紙の本
社会にカメラを向ける
2020/08/01 23:02
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
テレビドキュメンタリー出身らしく、様々な社会問題を映画の中に撮しています。過酷な現実の痛みを和らげるような、次回作を期待したいです。
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映画「そして父になる」で、福山雅治に対して、リリーフランキーが怒り、福山を叩こうとするシーン。リリーフランキーの叩き方が、その役の人生を浮かび上がらせる最高の演技になっていた。ずっとこの演出が、是枝監督のものかリリーフランキーのものか、気になっていたがようやくこの本で謎が解けた。
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本屋さんを探しまわるもなかなか目にすることが出来ず、図書館にリクエストしてようやく読むことが出来た。
分厚く値段もそこそこする単行本だけれど、それだけの価値がある本だと思った。借りていることも忘れて何度か線を引きたくなったくらい、心に刺さる言葉がたくさん。
一度読んで読んだ、おしまい、にできない本。
そのあたりが、是枝監督の映像作品と同じだと思った。
何度も何度も読み返したくなる。
もう一遍観たくなる。観なきゃいけない気がしてくる。
自身の監督作品のことを軸に、テレビや映画の世界のこと、映画祭のこと・・・。特に映画祭についてとテレビ論は、監督の作品を観ていない人が読んでも、とても面白いと思う。
この本をより楽しむためには、やはり是枝監督の作品をたくさん観て知っておく方が良いのだけれど、残念ながら私は、映画の初期の頃の数作と、最近の数作しか観ていない。ここに載っている全ての作品を観たいと思っていて、その上でまたこの本を手にしたい。映画は観られるだろうけれど、ドキュメンタリー番組はどうなんだろうか。
私は映画を観るのが好きだけれど、映画を語ることは得意ではない。でも、もっと映画を観る視点を広げて掘り下げられるように、そしてそれを自分の言葉に出来て、うまく人に伝えることが出来るようになりたいな、とこの本を読んでいる間中、猛烈に思った。
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エッセイ。映画。是枝さんの二十年間。当たり前だけど、作品には自分の歴史やその時に感じたことが色濃く反映されるんだなぁ。そして思っていることすべてを形に出来ている(している)わけではないんだな。映画監督だと思っていたので、テレビマンとしてのドキュメンタリーを撮る是枝さんの仕事論に驚きながら読んだ。
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是枝監督が好きなら必読の書。
デビュー作の”幻の光”から最新作の”海よりもまだ深く”までの各作品の裏話しが満載。
以前、読んで感銘を受けた”しかし…ある高級官僚の死の奇跡”のことにも触れられている。
是枝監督は、この奥様にとても恩義を感じているのがよくわかる。
また、”歩いても、歩いても”が観たくなった。
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映画監督の是枝裕和氏のこれまで撮ってきた映像作品に対する回顧や映像に対する想い、考えが書かれている。
過去作品の作成秘話などもあり、これを読んでから監督の作品を観直すと新しい発見がありそう。
映画だけでなくテレビ番組やテレビ業界にも触れられていたり、国際映画祭に対する話もあり、幅広く「映像」について伺うことができる。
400ページ超の大作だが、サクサク読める。
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あとがきによると8年という歳月をかけて完成されたと記されています。テレビのドキュメンタリー番組演出時代から、映画製作の裏話など興味深い。
観た映画作品は、宮本輝原作『幻の光』『歩いても 歩いても』『そして父になる』『海街diary』『海よりもまだ深く』
次回作品も楽しみにしたい!
