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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
過剰な共感が原因で生じる問題の多い現代において、共感に反対すると宣言してはいるが他社の目を通して世界を見ることには魅力があると認め、情動や理性の重要性を訴えたい書。
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他人の痛みをそのまま自分の心に映し出す「共感」が,特に大衆に影響する決定で使われると悪い結果をもたらすということを説いた一冊.自分が何となく「共感」に対して抱いていたことを,的確に言語化した内容だった.無意識に存在するバイアスに気づき改善するということは重要だと思った.一方,長期的な利益や,最大多数の幸福のために,共感の声を鎮めて難しい判断を下すことは,まだ自分には難しいと感じた.
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最近よく耳にする共感力について、
他者を思いやる善き人になりたいのであれば、あるいは世界をもっと良い場所にしたいのであれば、「共感」なしで済ませたほうが、よい結果が得られる。
特定の意味における「共感」は、なしで済ませたほうがよい。
「共感」は道徳的指針としては不適切である。
....と述べる。
人は、何が最善か知っていたとしても、それを行動にするには、動機付けを必要とする。情動的な後押しが必要である。
人は、情動によって行動しようとする。
「共感」とは、他者の経験を経験することであるが、これには、情動的なものと認知的なものとある。
この情動的な共感が、正しい判断を鈍らせる事があるのだ。
他者の立場に身を置き感じることにより、特定の人々に焦点を絞り、スポットライトのようにその事に同感し、同情する。その後に示された、データや数値には共感なんてできないのだから、理性的思考は働かない。
情動は道徳的生活に強力な影響がある。
よく考えてみるとわかるだろうが、直感的決定は親切で協力的である。時間を置いて判断したものの方が親切でも協力的じゃない場合が多い。
だからこそ、情動は行動の動機となるのだ。
この情動的な共感が判断を謝らせる事があることを、忘れてはいけない。
過剰な共感が原因で問題が生じる場合があるのだ。
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刺激的な論考。久しぶりに夜更かしして読み続けた。それぐらい脳を活性化させる内容。
共感は道徳性の中心的要素ではない。それどころか複雑な現実社会においては、共感がネガテイブに作用することが多い。ブルームの議論はなかなか周到で、いくつもの反論を想定しつつ、それに応えて自己の主張を裏付けていく。
共感のネガティブな側面として、スポットライト効果、数的感覚の欠如はお馴染みだが、
「他者の感情を自分も感じること」で他者の苦痛にとらわれてしまい、長期的な援助が困難になることや、収容所の隣に住む人が処刑される囚人を助けるのではなく、どこか遠くで行われることを望む例などは興味深い。
また、共感は怒りなどの情動と似ていて、身内びいきなどのバイアスがかかりやすい。思いやりや親切心、公正さの方が道徳的指針として役に立つ。
「共感に動機づけられた親切心は、悪しき効果を発揮するケースが多い」
この主張は、震災被害地へのボランティア殺到や、不要な物資寄付による混乱を想起すれば、納得しやすい。
ほかに、トマス・カーライルが経済学を「陰気な科学」と呼んだのは、奴隷制度を支持する文脈においてだったという事実は、経済学ならびに理性的熟慮の正当な評価に役立つだろう。
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相手の感情をミラーリングした情動的共感。
一般に「共感」というものは絶対的に善であるとされているが、
本書では冒頭にあげた「情動的共感」が、ある局面、具体的には道徳的判断などにおいては悪しき作用をもたらすというショッキングな主張が展開される。
目の前で困っている子供と、遠くアフリカで生死さえ確かではない何万人もの子供。
論理的・倫理的にはどちらに手を差し伸べるべきか。
感情・共感をもってするとどのように判断するだほうか。
さらに突き詰め、共感が破滅的な悲劇をもたらすこともある。
また、不幸は共感を欠くところからのみ生まれるのか。
サイコパスは共感を欠く点が有害なのか。
共感以外の方法で、道徳的な判断をできるのではないか。
