紙の本
フェイドアウト
2021/11/13 20:50
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投稿者:6EQUJ5 - この投稿者のレビュー一覧を見る
現代日本の暗部を語る十二章。学術論文のような語り口です。「漂白」という考え方は面白いと思いますが、残念ながら全体として内容の踏み込みが浅い感じがしました。
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普段、見かけないか、見えたとしても目をそらしていた現代社会の周辺に存在するグレーな社会、例えば、ホームレスギャル、ヤミ金、違法ギャンブル、脱法ドラッグ、偽装結婚などの実態を取材した1冊。かつての猥雑さが「漂白」されることを称してのタイトルであるが、自身がいかに社会の上澄みに存在しているかを再認識する。強者の立場にいて偉そうなことは言えないが、「これが今の日本社会なんだ」と認めないといけない。
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「何か」がおかしいのは分かっている。でも、その「何か」がよく分からないからもどかしい。売春島、偽装結婚、ホームレスギャル、シェアハウスに貧困ビジネス。自由で平和な現代日本の周縁に位置する「あってはならぬもの」たち。それらは今、かつて周縁が保持していた猥雑さを「漂白」され、その色を失いつつあるのだという。
著者は、『「フクシマ」論』でおなじみの社会学者・開沼博。私たちがふだん見て見ぬふりをしている闇の中で目を凝らし、現代社会の実像を描き出す。本書のベースとなったのは、ダイヤモンドオンラインでの連載でも好評を博した「闇の中の社会学」シリーズである。
◆明治以前から売春を生業とする島
その孤島では、島の宿に宿泊するか、あるいは置屋に直接赴くかすれば「女の子」を紹介される。「ショート」の場合は一時間で2万円、「ロング」がいわゆる”お泊り”を指し4万円。女の子の割合は日本人と外国人が半々か、やや外国人が多いかといった様相だ。その島の実態は、遊女の置屋で成り立つ「売春島」なのである。
中部・関西の一部の人々を中心に知られるこの島は、古代からの「風待ち港」であった歴史を持つ。風が吹かず舟を進められない日が続くと、海の男たちは海上では口にできない料理に舌鼓を打ち、航海中に調達できない水上遊女に、安息を求めたのである。明治以降、島自体が「風待ち港」としての役割を終えてからも、「伝統産業」は大きな役割して島を支え続け、現在に至るという
◆池袋、深夜のマクドナルド
終電を逃した大学生やビジネスパーソンの中に混じって、若い女性が二人。顔立ちはまだ10代後半のようだが、肌は荒れ、ボサボサの茶髪は痛み放題。一見分かりづらいが、グレーな貧困に包まれた若年ホームレスなのである。そんな彼女たちの仕事は「移動キャバクラ」。
駅の喫煙所などでライターを借り、いけると踏んだら、名刺を渡して普通の居酒屋へ行く。キャバ嬢のようにガンガン接待をしてから料金交渉に勤しむ。だいたい一回の相場は、5000円から1万円であるという。カネが入れば二人でインターネットカフェやカラオケ店に宿泊する。ないときはマクドナルド
これら二つの風景は、現代の田舎と都会の対比でありながら、その根底で通じ合う。2003年にオープンした「パールビーチ」を代表に、「表」の顔を作ろうと躍起になっている「売春島」。浄化作戦が進む中、情報化・デフレ化の波を活用することで生み出された「移動キャバクラ」。
グレーゾーンの中の白と、白の中のグレーゾーン。一方は隔離・固定化され、一方は代替的なシステムによって補完される。結果的に空間は均質化され、「あってはならぬもの」が不可視化されていく。出会うはずのなかった両端は、同じ方向を向いているのだ。
◆激安シェアハウスに集う人々
若者の新しいライフスタイルの潮流ともなっているシェアハウス。この時代が生んだ「新しい共同体」にも、忍び寄る魔の手がある。ある日シェアハウスの住人が「やばい人と会った!」などと興奮気味に話しかけてきたら要注意。いつの間にやら、物件にネズミ講のブランド名が書かれた大きなダンボールが定期的に届くようになったりする。
