紙の本
本書を読了して、何をどう受け取るか?
2023/11/26 11:54
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『能力はどのように遺伝するのか』という書題から、結論、能力は遺伝するものだと肯定せざるを得なくなります。事実、遺伝する、が正解です。但し本書で著者が言いたい事は、それではありませんでした。
能力は遺伝する、確かに言葉で表記すれば、その通りです。ですが、それは正しく言い得ていません。能力は何を指しており、遺伝は遺伝子の事か、将又、どこ迄を指した遺伝の内容(外的・内的)を意味しているのか、です。
外的要因の影響、これも遺伝が絡んでおり、内的な影響、これも例外や特例がある、といった状況です。つまり遺伝が全てではなく、且つ遺伝の要素も多分にあるという事です。本書では沢山のデータと実験が紹介され、それらに基づいた内容が著述されています。正直データは難解なもので中々読み取る事迄には至りませんでしたが、相関性については或る程度解りました。
本書にあった通り「親ガチャ」は、あります。そして、大谷翔平や藤井聡太と私たち一般人との「遺伝」の差異は1%程度あります。だから劣っていて駄目だというのか?だから人生諦めなければならないのか?だから自分は無価値な存在なのか?・・ではないという事、です。
紙の本
遺伝か環境か、天性か努力かという議論を整理できるだろうか
2023/08/09 19:55
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投稿者:雑多な本読み - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、世の中の「遺伝か環境か」という一刀両断的で上滑りな議論に対し、より冷静な認識を求めて、行動遺伝学という分野からの視点を提示してくれている。かつての優生学で(今も亡霊のごとく存在するが)、優れた遺伝的素質を残して劣等な遺伝子の持ち主を断種したり、殺害したりした歴史が厳然と存在しているから、その隣り合わせの分野であるからこそ、行動遺伝学は重要と説く。遺伝は決定論的、宿命論的にとらえられるが、決してそうでないと展開される。しかし、遺伝という現実に存在することを明確にする。どう理解すればいいのだろうか。目次を見ると、
はじめに
第1章 遺伝子が描く人間像
1-1 遺伝子のマジック
1-2 遺伝子は多様でランダム
1-3 遺伝子発現のダイナミズム
1-4 遺伝子たちがつくりだす「人」
第2章 才能は生まれつきか、努力か
2-1 心はすべて遺伝的である
2-2 「才能は生まれつきか、努力か」という問い
2-3 「遺伝か、環境か」という問い
2-4 能力が現れる「確率」
2-5 ゴールドスタンダードとしての「知能」
第3章 才能の行動遺伝学
3-1 「行動が遺伝的である」とはどういうことか
3-2 古典的な行動遺伝学
3-3 行動遺伝学の10大発見
3-4 遺伝と環境の「交互作用」
3-5 MRIが明かした脳の遺伝と環境
第4章 遺伝子が暴かれる時代
4-1 ポリジェニック・スコアの進化
4-2 教育年数PGSが描く世界
第5章 遺伝子と社会
5-1 遺伝的に正しい社会とは
5-2 遺伝子と人格
おわりに さくいん となっている。
以上のように展開される。人間のDNAの塩基配列の99.9%は一致するという。DNAでは人種の差が見当たらないと聞いた人は多いと思う。だったら、いろいろな面で違いや差が出るのはと思うのは当然だろう。優秀と思われる人がいても、その子どもは必ず優秀かと言えばそうでもない。遺伝と環境の相互作用、交互作用という視点が出てくる。一般的に言われる「生まれつき」「天性」「素因」といった概念は、ここで扱う「遺伝」ではなく、これらはすべて「表現型」であり、「遺伝型」が環境の影響を受けて、外部から見えるようになったものとする。遺伝率という単語も出てくる。理解するだけで大変だ。それでも示唆されるところは多い。遺伝として発現するところも、特定の遺伝子ではなく、多くの遺伝子の複雑な組み合わせででてくるのだから、親からというより偶然というしかない。本書では、哲学的な面が顔を出す。ここも学ばないと思ってしまう。一読してほしい本である。
電子書籍
遺伝の差異を語ることは差別ではない、事実である
2023/07/09 08:50
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:魚大好き - この投稿者のレビュー一覧を見る
安藤寿康氏の遺伝の本は以前にも読んだことがあるけどこの本の方が難しく感じた。だけど遺伝についてまた深く知ることができた。
人は自分が特別だとか他人より優れていると感じたい生き物。だけど自分の遺伝子には逆らうことはできない。努力してもできないことを悲観するのではなくもう仕方がないと諦める、そして受け入れる。そしてもし努力が足らないからなんて言われても完全無視でいい。
意味付けされていないだけで必ず誰しもが何らかの遺伝的才能をもっているのでそれが何かを知ろうとすれば、他人と比べることがいかにナンセンスなことだと理解できる。
知能に関して、大人になるにつれて遺伝の影響が大きく出てくるらしい。自分はこれまで受けてきた教育のおかげでポンコツ遺伝子を何とか誤魔化して生きているけれど、(誤魔化しがきかないときもあるけど)もし貧困家庭で生まれ最低限の教育も受けられない人生だったらどうなっていただろうと考える。
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もう少し一般人でもわかるように書いてあるのかと思いましたが、専門用語が多く、この手の本を読み慣れていないので難解に感じました。
こんな私でもわかったことは、大谷翔平や藤井聡太と私達の遺伝子は99.9%まで同じなのに残りの0.1%のDNAの塩基配列の違いが大きな差になるということ。ヒトの遺伝子は30億個の塩基対からなっておりその0.1%である300万ヵ所に個人差があるということ。そう思うと遺伝だけを考えても大きな差ですね。
唯一、一卵性双生児に限っては遺伝的には同じ条件で生まれ、心も類似するという。しかし、非共有環境の影響によりパーソナリティの違いが出るらしい。非共有環境とは、同じ家庭で生活する人同士で異なるだけでなく、同じ人の中でも時と場合では異なる特殊な要因であり、予測することも統制することもできない偶然要因とのこと…。難しいですね。
私には一卵性双生児の孫がおり、1歳前から性格の違いを感じていた為、本書に興味を持ち献本に申込みをさせていただきました。まさか、当選するとは思っていなかったので、驚きました。本書を読む事により、知りたかった事が少しわかった気がします。ありがとうございました。
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2023.07.11
遺伝を正面から受け止める必要性を改めて感じる。
私の理解では、遺伝と環境(生育環境)は、ある意味ではニワトリと卵の関係にも思えてならない。
遺伝を否定しても、環境を否定しても、正鵠には達しない。相互作用が働くからである。
本書を人文学的にさらに身も蓋もなく述べているのが橘玲氏の著作である。
両者の作品を読み比べるとさらに理解が増す。
なお、本書はブクログさまからご恵与いただきました。改めて御礼申し上げます。抽選に当たって嬉しいです。
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人間ならばDNA配列の99.9%は同一