様々な角度から共感に対しての反駁が試され、その全てに「共感」するわけではないが
腹落ちする箇所が多々あった。
共感至上主義とSNSの組合せがおかしな事態を招いていることは、我々も日々目撃している。
こういった常識を疑い再考を促す書籍は人生に必要だ。
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最初の部分はたしかに反共感論ではあったが、日本語の訳であり、情感に流されないという反感情論であったという気がする。
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イェール大学の心理学教授による、「共感」に対する警笛の著作。
共感を「情動的共感」(相手の感じていることを自分も感じる)と「認知的共感」(相手の感じていることを理解しようとする)に分けたうえで、前者にしたがって選択した行動が、最大多数の最大幸福の観点でみれば非合理な結果となりやすい点を指摘している。
小さなコミュニティで暮らすうえでは、情動的共感はその発展に大きな役割を果たすが、より広範に社会をより良くしていくためには、確かに理性的な判断の重要度は高まるなと、考えさせらた。
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共感(Empathy)と言えば一般的には美徳の一つであるが、"Against Empathy" という扇情的なタイトルで、共感が持つ負の側面を紹介する。しかし、実際には共感を情動的共感("Think, First and Slow" の Kahneman 言うところのシステム1に基づく)と認知的共感(システム2に基づく)に区別した上で、情動的共感は誤りやすいと言っているだけなので、要はシステム1は錯覚し易いという話の部分集合を述べているに過ぎない。
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共感は以下の2つに分けられる。
1.「情動的共感」(相手が感じていることを自分も感じる)
2.「認知的共感」(相手が感じていることを理解する)
1は、少数を救うために多くが死ぬような、結果をもたらすことが多い。
グローバリゼーション、ボーダレス、ジェンダレスな社会においては、2での行動や判断を増やすべき、だと。確かに、村社会では全員見えるので1で良かったけど、より多くを考えると2が重要だよなぁと思う。
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教官の欠如に関するもっとも極端な主張は、心理学者のサイモン・バロン=コーエンによるものであろう。彼にとっては、悪人とは共感を欠いた人以外の何ものでもない。「悪とは何か?」という問いに対する彼の答えは、「共感の侵食」である。(p.30)
特定の個人に焦点を絞るという点で、共感は限定されている。スポットライト的な本質のために、どうしても近視眼的で数的感覚を欠いたものと化すのである。したがって、集団に対する自分の行動の影響を適切に見越せず、統計的なデータや費用対効果に無感覚になる。(p.42)
共感は、自分が愛情を注いでいる誰かが苦しんでいることを私に知らせてくれる。そして、私は娘を愛するがゆえに、彼女の苦痛を和らげようと努めるのだ。
これは共感に訴えることがしばしばうまく機能する理由を説明する、もう一つの見方である。共感それ自体が、自動的に親切心を導くのではない。共感は、既存の親切心に結びつかなければならないのである。共感は善良な人をさらに善良にする。というのは、親切な人々は誰のものであれ苦痛を好まず、キュオカンはまさにその苦痛を際立たせるからだ。(p.95)
共感に依拠する政策にも問題がある。一国の国民がこぞって井戸に落ちた女児に釘付けになる一方で、気候変動にほとんど無関心でいられるのも、また、野蛮な法律を発布して恐ろしい戦争に突入することがあるのも共感のゆえである。つまり、少数の苦難に共感することで、多数の人々に破滅的な影響が及ぶのだ。(p.156)
ジョージ・オーウェルはガンジーの自伝に関する議論のなかで、彼の勇敢さこそ賞賛しているが、友人や家族との関係、あるいは性愛や恋愛関係などの特別な関係を否定する彼の考えには反発を示している。オーウェルはそれを「非人間的」だと述べ、次のように続ける。「人間性の本質は、完全性を求めないこと、忠誠を貫徹するためにときには罪を犯すこと、交友を不可能ならしめるほどまで苦行を徹底しないこと、他の人々に自分の愛情を結びつけることの必然的な代償として、最終的に人生に挫折しても構わないよう覚悟を決めることにある」(p.196)
