紙の本
修復的司法を知る
2022/06/11 06:56
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投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
性犯罪被害者である認識する女性哲学者の人生を告白するエッセイ。修復的司法という犯罪に向き合う手法を模索する研究者である著者の言葉は、心を揺さぶる。修復的司法とは、犯罪を地域社会に起きた害悪ととらえ、被害者、加害者などが直接的に関与し、その害悪を修復しようとするもの。被害者と加害者が対話することが中心となる。性犯罪を当事者がカミングアウトする際、記憶を上書きし、誤った記憶を提示するのではないかと不安になったという。犯罪に向き合い、それを乗り越えて生きていくために、記憶は物語として紡いでいけばいい。
紙の本
生き延びるためのジタバタ
2023/02/28 17:35
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投稿者:***** - この投稿者のレビュー一覧を見る
そう。仲間は生き延びるために必要なんだ。対面でも、読むことでも、「分かって」胸が熱くなったり涙が流れたり、苦しくなったり痛かったりする。私は意識を失ったことはないけれど。
ヒトが生きる中で行き会ってしまう様々な出来事と、一人ひとりが抱えるそれぞれの秘密。人らしく生きるためには繊細かつ大胆に自分の人生にぶつかっていくしかない。
田中三津さんの「いのちの女たちへ」は20才だった私を衝撃的に目覚めさせてくれた一冊だった。
水俣で長子を産んだ頃、何度かお会いした緒方正人さんとは会話もなかったけれど、会えるととてもうれしい方だった。
私の「今年の一冊」候補です。
う~ん。「トラウマと回復」は大好きな中井久夫さんの訳だし読まなくちゃかなあ。いいお値段だけど。デリダも大好きな笙野頼子さんの作にトゥールーズと並んで見かける名前だし読まなくちゃかなあ。小難しそうだけど。
紙の本
当事者の「語り」と支援や研究とあいだ
2023/08/03 17:12
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
「修復的司法」について研究してきた哲学者が、自身が性暴力被害の当事者であることをカミングアウトした上で、自身がもがきながらたどり着いた研究者としての歩みを述べながら、当事者の「語り」について説いた研究史的なエッセイ。著者本人は「自分語り」と述べている。
「当事者は嘘をつく」という刺激的なタイトルは、性暴力被害者に対してそれを認めない側の人々が言う「嘘をつく」ではなく、当事者にとっては「語り得ない過去」=「空洞」があったり、「自分に起きていることを説明するための言葉」が見つからなかったり、人に話すときには誰もが自分に都合よく「編集」していたりする、といった事実に基づく。
「研究者」であり「当事者」であることの、アンビバレントな感情や、逆に自身が「当事者」ではない問題に向き合うときに(本書では水俣)、これまで「当事者」として「支援者」や「研究者」へ向けていた呪詛が自分自身に突きつけられた時の心情などが、つづられていて興味深い。
「哲学」の域で、少々理解が難しいところもあったが、読みやすく、性暴力に限らず、あらゆる事件や事故、災害、戦争の加害と被害など、「当事者」と「そうでない者」の関係性や「語り」についても言えることが多々あるのでは―と思った。
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響きすぎて、読み終えてからしばらくの間、言葉が出てこなくなりました。
「共振」が起きていたのだろう、と思います。
「人間の記憶は、秩序と混沌の両方があることで完全になる」という言葉に深く納得しました。
言葉にできることと、言葉にならないもの。どちらもあっていいし、どちらもあるのが人間なのだ、と受け取りました。
「弱さの源泉はどこにあるのか」を探っていく、という問いに、「その観点はなかった!」と新鮮な気持ちになりました。安心安全が確保された場でないと探りにくいものですが、それを知ることができれば、自分の身を守りやすくなるだろうと感じました。
先輩や同僚のお話を聴いているような親しみや、読者への思いやりを感じる一冊でした。
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性暴力(犯罪とは言い難い)の被害者が、自助グループに関わり、精神科医師に反発し、修復的司法の研究者になった自伝。
90ページまで読んだ。