さらに「オフ会ビジネス」なるものも存在する。ネット上で「集まろう」という動きを意図的に作り、人を集めてチェーン系居酒屋で飲み食いして利益を出すというものだ。「選択的・流動的・短期的」な「新しい共同体」の誕生と、「貧困」や「夢」や「孤独」。そこには周囲でうごめく商才鋭い人々が控えているのだ
◆生活保護受給マニュアル
ヤミ金にハマった人物が、生活保護を受給するための研修があるという。仲介しているのはヤミ金の運営者自身。「ご案内」に書かれているマニュアルは以下のような記述が… 「部屋をゴミ屋敷にしておく」、「金目の物がある場合、正直に申告し、こちらで預かることにする」、「家賃を最低二ヶ月滞納する」。数週間の準備を経て申請を果たした人物には、後日、生活保護支給決定の通知が届くことになる。
「あってはならぬもの」を「あってはならぬもの」が取り込み、社会の見えぬ部分で、「インフォーマルなセーフティネット」として機能し始める。「純粋な弱者」ではない「グレーな弱者」はやがて、不可視な存在となり、社会の中で潜在化されていく
こちらの二つで提示されているテーマは「住居」と「社会保障」だ。かつて、多くの人々の安定的な生活を支えるために形作られてきた住居やセーフティネット、確固たる価値観がもはや現代において無効となる一方で、その代替物となるものが自主的に構築され始めている。ここに戦後社会が守ってきたものの時間軸における帰結を、見てとることができるのだ。
本書ではこの他にも、「性・ギャンブル・ドラッグの深淵」、「暴力の残余」、「グローバル化の真実」といったテーマが登場する。これら数々の事例に対し、著者は空間的、歴史的、立体的に考察を交えながら、巧みに補助線を引いていく。
規制が強化されることによって、悪が不可視化されていく。この主張自体は、それほど目新しいものでもないだろう。だが、この不可視な世界を「無縁」というキーワードで紐解いていくところが興味深い。最近ではネガティブな論調で語られることの多い「無縁」という言葉も、歴史を遡っていくと両義性があり、それは「自由」という概念にも極めて近いものを持っていたのだという。
「周縁的な存在」が現代に残る「無縁」の一つの形態だとするならば、それが本来見せていた「人の魂をゆるがす文化」や「生命力」も衰えつつあるのではないかと著者は指摘する。それは、ひいては「弱者の弱者化」ということへも密接につながっていくのだ。
かつて「色物」や「色事」に十分な色が残っていた時代、その支配的な眼差しは「色眼鏡」という形で表現されていた。それは、「周縁的な存在」が社会の表面にせり出さなくなった今、「見て見ぬふり」という行為に取って代わられつつある。
「もっともらしいこと」を語り、何も問題が解決しないどころか、むしろ問題の根底を見失わせる。これもある意味において「見て見ぬふり」と同義であるだろう。このような「漂白」時代の新しい「色眼鏡」が、負の連鎖を生み出す一端を担っていることに無自覚であってはならないのだと思う。
本書は学術論文的な考察と、ルポルタージュとしてのリアリティ、その双方を兼ね備えた「論文ルポルタージュ」とでも言うべき新感覚の一冊である。その中では、「あってはならぬもの」同士が相互に接続しながら、もう一つ別のレイヤーを作り出している構図が、鮮明に浮かび上がっている。久々に「ぐうの音も出ない」という言葉を思い出した。
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本書を読んだのは、NHK「無縁社会」の読了直後。ともに生活保護などの社会保障を切り口の一つとしていたのだが、比較して読むことでスタンスの違いが鮮明になって興味深かった。
本書を読んで「無縁社会」の読了後のもやもや感の原因が分かった。それは、「無縁社会」では、孤独死=100%の可哀想・悲惨・弱者 という図式に当てはめられた構成として捉えられているという点である。
誰にも看取られないで死ぬことは本当に可哀想なのか?入るお墓がない事は本当に可哀想なのか?確かに悲惨な事例はあろうが、それがすべてではないと私は思う。別にいいじゃんと思う人もいるだろう。
それに対して、「漂白される社会」では、絶対的な弱者を取材対象としていない。「漂白された」現代社会の中で、見えないものとして扱われている「周縁的な存在」=「グレーな弱者」を取材対象としている。