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是枝監督のそれぞれの作品の裏話が興味深かった。まだ見ていない映画はぜひ見てみたい。
"僕がドキュメンタリーで描く対象の多くはパブリックな部分です。だから何かを誰かを批判してもそれが個人攻撃に終始するのではなく、そのような個人を生んでしまう社会の構造自体を捉える視野の広さと深さを大切にします。" 69ページ
"胸のうちの悲しみについて誰かに話せたということが、人間のたくましさであり、美しさなのではないでしょうか。"73ページ
"「インターネットを漂っている人がなぜ右翼というかナショナリストになるのか?」。この問いを考えていくと、人とつながっている実感がない人がネットへこぼれ落ちたときに、彼らを回収するいちばんわかりやすい唯一の価値観が「国家」でしかなかったのだということに、気づかされるのです。" 329ページ
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レビュー『映画を撮りながら考えたこと』(是枝裕和)
ここ数年映画を観るようになった自分ではあるけど、本当に、「観る側の世界の広さによって見えてくるその映画の世界の広さも違ってくるのだなぁ」ということを考えさせられることが多くなってなかで、手にとった一冊。
この本を読む(‘読む’という感覚じゃなくて、是枝監督が上映し終えた映画のスクリーンの前で語っているのを聴いていたという感じのほうが適切かもしれない)ことによって、映像の作り手側の姿に触れることができた、きっとこれから映画を観るときは、無意識のうちに作り手側の想いや意志を感じる感性が疼いてくれることだろう。
さて、もう少し具体的にこの本で印象に残ったことを挙げておこうと思う。まずは‘日本の映画産業’を‘世界の映画文化’との比較のなかで見つめていた箇所、しかもそれを映画監督の目を通して眺められたこと。世界各都市で開催されている‘映画祭’、今までは、何となく映画作品の箔をつけるためのイベントくらいにしかとらえていなかったけど、世界各都市のマイナーなものから、メジャーなものまで多くの映画祭を巡ってきた監督の経験から、眺めた‘日本という国が映画に向き合う姿’が、時間軸でいうものすごく近いところ、文化の深度でいうと本当に浅いところに置かれているように語っていた。
是枝監督が巡って眺めた各都市での映画ファンとの触れ合いや映画関係者を受け入れる街の人々のもてなしのここち良さは読んでいる私にも伝わってきた。
そして「悪いのはみんな萩本欽一である」という強烈な番組タイトルで、テレビ番組の制作経験と、その可能性を語った箇所は、
「欽ちゃんはそんなことをしでかしていたのか」という驚きと、「そういう見方をすれば確かに欽ちゃんはテレビを素人化し、「芸がなくても出られらる場所」に変えてしまったという、エンターテイメントとしてのテレビ変遷の謎解きをしてくれる。
是枝監督が制作した、ドキュメンタリー、テレビ番組、映画を時系列に並べ、制作のエピソードを添えながら、映画の面白さ、可能性を‘作り手’の側から語る後半部分。それらをとおして、もう一度観てみようと思った映画は
『歩いても、歩いても』(安倍寛)
『奇跡』(前田前田)
『海よりもまだ深く』(安倍寛)
まだ観ていないのだが是非観たいのが
『幻の光』(江角マキコ のデビュー作)
『DISTANCE』(伊勢谷友介)
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とにかく是枝裕和監督は自分の考え、感覚を大切にしている素晴らしい映画監督だとよく分かります
読み終えると彼の作品がとにかく観たくなります笑
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・「どこにカメラを置くかは、その人間の芝居を現場で見つめてから、初めて決まるものなんじゃないか。君はドキュメンタリーをやっていたからわかるだろう?」
・ドキュメンタリーのカメラマンである山崎さんにとっては、現場でおもしろいと感じたものにカメラを向けるのは普通のことなのかもしれませんが、脚本から外れようが監督から望まれなかろうが、撮りたいものは撮るのだ、という姿勢は驚きでした。でも、本来カメラというのはそうあるべきなのではないか、と僕はこのとき感じました。