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「あなたには分からない」と、その人(たち)をはね除けることは、結局のところ「私のことを分からないあなたのことが、私は分からない」と自分の心の不透明な部分をはね除けることと等しいのではないだろうか。
自分の心の中に空洞が残るのは、正にこういった所作によるものかもしれんと思われた。
「私のことが分からないあなたのことを私は知りたい」なぜならそれが、「私を知る」ことに繋がるからだ…という路があるような気がするな。
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加害者との闘い、支援者との闘い、当事者との連帯してそれぞれへの赦しと距離を検討して何も手に入らなかった著者が、自分と闘う現在進行形の物語(ナラティブ)と捉えた。その勇気に心を打たれた。
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●目的
性被害者の心理について理解する
●内容
・性犯罪ではなく、性暴力。
・被害者は真実を語らない
・修復的司法という世界があり、被害者をサバイバーとして助けて行く
・犯罪被害者という観点で水俣病患者のドキュメンタリーにも触れていた
・ジャック・デリダが著者の先行研究者
・「赦し」がサバイバーにとって重要なキーワード
●感想
性暴力被害や水俣病など、社会問題として扱われるものの被害当事者が生き延びて行くためにさまざまな葛藤との闘いがあることに重たいものを感じた。
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ショッキングなタイトルだ。性暴力被害をうったえる者は、必ずと言っていいほど「嘘を言っているのではないか」という疑いにさらされる。だからこそフェミニズムの運動は、まず被害者の言葉をそのまま受け止めることを何より重視してきた。だのに当事者が、自らの語りを疑っているというのだから。
著者にとって性暴力被害とは、「わたしは真実を述べる者である」と言いうるような語る主体の枠組みを崩壊させるような経験としてあった。それを著者は「思考の海で溺れていた」とも表現している。言葉をまとめあげて自らの語りにするような枠組みが崩壊してしまった状態、といえるのだろうか。そして、そのような激しい苦痛のただ中においてのみ可能なものが「赦し」なのだと。
あまりにも直観に反する議論にも聞こえる。正直、デリダの議論も、著者の主著もまだちゃんと読めていないわたしには判断が難しいのだが。それでも著者にとってデリダが提示した「赦し」の可能性は、たとえ実際の加害者にはまったく届かないものであったとしても、むしろだからこそ、その後の研究の原動力になっていったという。
だがその道はストレートではない。むしろ難解な「赦し」論以上に、本書でとても興味を惹かれたのは、いったんばらばらになってしまった「わたし」が語るための枠組みを取り戻す助けとなったのが、自助グループにおける「わたしたち」のための「回復の物語」だったということだ。「わたし」の固有の経験を語ろうとすることを放棄し、「わたしたち」のための、ある意味では型にはまったストーリーをともに作りだすことが、自分自身が生き延びるために必要な物語を作る方法であったのだというのである。人が生きるためには、「わたしの物語」といえるようなものが必要なのだ。それが「真実」であろうとなかろうと。本書を読んで、もっとも深く心に残ったのは、このことだった。
そしてもうひとつの重要な点が、支援者や研究者に対する著者の怒りである。引用されているマツウラマムコの論文が指摘するように、被害者を無力化する支援者の傲慢は、わたし自身、性暴力被害者支援の末端に少しだけ関わっていたこともあるから、そういう面があることを知ってはいた。しかし、その暴力性の本質について、自らを開示することなく、当事者にかわって性暴力や被害者について「真実を語る」ことができる自分たちの特権性を疑わない、その主体性の位置にあるということを、あらためて考えさせられる。
被害者が共同作業を通して創り出す「回復の物語」に対して、著者は、支援者たちが支配する語りを「回復の言説」と呼んで区別している。首尾一貫した後者の言説は、「取り乱し」混乱する当事者が語ろうとする力をふたたび奪いとってしまうからこそ、拒否されねばならないのだ。
そのように考える著者もまた、自らが研究者となり、また当事者とはいえない水俣病の問題に関わっていくなかで、自分が「わからない」非当事者でもあるということとの折り合いをつけていくことになる。
