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紙の本
ランスへの帰郷
著者 ディディエ・エリボン (著),塚原史 (訳)
パリの知識人となった著者は、父の死を機に数十年ぶりに帰郷する。なぜ出自を恥じ、家族から離反しなければならなかったのか。自伝の形をとりながら、階級社会、右傾化などについて鋭...
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商品説明
パリの知識人となった著者は、父の死を機に数十年ぶりに帰郷する。なぜ出自を恥じ、家族から離反しなければならなかったのか。自伝の形をとりながら、階級社会、右傾化などについて鋭く考察する。仏独ベスト&ロングセラー。【「TRC MARC」の商品解説】
本書は自伝の形をとっているが、この社会への鋭い考察である。自由と平等を謳う階級社会。さらには労働者階級と投票、右傾化にも、特に深い分析がなされている。
著者はフランス北東部の都市ランスの貧困家庭に生まれた。13歳で工場勤めを始めた父、小学校を出て家政婦になった母。祖父母もまた極貧の労働者だった。しかし哲学や文学に傾倒し、自身の同性愛を自覚するにつれ、著者は家族から離反してゆく。一族で初めて大学に進み、パリの知識人とも交わるようになった著者は、出自を強く恥じる。ゲイであることよりも、下層出身であることを知られるのが怖かった。
嫌悪していた父の入院と死を機に、著者は数十年ぶりで帰郷する。失われた時間を取り戻すかのように母と語り合う日々。息子が遠ざかったことで、母は苦しんでいた。自ら去ったはずの息子も、別の意味で苦しんでいた。階級社会、差別的な教育制度、執拗な性規範という、日常的であからさまな支配と服従のメカニズムが正常に働く社会。本書はその異様さと、それがもたらす苦しみを、ブルデュー、フーコー、ボールドウィン、ジュネ、ニザン、アニー・エルノー、レイモンド・ウィリアムズらの作品を道標としつつ、自らの半生に浮き彫りにした。仏独ベスト&ロングセラー。【商品解説】
著者紹介
ディディエ・エリボン
- 略歴
- 〈ディディエ・エリボン〉1953年フランス生まれ。社会学者・哲学者。著書に「ミシェル・フーコー伝」など。
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日本でも広く読まれるべき
2021/07/29 22:44
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
フーコーの伝記などでも有名なディディエ・エリボンの自伝であり、祖母をめぐるエピソードなど壮絶で興味深い。また労働者階級出身で左翼でありゲイでもあるエリボンが、フランスがなぜこのような政治状況になってしまったのかを悔恨を込めて振り返るものともなっている。
紙の本
社会的暴力の告発と、内省と。
2020/07/31 10:59
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:執事のひつじ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書の主眼は格差、ことにブルデューの指摘したハビトゥスや文化資本の格差の、体験に基づく指摘であり、その格差により、職業や社会的地位が決定されてしまう現実の告発である。(ブルデューや著者の活躍をその反証としてはならないだろう。「結局出世できたんだからいいじゃないか。」という見方こそ、彼らが戦ってきた選別システムを肯定し、固定化してきたのだから。)日本でも、バブル崩壊後「一億総中流」の幻想は崩れ、格差の固定化が問題視されるようになっているが、たとえば教育問題を考えるうえでも、階級という観点はもっと考慮されるべきなのかもしれない。
労働者階級の「右傾化」の分析も興味深い。労働者の支持を得ていた左翼の党が、ソ連の崩壊、左翼政権の成立とともに「新自由主義」に接近し存在意義を見失う一方、学生運動に熱中した学生も就職とともに秩序の維持を望むようになったという。(案外、日本の左翼の歩みに似通っている。)そのため、代弁者をなくした労働者階級はまとまりを失い、移民への反感が顕在化し、自分たちの尊厳を守るための最後の手段として右翼に投票するようになったとする。注意すべきは著者が「認識の諸相や政治的主体としての自覚をもたらす方法を創出して、人々に固有の「利害関心」とそこから生じる選挙での選択についての概念を規定するのは、組織された言説にほかならないからだ。」として、理論の重要性を指摘していることである。
教訓を引き出そうとするなら以上のようになるが、抑制のきいた文体で語られる、苦渋に満ちた内省こそ読み取るべきだろう。粗暴な父を「愛したことがな」く、父母の絶えざる暴力的な諍いのため、長い間、「家庭」や「夫婦」はもとより「持続的人間関係、共同生活などの観念自体が私をぞっとさせた」という著者にとって、故郷ランスへのretourは「目的地にたどりつけない心理的で社会的な旅でさえあるかもしれない」のであった。母の回想と自身の記憶でたどられる、祖父母と両親、彼自身の歩みは、自らの中に内化された、労働者階級のエートスと、それと相いれない知的、性的志向との相克を絶えず思い起こさせるものだった。したがって、著者は親族の中で例外的に知識人として自己を形成するが、単純な成功譚にはなりえない。本書は母にアミアン大学教授就任を報告する場面で終わっているが、これは両者の文化的な隔たりをあらためて意識させる場でもあったのである。
本書の解説がドイツ思想研究者の三島憲一氏によって書かれていることが意外だったが、ドイツ語訳を読んだ三島氏が日本語版の出版を働きかけたとのことで、日本語で読めるのは三島氏のお陰であり、感謝しなければならないが、長文の「解説」の半分以上は本文の冗長な要約にすぎず、ちょっとがっかりした。ブルデューの『自己分析』への「批判」についても、本文を読めばエリボンの真意がよく分かることである。
なお、24ページ1行目の「名誉」は「不名誉」の誤植ではないだろうか。