・振り返ると、このころの僕にはドキュメンタリー監督の小川紳介の存在が大きかった。小川は『映画を穫る』という本の中で「ドキュメンタリーというのは被取材者の”自己表現の欲求”というものにカメラを向けていくのだ」ということを書いています。取材される者は自分をこう見せたい、ああ見せたいと演じようとするものであり、その演じようとする姿が美しく、カメラはそれを撮る。つまり、取材者がこう撮りたいという欲求と、被取材者がこう撮られたいという欲求が衝突するところからドキュメンタリーは生まれていくのだ、と言うのです。
・編集を始めてつくづく感じましたが、彼らが「これはセスナではないよ」とスタッフに指摘したり、「私、どうやってハンカチ持っていたかしら」と戸惑ったりするシーンは非常におもしろかったです。それらは自己表現の欲求というよりはむしろ、自分の話と再現されていくもののズレや自分の話と記憶のズレに本人が気がついて、何かしらのアクションを起こす瞬間であり、僕が求めていた以上の生成の瞬間と言うか、ドキュメンタリーでした。
・「放送」とはいったい何なのだろう。僕は悩みました。報道ではないテレビドキュメンタリーはどういう根拠で相手にカメラを向けられるのだろう。知る権利ではなくカメラを引き受けてもらう被取材者の根拠をどう捉えたらいいのだろう。そこを構築しないと自分がカメラを持つ理由・根拠がないのです。
知子さんの言われた「個人的な死」と「公共的な死」という言葉は、この理由・根拠について考えるきっかけを与えてくれた言葉です。
・もちろんそれに付随するかたちでパーソナルなものが見えてくることもあるし、取材者と被取材者の関係性のなかでパーソナルが中心になるものもつくっています。でもそれもパーソナルなものだけを撮るのではなく、パーソナルなものの向こう側に常にパブリックなものを見つめている。そういう目線があるかないかで、番組で描く対象が開かれるか閉じてしまうかという大きな違いが生まれます。
・もうひとつおもしろかったのは、同行してくれた歴史研究家の人が地図を広げて、「ここがお城で、ここに川が流れている。だとするとこのへんかな・・・・・」と予想して行った先にほぼすべて部落があったことです。常に権力との関係で生み出される明快な差別性が地理的にもある、ということをこの先生に教えてもらいました。
・<現代>から<過去>へ客を運ぶのが志ん朝で、<過去>をグイと<現代>の岸に引き寄せるのが談志である。
・家族だから分かり合える、家族だか��何でも話せるというのではなく、例えば「家族だから知られたくない」とか「家族だからわからない」ということのほうが実際の生活では圧倒的に多いと思います。山田太一さんは間違いなくそういうホームドラマを描いていたし、向田邦子さんも男の安息の場所はみんな家の外にあるというホームドラマを描いていた。だから僕も自分なりのリアルな家族の物語を描こうと思いました。一言で言うと、「かけがえないけど、やっかいだ」。
・それまで自分が描いてきたのは「不在」や「死者」など、ネガティブな匂いをまとわざるを得ないものでした。この作品のテーマ「空虚」も通常であれば間違いなく同じネガティブな匂いをまとうものですが、業田さんが描かれたほんの20ページの作品からは、他者の息を自分の身体のなかに吹き込まれて満たされていくという、他者との関係の持ち方の豊かな可能性が感じられました。
つまり、空虚は他者との出会いの場に開かれている。空虚は可能性であるー自分が満ち足りていないことは他者とつながる可能性である、という捉え方をしており、非常にポジティブな作品だと思ったのです。
・たとえば土屋さんの『電波少年』は、そうとう用意周到な準備をされた番組です。しかし制作側にそのことを読み込む力がないと、ただ乱暴にキャストを扱えばいいという誤解が生まれる。表面的な過激さだけを真似るのは危険な行為です。その方法論がなぜ選ばれたのか、背景には必ず哲学が存在するということに思い及ばなければならない。
・他の挑戦としては、「クーナ」という小人の妖精たちのシーンでCGを使わなかった。なぜなら、CGを信用していないからです。そこにいない人はどう合成してもいるようには見えないし、そこにないものは、ない、というのが現在の僕の感じ方です。嘘はばれる。
・テーマやメッセージを語るのは無粋なことだし、好きではないのですが、この作品に関しては、「人のいるところは場所なのか、人なのか、記憶なのか」というテーマを念頭に脚本を書きました。