買春島・ホームレスギャル・シェアハウスの暗部・転落したサッカーブラジル人留学生・したたかに生きる中国人エステ店経営者。いずれも漂白された新聞社・週刊誌には取り上げられにくい対象である。本書はアングラ雑誌である実話ナックルズの連載をもとにしているという。実話ナックルズ自体が、出版業界からは「周縁的な存在」として扱われていることが非常に興味深い構図だ。
傍論になるが、社会学者とジャーナリストは近接した職業領域なのではないか。徹底した取材と真実を追究する姿勢は両方に求められるものである。昔からTVのコメンテーターとして新聞記者の編集委員がよく登場しているが、最近は社会学のバックグラウンドを持った人がコメントをすることも増えている。著者である開沼さんも時々テレビに出てくるし、古市憲寿さんなんかは出ずっぱりである。なかなか面白い現象だと思う。
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開沼博といえばフクシマ論、というほど震災後の論客のイメージだったのだが、この人のフィールドワークは、震災前から「周縁的なもの」に対して、多岐にわたっていたことを改めて気付かされる意欲作。
売春島、ホームレスギャル、シェアハウス、ヤミ金・生活保護、違法ギャンブル、脱法ドラッグ、右翼/左翼、偽装結婚、援デリ、ブラジル人留学生、中国エステ、と、「周縁的な存在」についてのケースレポートを読むだけでもお腹いっぱいだし、正直、1つ1つの事象に興味はあっても、読み進めるうちに「自分にとってはあまりにも現実離れしている」と思う自分がいたのは確かである。筆者はこの書物を1つの旅に見立てているが、私には長旅過ぎた、という感じか。
しかし、終章での筆者が述べる結論ともいえる主張には、ある種の怒りや告発が込められた勢いのある文章が展開する。
私たちは、「周縁的な存在」を「理解できないが、興味がある」ものとして認識する。豊かさと自由を得ている我々は、「快との接続可能性が高度化した社会」かつ「不快との共存が許容されなくなった社会」に生きており、この前提では「葛藤する」ことを拒否し、「葛藤し合うもの=あってはならないもの」を社会から排除・固定化、不可視化しようとする。
だから、そのような「葛藤」が震災・津波・原発のような形で視界の中に入ってきても、「絶対悪」をでっちあげて、過剰に批判し、過剰に感傷に浸ってみせる。
社会は複雑であるが、我々は、信頼や信仰という概念によって複雑化した社会をシンプルにしたいのだ。多数の人が選ぶ選択をすることでアディクショナルに「自由・平和(のようなもの)」を求めたとしても、現代に安全などはない。危険やリスクは回避しようとしても逃れられない。リスクを「周縁的な存在」に分配し、排除・不可視化しても、そうした「漂白」は無限に増殖し、続いてゆく。
すべての人間の「欲望」は薬物依存のように「アディクティブ」である。もはや市場原理だけでなく、この社会そのものが、人の「安心・平和・自由」などの「心地よい言葉」のアディクティブな希求で充満している。
開沼さんのこの本が、「震災後の社会」を意識してかかれていることは明白である。我々自身、いつ「周縁的な存在」として不可視化される側に立つことになるかわからない。書物を通して一人一人が「葛藤する」経験をすることもまた大事なことだ。
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通勤途中の車から降りて
道端の草むらにしゃがみ込んで
その時の空を見上げ゛て
しばし ぼーっ と
何もせずに 過ごしてみたら
本書に描かれたさまざまな人たちの
息吹が聞こえてくるかもしれない
私たちが暮らしている この現代の
同じ空の下に
このような人たちが 暮していることを
知っていることは
「今」を生きていく覚悟につながっているような気がする
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「漂白」という言葉の現代的な意味を、極めて直截に描き出している。中心では声高に「安心・安全」、「自由」や「正義」が叫ばれ、本来人間が持っている「色」や「欲」に絡むモノは周縁に押し付けて固定化されていく仕組み、「漂白」という言葉にうす気味の悪いリアリティを感じ取ることができる。又、福島の原発事故についての記述の中で、「信頼が無ければ、客観的な安全など存在しない」というテーゼの重大さに、改めて気づき、愕然としたことを記録しておきたい。
