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山一と長銀、このふたつの「事件」が明らかにする「法的責任」と「経営責任」の違い
2012/04/04 15:49
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
1997年の山一証券破綻、翌年の長銀破綻からすでに15年。その間に「3-11」という巨大な災害を体験したわたしたちは、すでに三年前の「リーマンショック」ですら、遠い過去のように感じてしまう。山一破綻や長銀破綻という「事件」は、すでに金融史のヒトコマとなってしまっているかもしれないが、本書によって、その最後まで見届ける必要がある。
山一にかんしては、若き日の著者は弁護士として「社内調査委員会」にかかわることとなった。現在の「第三者委員会」の原型である。オリンパスの「飛ばし」によるオフバランスによる粉食決算などを見ていると、山一の事件は既視感にとらわれる思いがする。「飛ばし」は一方的に証券会社の責任に帰すことができないのではないかと再考するためのキッカケになることを望みたい。
山一にひきつづいて長銀に関与することになった著者は、刑事事件の被告とされた破綻当時の経営陣の一人の弁護団長として最高裁の無罪判決まで伴走することになる。長銀事件は、厚労省事件における「検察不信」も、元外交官が著書のなかで使用して「国策捜査」なるコトバが世に知れ渡る以前の「事件」であった。
裁判というものは、裁判官と検察と弁護士(・・これにくわえて立場は分かれるが法律学者も)という法律のプロどうしの戦いであるだけではない。裁判所と検察という官僚機構の背後にある国家とそれを下支えする大手マスコミと、民間企業の経営者という民間人との「正義をめぐる戦い」でもある。2012年現在から振り返れば、無罪を立証するまでのプロセスがいかに困難を極めたかは想像に難くない。長銀の経営者たちが最高裁で無罪が確定したことは、「法治国家」としての最低ラインは死守できたというべきであろうか。
本書で逆説的に明らかになるのは、「法的責任」とは性格をまったく異にする「経営責任」を明らかにすることの重要性についてである。失敗原因の追及と法的責任の追及は峻別しなくてはならないのだ。
本書に描かれた世界を過去の話と一蹴してしまう前に、その後の法改正や一般国民の裁判やマスコミ観に変化を与える端緒ともなった事件として、貴重な教訓を読み取りたいものである。
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山一證券の内部調査委員、長銀役員の弁護人を務めた著者が当時の経過を克明に振り返る。現場にいた人にしか書けない臨場感があるけど、それよりも日本の経済制度、金融制度、ひいては政治制度がたった十数年でこれほど変わってしまったことこそ驚き。
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山一・新生の破綻に関連した有名弁護士の回顧録のようなもの。興味深かったし読みやすかった。が、特に得るもの無し。
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山一証券の訴訟では「社内調査委員会」に参加して経営者の責任を追及し、「長銀事件では経営陣の弁護士として検察と戦った国広正弁護士の著書である。
オリンパス事件や郵便不正事件などの記憶も新しいなかタイムリーな本だ。
山一証券の事例は多くの不祥事と同様に経営者や社員が問題の先送りと責任の回避を図ったことで至った企業破綻を描いており、そのなかで「社内」委員会が自らを総括した点に美点を見いだそうとしている。廃業により会社が無くなったからできたことであろう。
一方で長銀事件は検察の「国策捜査」を取り上げている。特捜部の捜査は仮説シナリオに基づき、それに合う事実を証拠として集め実証しようとするもので、事実から人の犯した罪を吟味しようとするものではないことを述べている。
「国策」の「国」とは誰のことだろうか。普通は政治家や役所からの圧力で行われるような場合を指すのだろうが、この本では法廷闘争を中心に記述されているためかもっぱら特捜部を告発しており、その背後の圧力についてはほとんど記述が無い。かろうじて長銀の当時の幹部のみをスケープゴートにしようとする役所の動きに触れているだけである。
前者の例で著者が告発しているのは、消極的な「逃げ」に終始し、現実に直面して責任を果たそうとしない人間の罪である。後者の例では、自らの誤った勝手な正義感を「国民の期待に応える」という論理で正当化して我を貫こうとする積極的な罪を取り上げている。後者の方がより罪が重いという印象を受けるのが普通だろう。
経団連御手洗前会長、厚生労働省村木元局長、小澤民主党代議士などへの追求がことごとく失敗に終わる一方、証拠捏造事件が明るみに出るなど、検察自らの考えとそれに基づく行動が、「正義感」だけでとうてい正当化できるようなレベルを超えて自分たちの能力の低さを明らかにしているのであるが、そういう認識に本人達は至っていないであろう。この点で検察の正義感もマスコミのそれと五十歩百歩だ。
