労働観、余暇観の変遷を見ながら、私たちが生きていく上での支えは何かについて考えていきます!
2020/03/26 11:22
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、現代社会における労働観及び余暇観とそれを巡る歴史を丁寧に解説しながら、私たち人間の活動の未来像を探る画期的な一冊です。同書の著者によれば、従来は、「仕事はつらく、遊びは楽しい」というように、「仕事」と「遊び」は明確に二分されていましたが、現在は、その境界が非常にあいまいになってきていると主張されています。では、私たちの人生を支えているもの、楽しみとは一体何なのでしょうか?何を楽しみとして生きているのでしょうか?同書では、こうしたことを労働観と余暇観の変遷などを通して究明していきます。
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子どものころからの、評価される自分は偽の自分である、という感覚と、仕事をしていてその意味づけに苦労したり、誰かの役に立っているという実感をもとめたりすることが無関係ではないと気付きました。
仕事について書かれた本だけど、これからどうやって生きようか、整理して考えることができます。
阪神大震災の後に書かれた本なので、ボランティアのことも書かれていて、311のあとで感じた、何かしなければ、という感覚と、でも理性ですぐに被災地に乗り込んでいくのを抑えていた時の感じがどこから来ていたのか、分かってすっきりしました。
ここから先、成功も失敗もするだろうけど、自分が仕事に求めることの軸は失わずに、丁寧に社会に関わっていきたいなと思います。
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なんとなく、厳しい市場原理からするとあまったれた感じもするが、それなりに説得力もある。
(1)「勤め」と「務め」をばらす感覚。長寿化とともに、会社で一生勤めあげるというよりも、勤め人としての生活は人生の半分と考え、それよりはるかに長い人生を俯瞰してものごとをなす、つまり個としてのじぶんの「務め」をさぐるという感覚である。(p186)
悪くないけど、金を稼ぐ現役時代から連続して、自分の使命を果たす務めに少しずつ転換していくことも可能ではないか。
(2)「ヴォランティアという活動が浮き彫りにしたのは、他者のまえで、そのだれかとしての他者にかかわるという、ひさしく労働というものが失っている契機である」(p145)
まあ、そういう見方もできるかな。
ここで一言。
最近、毎日災害関係の審議会を開催している防災関係の非常にドライブ感のある職場にいるのだが、こういうドライブ感は、理系の生物とか宇宙工学、さらには若手にしかパワーがないが建築とか都市計画にはあるが、社会科学系はどうしたのだろう。
これだけ政治が混迷し、社会保障などが問題になっているのに、政治学者、経済学者、憲法、行政法学者、あまりに静かではないか。そのかわりに変な分野から突拍子もない議論をふっかけられているのではないか。
この混迷と閉塞感の時代こそ、明治維新や戦後直後のような社会科学の論争が巻き起こることを期待したい。そうじゃないと、どんどん役人と国会で制度が決まっていてしまって、あとで、ぐちゃぐちゃ批判することになるよ。いいの、それで、社会科学者は?
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働くことへ違和感を感じている人におすすめ。
システム化された今の社会で、個々が何をどう感じているかが見えてくる。
その違和感が不快だった場合は、どうすりゃ自分はその考え方から抜けられるのかのヒントも書いてある。
途中、ちょっと読みづらかったけどね。
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アメリカ国民で一番不健康なのは貧困層。
問題は仕事の質であり、内容。仕事に人は意味を求める。それを見いだせない仕事は苦痛以外のなにものでもない。
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労働/余暇をめぐる思想史を振り返りつつ、これからの「仕事」を私たちはどう考えればいいか、的なことが書いてあるんだけど、最初の問題意識の描き方は非常に鮮やかなのに、それに対する応答が散漫すぎて読みづらかった。。色んな人の言葉を引くのは良いけど、引用だらけになると読みづらくなりますね。もっと独自色出して踏み込んでほしかった。
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仕事について、哲学的な側面からアプローチした本。労働に、様々な哲学者の思想を当てはめながら、「労働」と「余暇」について思索される。
「ホンシェルジュ」に記事を寄稿しました。
http://honcierge.jp/users/646/shelf_stories/25
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労働の定義、遊びの定義がいまひとつ理解できない面がある。そもそも労働に対する価値観が違うからなのだろうが、「だれのため」という枠で捉えようとするから無理があるのか。著者の意図が私には見えなかった。
