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紙の本
夏目漱石と西田幾多郎 共鳴する明治の精神 (岩波新書 新赤版)
著者 小林敏明 (著)
夏目漱石と西田幾多郎−。日本を代表する2人の知性の間には、多くの共通点がある。綿密な考証にもとづいて、彼らを包みこんでいた時代環境や知的ネットワークを解きほぐし、近代日本...
夏目漱石と西田幾多郎 共鳴する明治の精神 (岩波新書 新赤版)
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商品説明
夏目漱石と西田幾多郎−。日本を代表する2人の知性の間には、多くの共通点がある。綿密な考証にもとづいて、彼らを包みこんでいた時代環境や知的ネットワークを解きほぐし、近代日本の思想課題を明らかにする。【「TRC MARC」の商品解説】
綿密な考証にもとづいて二人の接点を解きほぐし、近代日本の思想課題を明らかにする。【本の内容】
著者紹介
小林敏明
- 略歴
- 〈小林敏明〉1948年岐阜県生まれ。ベルリン自由大学宗教学研究所博士号取得。ライプツィヒ大学教授。専攻は哲学、精神病理学。著書に「憂鬱なる漱石」など。
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紙の本
夏目漱石と西田幾多郎
2020/03/10 23:47
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
漱石と西田について一人出かける人物がいるのかと疑ってかかったが、案外よかった。著者は哲学が主のようだが、海外の大学で日本近代文学も教えており、しっかりと書けていた。
肝心の漱石と西田の直接の交流は手紙によるものが唯一だそうだが、西田が漱石の博士号辞退を快事としたり、どちらも禅に大きな影響を受けるなどしている。
紙の本
明治精神の内面性
2019/10/12 13:36
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
明治大正期の文豪・夏目漱石と近代日本哲学の草分け西田幾多郎の比較研究は極めて珍しいように思う。漱石のライバル的な存在といえば森鴎外、西田の場合は鈴木大拙あたりが相場だ。しかし本書によると、明治維新の激動期における由緒ある実家の没落に伴う複雑な生い立ち、それにもかかわらずこの時代の中で突出した教育を受けることができたという巡り合わせ、若き日の禅への接近とその後の距離の置き方、弟子たちとのサロン形成等々、その類似性や一致点は枚挙に暇ないという。さらに互いに共通の知己を沢山いた。しかし直接的な本人同士の交流はなかった模様である。しかし、このことは逆に、暗黙の裡に互いの作品や業績、社会に与えた影響等を意識し合った可能性が高いことを示唆しているのかもしれない。
本書前半では、彼ら二人の事績を、比較を通して簡潔に追っており、この部分は快調に読み飛ばすことができる。但し、本書の眼目は、彼らの類似点を列挙することにあるのではない。明治初期生まれの一握りのエリートが時代の圧力の中でどのような反応をするのか、ということになるとある一定のパターンが生じるのはむしろ普通のことだ。幾ら独創的な作品とはいえ、外面的な文化様式或いは時代精神の中に自分の作品や思索が一定の型に収まらざるを得ない部分は確かにある。同時代人の間にある種の類似性や広い意味の共時性(シンクロニシティ)は否応なく存在するのは常のことなのである。大切なのは、その外見的な型より内面の問題だ。従って、これを扱う後半部は、哲学・精神病理学を専門とする著者の本領発揮するところとなり、読みごたえが出てくる。
第6章では、西田の晩年の「絶対矛盾的自己同一」の一部が紹介され、その文体の難解さに加え「論理でない論理」として彼の思想が提示される。確かに、西田哲学に馴染みのない読者は面食らうかもしれない。しかし、逆に本書が西田哲学の良き入門書の側面も持っているともいえる。そこで開陳されている彼の「時間論」は、禅機として発される「いまここがすべてで、連続体としての時間はない」という深層からの声に収斂していると考えても差し支えない。著者は、西田哲学は禅から離れた、といっているが、論理を超えて禅に回帰しているとみても差し支えないのではないか。
また漱石の「行人」について、著者は「内へとぐろを巻きこむ性質」、と漱石が登場人物たちに仮託した自身の内面を説明している。(蛇足だが、数学研究において情緒の必要性を唱えた岡潔は「行人」を高く評価している。)漱石はもともと、他者に向ける鋭く冷徹な観察眼が常人より精神のバランスを欠くほど強烈で、これが神経衰弱的な症状の原因ともなっていたのではないか、と推察されるが、その観察眼を自己の内面に向け続けることにより、何処かでみるものとみられるもの折り合いをつけ或いは融合を果たし、メタレベルの認知を獲得できるようになったのではないか、と思う。著者は、漱石は若き日参禅したが見性を得なかった、としているが(その経験を「門」に反映させている)、その後一定のレベルの見性を得たということなのだろう。
評者は、この二人に、さらに同時代人の南方熊楠を加えてみたいと思う。中沢新一は「熊楠の星の時間」で、粘菌観察を通して得た彼の世界観がまさにレンマ構造(論理(ロゴス)を超えた論理)であることを喝破したとする。彼の場合は、大乗仏教のなかでも特に華厳思想と共鳴したようである。いずれにしても、明治の時代精神を体現した彼らは自己の内奥を見つめ続け、それぞれが「星の時間」を体験している、と想像を膨らませた。
紙の本
ふーむ。二人の関係は。
2017/11/08 13:33
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鶴 - この投稿者のレビュー一覧を見る
実際この二人に、どのような交流があったのか?
という点が気になっていたのだけれど、交流という交流は
なかったそうです。驚きです。こんな題名、誤解しちゃうじゃないの!
新書って、端的な題名で分かりやすいけど、分かりやすいゆえに
安直すぎるんだよね。もうちょっと深堀りした内容が欲しい気もするな。