永井均氏と小泉義之氏という二人の哲学者によって書かれたスリリングな一冊です!
2020/06/29 10:22
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、『ウィトゲンシュタイン入門』や『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』、『〈子ども〉のための哲学』などの著作をもつ永井均氏と、『生と病の哲学』や『ドゥルーズと狂気』などを著された小泉義之氏という二人に哲学者によって書かれたスリリングな一冊です。同書では、表題にもありますように、14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞かれたら、?どう答えるとかという難問に挑戦した書なのです。読者の皆さんならどう答えますか?著者の二人は一体、どう答えるのでしょうか?その解答は、ぜひ、同書でお読みください。
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タイトルがとてもシンプルだけどすごくインパクトが強くて昔からずっと疑問に思ってたことだったのですごくすらすら読めた。
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なぜって言われても困る。
殺されても困る。
人殺しって言葉はすごい重いと思うし、世間的にも軽蔑されるものになってしまうと思う。
殺したくなるようなことは今までにないから大丈夫だと思うけど。
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タイトルに対する答えは、「ない」。これが2人の意見である。本書を読んでいると、この問いを結論づけようとすること自体がナンセンスだと考えさせられる。重要なのは、その答えを模索する過程だというのが、著者両氏の主張の唯一の共通点ではないだろうか。本書の内容に共感したり疑問を持ったり考えていくことが意味を持つ。それだけ、「生死」に関わる問いは、1つの答えを求めてはいけない慎重に扱うべき問題だ。2人の激論がその危険性を物語っている。本書で興味深いのは、著者両氏が哲学者であるという点。同じ哲学者でも主題へのアプローチがまったく異なる。そして、決して熱くないトーンで冷静に「論理の抜け」を指摘する。内容がシリアスなだけに、その状況はとてもスリリング。しかし、殺人という狂気的な議題をニーチェやニヒリズム、神を絡めて哲学的に捉えて考えるのは、実はとても正しい手段なのかもしれない。そういう観点を持てたことが私なりの本書からの収穫だ。ただ、最後の両氏それぞれの章で、永井氏の<私>が本題にどう繋がるのか理解できなくて、小泉氏の「ただ、殺さない絶対的悪」には最後の最後にピントがずれてしまった気がして、尻すぼみの印象を受けてしまったのが残念。
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テキストの量は少なめ。注釈が欲しかった。
私の無知が悪いのか、あまり対談、というか、討論になっていない気も。
もう少し経ったら、ゆっくり読み返してみたい。
MVP:なし
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構成は
・永井ー小泉の対談
・永井論考
・小泉論考
<文庫版書き下ろし>
・永井論考
・小泉論考
対談は恐ろしく噛み合ってない。
それは永井先生も論考内で「この対談に際して小泉氏は私の以前の著作をずいぶん勉強してこられたようで、氏の発言には私の用語がちりばめられている。しかし、その用法が私の理解と食い違っているため、逆に理解しにくかった。」(p82)と言っていたり、「小泉氏の発言の意味がわからなかった」といった趣旨の発言をかなりの回数使っているところからも伺える。(逆に小泉先生はそのような類の発言はしていなかったように思う)
ただ、この噛み合わなさ、対談後の論考の議題設定のあまりの違いが非常に良かった。
個人的には永井先生のほうに与する。永井先生の方が、表題の問に真摯に答えているように思うからだ。
小泉先生の議題設定は、(私はよくわからないので、あくまで直感的に「そうではないか」という予想で言うならば)極めて脱構築的であるように思った。
その議題設定が悪いなどというわけでなく、今ひとつ私にとってはスカされた印象を持ち、永井先生の方が<子ども>としての立場から誠実に答えているを印象を受けたという話である。
もちろん文庫版にして200頁に満たない書籍である。永井先生も頻繁に以前の著作を前提としていることを提示しながら論理的補完を行っていた。この一冊で成敗することなどできるわけもなく、ただその導入としては非常に良い一冊だと思う。
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あまり面白くなかった理由は、K のせい。
N は、まだ、質問の内容を哲学者らしく詳細に追っていっている感じはあるものの、 K は、最初から質問の内容(というか質問者の意図)を適当に自分向けに受け直している感じ。
対談も、K が勝手に N の過去の発言を自分向けに受け取っているものに基づいて話しているものだから、対談の体をなしていないし。
企画ミスですな。
けして、徹底討論もされていないし、スリリングでもないよね。
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こういう話はまず“人権”というものが社会的約束として存在し、国家がそれに裏付けを与えている、という話から始めないと意味がない。
人を殺すのがなぜいけないのかをまるで考えたことが無い人だけが読めば良い、そんな本。
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いつもどおり(?)、永井さんはおもしろことを言う。小泉さんは、なんかあまりピンと来ないことも多かったけど、社会契約説の欺瞞性について、興味深いと思った。いづれにせよ、まだ頭の中でまとまってないので、また読み直したい。
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話噛み合っていない、議論になっていない、自分勝手。対談…なのか?正直なにいってるか分からない(特に小泉さんかな)。どうも自分の意見を前に出しすぎている気がする。他人の意見に聞く耳持たない感じって言うのかな?あと、何でこういう人たちって、外国語を使うのだろう。メタ、マテリアル、オピニオンとかね、読むときにちょっと考えてしまう。流れが止まる。もちろん、俺の語彙不足なんだろうけど。でもさ、日本語でよくないか?日本語だとそれを表すことば、概念がないなんて聞くけど、じゃあどうやってそれを理解したのって話なんだよね。
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哲学をかじったことがない俺にとっては難解だった。
「俺らはこの問題を哲学的な観点から考えられるぜ」と知識をひけらかされているような気持ちになった。
なんでそんな回りくどい言い方をするの?って思う箇所や、「詳しくは俺が過去に書いた◯◯って本を読んでね」みたいな箇所にイラっとした。
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二人の哲学者の討論とそれぞれの思考をまとめた一冊。
それぞれの考えについてはとても共感して読めたけれど、討論の内容が薄すぎて…。もう少し双方に時間を持てなかったものか。やっつけで行われたような形を感じて残念。
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問題としている水準が違いすぎて、全く議論が噛み合っていない。ここまで噛み合っていないのは逆に面白いかもしれない。
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つまらなかった。期待はずれ。
と言うより、私には全く何を言っているのか理解が出来なかった。
哲学をかじっている人はこれが面白いと思うのか?