この事例では、検察官や裁判官がいかに無能であるかを示す文章も綴られており、これを読んで真に受けてい良いのか悩む人が多いだろう。
一方的な記述に与する必要は無い。しかしここに書かれていることは、原発事故を巡る専門技術者集団の行動や、増税を前に選挙を気にして離党する専門政治家集団、子供達の生きる力低下に成す術のない教育者集団、農業事業者の集団、医師の集団、ジャーナリスト集団などなど、世の中の専門家集団が社会の問題を解決する点においては悉く無能であり、自己愛の追求においてはそれを自らの使命にすら優先する集団になっているという事例の一つに過ぎない。
これらは専門家が専門家であろうとすることが原因でそうなっているのだから、自分たちで解決することは100%できない。山一証券の事例ではそれも語られている。
副題は「今、明かされる『山一・長銀破綻』の真実」であるが、「今、明かされる」べき必然性は感じられない。なぜもっと早く明かされなかったのか。小さな書籍とはいえ世に明かすことにより、オリンパス事件や郵便不正事件のような事件を防止するというのが出版の目的ではないのか。
実は著者も出版者も、そして読者(私を含む)も、はなから「防止」することなど期待していないのだ。現在の体験により醸成される自らの思いや考察に、書物に語られる過去の事例を重ねてそれらを補強して満足しようとする欲求を満たす、そういう機能を発揮するように書物が出版されようになってしまっているのだ。
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お名前はよく拝見していたが、この手の仕事(山一証券、長銀の処理)を担ってきた方というのは初めて知りました。
特に面白かったのは、山一証券の業務を手掛けていた際の日記の内容。関係者の感情、世の中の環境の変化が臨場感をともなって伝わってきました。愚直な著者の姿勢に感銘しました。
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大会社に就職すれば一生安泰―—。
そんな幻想を打ち砕かれた山一・長銀破綻の舞台裏を鮮やかに描き出す。
当時、金融機関に勤務していた自分にとって「明日は我が身」と本気で考えさせられた2つの“事件”だけに、改めて読みたくなった。
とくに長銀がらみの項は、「国策捜査」の実態が、昨今、我々一般人にも知られるようになっただけに、ドキュメンタリーとして一級品の内容。読み物として楽しめる。加えて、経済的な側面だけでなく、「司法っていったい何よ」を考える上でも有用な一冊。
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破綻企業における経営責任の所在というテーマで、山一証券の社内調査報告書作成と、長銀の弁護を担当した弁護士が、それぞれの経緯を綴った本。
山一と長銀の破綻処理スキームに関する解説を期待して手に取ったが、そういった観点の記述は非常に少ない。その意味では個人的に"失敗"だったが、十分な情報も知識もないのに関係者に責任を取れと迫る世論の安易さ、これに乗っかり国策捜査を行う検察のずさんさ・強引さを、非常にシンプルな文章で世に問うており、記録として大変貴重。
ただし、経営責任の所在という中心テーマの掘り下げはほとんどなされていない。単に、『経営責任に絡んだ二つの事案の具体的経緯を、著者の散発的な所感を散りばめながら、記述しただけ』で終わっているのは、残念。
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山一証券の自主廃業に際し外部弁護士として社内調査委員会による調査報告書をまとめ、長銀の破綻においては国策捜査による旧経営陣を被告とした粉飾決算疑惑に対し、被告側弁護人として無罪を勝ち取った、その過程についての記述。
会社の不祥事にも色々種類があると思うけれど、「危機管理において最も大事なのは不祥事に正面から取り組む覚悟と姿勢」とのこと。肝に銘ず。危機管理は正解がないし、お手本もなく、何をやっても非難されるのだから困難極まりない。(だから、本書でも、危機管理を如何に行うかという部分には触れていない。)
この本のおもしろいところは、山一でいえば、飛ばしを指揮命令した人など、原因の直接的経営責任にかかわる部分ではなく(山一の調査委員会に関していえば経営陣在任中の調査書なので取締役会の経営責任の一端ではあるとおもうけれど)、自主廃業に追い込まれた山一、破綻して国有化となった長銀の、それぞれ「最終ランナー」と著者が直接かかわっているところ。どちらも、著者から言わせれば「バトンタッチ受けた人」「真実を明らかにしようと立ち向かった誠実な人」。これが実際の責任ある人、山一の社内調査委員会で有責とされた人の弁護とかだったら引き受けたのか、ちょっと気になる。