・現代の日本は、地域共同体はもはや壊滅状態だし、企業共同体も終身雇用制の終焉とともに消えたし、家族のつながりも希薄になっている。そこで、共同体や家族に代わる魅力的なもの・場所・価値観(それを「ホーム」と言ってもいいかもしれませんが)を提示できない限り、彼らは国家という幻想に次々と回収されていくでしょう。
・さて、僕の映画やドラマに顕著なのが「何を見せないか、何を語らないか」ということに挑戦することです。
・パブリックに参加をするというのは、つくり手もスポンサーも何かの利害関係・利潤追求のためではなく、多様で成熟したパブリックの空間をそこに形成するために集うということです。いちばん曖昧で目に見えないけれど豊かな世界=パブリックというものに、みんなで参加し、寄与し、加担する。それが放送の根本にある哲学であり価値だと思うのです。
・そうこうしているうちに、やっと「なぜ願わないのか」の理由につながる「世界」という言葉も出てきました。、その死者を一方に見ることで、いまの大人を客観的に批評することができると僕は思っています。
これは長男が離れて暮らしている父親と���話をしていて、その父親に言われる言葉です。長男はそのときは意味がわからないけれど、その言葉が心のなかで大きくなり、新幹線がすれ違う瞬間に「自分の両親はもう二度と元通りにならないし、世界は自分の思い通りにはならないんだ」ということに気がついて帰ってくる。そして弟へとその言葉は受け継がれ、弟が父親へと返していく、という一連の流れがイメージできました。
・ところで僕は第五章で、「なぜ死者を撮りつづけるのか?」という外国人記者の問いに「日本にはご先祖様に顔向けできないという考えがある」と答えた話を書きました。こうした価値観は現在薄れつつありますが、死者とは揺るぎない存在であり、その死者を一方に見ることで、いまの大人を客観的に批評することができると僕は思っています。
子どもというのも、大人にとってそういう存在です。まだ社会の一員になりきっていない子どもの目を通して、僕たちが暮らすこの社会を批評することができるのです。
僕のイメージでは、過去、現在、未来を縦軸にすると、死者は縦軸に存在し、時を超えて僕たちを批評してくれる存在。子どもは同じ時間軸にいるものの、水平に遠く離れたところから僕らを批評してくれる存在という感じです。
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まさしくタイトル通りの内容。是枝監督が映画を作るに当たって何を考えて作っているかが、作品ごとに書かれている。反省点などもあって、それを知った上で映画を見るのも面白そう。当然ながら全編映画の話ではあるが、お金の話、映画祭にまつわるビジネスの話なども書かれていて、「クリエイティブな仕事」のヒントになる話が満載。
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世界的映画監督の書いたエッセイ。
難しい映画論ではなく、どういったことを考えながら作品を生み出してきたかがわかりやすく、書かれています。
技術論や裏話もさることながら、いかに映画を愛しているかという思いが伝わってきました。
これほどの情熱をかけて、作品を作るという行為をしてみたい。
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映画作家の記したものとしてはおそらく完璧なのではなかろうか。作家性と社会、経済と視点や立場を変えて、映画にまつわる総体として欠けるところがない。
作家としてのパーソナルな葛藤、技術論、心情、そしてスタッフ、役者はもとより社会や世界にまでつながる人間への意思と行動。さらにはテレビはじめマスコミ論やドキュメンタリーとジャーナリズム、果ては世界の映画祭の現状やビジネスに至るまで。本当に映画と映画製作と、世界を愛しているのだなあ。
なにより文章が巧い。絵が巧い映画作家と文章が巧いのとがいるように思う。自分としては文章が巧い作家が肌に合う。
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なんて贅沢な本。この時、是枝監督がこの作品をなぜ作ったのか。どんな試行錯誤があったのか。思いのたけを余すことなく語ってくれる。映画論にとどまらず、テレビ、ドキュメンタリー、そして社会と映画の在り方にまで切り込む。その言葉の一つ一つに発見がある....