つまり、世に才能を知らしめる人と凡人の差はDNA配列0.1%の範疇ということ
しかしながら、0.1%に相当する塩基対は300万ヶ所
遺伝的多様性はこの組み合わせで生じるのだが、実にゼロが2万個以上並ぶパターンらしい
あまりにも組み合わせが多いので、例えば身長を構成する要素だけでも、社会集団全体の分布と一組の家族内での分布がほぼ重なる
つまりはどんな両親の元でも突然変異は起こるのではないか?と受け取れたが、理解が追いついてない…
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行動遺伝学の研究成果。
パーソナリティから環境まで、人間は、「遺伝」から逃れることができない。
全てではないが、明らかな相関関係があるのが事実。
であれば、それを前提に、綺麗事も抜きでいろんなことを考えべきだ。
その通りだな。
本としては、能力とか知能とかいう言葉の定義がすんげえ長い感じで、あとは統計的な事実があって、先生の、ポエムが最後に入る。
人によって受け止め方が色々ある本だと思う。
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ちょっと難しくて脱落。似たような言葉や独自の定義をする言葉が多く、ついていくのが大変。遺伝は大いに影響してる。結局環境でしょ、とは言えない。環境要因にも遺伝が作用している。
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「環境か遺伝か」という単純な話ではなく、遺伝と環境の交互作用によって説明される。
遺伝の効果が環境によって変わってくる。逆に環境の影響が遺伝の条件によって変わってくる。
知能の遺伝率は発達とともに増加するのは驚きだった。
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途中、論文のような図や説明があり難しかった。作者の独特な表現もあり、内容が入りにくかったが、独自の意図があり興味深い。
遺伝と環境要因が複雑に絡み合い相互作用していく中で、自分らしく生きることを前向きに考えたくなる。たとえ自分に前向きな遺伝子が少なく、前向きな環境に置かれていなくても。
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遺伝学×統計学。統計学って凄い。セントラルドグマの制約→遺伝子の相互作用による「発現(表現型)」(確率の問題)→パーソナリティも遺伝要素大。「能力」とは「ある特定の状況や課題において、個人に同じ機能を持った行動を反復して起こさせる神経的・身体的ネットワーク」。「環境」も遺伝の影響を受ける。著者も述べているが、本書を優生学的に勘違いされることを危惧します。著者の思いは真逆なので。
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とても興味深い内容だったが、文系人間には結構難しかった。
遺伝の研究は双子による臨床研究が知られているが、一卵性と二卵性による遺伝の確率の違いがきちんと数値で表れていることに驚いた。
能力…というのはただ頭がいい、というだけでなく、集中力や継続力なども含めてのものであるというのは、ちゃんと考えたことがなかったが、ごもっともなことだと理解できた。
残念ながら、netgalleyでは多くのグラフや統計は伏せられていたので、理解が深まらない部分も多かった。
netgalley7.30
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能力が先天的なものか後天的なものかを分析した一冊。
先天的なものが多いといわれているが、必ずしもそれだけではないというところはわかったが、肝心のその割合などはわからなかった(一律でないのは当然だけど)。
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セントラルドグマはともかく、遺伝上では、地球上の生命は皆、統計情報化された確率の変移にすぎないのかな。
逆かな、確率の変移が、統計情報化されて個体総体として成立していると考えればいいのかな。
まあ、知能という次元では、言語処理として生成AIと然程の違いは無い。この単層限定なら、暗黙知が成立している感じがする。でも単層では、暗黙知ではないか。
生命としては、確率の変移で、言語処理、知能としては統計情報化と考えた方がいいのかな。こっちは意味か。
個々の微細な意味の集合、集積が、単線ではなく複層、複雑化した結果、奥深い様々な物語を誕生させるのか。
ゆえに、それがより趣のある一意では捉えられない意味解釈世界を構築してくれている、のかな。ここらは、AIでどのくらい再現されているのかは、今後のことかな。
セントラルドグマという神話が、統計情報化を想起させているのかな。
読み返すと、能力の方には然程の関心がないのな、私。
能力も、物語、神話の一種ぐらいに思っているな。
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能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ (ブルーバックス)
これら日常のありとあらゆる行動と判断、それにともなう感情の背後に、ことごとくあなたの能力が発揮されている。そしてどの能力をとっても、それらは生まれつき身につけていたわけではなく、そこで使われる知識や技能を少しずつ学習した末に獲得されたものであり、それは環境が変わればまた変化し、とどまることがない
個人差と個性の源にあるのが、遺伝子である。そこに関与する膨大な数の遺伝子たちの働きには、それぞれに個人差がある。これら想像できないほど多様な能力と、それを支える豊富な文化的知識や技能、それを育む学習と教育の過程までを考慮し、たくさんの遺伝子の発現メカニズムとの関連や相互作用まで含めて考察された「能力の迅伝と環境」についての議論を見かけることは、残念ながらほとんどない。多くは「能力は環境と努力の賜物」などといった空疎な理念にとどまり、上滑りの議論へと突入してしまっている。
能力の遺伝というテーマでは、これからの可能性まで思考実験しながら現在の研究成果を位置づけることは、とくに全ゲノムスキャンや遺伝子編集の技術、それを支えるAI を駆使した高度悄報処理技術の発展の目覚ましい今日、避けて通ることはできない。なぜならそれは、 優生学や能力主義的教育、遺伝子診断にもとづく職業選抜の可能性などの、社会的問題と隣り合わせだからである。
また、行動遺伝学はかっての優生学、つまり優れた遗伝的素質を残して劣等な遺伝子の持ち主は断種したり殺害したりして、「よりよい」人間社会をつくろうとした、かつての優生政策の科学的根拠とも隣り合わせだからである。
それだけではない。20世紀前半まで盛んだった、国家が主導する優生政策よりも、むしろ各人が自由で民主的に「優れた遣伝的素質」を予測し選別し、殺計することすら技術的に可能になってきた今日だからこそ、進む先になにがあるかをつねに見据えておかねばならないからだ。
道伝は、生命をいまあるその形に、その特徴たらしめている、生命の源泉である。にもかかわらず、そのような否定的な意味であるとか、なにか無批判に運命を納得させる決まり文句として使うのは不適切である。