共感は暴力を煽る場合があるという考えは古くからあり、アダム・スミスもそれについて深く考察している。彼は次のように述べている。「ある人が別の誰かに抑圧されたり傷つけられたりするところを見ると、被害者が感じている苦痛を自分でも感じる同感は、加害者に向けられた被害者の怒りに対する仲間意識を活性化することのみに資するように思われる。そして被害者が反撃に転じるのを見ると喜びを感じて、彼を支援しようとするのである。(p.233)
共感は、友情、コミュニティーへの帰属、スポーツ、ゲーム、セックス、恋愛の喜びを増幅する。さらに言えば、共感がわたしたちを引きつけるのは、ポジティブな感情のみによってではない。他者の目を通して世界を見ることには魅力がある。たとえその他者が苦しんでいる場合でも。私たちのほとんどは、他者の生活に強い関心を持ち、それを模倣しようとする行為を、魅力的で斬新なものであると感じる。(p.290)
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非常に重要。特にSNSで暴れたい人々は読んでおくべきだと思う。
訳者の高橋先生はいつも偉い。他にも、この本で論じられてるような最近の主要な論者の翻訳もいろんな先生によってけっこうなされていて、ほんとうによい時代になったねえ。
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情緒的な共感に基づいて意思決定や行動を起こすことは、しばしば合理的、理性的判断に劣る、ということを、個人の身の回りの意思決定から、公共政策まで幅広くカバーしている。共感によって戦争や暴力が道徳的に正当化される側面など、逆説的な論点も提示。学問的あるいは実証的なエビデンスにもとづく意思決定論の立場に重きを置く最近の潮流を支持するものになりそう。
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共感に多くを委ねすぎるなという論考。突き詰めるとシンパシーとエンパシーの違いのような点に行き着くのだろうか。
共感の捉え方、理性や道徳、システム2と呼んでいるものとの関係性、個人の中での重きの置き方など興味深い点が多かった。
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一般的に正しいとされている「考え」を両手放しで受け入れてはいけない、ということを改めて認識されられた一冊でした。
今回、家から少し遠い図書館にて見つけた、この本。
「反共感」という、タイトルが妙に気になり読んでみましたが、気がつけばスルスルとページをめくっていました。
「共感」とは、大きく分けて2種類あり、それぞれ「認知的共感」と、「情動的共感」と呼ばれているそうです。ただ、別の本で使われていた表現を使うとするならば、私にとっては、「(認知的)共感」と「同感」のほうが、わかりやすかったかな、と思いました。
この本で否定されているのは、そのうちの「情動的共感」であり、その理由に関して、確かに読んでいて納得がいきました。
正しい判断をするために、共感が必要でない場面が多くあるのにも関わらず、「共感」に基づくものだという、共感がベースとなる考え方、捉え方は、
共感能力が低いことを、人としての道徳心が足りないからという、因果論に容易に結びつけてしまいます。
「たった一つの真実」は、確かに魅力的ではありますが、それは物語の世界の設定でしかなく、現実世界は複雑怪奇に満ちています。
ビルの屋上にたくさん木を植えたところで、それを緑豊かな自然と言わないように、切り取られた事例は決して全てを覆い尽くす法則にはなりえないのです。
なかなか読むのに時間がかかる一冊ではありましたが、著者の伝えたいことはシンプルにまとまっていて、わかりやすい本でした。
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共感はネガティブな効果も持つということが丁寧に説明されている。私自身の意見と合致することもあり、思考がクリアになった。多くの人に読まれてほしい。個人的に著者の語り口が好み。
(学問の場では、)「道徳的情動の擁護者でも、暗黙のうちに理性に優先権を付与している」ので、理性が情動に優先するのは自明とのこと、学問の場はなるほど生きやすそうだ。一般人の会話では理性を用いその優先を説くと相手方から理性が返ってくるのは稀だと思う。情動で押し返され拒絶されるのが常だ。日常生活における理性の地位をより高めるにはどうしたらよいだろうか。