紙の本
ネジを巻く
2011/02/05 11:21
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
池田晶子さんの「哲学エッセイ」が好きです。書かれている内容はほとんど理解できないというのが正直な感想なのですが、つい読みたくなります。
何故かといえば、読んでいるあいだ中、自分の頭のなかのバネが少しずつ巻かれていく、そんな感じがいいのです。
これは想像ですが、頭のなかには「思考」というゼンマイ状のバネがあって、日々の雑多の暮らしのなかでそれはすこしずつほどけていくみたいなことがあります。
柱時計のゼンマイを巻くのが子供の頃のお手伝いにありましたが、バネが巻かれていく音といい、しっかりと締まっていく感触といい、なんだか柱時計を生き返らせていく、少しうれしくなるお手伝いでした。
池田晶子さんの「哲学エッセイ」を読むのは、そんなバネを巻くことと似ているように思います。
この作品は1998年に出版された同名の一冊を増補新版として出されたものです。収録されているのは、「言葉と対話」であったり「知識と情報」であったり「私という謎」であったり、もちろん「死とは何か」ということなど、哲学的な文章ですが、そのことのすべてをわかることは必要ではないのではないでしょうか。
大事なのは、池田さんがいうように「ひとりで、ひとりきりで、己れの全存在によって全・存在を問い詰め」ることです。
池田晶子さんはそのことを教えてくれた人でした。
深夜、ひとりだけで池田さんの本を読んでいると、ギリリギリリと、頭のなかのネジがしまっていきます。その感じが、私はたまらなく気にいっています。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でお読みいただけます。
紙の本
はじめて池田さんの哲学に触れました。
2011/06/05 21:28
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:龍. - この投稿者のレビュー一覧を見る
はじめて池田さんの哲学に触れました。
池田さんは「14歳の君へ」がよく知られた哲学者ですが、2007年に若くして亡くなっています。
その哲学の特徴は、とにかく平易な言葉での表現を心がけているということ。なにものにも支配されない自由な思想と実は緻密な論理。
以下、気になった部分を少し。。。
「生活と生存のための情報は、損得で選ばれる。しかし、人生と魂にとっての知識は、知ること自体が価値である」
価値だけを頼りに生きることは、サルでもしていることと池田さんは言います。人間として「考える」ことができる。自分の頭だけで考えることが、人間らしいとも言えるのです。
「生存は社会に依存するかもしれないが、存在が社会に依存するわけではない。」
生きる、ということの意味を考えて日常生活を営んでいる人は少ないのかもしれません。しかし、確かに私たちは生きているのであって、社会は確かに私たちの生活の隣にあるけれども、それが全てということではないはず。
「分かる」という言葉が、あります。これは自分が考えた末に分かるのであって、ひとから命令されて分かるものではありません。つまり、人それぞれが見ている理解している現実(と言われているもの)が異なるということなのです。
本書を読んでいくと、日常生活での悩みなどは、あまり取るに足らないことだと気づきます。もっと考えなければならないことが、人生にはたくさんあると思いました。
龍.
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新装廉価版で、内容自体は95年から98年の文章。
連載モノの一冊にしたもので、
一稿が極めて短く読みやすいのだが、
凝縮率は、凄まじく言葉が選ばれている。
著者の批評ものに見られる、
痛快なキレは、あまり見られない。
極めて直球勝負の池田晶子哲学ではなかろうか。
僕は、後半、神秘主義的思想を感じた。
魂というものへの信頼、信仰はどこから来るのか。
僕には、理解できなかった。
理屈は整然としているし、言いたい事も分かる。
だが、実感出来ない。
それは、僕が未熟だからなのか、
池田晶子がどこかで妄信しているからなのか、
はたまた、真理の表れ方の違いなのかは、
僕個人では、判断しかねる。
> 悪人は自身の悪を認識していない
> つまり、自身を認識していない
はたしてそうだろうか。
もちろん、善悪とは内面から来るものであり、
人から言われる道徳ではないというのは分かる。
しかしでは、悪い事を為さずに生きれる人が居ようか?