遺伝情衆の柔軟性ばかりを强調しすぎるのは、バランスを欠いた認識である。もちろん、遺伝のもつ「制約」的な側而を强調するべきではないが、制約の中の柔軟性、柔帙性の中の制約、その両面を理解することが重要なのである。生命は多次元的なのだ。ある次元では制約が見られるが、別の次元では驚くほどの柔軟性を見せるのが生命というものなのだ。
1章 遺伝子が描く人間像
ホッブズの洞察はこうだ。
«自然» は人間を身心の諸能力において平等につくった。したがって、ときには他の人間よりも明らかに肉体的に强く精神的に機敏な人が見いだされはするが、しかしすべての能力を総合して考えれば、個人差はわずかであり、ある人が要求できない利益を他の人が要求できるほど大きなものではない。たとえば肉体的な強さについ���いえば、もっとも弱い若でもひ そかに陰謀をたくらんだり、自分と同様の危険にさらされている者と共謀することによって、もっとも強い者をも倒すだけの強さを持っている
私たちが野球を楽しむことができ、大谷選手の活雎を見て心を動かされ、なかには自分もやってみたいと心を熱くする人も生まれてくるのは、ヒトをつくり上げている無数の生物学的システムにおいて、大谷選手とあなたとの間に99.9%もの圧倒的な遣伝的共通性があるからだ。われわれとの塩基の違いは0.1%にすぎない。
本書が描くヒトの能力の遺伝的差異を考えるうえで、その前提として、いま述べてきたような意味での遺伝的同一性を踏まえておくことは重要だ。ヒトの也伝的差異は、遣伝子の圧倒的同一性という大海の匕に浮かぶ小島ほどの形の違いでしかないのだ。
されどそれは、一人ひとりの人生にとって大きな意味をもつのである。
構造遺伝子も、調整部分の遺伝子も、塩基の一つが変わるだけで意味が異なってくる可能性がある。このたった一つの塩基の個人差を「一塩基多型」または「SNP」という。こうなってくると個人差に関わるDNAの変異は驚くほどの大数になり、その紐み合わせを考えるとまさしく、一卵性双生児のきようだいを除いては誰一人として遺伝的に同じ条件で生きている人はいないという木章の初めに述べたことの信憑性を確信せざるを得ないだろう。
全ゲノムスキャンで得られた塩基配列では、形質の冇無や高低に関連のあるSNPがいくつも見つかる。たとえばCがTになっていると、疾患にかかる可能性が1.01倍になるという具合だ。このようなSNPが見つかると、 その効果を足し算することによって、その人が遺伝的にどの程度、その疾患にかかりやすいか、どの程度の高さの素因を持つかを数値化することができる。これを「ポリジェニック・スコア」という。スコアというといかにも得点らしくなるので、ポリジェニック・インデックスとよぶこともある。
遗伝的多様性は、地球上に存在しうるヒトの個体数をはるかにしのぐ叮能性がある。あなたはその中にたまたま生まれた一組の遺伝子の組み合わせの産物にすぎない。これがこの章の冒頭で「この地球上にこれまでに生まれ、これからも生まれるはずの人々まで含めてそのすべてを比蛟したとき、あなたと道伝的に同じ条件で生まれる人は、一朋性双生児のきようだいを除いて、誰一人としていない」と断言したゆえんである。個人間ではわずか0.1%の塩塞の差しかない圧倒的な遺伝的共通性を人々は共有しているにもかかわらず、さらなる.圧倒的な個人差が生まれるしくみはここにある。
遺伝子のバリエーションが生まれるしくみも、その伝達のしくみも、ランダムであり、そこに人間の文化的な意味はもともと、いっさい含まれていない。生命の存統に関わる情報なら、進化の過程で取り除かれていると考えるのが自然である。生き残った遺伝子は、洵汰されずに済んだ、少なくとも致死的ではなかった遺伝子たちである。ある遺伝子を有害、あるいは不要と考えるのは、そのときの人間の文化的価値観である。もしも、それでもなお致命的な、あるいは社会的に生き延びるのに不適な造伝子があるとすれば、突然変異によってまた新たにつくり直されてもとどおりになつた、���均衡」とよばれる現象が起こっているだけである。
壱岐島(長崎県) にあるこの岩は、形状や配列などは、まったくのランダムな造形であるにもかかわらず、人が見るとそこにはまぎれもなく「猿」がいる。迫伝的才能というのも同じように、 ランダムな遣伝子の配列が生み出した行動の表現型に、人が価値づけをして認知したものである。
「猿」の顔の周りにも同じようにランダムに雅ぶ岩が存在するが、そこには特別の「意味」は読み取れない。それに意味づけをすることが、「未知の迫伝的才能」の発見に相当する。どこをどう切り取ってどう意味づけられるかが問われるのである。
アフリカ系は生まれつき陸上競技が得意であるとか、アジア系が敬学やコンピュ—タサイエンスが得意などといつた、「遺伝的民族性」があるような印象を生じさせるが、それはあくまでも相対的な頻度の違いであり、そのために生じる出会いの確率の違いにすぎない。
生命活動を説明するうえで遣伝情報は、個体発生の中では原因となっても結果にはならない。それがセントラルドグマであり、環境がさまざまな原因で変えられてしまうのとは本質的に異なるところである。だから、出発点となる遺伝情報は書き換えられないという事実はまさに、ある個人の実存に関わるものである。もしあなたがゲノム編集によってその出発点を書き換えれば、それは前とは異なる生物学的条件をもった、異なる実存を生きる人間になることを意味する。
生命はこのセントラルドグマに縛られている。生命は迪伝子を超える、行動や文化は遺伝子を超える、とどれだけ声高に叫ぼうと、このセントラルドグマの制約から逃れることはできない。始発点としての遺伝情報を芯き換えることができるのは「偶然」でしかない。それが突然変異だ。コピーミスと考えられているこの現象も、何らかの適応的な変化である可能性は否定できないが、少なくとも個体発生の中でそれが起こることは考えにくい。つまりキリンが高いところにある食べ物を食べようと努力して首を長くしていたら、首の長さを決める遺伝子に首が長くなるような塩基配列の変化が起こるなどということはない。「獲得形質は遺伝しない」というのが、現代遺伝学の原則である
同一の遺伝情報を持つ一现性双生児でも、さまざまな差異が生まれる。それをDNAの分子的なレベルで説明するとされているのが「エピジェネティクス」だ。
エピジェネティクスとは、DNAの分子のある部分にアセチル基がついたり、DNAが巻きついているヒストンをほどくところに外側から化学的な作用が付加されたりすることで、遺伝情報を転写するかしないか、どの程度転写させるか、に変化を生みだすメカニズムのことである。
たしかにエピジェネティクスは遺伝子の動的な変動をもたらす。しかしそれはあくまでも個人内での出来事だ。自分の持っている遮伝情報をどう発現させるかの範囲内での動的変動であり、DNA上の迫伝情報自体が変わるわけではない。
しかも、エピジェネティクスそれ自体にも、一卵性双生児どうしではかなりの一致が見られることが知られている。エピジェネティクスのメカニズムもジェネティクス、つまり遺伝情報から独立ではないのだ。お釈迦様の手のひらの上で、自分は広大な���間を自由に飛び回っていると思い込んでいた孫悟空のようなものである。
DNAの型によって異なるもとの出発点であるDNA の塩基配列自体が、エピジェネティクスによって書き換えられるということはない。それがセントラルドグマである。DNAの塩基配列が「すべてのはじまり」であるという原理は覆ることはないのである。