他者の語りを奪い取ってしまいかねない支援者や研究者の特権は、たぶん究極的には、研究者だけの問題ではないとも思う。取り乱して首尾一貫した語りのできない位置からの「あなたにはわからない」という絶望/切望を「わたし」は聞けているのか、自分の取り乱しを受け入れられるのか。著者の勇敢な自己開示に問いかけられる。
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読み始めたとき、一気に読まなければ今後読めなくなると思い、それを惜しんだためハイペースでの読了(1時間半くらいか)となってしまった。だからこの本の内容について、たれかに聞かれたとしても、正確には語れないことをわたしはあらかじめ断っておく。
だが、わたしはわたしにしかない読書体験をしたし、わたしにしかない共振をこの本から得たと思う。思い悩んだのち、はじめ青い芝の会から(あとには水俣の人びとから)著者がある種の啓示のようなものを受けた「支援者と当事者との関係性」について、わたしもおおきく揺さぶられたし、揺さぶられるだけの体験がわたしの中にはあった。尊重されないである「わたし」と、愛想良く振る舞わなければ支援を受けられない「わたし」がつながってあることはあってはならないと『思ってもいい』(実際の社会の冷たさは於いても)。道の先行きを前っから決められることにノーというだけの権利がある。ただ、世界はグラデーション/スペクトラムで、支援者にも世界はあるのだ、が。
いずれにしても、わたしは著者の結論(?)に頷けたし、これだと思った。引き裂かれるような葛藤とままならなさ、当事者性と支援者(あるいは研究者か。いずれにせよ一面的ではない人間)のあいだで揺れ動く『自分そのままの存在』を表現することは、決してむだではない。
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少し間をあけてだが、一気に読んだ。
薄々感じている私たち支援者としての欺瞞を、まざまざと突きつけられた。痛みを感じながら、むしろしっかり突きつけられたかったのだと読後に気がつく。
私の想像を越える痛みを抱えながら、著者は自身の被害体験と研究者としての揺らぎの体験を世に出してくれた。果たして支援者である私(たち)はそれにどう応えられるのか、宿題をもらった気がする。
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この作者は性暴力被害者なのか
冒頭にレイプとあるが
私の感覚では作者はレイプなどされてはいない
DVは事実であると思う
恋愛でそういう関係を持ったのではないのだろうか
同意の上でそういう行為に至ったと文中にある
読んでいると作者自身が性暴力被害者であるように感じてしまった
繰り返しになるがDV被害者は紛れもない
私の読み方が浅いのかもしれない
性暴力被害者が世の中に多数存在する事実は私自身は直接確認してはいないが事実だと思う
話は変わるが、当初受けた精神科医の診察
この医者は専門家であることを疑ってしまう
自分の価値観のもとに患者を誘導しているのではないか
哲学については、私のレベルではよくわからなかったというのが本音だ
作者が自分の経験を開示することで、被害者が前向きに生きていく道標になる
これは流石であり、共感した
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【感想】
本書を読む間、筆者の思考を辿るのに何度もページを往復した。それでも上手く掴み切れた自信はない。とても難解な一冊だった。
本書を乱暴に要約すれば、レイプされ心身をボロボロに傷つけられ、絶望の底にいた筆者が、自分を語ることで「私」を取り戻していく物語である。しかし、取り戻した私はもう「レイプを受ける前」の自分ではない。どこか似て非なる「嘘」の自分がいる。彼女が自分を取り戻すまでの思考を、エッセイを通じて追体験していくのだが、語れども語れども、当事者としての自分と観察者としての自分の間に齟齬が起こり、語り得ぬ「空白地帯」が残っていく。
筆者は、本書の中で「分かってもらえなさ」について強調する。その対象は、レイプの加害者と、筆者に寄り添ってくれるはずの「支援者」の両方に対してである。
筆者がレイプされたのは19歳のときだ。その後数年にわたってフラッシュバックに襲われた筆者は、この症状を治療するべく加害者と対話することを決意する。相手の男に電話し、自分の思いを訴えた。彼は「わかってる、悪かったと思っている」と答えた。
しかし、男はそんな謝罪はどこ吹く風で、すぐに話題を変えた。
「前に論文賞とったらしいな。新聞に載ってたよ。お前すげえなあ」