一言一言をわざわざ難しい言いまわしに変えて、お互いに理解が出来なくなっている感じ。これが哲学というものなのか?
永井氏は自分の著書の宣伝ばかり。うんざり。
2章では相手の悪口ばかり。文句が有るなら、相手と議論中に突き止めればいいのに、いないところで一方的な文句や批判はみっともない。
小泉氏はもっとよくわからん。本当に自分の言いたいことを言えているのか?(俺なんかに言われてかわいそうに。ウッシッシ)
哲学者という人達は、訳のわからない言いまわしで無駄な議論をする人種と理解出来たことがせめてもの救いと思うようにします。
しかし、二人とも「ニーチェはこう言っている。」、「ニーチェなら…」とニーチェが万能の神様のように、祀り上げていたけど、19世紀の何もなかったころのおじさんをいつまでも崇めているようじゃ、現代っ子の気持ちは理解出来るはずがないよ!と直接教えてあげたい。
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永井均氏と小泉義之氏の対談から始まり、
それぞれがその対談の内容を補足するコメントを寄せるという構成。
対談はほとんど話がかみ合っていないような印象。
実際、永井氏は自分のコメントのところで小泉氏の発言の意味が「わからない」と連発している。
おそらく二人の立場の違いがこの齟齬を生み出している。
永井氏は、殺人とそれに関わる道徳の問題を、普遍性をもった一種の「法」の問題として考えている。
対して小泉氏は、そうした考え方に対して批判的で、殺人の問題を考えるときには具体的に、それぞれのケースでの「殺さなければいけない」理由を考える必要性を主張している。
ぼく個人としては、小泉氏の立場に共感する。
永井氏の議論は、抽象的で机上の空論にとどまっている。
また、持論を展開する際、五人で形成される簡易的な社会を考えるのだが、ここで、〈私〉を特権化するのは問題があるように思われる。私の特権化は存在論的には有効であるかもしれない(どんな存在を理解するにも私の存在がなければ理解されえない。)が、法や道徳の問題に関しては、〈私〉はその法の存立要件にはならないだろうからだ。法は〈私〉なしにありうるものとして考えられるから、法としての有効性を持つはずだ。
そうした点を小泉氏は理解しているように思う。
だからこそ、「殺してはいけない」ということを「絶対的悪」や「罪」だと言いうるのである。〈私〉という思考する存在がもつ論理的世界よりも、「殺してはいけない」という道徳的命題が先在し特権化されている。
だからこそ、小泉氏は、「どうして殺してはいけないのか」と問うことは無意味だと言う。そうしたことは、生死の際に存しえない「強者」が問うものであって、弱者はそんなことは問わない。現実に殺すものは、現実にそれしか生き延びる方法がないから殺すのであって、そのとき、殺人はそうした問いが失効したうえで正当化される。そうでなければ自分が死ぬからだ。こう言ってよければ、この問いを問うという出来事と、殺人をするという出来事とは共立不可能なのである。小泉氏の、この二つの出来事の共立不可能性への理解、おそらく永井氏にはない観点ではないだろうか。
しかし、実際には、「楽しみのために殺す」人が近年の問題になっている。まさしく、道徳的命題などまったく効果をなさないレベルでの殺人である。現在最も問題になっている殺人者(よくサイコパスと言われる人たち)に対して、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという問いは意味を持たない。そうした殺人に対して、どう対処すればいいのか。そこにどういった価値を与えるのか。そうしたことを考えるために、この本のタイトルとなっている問いがまったく無意味であるということを理解する必要があるし、そのための論理をこの本は教えてくれると思う。