おそらくは居るまい。
人は、誰も傷つけずには生きていけない。
それは、生き物を殺して食べることでもあるし、
また、自分の生活が守られている陰で、
その繁栄のあおりを受けている人々がいるのも事実。
では、そういった罪の意識、業を感じること自体が、
悪だというのだろうか。
そういったものを感じなければ善で、
そういったもので自分を罪だと思えば悪なのか?
それとも、罪や業と悪の概念とは違うというのだろうか。
それが、僕には分からない。
「悪を為さない」それは、生きるべきでないと、
言っているのと同義に聞こえる僕が、
何か勘違いをしているのだろうか。
まったくもって、そこが分からないのである。
自分が良ければ善いのか。そう、自分が善いから善い。
精神は、独善を否定しない。結局は魂なのだと思う。
僕はそれを正しいとしない。それだけのことだ。
> 本当というのは、ありのままだと認められるから本当
> ウソというのは、ありのままだと認められないからウソ
では、ありのままだと認めているそれは何かといえば、
結局、それは魂であるはずなのだ。
魂が認めれば本当であり、認められなければウソとなる。
自分が自分であるというそれ、すなわち魂が、
ウソと本当を判断している。そして、それに逆らうこと。
即ち、ありのままだと認められないことを認める行為、
それを「信じる」と呼ぶのだと池田某は言う。
そして、その「信じる」は、決して人を救わないのだと。
なぜなのか?
魂で認める事と信じる事にどんな違いがあるというのか。
分からない。
> 問題はまず、生きる意味または、価値のはずなのだ
> まっとうな人間は生きる意味、価値を真善美と知る
> それを、欲し得ることを快とする
これは池田某の思想の根幹と言えると思う。
即ち、生きることには意味や価値がなくてはならない。
だから「魂」なのだろう。
だが、生きる意味や価値なんてものは必���なのか?
それを信じて疑わないのは、それが快だからだろう。
しかし、それでは哲学ではない。宗教と同じである。
生きることに価値を与える、意味を与える、それは、
某の言う「生きる技術」に他ならない。つまり、
欲望社会を要領よく生きるということに過ぎない。
一神教の神が、「魂」に変わっただけではないか?
つまりは、「魂」はコトバを意味と認識し、
モノを存在と認識させる。これは万能ということ。
そんなものが、自分だと言われる。
自分には本来、その力があると言われる。
悪い気はしないだろう。
万能の神は自らの中にあるということ。
それは、どんな不安も取り除けるものだろう。
心地よいものだろう。
でも、ようするにそれは不安を取り除く為の、
心地よい快楽を得るための装置に過ぎない。
人は自分を信じることで救われる。と。
そう言ってるに過ぎない。
そうやって、生きる意味に縋っている。
その限り、人は自由でありえない。
そして、「不自由な幸福などありえない」
> 「己が魂」を、ます認識することである。
その前に「己が魂」を、まずよく疑うべきである。
それが哲学だろうと思う。
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考えることは、悩むことではない
わからないことを悩むことはできない
わからないことは考えられるべきである
人生いかに生きるべきか、と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか
相変わらずの池田節で満足
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著者の池田氏は「なぜ社会の存在を認めるのか」の節で、「社会なんてものがいったいどこに存在するのだろうか」といい、存在するのは、ただそこに属すると「思っている」人達のみなのだといった。
この節を読んで、太宰治『人間失格』の以下の場面が思い出された。
(友人に「世間が許さないからな」と言われて)
世間とは、いったい、何の事でしょう。
(中略)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
一つ一つの事柄について深く考えてみると、新しい側面が見えてくる。 そういったことを真摯な言葉の数々から再認識させられる。
「とはいえ、決して、答えの書物ではありません。どこまでも、問いの書物です。二千五百年前、理性の人ソクラテスが啓示を受けたというデルフォイの神託もまた、こう問いかけたのみでした。『汝自身を知れ』」
(あとがきより)
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池田氏の哲学の全体が見渡せる。だが、やはり上手に腑に落ちることができない。クリシュナムルティとその全体はとてもよく似ている。そして、哲学の手触りを教えてくれたことが大きい。