そのまま電話を終えたものの、そのあまりの軽薄さに衝撃を覚えてしまう。男はわざと向き合おうとしなかったのではない。筆者の話が本当に理解できていなかったのだ。
またある時、公開シンポジウムに参加した支援者に、同じく「分かってもらえない」怒りを覚えてしまう。
そのシンポジウムでは、性暴力被害者がパネリストとして登壇し、被害経験を語っていた。その被害者は言葉に詰まり、うまく話せなくなってしまった。そのとき、隣にいたフェミニストであり、DVや性暴力の被害者支援を専門とするカウンセラーがこう言った。
「みなさん、被害者っていうのは、こんなふうに話せなくなってしまうことがあります。だから、私たちが隣にいて、解説する必要があるんですよ」
フロアの参加者の多くは「うんうん」と頷いていた。だが、筆者は顔が紅潮し、血が沸騰するような怒りで爆発寸前だったという。「私たちは見世物ではない」という激しい怒りが頭の中で渦巻いていたのだ。
当事者でない者が語る言葉というのは、あくまで「第三者目線」であり、どうしても宙に浮いてしまう。彼女たちを一生懸命「回復」させようとしてくる支援者たちに、筆者は「回収され、秘められている生命力を奪われていく」と感じていたらしい。そして被害者たちの語りを一種の「教訓」として知識化することに、無責任さと浅薄さを覚えてしまうのだ。
こうした体験から筆者は決断する。
「支援者に、当事者の世界を理解させねばならない」
それが筆者を研究の道に突き動かした理由だった。
しかしながら、話はここで終わらない。筆者自身が水俣病研究のために水俣を訪れた際、「当事者ではない研究者」として、当事者との関係に悩むこととなったのだ。
――――――――――――――――――――
筆者は本書のなか��ずっと、「自分の立場」について揺れている。最後の最後まで当事者と研究者としての立場を明確に分け、「自分は今どちらに立っているか」をメタ的視点で分析している。そうした複雑な視点の中で、性暴力被害の語りと研究対象へのアプローチを記していくのだが、研究者であることと当事者であることの矛盾性が常に頭から離れない。
だから、筆者は右往左往する。理性、感情、事実、思い込み、嘘、真実、支援者、当事者。あらゆる立場とあらゆる思考を網羅しようする筆者の試みは、真っ暗で出口の無い迷路を行ったり来たりするかのようだ。ゴールにたどり着く方法は、ただ自分の状況を克明に記録し、「物語を語る」というアプローチでしかなし得なかった。
繰り返すが、本書は難しい。被害者であるはずの筆者が、自分に寄り添ってくれるはずの支援者と闘う。同時に、水俣病という専門外のフィールドに入っていき、非当事者の目線から「赦し」を論ずる。読む人によっては「結局何が言いたいんだ?」と思えてしまうかもしれない。
だが、自分には深く映った。そうした理解の難しい、「語り得ない空洞」を記録しようとするからこそ、見つけ出せるものがきっとあるはずだ。
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【まとめ】
1 当事者の告白
私は19歳のときにレイプされた。性暴力被害者であること自体は、私にとって大きな問題ではない。
ただ、私は「研究者」になってしまった。私は修復的司法 Restorative Justice の 研究をしている。修復的司法とは、1970年代に欧米を中心に広まった紛争解決のアプローチである。従来の刑事司法では、国家が犯罪者を処罰することで問題を解決しようとするのに対して、修復的司法では被害者と加害者の対話を中心に置いて問題解決を目指す。私は10年以上この修復的司法を研究し、本を出版し、人前で講演をしてきた。
私は被害者だから加害者との対話に興味を持った。
その、とても自然で当たり前のことが、私には言えなかった。
「加害者と対話することを望む被害者」
私は、そのようなラベルを貼り付けられることに耐えられなかった。なぜならば、私のサバイバルの経験と修復的司法との研究の繋がりは、そんな単純なものではないからだ。
代わりに、これまで私は研究に至った経緯をこんなテンプレートで語ってきた。「私は性暴力被害者の支援活動に参加していました。私は心理職ではないので専門的な支援はできませんでしたが、サバイバーとの出会いが私の研究の出発点です」
私は嘘をついてきた。自分自身の経験を隠し、観察者、研究者として被害者の声を聞こうとした。そろそろ本当のことを語りたいと思い言葉を紡ぐが、うまく語りきれない。「あれは語らなかった」「こんな言葉では表現できていない」という自責の念にかられる。
たとえ、本当のことを語ろうとしても、私は嘘をつくことから逃れられない。これを、この本のスタート地点としたい。
2 研究者と当事者の狭間で