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本書では、自らが行う「仕事」について、労働と余暇といった二項対立の議論では収まらず、双方が相互に「入りくんでいる」様相であり、現実的に対処できないことを示している。この説明にあたっては、例えば、「目的の有無、価値の生産と消費、効率と非効率、規律と自由、まじめとあそび、つらさとたのしさ」(p.11)や自由と自律というように対比させ、これらを軸としている言説は、巷のエッセイやSNS上でもよく目にする。著者はそうした背景には、多くの人々が《労働社会》に生きていることが生活の基盤となっているためと指摘する。その背景には仕事を含めた日常生活における様々な過程で求められる「前のめり」の意識と姿勢があるという。自分自身も、労働時間以外の余暇という時間に対して、更なる意義・意味・目的・充実感を求めることは多々ある。そのプロセスが楽しい瞬間もあるが、著者に言わせれば〈インダストリー〉というエートスにとらわれている、という状況にある。さらに社会という段階でみれば、常に前のめりで変化し続けることが標準となり、他方、安定を求めればそれは後退と揶揄される時代が今日といえそうだ。とはいえ、私のクラスターには、こうした時代に見事に適応した人々がわりと多い。
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近代において成立した労働と余暇の二項対立を乗り越え、他者とのつながりのなかで生きる自己のあり方に注目しながら、「働くこと」の意義について考察している本です。
フランクリンに代表される近代人は、勤勉・勤労に何よりも大きな価値を認めました。一方、1960年代以降に青年たちを中心に広がったカウンター・カルチャーのムーヴメントでは、「モーレツからビューティフルへ」ということばに象徴されるように、「労働」よりも「余暇」に大きな価値を見ようとしました。しかし著者は、こうした「労働」と「余暇」の二項対立そのものが問題だと考えます。
勤勉・勤労に価値を置く近代においては、つねに前方を見つづける「前のめり」の時間意識が支配的だと著者は主張します。そして、仕事中毒からの離脱願望としてのレジャー志向のなかにも、同様のエートスが息づいていると著者は指摘しています。たとえばジラールが分析した欲望の模倣のメカニズムは、われわれの欲望が同一の物語に回収され、一定の方向へと回送されていくことを白日にさらしました。しかし、有用性と有意味性の連関のこわばりに対しては、レッシングが功利主義者たちに問いただしたように「ところで効用の効用とは何か」といったような冷や水を浴びせてやることが、ときには必要なのではないかと著者は問いかけています。そのうえで、阪神大震災以降に日本の社会においても定着することになったボランティア活動に注目しながら、労働と余暇の二項対立から逃れ出る道をさぐっています。
著者の結論をわたくしなりにまとめてみると、「顔」という概念を軸にして、広い意味での「社会的包摂」のなかで個々人のアイデンティティが充実されていくことに「働くこと」の新たな意味を見いだそうとしているといえるのではないかと思います。
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生産性の論理、すなわち目的に敵う手段としての、もっとも効率的でもっとも合理的な、最短経路で目的を達成するために一切の遊びのない論理。勤勉と節制の道徳はこの論理を労働に、果ては余暇に適応した。さらに自己意識がこの論理を内在化し、自らの意識を合目的化し、また身体ですら合目的化させるに至った。『目的に敵うための徹底的に効率化された手段として、一切を捉える』という、目的至上主義。しかしすると仕事は、窮屈この上ない。
アーレントの有用性と有意味性の議論を媒介し、手段としての一切ではなく、それ自体に意味のある活動としての仕事を考えようとする。それは遊びのある活動である。遊びとはガチガチな合目的性ではなく、どこか緩みがあり、どこか偶然性があるものである。
さらに家事とボランティアを議論の素材として、それ自体に意味のある労働を描き出そうとする。労働は我々の生きているという大切な感覚を育むものではないか。労働は他者の他者としての自己かつ自己の物語としての自己、すなわち『私は自分をこれまでもこうでこれからもこうである人間であると思うし、また他者にもそう思われている』という確信としての自己アイデンティティを育むものとしての活動ではないか。そのとき我々は働きがいを感じるのではないか。
ひとつ。遊びは緩みである。緩みは緊張を前提にする。すなわち遊びは、合目的性を前提にする。山頂を目指す登山において徹底的に合目的的になるならば、3合目を歩く途中で見つけた美しい花に目を止めてはならない。しかしその花を見つけることができたのは、やはり山頂に登っているからこそである。