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最近話題になった「フクシマ論」の著者の手になるものとは知らずに読んでいた。そして、読み終わってから、著者のプロフィールを見て、ずいぶん若い人なんだなと思った。というのも、本書に盛られた12編のルポが、ベテランのルポライターの作品ように思えたからだ。
著者は、本書について、広い意味での社会学の論文、あるいは社会学的な考察による学術的な意義のある書物として理解されたがっているようだが、(著者も許容するように)ルポルタージュ集として読み、優れたルポだと感じた。ルポの対象は、どれも「周縁的な存在」として位置付けられており、そのようなものであることは十分納得できる。何よりも、自分が知らない世界でありながら、決して完全にアンダーグラウンドというわけでもなく、目に入っても見えないか見えないふりをする不可視化されたものを掘り起こしていて、とても興味深い。
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電車の車窓から見るように、社会を見る。冒頭で表明した視点と視座が貫かれていました。
メモ:
・純粋な弱者しか許さない現代社会
・一見、わかりにくい、グレーな貧困
・インフォーマルなセーフティネットに頼るしか術がない貧困
・合理的な思考を積み重ねていく「普通の人」としてではない、生まれ、生きていく中で、生き続けるために「思考のスイッチ」を切りながら善良な市民が眉をひそめるような生き方へと突入せざるを得なかった人々の貧困
・弱者へ憑移した議論
・あってはならぬものとして不可視化されながらも存在し続ける「周縁的な存在」
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アイデアの萌芽といった小論が10本余り。フクシマ論に比較すると正直、完成度は劣るが、今後どう展開していくかが興味深い。
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戦後の日本において、社会的にグレーな領域が長く存在していましたが、その領域は長引く不況や法的な規制などにより、どんどん淘汰され、もしくは消滅していっているということです。
しかし、そのグレーな境界線上には、また新たな世界が発生しているということでもあります。
つまり、現在の日本社会には、かつて存在しえなかった貧困や共同体や正義的な価値観などが登場し、すでに僕らはそれらに飲み込まれようとしているということでした。
本書は、かつて存在していたグレーでアンダーグラウンド的な社会と、それらが消滅して新たに生まれた社会のルポルタージュでありドキュメンタリーです。
社会学者の著者は、現代社会においてこれまで社会にあった「色」が失われていこうとする社会を「漂白される社会」と名付けています。
ぼくは自由で平和な個人主義の中で多様化した社会を生きており、その多様性は増殖していると思っていましたが、実は社会は単一的な社会に吸収されつつあるのだと感じました。
共通番号制度もそうですが、社会が高度化し成熟するということは世の中の大半の人にとっては生きやすい社会を目指すということなのでしょうが、割り切れない世界があるのも事実で、漂白された社会は、僕にとって生きやすいのか考えました。
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開沼博『漂白される社会』読了。“周縁的な存在”を見ることで現代社会を考える。社会が純化し“綺麗”になることで周縁的な存在は消えるのでは無く不可視化してゆく。境界線を引くことでむしろ見えなくなる闇。ホームレスギャル、脱法ドラッグなど猥雑さは見え辛くなり続けるのか。無くなりはしない。
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なかなか読む気になれなかったけれど、読み出したら早かった。日本にいる限り、何とか生きていくことは可能なんだと心強くも思ったが、果たしてそれで生きていると言えるのだろうかとも思った。