これは統計学の因果モデルで用いられる「外生変数」、つまり他の変数からの影響を受けない、因果律の出発点となる変数に似ている。それに対する「内生変数」は、他の変数からの影響で変化する変数のことで、変化させる原因は外生変数だったり、他の内生変数だったりする。経済現象も生命現象もたいがい、ある一部だけを取り出すと他からの影響を受けて変わる内生変数だ。遺伝情報は唯一の外生変数なのである。
マクロ経済学ではしばしば、政策変数や投資変敏をモデルの単純化のため便宜的に外生変数と置いて、所得や消智といった内生変数を方程式で解くらしいが、遺伝学では便宜的ではなく実体として、遺伝子型が外生変数、表現型が内生変数ということになる。したがって経済学のモデルに造伝変数を入れることで新たな展開が期待できるはずで、行動経済学はそのことに気づきはじめているようだ。ただし、それは個体発生においての話であり、系統発生、つまり進化レベルで見れば、それすら突然変災という究極の外生変数によって変化する。
ある生命個体をつくりだすことのできる遺伝情報全体のことを、逍伝学では「ゲノム」とよぶ。30億対の塩基の配列、その全体が、一つの有機体をつくりあげ、それが誕生から死までのあらゆる生命の営みにおいて、そのゲノムの持つ個休性を示しつづける。ヒトにおいて、それは「人生」とよばれる。
人は文字通り、他人の「顔色」を意識しながら生きている。その意味で、顔は社会的である。
そうした社会的な存在としての顔が、 その人の人生を形づくる。誰一人として同じ顔の人はいない。そんな無限の紐み合わせが形成する人間社会を構成する私たちには、予測不能な遺伝的多様性がある。遺伝子を伝達する減数分裂や組み換えなどのしくみが、同じ家族内でも大きな差異を生み、社会全体では、そして人類史全体では「とてつもない多様性」を生みだしているのである。しかし、それにもかかわらず、それはホッブズがいう圧倒的迫伝的同一性に支えられている。能力の遺伝について考えるとき、そのような潜在能力の遺伝的多様性を、社会と歴史がどう認識するかによって、希望と恐怖の両側面が現実感をもって迫ってくる。
2章 才能は生まれつきか、努力か
「才能は生まれつきか、努力か」という問いは、科学的なものというよりも、才能や能力は不可変か可変か、つまり生まれつき決まっていて変えられないものと考えるか、それとも努力によつて変えられると考えるかという、いわば信念の問題からくるものだろう。心理学では「知能観」の研究というものが膨大にあって、「知能や能力は変わりうる」と信じている人のほうが、「知能や能力は固定的だ」と信じている人よりも勉碰に前向きに取り組み、成紐もよいという結果が示されている。したがってすでにこの時点で、行動遺伝学が見出した大原則である「心はすべ���遺伝的である」という事実を示す.頑健なエビデンスに見向きもしないで、思考停止することになっている。
心の働きも、ほかのあらゆる生物学的形質と同じく迫伝の影翎を受けていることが、有無を言わさず示されているといわざるを得ないだろう。自由意志や訓練・教育によっていかようにも変化し成長させられると信じられている心理的形質もまた、遺伝子から自由になる特権を与えられているわけではなかった。むしろ、能力に遺伝の影響があることは、身長や体重や体質に遺伝の影響があるのと同程度の、ありきたりな現象だということである。
「才能」と私たちが呼ぶものも、心理的形質の一種である。だから、遺伝の影響があることは疑いえない。遺伝子が生まれつき与えられたその人の存在の出発点である以上、いかなる才能や能カにも「生まれつき」がかかわっているのだ。
「生まれつき」は「遺伝」といわれたり「生得的素質」といわれたり「天性」「素因」「資質」などといわれたりもする。遺伝学が生まれるずっと前から、 このような自然から与えられ自分の意志ではどうすることもできない内的要因をさす言葉はあった。古代ギリシアの哲学者や詩人はすでに、それをかなり重要視していた。
どんな能力も、それを生み出す前段階の状態が時間的にも機能的にもあって、それをもとに経験や学習を経て、能力や才能が育まれる。この因果関係は、それを認めるか否かは別として、論理的には多くの人が理解はできるだろう。カントも、認識の前提にそのような先験的(アプリオリな) 形式を想定して認識論を構築している。
本書は「遺伝」について説明するものなので、このあたりをどう考えるかは重要である。あらかじめ断っておくが、これら「生まれつき」「天性」「素因」といった概念は、本書で扱う「遺伝」ではない。これらはすべて「表現型」であり、「遺伝(子) 型」が環境の影響も受けて、目に見える形であらわれたものだからだ。それはDNA上の遺伝子たちのある特定の組み合わせが、タンパク質に合成された結果として発現したものである。
それに対して、本書が用いる「進伝」という概念は、前章で説明したセントラルドグマに従って、DNA 情報の発現過程においてもき換えられない、その人特冇の先験的条件として想定されたものである。
本書では「生まれつき」を「非学習性の心的機能」、つまり経験によって学習することができない心の働きと考えることにする。神経質や外向性といったパーソナリティはこれに相当する。それらがなぜ学習されないといえるかといえば、 前節で説明したように、これらには共有環境の影響がみられないからである。
いわゆる「知識」や「技能」とよばれるものは学習によって獲得され、蓄積されるから、家庭環境の影響が反映され、共有環境として検出される。しかし、パーソナリティや発達障告では、環境要因としては非共有環境しか見出されない。その人のおかれた状況によって変化はするが、これは学習による落積が生じないことを示唆している。
このように共有環境の影響の有無によって、心的機能を学習性のあるものとないものに分けて考えるのである。とくにパーソナリティのように知識として構成されないものは���「能力」に対して「非能力」とよぶべき心的機能であると考える。
パーソナリティは非学習性の非能力の代表的なものだ。多くの人は信じないかもしれないが、よい学習をするのに必要となる「勤勉性」は、そのようなものの一つである。
こうした勤勉性は、決まった時間に仕事に取りかかるという「時間遵守行動」、目標を見すえて仕事をしっづける「目標遂行行動」、成果の達成をきちんと見届ける「検証行動」など、いろいろな行動として表れるが、実は、それらは一つ一つ、技能として学習した結果として獲得されたものではない。あらゆる経験に先立ってアプリオリに、あらかじめデフォルトとして設定された状態で、そうした一連の行動特徴がパッケージとして発押されるような性向を、その人が人生で初めてその行動を発現するときからもっているのである。
誰も教えてもいないし先行する特別な経験もなくとも、そうした性質が出てくるのだ。そのときに想定されるのが「生まれつき」である。
こう説明すると、それこそ「遺伝」の直接の表れではないかと思われるかもしれない。だが、「勤勉性」の発揮が期待される課題が与えられ、それを評価する社会的文脈がなければ、この「生まれつき」はないにひとしい。その意味で、 これは遺伝の直接の表れではない。本書でいう「遺伝」とは、「遺伝(子) 型」が与える事前条件、さらにいえば個人羌の由来となる事而条件である。それに対して「勤勉性」などの性向は、「遺伝(子) 型」が生み出した「表現型」である。
さらに重要なのは、「生まれつき」の心的機能は学習性ではないが、特定の状況に置かれたときに、その状況に適応するために意識的にコントロールすることはできるということだ。やっているのは状況適応としての「勤勉行動」である。