性暴力研究を始めると、研究者がかならず直面する問題がある。当事者の「私は被害を受けた」という言葉の真偽をどのように確認するのか。要するに、周囲の研究者から「当事者は嘘をついているのではないか」と問われるのである。
ロフタスの研究のとおり、人間の脳はエラーを起こすことがある。実際に体験したと思った記憶が実は過去には存在しなかったということはあり得る。しかし、誤った記憶の問題があるからといって、性暴力被害者の言葉をすべて嘘であると片付けることはできない。
性暴力には証拠や目撃証言がほとんどなく、まわりにいる人たちが「当事者は嘘をついていない」と信じることが、性暴力の事実を本人以外が承認する唯一の方法になる。
一方で、現行の刑法においては、性犯罪を立証するためには、明確な暴行または脅迫があったことの証拠が必要である。つまり、明らかな身体的暴力や第三者から見てもわかりやすい脅迫行為がなければ、被害者は性行為に合意したとみなされる。
このことから、私は研究の上で、「性被害が本当にあったかの確認」「性暴力の加害者の告発」を目指してはいない。あくまで性暴力被害の苦しみを捉え、サバイバーの心理的状態の研究に重きを置く。そのため、当事者の証言の真偽を尋ねられた際は「そこは私の研究の論点ではない」と答えている。
一方で、「当事者は嘘をついているのでは?」と聞かれたとき、私はいつも心の中では動揺していた。自身が受けた性被害について、鮮明な記憶はあるものの、「私は嘘をついているのではないか」という不安にさいなまれていたからだ。
レイプを受けたときの状況について、
・思い出せない点がある(解離と記憶の再編集)
・意識的に都合の悪い箇所を、自分を利するように削除している
・記憶の改変や捏造を行っている
・いくら真実を書こうとしても、書けた気がしない(記憶の想起によって示すことに限界がある)
のだ。
私の証言を信じられないのは、私自身である。
「当事者は嘘をついているのではないですか」。そう聞かれて、私が動揺するのは、身に覚えがあるからだ。私は嘘をついているかもしれない。しかし、なぜ、私は嘘をつくことに怯えるのだろうか。
なぜならば、私にとって性暴力被害を受けたという記憶は、自分の人生の根幹に関わるからだ。私の人生は、被害以降にまったく別のものになってしまった。19歳までの「私」と、今の「私」は切り離され、別人のようだ。性暴力によって私が失ったものは、純潔でも無垢さでもない。かつてあったはずの「私」である。それ以降の私は、性暴力の体験を源泉にして生み出されてきた。性暴力の記憶なしに、今の私は存在し得ない。
だからこそ、私は自分の記憶が誤りであることに恐怖する。性暴力被害の記憶が嘘であることは、今ここにいる「私」の存在の否定であるのだ。
3 フラッシュバック
私自身は、性暴力の被害直後から数年にわたり、一刻も早く加害者のことを忘れようと努めてきた。しかし、気持ちとは裏腹に、突然のフラッシュバックにより、むりやり性行為をさせられている場面が再生され、忘れることはどうしてもできなかった。精神科を受けるも状況は悪化し続け、些細なことで泣いたり笑ったりし、感情が勝手に爆発して暴走したりした。
私は、知人から彼の電話番号を聞き出した。私は自分の思いを訴えた。彼は「わかってる、悪��ったと思っている」と答えた。私は「すべて赦す」と彼に伝えたものの、彼は私の話や私が抱えた痛みの深刻さについて、理解できていないままだった。
私は彼との会話を、医師に正直に話した。しかし、医師はこう言ったのだ。
「ああ、そんなことはどうでもいいですよ。よくあることだから」「早く忘れてしまいなさい」
彼の顔もまた、私の記憶に焼き付いている。
医師も、彼も、理解していない。
私は、語ることに失敗したのだ。
4 自助グループ
私を回復に導いたのは自助グループだった。
自助グループの目的は「自分の経験を語り、他者の語りを聞くことで、性被害を受けた人の経験を自己に重ねていく」ことにある。
性暴力の自助グループでは、それぞれの経験や置かれている状況は異なっている。それにもかかわらず、誰かの語る経験の中の細部に、思わぬ形で自分の経験と共通するものを見出してしまうことがある。
そういうとき、私はいつも胸の奥が震え出すような感覚を持つ。ある経験を語っている人の言葉だけではなく、その人の見た景色や味わった感覚が、直接流れ込ん でくる。こうした誰かの語りに対する自己の動揺を「共振」と呼んだりする。
その強烈な感覚が自分を揺さぶり、「あのひとは仲間だ」という想いが体の奥から突き上げてくる。 勝手に目から涙が溢れ出し、鳴咽が堪えられなくなる。その共振が、自分の中に埋め込まれたトラウマを熱で溶かしてくれるような感覚も湧いてくる。相手と自分との境目が曖昧になり、その人の語りを聞きながら、自分の話のようだと感じることすらある。
