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翻訳家を志す私としては避けて通れない一冊ですね。英語の翻訳を主体に書いてありますが、森鴎外や二葉亭四迷などの話も載っていて面白いです。後半は誤訳の紹介になってしまっていたのが少し残念でしたが、とても参考になった本でした。
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ジェームス・ジョイスの翻訳で有名な著者ですが、本書では二葉亭四迷、堀口大學、澁澤龍彦などなどの文学者の翻訳に関する姿勢を援用しつつ、氏の独特の翻訳スタイルがどんな考えに基づくものであり、それが決して駄洒落の一言で済むものではなく、原書の精読によるものであるかを告白しています。本書では、他書の誤訳をいくつか指摘していますが、氏持ち前の駄洒落っぽさで刺々しさを中和しています。翻訳にはいかに『志の高さ』が必要かを痛感させられる一冊です。
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翻訳された文章を如何に日本語らしく表現するかについて書かれた本。他の翻訳者がどう翻訳し、自分はどう翻訳するかを比較した文章が多く、途中で飽きてしまった。
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考察が細かく、熱意がすごく伝わってくるが、如何せん批評の仕方に節度が感じられず、人品を損なっているように思われて残念。
言葉遊びも入れすぎると読みにくいだけ。それがおもしろくなかったり、サラリーマンの駄洒落のようにしか感じられないと最早苦痛。
同業者同士の喧嘩は内輪でやった方が宜しいかと。
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ここ数年、知り合いに頼まれて日本語に訳したり、「日本語があればなぁ」という声を受けて訳したり、ということをしている中で気になっているのが、どこまで自分の解釈を入れるか、という問題。
日本語だけを読む人に向けて書く場合は、どうしても解釈が多くなる。逐語訳やそれに準じたものでは日本語として不自然だったり、意味がわかりにくくなったりするから当然のことだ。
以前、チェツァン・リンポチェが来日された時、のこのこ会いに行ってタルゲンの日本語訳の本をいただいたことがあった。
当時読もうとしたものの「何これ?意味わからん」となって放置していたのだが、何年か前に読もうとしたら、これはチベット語からの忠実な逐語訳であることがわかった。チベット語の文脈の中に入れるとなるほどなるほどとてもわかりやすい。
訳者の解釈が混じっていないので、それもありがたい。ただ、日本語しか知らない人が読んだらめちゃめちゃ戸惑うはずである。
この柳瀬氏の本は、原文の味わいを損なわず、日本語で表現するというのはどういうことなのかが書いてある。日本語しか知らない読者が読んでも、である。
本来翻訳はそうあるべきだと思う。
そうであるが故に翻訳というものは著者だけのものではなく翻訳者の作品でもあるとわたしは思っている。
でも、わたしが訳しているのはそういうものじゃない。わたしの解釈は極力入れたくない。入れるべきでもない。つか入れてはいけない。
言葉には重層的な意味と文化的背景がある。
極力わたしの解釈を差し挟まずに日本語としてなんとか成り立つような、そんな訳をいつかしてみたいな、と思う。
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ジェイムズ・ジョイスの翻訳で知られる著者が、翻訳のありかたについて論じている本です。
著者はまず、「要するに、翻訳は日本語の問題である。結局は、それに尽きる」と断言します。そして、外国語の文章によって表現されたあらゆる意味を、日本語の文章のなかに実現することが、翻訳のめざすべき目標としています。そして、ジョン・アップダイクの作品などを例に、既存の訳に対して厳しい吟味をおこない、容赦なく批判をおこなっています。
一方で著者は、二葉亭四迷の「余が翻訳の標準」という文章をはじめ、堀口大学や吉田健一、中野好夫といったさまざまな論者の翻訳への取り組みかたについても触れており、翻訳という営みの愉悦を語っています。著者の翻訳に対するこだわりにかんしては、個人的には少々ついていけないと感じるところもあるのですが、翻訳という営みに耽溺するとはどういうことなのか、すこし理解することができたような気がしています。