「生まれつき」の非学弾性の心的機能を意識的なコントロールによって一時的に変化させられる程度は、状況に応じて、一定の事前確申分布に従うと考えられることだ。それはおおむね正規分布に従うと考えておいてよいだろう。たいがいの状況下ではセットポイントのあたりの値をとり、それよりちよっと高くしたり低くしたりする程度ならそこそこできるが、セットポイントからのズレが大きくなるほど、それは起こりにくくなる。一般的に「生まれつき」というと、ガチガチに固定されたものを連想し、遺伝決定論を導いてしまいがちだが、この程度の幅はあるのである。
ここで「意識的」と言っているものが、まさにこの章で問題としている「努力」に相当する。これは心理学でいえば「自己制御」とか「メタ認知」などと呼ばれる機能を用いてなされる認知的コントロールだ。
パーソナリティはしばしば「非認知能力」とよばれることがあるが、 それはいわゆる知徒や学力のような頭のよしあしにかかわるものを「認知能力」とよび、 それ以外を「非恕知」としたことからきている。しかし、 この見方は誤りである。自分自身をもう一人の自分が意識的に監視してコントロールする機能は、まさに認知的なものだからである。これは脳の機能としては「ワーキング・メモリ」に相当し、背外側前前頭野と後・頭頂葉との間をつなぐネットワークがつかさどっている。
これがワーキング・メモ���の容量と時間の制約である。自分自身を意識的にコントロールするときも、この制約があるから一時的にしかコントロールできず、 状況が次に移って変化してしまうとその機能は働かなくなる。この脳神経学的な働きが、「努力」という言葉が示すものに相当するのだ。だから努力は一時的にはできてもなかなか長続きしないし、 学習によって「努力」力が筋肉のように増強されるわけでもない。不真面目な人や内向的な人が、努力によって高い勤勉さや外向性を維持できるわけではないのである。それらは学習しても蓄積されることはないし、同じ家庭環境で育った双子のあいだで類似性が高まることもない。したがって共有環境の影響はないと考えられるのだ。
もし逆境を脱する能力があらかじめ遺伝で決められているとすると、自由意志による努力が如駄ということになつてしまうので、遺伝であるとは認めがたいだろう。努力がここで述べたように心的負荷のかかる自己制御であり、一時的な変化を生むことを認めたとき、それならば自由商志の余地があるとそえて安心するか、それとも、少しでも遺伝の影響があればもはや自由意志とはいえないとして、その考えを拒むか。あなたはどちらの立場だろうか。
知識は「記憶」と言い換えてもよい。この言葉の使い方は雑だという印象を持たれるかもしれないが、心理学のテキストでは、たとえば「宣営的知識, 手続き的知識」を「宣言的記憶, 手続き的記憶」と呼ぶこともあり、両者はしばしば同じ意味で使われる。
そして本章で取り上げる「才能は生まれつきか、努力か」という問題で用いられる「才能」とは、「能力」の中でもとくに社会的に卓越したものと評価されるに至った能力と定義する。つまり能力の中でも、とくに「他者に価値があると評価された能力」を、ここでは「才能」とみなすわけだ。
学習をするときに使うさまざまな認知的機能にも、遺伝的な影響があり、遺伝的個人差が生ずる。それは、知識を運用するときの速度であったり、知戚と知識を結びつけたり、知識をできるだけ長く、あるいは摩耗させずに持ち続ける働きであったりといった、さまざまな忽知的機能である。とくに重要なのは、先ほど述べた非能力の状況適応にも用いられる「自己制御」、 すなわちワーキング・メモリの働きだ。これ自休は非学習性の「生まれつき」の心的機能なのだが、この機能は非学習性の非能力にも、学沮性の能力にも、いずれにもかかわっていて、この場合には学習性の能力に関与しているのだ
ある時点で発押される「能力」は、その前に時間的にも機能的にも先行する事前能力としての「能力」(適性のうちのレディネス) や「非能力」(素質あるいはパ—ソナリティ) を土台にしている。その土台の上で、学習したり、ワーキングメモリ—や努力によって自己制御しながら状況に適応したりすることが「経験」となり、経験によつて新たな知識が獲得され、それが次の段階の「能力」となる。さらにそれは蓄積されて、次の「能力」の適性となっていく。「能力」とは、このようにつねに経験によって学習されていくものなのである
なかにはふだんから勉強などという意識なくその行動 歴史の本を読むとか、ピアノを弾くとか) を続け、そのまま社会に出て「試験」と呼ば���る場でパフォーマンスをし、 それが終わってもなお、 相変わらず淡々と、同じ行動を続ける人もいる。そのような人にとって、「練習」「勉強」と「本番」との区別はわれわれが勝手にそう解釈しているだけのこと、あるいは社会的にそのように呼ばれているだけのことであり、生物学的に区別できるものではない。
だからここでは、そもそも「練習」「訓練」「修行」「トレーニング」「勉他」などという特別な区別は生物学的には「ない」と考えて、これらをすべて「学習」と名づける。そして「学習」は「経験」と同義とみなす。
専門用語として「学習」を用いるときには、少し異なる意味を付与して、生物学的に意味のある概念として用いたい。「学習」とよんだときは、心理学的に特別、意味のある言葉となる。それは「行動の変容が起こること」
だ。「行動形成」とも「行動獲得」ともいう。これがまさに「能力」の概念に対応する。つまり「能力は学習から生まれる」と考えるのである。あるいは能力の形成・変化に関わる部分を「学習」とよぶことにする。
おそらく「遺伝か、環境か」という問いは「生まれつきか、努力か」という問いと同じく、不可変か可変か、変えられないか変えられるかという問いとして表れると思われる。そして遺伝が変えられない要因、環境が変えられる要因と、一般に考えられるのだろう。
だからこの「遺伝か、環境か」という問いの構造は、「内在か、外在か」という次元と、「不可変か、可変か」という次元をあわせもっていると考えられる。
能力の中でも、ここでとりわけ重要なのは、社会的に適切に機能している集団の成口が、「価値がある」と評価した能力である。「社会的に適切に機能している集団」などとあいまいな概念を持ち出してしまったが、ここではそのあいまいさを残したまま、厳密には定義しないことにしよう。
いずれにせよ才能は、「能力」の中でも社会的に突出した価値を持つと評価されるもののことである。「能力」とは、すでに述べたように「知識」や「記憶」と同義, 同次元の、学皆性の心的機能であると考える。
「能力」は、「ある特定の状況や課題において、個人に同じ機能をもった行動を反復して起こさせる神経的・身体的ネットワークの活動」と定義できるだろう。
数学やフィギュアスケートやピアノがその社会になければそれらの能力はないという意味では、あらゆる「能力」は生物学的実態ではなく社会的構成概念である。そして極言すれば、生物学的実態と思われるいかなる物質や現象も、それを抽出して人間が考察の対象としている時点で、すべて社会的構成概念である。
どんなに社会的に構成された「なんちやら力」(知的能力、掃除力など) という概念が指し示そうとする能力もまた、生物学的であるといえる。生物学的実態と社会的構成概念を別物とみなすこと自体がナンセンスなのである。
ピアノやスケートや学業のように社会的に認知された能力であれ、他若の悲しみの感悄を敏感に察知するというような認知されていない能力であれ、ある時点の能力は、次の時点では学習する事前条件としての「適性」あるいは「レディネス」とみなすことができる。学習によって知識や技能に進歩があれば、そ���もまた次の時点への適性やレディネスとなる。