●感想
本書の扱うテーマは重層的だ。是枝監督自身がいつもオープンで、多くのことから学び続けているからだろう。作者自身の思考がとても豊かで幅広い。まずこの本は「是枝裕和にによるエッセイ」である。同時に2020年現在日本最高峰の監督による「映画論」にもなっている。時にそれは、テレビや報道のあり方にも及んで「テレビ論」「メディア論」ともなる。映画を撮りながら考えたことを語るというコンセプトだが、扱うカテゴリーが広い。作者が制作会社出身でドキュメンタリーを撮ったのが影響している。読みながら、たくさんの世界に触れられるので、とても贅沢な時間だった。
是枝監督は映画だけを突き詰めてきたような映画バカではない。作品を撮りながら、常に現実社会の見つめている。いつもより映画を作りながら、どこかの人や、社会に想いを寄せている。だからこの人の作品は面白い。視聴者は映画を通じて現実の中に何かを発見する。考えさせられる。決して押しつけがましいメッセージはない。提供されるのはいつも「対象の見つめ方」である。だから柔軟性があるし、単一的にならない。受け取り方を多様にするから、議論が起こって面白いのだ。久しぶりに「こりゃ贅沢やでぇ」と思える本に出会った。読んですぐに、フラットで押しつけがましくない、けど映画を撮ることにかけて情熱的な作者に魅了されるだろう。
●本書を読みながら気になった記述・コト
*是枝監督の言う「あの頃は若かった」って、どういう意味なんだろう
本書中にちょくちょく失敗談や頭に血が上ったエピソードを紹介し「あの頃は若かった」と語られる。是枝監督にとって「若かった」って、どういうこと何だろう。もう少しを年を経てから、直情的に怒らずに対応する、ということなのだろうか。
*2020年最高の監督も昔は失敗続きで叱られていた
スーパースターの失敗談には勇気づけられるよね。監督が20代のころ、「学生のの海外での成長感動ストーリー」を現実を捻じ曲げて演出することに嫌気がさし、完全な失敗劇として番組を撮りきった。そのときのプロデューサーに言われたのが「こういう学生を連れて行った番組側の責任があるだろう。それをお前はどう考えるのだ?だいたいそんば番組、誰が見たいんだ」と激怒されたという。そして、番組はボツとなり、レギュラーから外された...。
「これでダメなら業界から足を洗おう」と思って作った番組もあった。その番組がヒットしていなかったら..という時期もあった。
*ドキュメンタリー論:誰かの理想的なイメージを「再現する」のではなく、何かを「生成」する
"「僕は『やらせ』とは自己のイメージを現実に優先させてしまう閉じた態度から生まれるものだと考えています。」
"「とにかく日本人は、『ドキュメンタリーというのは手を加えない事実にカメラを向け��真実が撮れたものだ』という事実信仰がすごく強い。」
*両論併記という逃げ
"「本来の両論併記とは、見た人の思考をさらにその先に深めていくために存在する手段にすぎません。
いろんな選択肢を提示して、その先を考えさせるために行う手段であり、目的ではない。それ自体を目的にしてしまうと、つくり手がその先に思考を進められないので、見た人も同じく誰も何も考えないという状況が起きます。」
*カット割り、光、音にこだわる
"「『歩いても 歩いても』を撮る前、僕は日本の映画史に残る技術やノウハウを学ぶために、成瀬巳喜男監督の作品をかなり見直しました」
"「~成瀬監督はどのカットを見ても必ずカメラを対象に対してひねっています。」「成瀬がカメラをひねって撮っているのは、そのほうが部屋や家具などの位置関係がわかりやすく、人間を動かしやすいからだと思います。」
*イマージュか、オマージュか
"「少なくとも僕はドキュメンタリーからスタートしているので、決して作品が『私』の中から生まれてきているのではなく、『私』と『世界』の接点から生まれてくるものだと認識しています。特に映像はカメラという機械を通すので、それが顕著です。自分のメッセージを伝えるためではなく、「自分が世界と出会うためにカメラを使う」ということこそ、ドキュメンタリーの基本であって、それがフィクションといちばん大きく違うところなのではないでしょうか」
*映画祭はニッポンアピールの場ではない
"「映画祭というのは、『映画の豊かさとは何か? そのために私たちは何ができるのか?』を考える場です。映画を神様に譬えるつもりはありませんが、映画の僕として自分たちに何ができるのかを思考し、映画という太い河に流れる一滴の水としてそこに参加できる喜びを皆で分かち合う、それが映画祭です。決して『映画が私たち日本の経済に何をもたらしてくれるのか?』をアピールする場ではありません。」映画祭はビジネスコンペではないのだな。コンペというより、学会。皆で「映画」について問い、作品を発表し、映画について思索を深める場なんだな。
*テレビはジャズ
...この本はとても発見が多い。また読み返すだろうなぁ。