臨床心理学では、カウンセラーがこのような共振を起こすことを戒められることもあるようだ。しかしながら、私は自助グループでは積極的に共振し、同一化していくなかで、孤独だった自己から解放されていった。
私が必要としていたのは、「回復の物語」だった。私が当時作りあげた物語はこうだ。
――私は19歳のときに暴力の被害に遭いました。その後、トラウマに苦しみ、死を考えるほど追い詰められていました。でも、自助グループにであって、自分の経験を仲間たちを分かち合うなかで、回復することができました。それから、私はもっと暴力の問題を追求したいと考え、大学院に進学しました。いまは研究者として活動しています。
今となっては、この「回復の物語」は私の事実を述べているにすぎない。だが、私にとってこの物語は、願望であり、懐にしまったお守りだった。
注意してほしいことは、「真実」より先に「物語」がここにはあったことだ。研究者を志したきっかけである、訳知り顔の精神科医の論文にムカついたこと、そして自助グループとは別の医者に投げかけられた心無い態度のこと。心を深く傷つけられ、今でも眼の前に蘇ってくる体験について、ここでは語られていない。
つまり、私は現実にはならない「夢」、もっと言ってしまえば「嘘」を語ることで生き延びようとしていた。
私の身に起きたことの事実の列挙ではなく、ほかの被害者の語りを織り交ぜた、未来に向かって歩き出せるような夢を胸にしまって生きてきた。だから、私が自分を語ろうとするとき、いつも混ざりものが��っている。純粋な「私」という存在の過去に起きた真実は、もうわからなくなってしまった。それが、私が生き延びるための技法だった。
5 支援者との対峙
当時の私は、支援者たちの言動のひとつひとつに取り乱し、傷ついていた。
ある公開シンポジウムでは、性暴力被害者がパネリストとして登壇し、被害経験を語っていた。その被害者は言葉につまり、うまく話せなくなってしまった。そのとき、隣にいたフェミニストであり、DVや性暴力の被害者支援を専門とするカウンセラーがこう言った。
「みなさん、被害者っていうのは、こんなふうに話せなくなってしまうことがあります。だから、私たちが隣にいて、解説する必要があるんですよ」
フロアの参加者の多くは「うんうん」と頷いていた。だが、私は顔が紅潮し、血が沸騰するような怒りで爆発寸前だった。「私たちは見世物ではない」という激しい怒りが頭の中で渦巻いていた。
当事者にとって、被害経験を語る重圧は「第三者」の理解の及ぶところではない。そのことは支援者も知っているはずである。それなのに、あえて登壇させ、自分は隣で冷静に客観的に専門家としてコメントしている。その支援者の態度がゆるせなかったのだ。
「支援する者/される者」という関係は、支援者の意図によっては差別と支配の構造を生みうる。支援者に対しては冷静な態度で望まなければならない。
ハーマンはトラウマの克服について、「回復の第一原則はサバイバーのエンパワメントであり、本人以外の人々は、アドバイス、サポート、助力、思いやり、ケアを提供することはできるが、治療することはできない」と語る。支援者が被害者をコントロールするのではなく、被害者が自分の行動をコントロールすることを手助けしなければならないのだ。
なぜ、私は当事者としての活動だけではなく、研究することを望み、支援者たちと闘っていこうとするのか。
私の腹の底には、支援者に対する「わかってほしい」という心がある。だからこそ、私は「わかってくれない支援者」の言葉に逐一、とり乱し、傷つき、 怒り、反論しようとしているのだ。
しかし、かれらにわかりやすい言葉で経験を共有しようとすれば、当事者の語りの本質は失われると、直感的に理解している。その傷つきやすく、混乱している私に向けられる、支援者の善意のやさしさや愛情こそが、私(たち)の言葉を「回復」の言説に回収し、もともと秘められていた生命力を奪っていく。支援者に「わ かってほしい」と思っているかぎり、私の目指す道は拓かれることがない。
だからこそ、愛情深く優秀で真摯な支援者たちに背を向けなければならないのだ。「良き支援者」の協力の誘いこそが当事者の言葉の力を奪うのであり、形骸化した「当事者の語り」はかれらの知の体系に埋め込まれる。私は「わかってほしい」という心を捨てて、当事者として支援者と闘わねばならない。
これらの経験をもとに私が理解したことは、「私の研究において、当事者であることは本質的な問題ではない」ということだった。