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初出は、1995年から1997年にかけての雑誌の連載、それに加筆、さらに書き下ろしを加え、52編の文章を、プロローグ、エピローグ各1編と8つの章に分けられている。どの文章も古びてはいない。その日の気分でどこから読み始めてもよいと思う。どれも、余分なものを削り落とした、キレのよい文体で、カッチリと書かれている。そのため、読み手を選ぶ、あるいは、同じ読者であっても、その日によって、心や頭の調子が整わなければ読めないかもしれない。「残酷人生論」というが、人生の残酷さに迫る話ではない。考え、知ることが残酷なことだと言っている。「人生論」というと「悩む話」のように思われがちだが、筆者は、「人生に悩む」ことを拒否し、疑うこと、考えること、知ることを求める。
20代、30代の頃にこの本に出会っていたらどうだったろうか、と思う。
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理解しやすい箇所もあれば、なかなか腹に落ちない箇所もあった。伴走していたかと思うと随分先に行ってしまったり、かと思えばその先でこちらを向いて待っている。そんな感覚だった。
最後はニーチェ、ファイアアーベント、縁起などが入り乱れてのフィナーレ!
p224 「なんで私は普通でないのか」こうした感覚をもつ人は増えているのではないかと思う。
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なかなか読み応えがありました。理解できないところもありましたが、読み進めていくうちに「わかった」と思う瞬間がたのしかったです。
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魂について,すこし。
塊(かたまり)ではありません。魂(たましい)です。
こないだ池田晶子さんのこの本を読み返してて,魂ということについて考えました。
長くなっちゃったんで,電車の中とか,夜落ち着いてからとか,そんな感じでどうぞ。
http://blog.livedoor.jp/h_ohiwane/archives/51758975.html
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やはり、池田晶子の著書は面白い。
著者の問いを考えるの前では自分のまわりの出来事が全て小さななんでもないことに思える。
読むと気持ちが軽くなる感じがする。
内容がわかるとかわからないとかではなく、この人の考えるは本物だ。
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内容が濃く、分かりやすい言葉で考えるべきことを提起する。頭からすごい速さで読み進めることが出来た。しかし序盤、中盤「これはこうなのではないか」「私はこう考える」の文章が、終盤になるにつれ「これはこうである」「これはこれでしかない」という文章が増えていく。私に理解出来ていない部分があったとしても、がっかりだ。
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池田さんを象徴する一冊らしいです。時折、鋭い一節はありますが、わかるようでわからない、わからないようでわかる…そんな感じです。仏教のエッセンスは「考えないこと」、でも池田さんは「考えろ!」と言う。でもこれは決して相反するだけものではありません。
池田さんの本に、人生の答えは書いてません。池田さん自身も考え続けただけだと思います。ただ考えること、問いかけること、それを現在において続けることが一番良い人生と解釈しています。
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「情報によって満たされる生活とは、情報がなければ空疎な生活。知性も同様、外からの情報なしでは考えられない知性が、ほんとに賢いことなのだろうか」なるほどな。感じ、考え、創造する。驚きと疑いを持つって大事だな。グサグサ来た。
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まあいつもの池田節なのだけど、それをひたすら繰り返されるとちょっとうんざりしちゃう。
あと久しぶりに著者の本を読むと、中途半端感もあり。死者は何も考えない、ということを前提にしているが、そうなんだろうか。そうだとは思うんだが、哲学者なのであれば、そのへんから疑うべきでは、などと思った。