ふたつ。家事とボランティアの議論が、それ以前の遊びと深さの議論につながっていないのではないか。労働と余暇、仕事と娯楽という二項対立を超える軸として遊びがあり、また深さというのがあった。その深さとは、緊張と緩和、必然と偶然、すなわち遊びに求められるもの。だとすればより、この遊びを感じられる事例が欲しかった。他者に顔を差し出すことは遊びだろうか。他者は私の合目的性に包括されないものとするならそうだろう。無意識、他我、未来。これらは意識が包括しきることのできない、彼岸のものである。そこに遊びを感じることが、つまり決まり切った反応や決まり切った目的、想定される経験ではなくどこか賭けのように自らの存在を、他者と未来とに投げ出すことが、遊びだろうか。しかし意識に包括しきれないということは一方で恐怖の源泉でもないか。我々は自分の知らない自分、他者の反応、不確実な未来を恐れるだろう。遊びによるやりがいと、彼岸への恐怖は紙一重か。ならばこれらを分別するまた別の軸があるのではないか。決まり切った息苦しい仕事がある一方で、やれ起業しろという自己啓発の類の本も出てくる。この二項対立を超えるのは何か。
時に目的のない行動をしたくなる感覚はわかる。帰路の途中で回り道をしたくなるような。決まった未来に向かうことへの息苦しさ。これがきっと遊びの感覚なんだろうと思ってる。冒険への感覚というか。でもそれと他者の話が何か噛み合わない、、、。
補論を読んでないので、読んでから考える。
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労働、勤勉が、資本主義の中で神聖化されていく。マルクス主義の観点でも、実は「労働者の提供する資源」という形で神聖化される。余暇や快楽までが消費の対象になる。
ついには「たえず変化していなければならないという強迫的な意識が、(逆説的にも)惰性的に反復されてきたのが、二十世紀社会なのであった」(P86)と喝破する。
さすが鷲田清一氏の論考でこの辺りまでぐいぐい読ませるが、では、それに対置されるべき「遊び」とは何か、というあたりからやや論旨が迷走している感あり。
氏が肯定的にとらえようとしている「深い遊び」という概念が、前段で批判的に検討していた「レクリエーション(再生産の準備としての余暇)」とどう違うのか、結局よくわからない。
「労働VS余暇のかなたへ」という問い建て自体には強く興味を惹かれるだけに類書も並行して読み進めたい。
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烏兎の庭 第一部 7.21.02
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto01/yoko/darenoy.html
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古本屋で見かけてタイトルに惹かれ購入。答えが得られたわけではないが、まあまあ納得できた。著者の主張を自分なりにまとめると、
仕事か遊びか、労働か余暇か、といった二分法ではなく、労働に「深い遊び」すなわち存在を賭ける真剣さを取り戻さなければならない。労働に目的があれば充実するわけでもない。労働自体がその目的の手段に過ぎなくなるから。労働の「目的」よりも労働の「限界」に向き合った方が良い。自分では自分の存在に意味を与えられない。将来の自分のためでなく今の他者のために、存在を賭ける真剣さで労働することで充実感がもたらされる。
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子供のころ、「大きくなったら何になりたいか」という定番質問に、「子供のままでいたい」と答えたいた。
大学卒業を前に、就職が決まると、「子供時代が終わる。ああ、次のお楽しみは、リタイア後だな」と肩を落としていた。
あれから、四半世紀。定年が延長になり、1/3ともいわれる給料ダウンをのんで再雇用を選択する人々の姿を見てショックを受け、「私は、自分に投資して、エンプロイアビリティを高めることで、長く労働市場をサバイブしよう」と、順応しようとしている自分がいる。
そんな自分に、もう一度喝を入れてくれた本。子供時代の「強迫的な労働は、いたしません」というあの感性を、今の働く現場に持ち込むためには、どうしたらいいのか。
「『生産するための仕事』ではなく『他者との関係を通じて自分の存在を確かめてゆく仕事』に、ひとは価値を置くべきである」という氏の主張を頼りに、自分がかかわっている労働集約的な業界の仕事の在り方を、問い直してみたい。
↓下記の要約は理解の補助線としてGood!
https://ho-jo.net/2018/06/17/%E3%80%90%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E3%80%91%E9%B7%B2%E7%94%B0%E6%B8%85%E4%B8%80%E3%80%8E%E3%81%A0%E3%82%8C%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%80%8F%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6/