私の内部から発生した「赦しとはなにか」という問いや、修復的司法への関心は間違いなく暴力の経験に結びついている。しかしながら、それは私の個人的な経験を超えた、研究の世界に繋がっている。それにもかかわらず、私が当事者と名乗るかどうかにひどく悩まされるのは、私の内的問題や研究課題が原因ではない。自分が日本で置かれている環境が原因だった。
単純な話だった。私が日本で痛切に支援者に「わかってほしい」と思ってしまうのは、かれらが「わかってない」からである。支援者が「わかっている」のであれば、そもそも私の「わかってほしい」という葛藤も生まれない。そんな葛藤が生まれてくること自体が不当なのだ。そう自分のなかで腑に落ちたとき、私はもう迷わなかった。
「支援者に、当事者の世界を理解させねばならない」
それが私を研究の道に突き動かした。
6 当事者ではない分野で
私は2015年に水俣を訪問し、水俣病の研究を行った。
私が困惑したのは、自分自身がまったく水俣病患者の苦しみを理解できないことだった。もちろん、劇症性患者の苦悶に満ちた闘病や死、貧困、胎児性水俣病患者とその後の暮らしの困難を、写真を交えながら克明に描き出す文献を読めば、怒りや悲しみの感情が湧くし、「こんなことは二度とあってはいけない」と強く思う。ただ、そこで「教訓」を得ようとする自分には違和感があった。
私は性暴力被害のフィールドと異なり、他人事としてしか、水俣病を捉えられなかったのである。
水俣に来て、研究者として支援者に関わるようになって、私はかれらを人間として捉えようと試み始めた。つまり、自分の延長線上にいる理解可能な存在として支援者を見ようとしたのである。そうすることは、私にとって裏切りの感覚を伴うものであった。もしかすると、水俣病の患者さんやずっと地域で暮らしてきた人びとにとって、このように研究者と支援者が結託することは脅威ではないか。
私はいつも当事者のほうを向いて研究をしようと思ってきた。それなのに支援者との繋がりを深めてもよいのだろうか。それは、研究者の倫理ではなく、当事者と生きてきた私の実存、魂の問題だった。
私にとっては、加害者を赦すことよりも、支援者や研究者を赦すことのほうが難しい。ただ、それが「不可能ではない」ことを知ること。それだけでも世界の見え方は十分に変わる。
「あなたにはわからない」もまた、「わかってほしい」の裏返しで、相手に対する期待である。「当事者」は、「当事者でない人」に対する、その期待を捨てていくことで、生き延びていくのかもしれない。
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はじめに。からすごい本読んでるかもと震える。
わたしの中で、ずっとずっと持て余している感情があって、その感情は悪い方向に進んでるなって思ってるんだけど、それを堰き止めてくれた感じの本。
上間先生もそうだけど、自分のライフストーリーかけるのすごいなぁ…、どれくらい時間をかけたらこうなれるのかなぁとひとり泣く。
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「当事者は嘘をつく」というのは著者が、体験した性被害の経験について語るとき、自分は嘘をついているのではないか、という考えが拭えないということを意味したタイトルである。
性被害にあった人間が修復的司法というケアの方法を通してどのようにサバイブしていけるのか、ということを主軸に、そこから無限に枝分かれするさまざまな重要な事項へ触れていく。それらのことは読者自身が何らかの被害体験を持っていなかったとしても、特別に響いてくるものがある。なぜなら、それは誰もが経験する「傷つけること/傷つけられること」に結びついていて、それらをどう扱うかということをこの本は語っている。
また、自助グループでの体験やケータイ小説を書くといった、いわゆる医学的なキュアの方法に頼っていない(精神科医に裏切られた体験への記述もあるのだが…)著者のユニークな足取りは、取っ付きやすく、力強く、それでいて誠実な、彼女にしか描けないラインであると感じた。その感覚は「急に具合が悪くなる」を読んだ時の、この物語はこの人にしか書けないものなのだという共振の感覚があった。つまり魂本(ソウルブック)……
ケアとキュアは違って、前者はより回復者の主体性、当事者性を担保したものであるという記述も重要だった。そして著者は、被害者の近くで支援者として関わる人々の中に、観察的な立場から二次被害的に被害者を扱う人間がいることを厳しく指摘する。
ユマニチュードに関する記述などもあって、自分が関心を寄せるトピックに関する記述が多数出てきた。
傷ついた人々(自分も含めて)がいかにして自分のことを語り、生き直すことを始めるのか、そしてその時に放つかがやきのようなものに、自分はもしかしたら惹かれているのかも知れないと思ったりした。