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開沼博『漂白される社会』ダイヤモンド社、読了。本書は日本のアンダーグラウンドな世界についてのルポルタージュとその考察。「周辺的な存在」を見ないことで欺瞞の虚構は構成される(漂白される社会)が、著者は敢えて切り結ぶ。見て見ぬとは見落とすではなく、意識的に避けていることなのだ、と。
開沼博さんについては、議論が中心-周縁という二元論的表象という点、脱原発推進しの上では、結局のところ、現状容認では?という懸念から批判が多いが、僕自身は、その認識枠組みが典型的なものであったとしても受け止める必要性は充分にあると思うし、足をひっぱてるわけではないと思う。
これは、何をするにしても同じなんだけど、それがどのように完璧な「錦の御旗」なるものであっても、とにかくいてまえ!では、同じような問題は形を変えて再生産されることは必須なんだから、いけいけどんどんで、「とにかくやればいい」式ですすめてしまうとろくなことはないと思う。出発点なんだと。
なにかを進めていくと言うことは、とにかく全否定してしまえば、それが獲得できると考えたり、それを成就するためには、何をやってもよいという訳ではないんだけど、時間の経過がものすごいスピードで進む現在は、そんな悠長なことはやってられないというけど、それは必要だとは思う。
ぐだぐだいわずに、とにかくやっちまえばいい、というのもある種の思考麻痺であるし、結局の所は、とにかくやっちまえばいいとして否定の対象とされるものが禍いしたことと、それは結局の所、同じ災禍を形をかえて招来させてしまうのだろうと思う。
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セックスやギャンブルから、ドラッグ、シェアハウス、過激派、偽装結婚など、あってはならない人や得体が知れないものを指す「周縁的な存在」について深く考察した本だ。対象は、実に多岐に渡っている。ダイヤモンド・オンラインで公開されていたエントリが元になっている。
http://diamond.jp/category/s-hyouhakushakai
必ずしも自分とは相入れない人々と共存せざるを得なかった旧来の共同体と違い、IT化・グローバル化され、カネ、モノ、情報が溢れることで選択肢が増えた社会では、不愉快なものを容易にフィルタリングできるようになった。経済格差は現代の隠れた貧困を産み、家庭や地域、社会の軋みは、「正しさ」という浄化の強迫観念に囚われていく。
猥雑さや歪さを許容せず、消し去ろうとすればするほど、それらはより見えづらくなるか、むしろはっきり固定されていく。光が当たる部分と、それにより作り出される影の間に線を引くことにより、その隙間にあったはずの多くのグレーな領域が目に見えるようになる。
筆者は、商業誌のライター経験もある社会学研究者である。正直なところ、学術的な冒頭の数十ページは少々退屈だった。一体、何が・誰がテーマなのかという、対象そのものの定義が各章の最初に繰り返されるのも、やや冗長に感じていた。
しかし、対象と視点を明確にしなければならないことそのものが、問題の根深さを示すことに徐々に気づいていく。社会の辺境に存在せざるを得ない人々の姿が、自分自身に重なる。雇用が流動化し、個人化=フリーランス化が進んでも、高い付加価値を維持できない人材が自然淘汰されていくという指摘には、息苦しさすら憶える。
平和で豊かな現代社会に渦巻く、完全には満たされない安心・安全が、不安の温床となっている。歪な自由と平和によって、内側にいる一般市民に当面の幸せが作られているその状態こそが、人を不安感・不信感を抱かせている。
正義・合理・普通という概念は、不安定なまま変化し続けるにも関わらず、二極化を進めるほどに、明示されないリスクヘッジだった明るいグレーゾーンの逃げ場は失われていく。筆者はこの社会現象を、「漂白」という残酷な二文字に見事に集約した。都合よく見て見ぬ振りをしてキレイな自由と平和を求める、「普通の市民」の恐怖を感じずにはいられない。
後部の注釈や出典、参考資料との行き来が面倒なのは紙の書籍の制限だが、この本の発端となったダイヤモンド・オンラインには、収録しきれなかった内容や、出版後の状況、テーマに関係するいろいろな人たちとの対談も掲載されている。併読することで、程度や立場の差こそあれ「漂白」から誰も逃れられない事実をさらに深く知ることになる。