単調で冗長なところもある物語だが、ここは本当に良かった。
敵の正体が面白い。なるほどー。
都会の夜空を、建物をかすめながら飛ぶシーンはとてもワクワクした。こういうの、子供のころに憧れたなあ。
猫のマルキンという大臣キャラが出たので、え、ブラックマルキン?グレイマルキン??と反応してしまう(メイスフィールドに出てきた悪い猫の名前)
このマルキンは善玉キャラだった。
ラスト、ほうきで魔法を失うシーン、なんだか涙が出そうになった。それでもロージーもジョンもお母さんも、カーボネルも、幸せそうでとても嬉しい。
挿絵のタッチも好き。