長銀の方は、引当が妥当であったか、公正な会計慣行に基づいていたかどうかが争点で、10年かけて最高裁までいき、最高裁で原判決・第一審判決を破棄して逆転無罪を勝ち取った法廷闘争についてなので、裁判官の訴訟指揮や、弁護団側の戦略、マスコミ対応など、法律的観点からはとても興味深い。
最終弁論における裁判官・検察への痛烈なあてこすりが秀逸。
「検察官は、実態に目を閉ざして、長銀の最終走者として誠実に難局に立ち向かった被告人らを『粉飾をやるような一握りの悪い経営者』に仕立て上げて処罰し、国民の溜飲を下げさせようとするものである。この検察官の姿勢に迎合する原判決が維持されれば、わが国経済の将来に重大な禍根を残すことになるだろう」
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山一証券の社内調査委員会の一員として、また長期信用銀行の弁護側としての記録。真の経営責任とは何か、冷静に筆者が考察する過程及びそれぞれの経営者の行動の記録を拝見するにつれ目頭が熱くなった。『企業は生き物であり、社会の進化や経済変動によって倒産などで退場を余儀なくされることは往々にしてある。これは経済活動の新陳代謝ともいえる生理現象である。しかし山一の死は経済活動に巻き込まれたことによるやむを得ない生理現象ではなかったー第1章山一証券破綻〜より』
『主文 原判決及び第一審判決を破棄する。被告人はいずれも無罪。
最高裁は不良債権に対して、母体責任に基づく実務慣行が存在してたことを認めたうえ、98年3月には税効果会計が導入されていなかったこと、新基準を適用したのは4行に過ぎないことをあげ98年3月期は過渡的な状況であり、税法上の処理は排除されておらず、したがって長銀の決算は公正な会計慣行に反する違法なものとはいえない。
そして被告を有罪とした第一審判決と高裁判決について事実を誤認して法令の解釈適用を謝ったものであり、破棄しなければ著しく正義に反する。ー第2章長銀破綻〜より』
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山一の時は学生、長銀の時は社会人1年目だったので全然わけわかっていなかったのですが、両“事件”の内容と歴史上の位置づけ(?)を今更ながら初めて知りつつ、ドラマのような展開内容に、いっきに読み通してしまいました。
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著名な國廣先生が関わった山一粉飾の調査委員会での経験,そして,長銀事件弁護の苦闘を活写する大変面白い本です。記録文学としても,読み物としても,非常に興味深い。長銀事件での特捜型捜査,国策捜査に触れる部分は,自分が関与した特別背任事件の経験を思い起こさせて感慨無量です。
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タイトルはあまり内容に即しておらず、山一證券と長銀の破綻後の処理に関わった弁護士による回顧録といった趣き。そのあたりに興味がある人にとってはものすごく面白いけど、たぶんいろんなしがらみで書けなかったことも同じくらいたくさんあったのではないかと推察しています。少なくとも長銀では政治に絡む話とか根源にあったはずなのだけどそこには言及ないし、人間ドラマとして描くことに終始しているのかな。まぁそれはそれで面白いキャラが多いけど。
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山一と長銀の訴訟に関わった熱き国広弁護士の著書。
「経営責任」と「法的責任」の違いに改めて気付かされた。
<個人メモ>
山一証券の破たん(自主廃業)の1997年11月当時は大学3年生・シューカツ直前のタイミングで、今にして思うと自分自身の職業観・キャリア形成に多大な影響があったと思われ。
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まえがきの一文が、最も印象に残りました。
最も大切なことは、不祥事という危機に正面から立ち向かう姿勢である。
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八田先生の本に紹介されていたので、読んでみた。
国広先生は内部統制に関するセミナーで講演聞いたことがある程度だけど、本質しっかり掴んでるなあと感じた覚えあり。
で、この本読んで知ったけど、山一破綻のときに活躍された弁護士先生だったんですね。山一破綻については、日経ビジネス人文庫で読んだ、当事者として破綻劇を目の当たりにしていた石井茂(ソニーフィナンシャルホールディングス社長に)さんの本が面白い。
当事者と外から関わった弁護士、ふたつの側面で読み比べるのも面白そうだけど、国広さんの本はどこかに書棚のどこかにしまってしまった。
石井さんの本は、すぐに取れる場所にある。
いまパラパラ読み返すと、意思決定の基準については、「自己都合という基準」だけがあったという一節が目についた。他人(上司は部下の、部下は上司の判断)に依存し、意思決定の基準は借り物。自分という判断軸がない。Ⅴ、Ⅵは読み応えがある。