ある個人に能力が発現するときは、その条件として、3 つの出来爭があると考えられる。それは、(1) 個人問の出来小、(2) 個人内の出来事(この2 つは遺伝側) 、(3) 個人外の出来事が(これは環境側) である。それぞれは固定的なものではなく、ある確率のもとにその高さや強さが変動する事前分布を想定することができる。
能力の蓄積的な側面としては、たとえば知識の絶対手量や技量の絶対レベルは、学習や訓練を積めば一般的に増加傾向をたどることがあげられる。特定の目標に狙いを定め、長期にわたって長時間の意図的訓練を行えば、外国語、プログラム言語、将棋やチェス、記憶術、楽器の演奏能力やスポーツのさまざまな力ほなどで、いわゆる一流、超一流の域に達することが多くの研究で示されている。
問題はその出発点としての「特定の目標に狙いを定め、長期にわたる長時間の訓練を行う」ところに、遺伝的な個人差が関与していることだ。人生において、どんな目標に出会い、照準をあわせることができるか、長時間の思慮深い訓練を、苦労をものともせず持続できるだけの対象と状況が得られるか、そこには進伝的な個人差が影響してくるのだ。
知能を、能力を考えるときのゴールドスタンダードとする理山としては、次の6 つが挙げられる。
(1) 知能は人類最大の関心事である
哲学における知性の探究は、ロツクの『人間知性論』やカントの『純粋理件批判』に代表されるように、人間を人間たらしめるために吊も正耍で井過的な精神の働きとしての知性の本質を問う方向に関心が向けられていた。
心理学においても、認知心理学が取り組んでいる推論・記憶などについての研究は、すべて知能のしくみの解明に関わるし、その発達過程に挑んだピアジェの発生的認識論やヴィゴツキーの発達最近接領域説なども、知能の発生の解明として位置づけられる。
つまるところ、ヒトの脳が世界を知り、「知る」とともに身体を世界に適応させようとする臓器として進化してきたからだと思われる。だからその知能が、みずからを「知ろう」とする営みも果てしないのである。
(2) 心理学的測定法(IQテスト) が確立している
ビネーはシモンとともに、 常識的な頭のよさをあらわす課題と、現在まさに使われているー般的知識や記憶や問題解決課題にバッテリーを組ませることで、妥当性の高いパフォーマンス尺度を構成することに成功した。これを知能指数として数値化したのがシュテルンであった
この知能検査、すなわちIQテストから吐き出される知能指数は、「負のよさ」をたった一つの数値で露骨に表現するそのわかりやすさから、世間に流布し、よく利用されるとともに、憎悪された。人を序列化し、差別するための道具になる、知能検査で測られているのは本当の知能ではない、などなど、知能が人々の関心事であったがゆえに、さまざまな知能検査批判が生まれた。
それらの批判にはイデオロジカルなものもあったが、批判に答えるために知能検査の妥用性や信頼性を検証する実証研究が心理学の他のどの検査よりもたくさん実施され、その効用と限界が示されたこと、そして次に説明するエビデンスにもとづく確かな心���学的理論を生み出したことの功績は大きい。
(3)一因子性と階層性が示されている
相関があるということは、その両者の間に、そして知能検査の項目間に、それらを相関させる共通の何かがある、つまり一因子性があると考えるのが妥当だろう。それが「一般知能」とよばれるものだ。その共通するー因子を統計学的に導き出すのは、因子分析という手法である。この手法を初めて使ったのが、まさに一般知能の存在を示したスピアマンの論文だった。
ちなみに、パーソナリティでは原則として一因子性は出てこない。パーソナリティには外向性、神経質、協調性などの異なる因子が見出されるのがふつうである。
それに対して知能は、記憶、言語課題、空間課題、語衆、推論、などさまざまなテスト項目が開発されているか、 どんなテスト項目をつくっても互いに相関があり、その背後に共通する因子が想定される。それを「一般知能」として概念化しているのだ。
ー因子性は頑健なもので、ある領域に固有な特殊因子がそれに色合いを与えるという古典的なスピアマンの二因子説がもっとも顕在であり、それを展開したキヤツテル・ホーン・キャロル理論 が、ー技知能理論のスタンダードとみなされている。
他方、知能は一つではなく多様であるという考え方も、一つの知能観の主流をなしてはいる。古くはサーストンの多因子説、最近ではガードナーの多重知能説がある。とくに多重知能説は、教育界では受け入れられやすい。それは人問の能力が示すさまざまな文化的な多様性、個人内の能力間の凸凹をきめ細かく見て、長所短所を評価し、長所は伸ばし短所を補うといった教育的指導の指針に資することができるからである。その意味で多因子的な見方は有益であるが、ガードナーが挙げた8 つの因子(言語的、論理数学的、音楽的、身体運動的、空間的、対人的、内省的、博物的) は、便宜的で、恣意的ですらある。
ガードナーが掲げていない知能は、たとえば政治的知能、経済的知能、家政的知能、調理的知能などいくつも想定できるだろう。
もし多重性を強調するなら、知能はもっとずっと多様で、8 つに集約などできず、むしろランダムにダイナミックにクラスタ—をつくり、しかも相互にネットワークをなしていると考えるほうがリアリティがある。そのネットワークによって全体が一つにまとまっていると考えると、一因子性が浮かび上がってくるのである。
スピアマンは知能の定義として、「関係性の抽出とその適用」だとした。ヒトの知能は実にさまざまな働きをしており、たった一つの機能に還元することは難しい。「脳は予測器である」という考え方はヒントになる。その一つのわかりやすい特徴が、スピアマンのこの定義だろう。
(4) 脳神経学的基盤が解明されつつある
脳はこれまで「学習の臓器」とされてきたが、近年では「予測の臓器」として統一理論が構築されつつある。
すでに外界にある知識を受動的に習得するだけの「学習」だけでなく、むしろ外界からの情報を歩前に「予測」するモデルを能動的に構築していて、その予測誤差を最小化するように働いているという考え方である(自由エネルギー原理)。
人が生きていくためには、自分の行動に関する��ろもろのことがらを「正しく理解できているという感覚」が頼りとなる。この「正しさ」の感覚が外界に対する適応感、環境へのフィット感、チューニングされた感じとなる。だが「正しさ」の感覚はしばしば揺らぎ、正確さを欠いていたり、 理解できていなかったり、もっと正しい理解のしかたがありそうなことに気づくことがある。そして、それを理解するために必要な知識にアクセスできていないことに気づくと、それが知的好奇心となり、 学習欲となる。
このように、「理解すること」は「生きること」に深く関連している。そして理解するための重要な働きを担っているのが知能である、とする考え方である。
(5)遺伝的基盤が解明されつつある
知能は本書の眼目である迫伝的基盤との関係が明らかである。知能検死の钵点が遺伝の影響を受けていることについても、確かな知見が蓄積されている。
(6) 知能とは統計学的現象である
最後に、知能についての垂要、 そして能力一般にも適用できる考え方をあらためて確認しておきたい。これだけ頑健なエビデンスをもとに構築された「知能」は、もはや明らかに脳の中に実体として普遍的に存在するものというイメ ージを与えがちだが、 それは幻想であるということだ。
知能という現象は、遺伝子の生み出した脳が無数の物理的, 社会的刺激の動的パターンに対して、一刻一秒とどまることのない神経活動から統計的につくり出した内的モデルの表れであり、われわれはその全体のパタ—ンを見ているにすぎない。
よく挙げられる例であるが、それは画素数の大きなカメラが映し出す外界像のパタ—ンのようなもので、 あくまでも画素の小さな単位の集合が織り成す外界の近似にすぎない。そこに花やヒ卜の顔が映し出されていたからといって、花そのもの、顔そのものがあるわけではない。
その集合体としての「知能」の構成要素がどこかに実在として存在するわけではない。その意味で知能は「構成主義的」なのである
極端な構成主義が本質主義に対抗してしばしば主張するような「いかようにもなりうる」というものではなく、構成された神経活動のパタ—ンが対象物に対し、個人として、種として、時間的にも機能的にも一貫性を見出せる程度の、十分に安定した状態をつくり出している。
だから、あたかもそこになんらかの本質が存在するかのように见えるし、また実際、木質があると仮定したモデルのほうが、「いかようにもなりうる」と仮定するよりもはるかに適応的なほど、安定したパ夕—ンが確率的に存在している。この微妙さに、居心地の悪さを感じるかもしれないが、自然とはそもそもそういうものだとしか言いようがないのである。
3章 才能の行動遺伝学
ー卵性の類似性は二卵性の類似性をおおむね上回る。知能検在やパーソナリティ検査は部屋の中で紙と鉛筆で回答してもらった結果であり、生身で行動している場血とはちがうと思われるかもしれない。しかし、一卵性双生児に自由に行動してもらった場面をビデオで録画して比較しても、類似性は強く見出される。
心の働きも体の働きも、同じように遺伝の影響を受けていることが示される。体つきや病気はともかく、人の心だけは特別であり、遣伝, の支配を超え、自分の自由・意志によっていかようにもなりうるという考えは魅力的だが、単なる神話、錯覚、迷信にすぎないということがおわかりいただけるだろう。
だが一方で、 人間の行動は进伝子によって完全に支配されているという考え方もまた幻想にすぎず、実際には遣伝の影響は日常生活の行動の中にときどき見え隠れし、ゆるくその存在感を示している程度である。
自分の心や行動を、その場そのときの意志によって認知的にコントロールすることはできる。しかしそれはその人のセットポイントを中心に、一時的にある程度の範囲内で環境に適応するべく行動のしかたの強弱を調弦するように働いているのであって、コントロ—ルする必要がなくなれば、またもとのセツトポイントに戻るのである。
重要なのは、能力や非能力を含めた「心の働き」という果実は、どんな角度で切っても、そこから遣伝の果汁が滲み出てくるということである。そして、それは能力に限らず、ヒトのやることなすこと、さらにはそのヒトを取りまく環境など、個人差が生じるすべての
側面に、同じように中程度に、しかし必ず有意に、表れているということだ。それは「なんちゃら能力」などと名づけられない個性的な行動のレベルでも発生するのである。
人間の心や行動に及ぼす遺伝の影響の表れは、われわれの日常の中で、 あたりまえで普遍的なこと、 別の言い方をすれば「地球が丸い」のと同じくらい 、ありきたりな現象なのである。ここから、次の三つのことを類推して考えることができる。
(1) これまで認識されず測られてもいなかった能力にも、遺伝の影響がある。
(2) いかなる行動の瞬間の中にも、遺伝の影響が表れている。
(3)社会を構成する人々が発押している能力のネツトワークも、遺伝の影響を反映している
遣伝率とは、親から子に形質が伝建する割合ではない。「知能の遺伝率が50%」とは、親から子に知能が50%伝わるという意味ではないのである。遺伝率とは、 ある特定の社会における表現型の全分散のうち、遺伝子型の分散で説明される割合のことである。それは、その集団における遮伝の「効果覺」であり、環境の違いでは説明できない割合である。それが大きければ大きいほど、環境の変化によって変わりにくい性質である、という意味でもある。
わたしたちは統計を見るとき、しばしば集団の平均値にしか関心を寄せない。そして、そのような数値の原因となる文化的、制度的なちがいを臆測して、一喜一憂しながら反省したり自己批判したり優越感を覚えたりする。
統計学でよく用いられる、集団のばらつきを表現する統計量が「分散」と「標準偏差」である。分散は一人ひとりの測定値がその集団の平均値からどのくらい隔たっているかを二乗したものの平均、標準偏笊は分散の平方根である。分散が大きいほど、平均値からのばらつきが大きいことになる。
行動遺伝学は、分散の学問である。この低の中にいろんな人がいる、そのばらつきの原因は何か、そこに辿伝の違いが関わっているか、関わっているとしたらどの程度関わっているのか、遺伝で説明できない耍因、 つまり環境の違いで説明されるのはどのくらいか、どんな環境の違いがどの程度の説明力をもつか、そんなことを探究する学問である。
行動遺伝学は「遣伝学」を名乘っていることからも、生物学の一分野と思われているだろう。しかし、それよりはむしろ社会疫学である。社会全体に存在する個人「差」の・原因を突きとめる学問である。その社会として「人類全体」を想定すれば、普遍性のある巾然科学的な真理の探究となるかもしれないが、実際には、ある特定の時と埸所における、将定の社会に住む人々のはらっき具合の実態を明らかにしよう、というモチベーションから源かれている。
長年にわたる行動遺伝学研究の膨大な成果を、プロミンは以下の10点に要約した。
(1) あらゆる行動には有意で大きな遣伝的影響がある。
(2) どんな形質も100% 遺伝的ではない。
(3) 遺伝子は数多く、一つ一つの効果は小さい。
(4) 表現型の相関は遺伝要因が媒介する。
(5) 知能の遺伝率は発達とともに増加する。
(6) 年齢間の安定性は主に遺伝による。
(7)環境にも有意な遺伝要因が関わっている。
(8) 環境と心理的形質にも遺伝的媒介がある。
(9) 環境要因のほとんどは家族で共有されない。
(10)異常は正常である。
行動遺伝学の10の知見は、かなり普遍性のある現象であり、個別には例外もあるかもしれないが、人間の行動や社会現象を理解するうえでの原則を示していると考えてよいものである。遺伝の影響とは、 決してその一般的イメージが与えるような強固で決定論的な要因ではない。その発現の過程では、遺伝子の与える、あるセットポイン卜を中心として、環境に応じたある程度の幅をもって動くものと考えるのが、現実的である。
「遺伝と環境の交互作用」 という言葉は、遺伝の効果が環境によって変わってくること、あるいは環境の影響が遺伝の条件によって変わってくること、 したがって、遺伝と環境の足し算では誠明できない現象であることを意味する。これを相互作用における遺伝の主効果、環境の主効果に対して、「交互作用効果」という。
遺伝と環境の効果量はなんらかの条件の差によって異なること、遺伝の効果は環境や状況によって変化することを意味している。
知能に関しては、 家庭の統済状況や親の社会的地位が高いと遣伝率が大きく、逆に低いと共有環境の影響が大きいという交互作用が、しばしば報告されている。
これは経済的・文化的に豊かな環境下では子どもが自分の遺伝的資質にあわせて自由に環境を選択でき、その結果、遺伝の効果がより顕在化しやすいのに対して、貧しい環境下では子どもの知的成長に振り向けられるお金や時問に制約があるからと考えられる。
自分に関す記憶や思考、 内谷など、 自己にかかわる機能をもつデフォルト・モード・ネットワークが、遺伝と共有環境の影響をともに持っており、しかし実行機能の中枢である前頭頭頂ネツトワークや頭著性ネットワークとは直接の関係を持っていないことである。自己にかかわるデフォルト・モード・ネットワークと前頭頭頂ネットワークは、しばしば背
反し拮抗しあう関係にあり、心が外的悄様処理に向けられ、いわば頭を使って学習しているときは前頭頭頂ネツトワークの活動が活発になるが、安静に効を休めてぼ一っとしていると��には前頭頭頂の活動は抑制され、代わりにデフォルト・モード・ネットワークの活動が優勢になる。
いわば脳が注意を向ける方向性を、外部か内部かで切り替えるのが、気づきネットワークともよばれる顕著性ネットワークなのである。それがデフォルト・モード・ネットワークと直接に関わるのではなく、前頭頭頂ネットワークを制御することで、デフォルト・モード, ネツトワークとの
相対的関係の重みづけに関与している様子が垣間見られるのだ。
このことは、ヒトが前頭前頂ネツトワークが担う客観的知識を学習しながら、 デフォルト・モ—ド・ネットワークがつかさどる遺伝的な素質を持った自分というものを、社会の中で自己実現してゆかねばならないという、近代の困難な.課題を読み解くうえで、きわめて示唆に富む結果が示されているといえるだろう。
4章 遺伝子が暴かれる時代
教育年数、ひいては知能に関連するSNPをNDAマイクロアレイで調べると、その塩底配列との対応が、すでにわかっているどの組織において発現量が多いかを知ることができる。つまり教育年数に関連する塩基配列が、具体的に、生体のどのような部位と関わって機能しているかが推定できるのである。これを「遺伝子アノテーション」という。
私は最近、一卵性双生児それぞれのライフヒストリーを聞き取って比較している。その様子をみると、これまでの量的研究が示すように、パーソナリティや趣味、関心などさまざまな心理的形質の類似性を双生児きようだいの間に見出すことができて、大変興味深い。ただ、 さらに興味深い発見は、そうした心理的特性がただ単発に独立して類似しているだけでなく、たとえば趣味や得意なことが類似していると、それが誘発するさまざまな人生体験も、それに引き込まれて似てくる傾向があるように思われることだ。
5章 遺伝子と社会
長年にわたり行動^ 伝学研究に携わり 、本挡で紹介したように、人即の心的機能にも遣伝の影響が隅々にまでさまざまな形で表れているというエビデンスにさらされ統けていると、人間観のコペルニクス的転換を余儀なくされる。悪いのは遺伝子ではなく、環境のほうが遺伝子に適応できていないのだ、と。
遺伝的特徴をそのまま隠さずに生きることができ、他者にもそれを受け入れられて、肯定感を持って一生をまっとうできるような社会は、どうしたら成り立ちうるのだろうか。
この世に生まれ落ちた人々は、一方では高度な「快」や「美」や「真」などの文化を誰もが享受しながら、もう一方ではそうした問題解決のために、謙虚に誠実に利他的な労働に従事し、それ自体が誇りと喜びを人生に与えてくれるようになるだろう。
その結果として、人生において生まれてから死ぬまで、自殺や社会への報復をしたくなるほどの不幸を味わうことなく、個人的な悩みもある程度の時間をかけて試行錯誤すればいつか必ず解決できるチャレンジングなパズルのようなものと化して、あらゆる人間が適度な範囲の「努力」をともなう「波乱万丈」の人生を謳歌できる。
そして、もうそろそろいいかなと思ったときには苦痛なく生を終えることも、生き延びたければ、老化せず、永遠にすら生きつづけることもできる。そ���人数も予定調和的にバランスがとれ、深刻な人口増大を起こさずにすむ 。そんな時代が永遠に続くと確信できる社会が実現するだろう。
幸福の追求は結局のところ、界の河原、「逃げ水」を迫いかけるにすぎないのだと私は思う。この考えは、私の主観や主義の間題ではなく、笑現されていることについての、事実認識の問題である。
仮にそれらがすべて乘り越えられ、新しき人の此(超人世?) になったとしても、実はいまとそんなに変わらないのではないだろうか。実はいまのままでも、われわれは」分にまともなことをしているのではないだろうか。そんな保守的な主張を、私は展開しようとしている。そう、正しい世界はまだ実現していないのではなく、いまのままで正しいのだ。
そう主張する根拠は、これまで述べてきたような意図的で理想的な人為湖汰と同じことは、すでに自然淘汰が何十億年もかけて成し遂げてきているからだ。しかもそのうえで、いま世界中の人たちが人為淘汰を世界のあちこちで行いつづけているからだ。その証拠に、世の中には悲惨なことも多いかわりに、心を打たれる人々のふるまいや、心を和ませてくれる文化も、日々感じることができる。それは、すでにいまの社会にも、隅々にまでつねに人の善性が働いていることの証拠であろう。
公教育の世界は、このようにスローガンが先行し、「新しいなんちゃら」の旗をちらつかせることの繰り返しである。そのスローガンを必死に誠実に真剣に概念化し、そのためのより効果的な教育方法を考案して、お金もつけて実施する。わが国はたぶん、そのようなことにとてもエフオート(努力、奮闘) を費やしている国の一つだと思われる。
そして、そのエフォートがどのような結果を実際にもたらしたかについては、けっして検証されることはない。だから対立仮説、つまり、ひよっとしたら本当はそちらのほうが正しいかもしれない別の仮説を立てて比較するという視点も持たない。
自分のやり方を変えてみてもどうしてもフィット感を得られず、これから先にド想される学習内容、学習環境、教育方法や教育環境が実現されそうもないと思ったときは、その空想(予測) を膨らませてみることも、現状を受けとめる手がかりになるのではないだろうか。これは教育の場而に限らず、 あらゆる社会的な営みに対して当てはまることだと思う。
アリストテレスはものごとには4 種類の原因、すなわち形相因(それは何であるか) 、起動因(なぜ動くのか) 、質料因 何でできているのか) 、目的因(何のためにあるのか) があるといったが、遺伝要因は目的因以外のすべてに当てはまる。
なぜタブー視されがちな「遣伝」にわざわざ光を当てようとするのか。それは、生命にとって出発点となるこれほど重要な情報源が、人間の心理や行動やそれが生み出す社会を考えるときに、不当に無視され、そして誤解され続けてきたからである。
遺伝が原因であれば差別してもよい、差別されてもしかたがないという優生思想が、人々の心の奥底に眠っていることを意味する。もし本書を読んで心がざわざわするとしたら、まさに心の底に眠る内なる優生思想を掘り起こされたからだろう。これはあなた自身の手で克服しなければならない人類の課���だ。
遺伝を白日の下にさらそうとすることには、もうひとつの積極的な意味がある。それは人間の世界を本当に救ってくれるのは、確固とした遺伝的素質から生まれ出た「自然の能力」であって、環境や教育によって人為的につくり出されたものではありえないという、 漠然とした、しかし確固とした確信があるからだ。
遺伝子は一生涯、あなたの心をあなたらしい形で自動運転しつづけている。それはまず、その人の内側からいやでも湧き出し、湧きつづけてしまう夢として立ち現われる。そして、 それを実社会の中で形にする道を模索する道しるべとなりながら、何かを生み出しつづけ、その生み出されたものが、同じ社会を生きる人たちに、なにか幸福と夢を抱かせてくれる。人類の歷史はそのようにして紡がれてきており、これからも紡がれつづけていくだろう。人間の心と能力が40 億年の来歴を持つ遺伝子の影響を受けているという事実は、 人間そのものを信ずる確固とした根拠となるはずである。