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正直期待はずれであった。明治維新から間もないまだ江戸時代の生活がそのまま残っている東北や北海道の紀行文なのだが、人々の息遣いが伝わっているとは言い難い。温かいまなざしよりも西洋人より劣った人種として、また未開人として観察している。数か月の旅でありながら人々との触れ合う場面は少なく、プライバシーが無いとか蚤に悩まされたとか不平が多い。また、北海道では晩夏に増水した川を泳いで渡ったというから本当なのかと疑ってしまった。風景描写も凡庸で表現力に欠けると感じた
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今、日本は揺れています。
曰く、日本人は勤勉である。
能力が高い。
民度も高い、などといわれてきたことに自信を失いかけている。
果たして日本人とはいかなる民族なのか?
我々の進路はどうあるべきなのか?
近代化直後の日本を見つめたこの本には、そのヒントがあります。
明治11年、まだ前年に西南戦争が終わったばかりの年に、一人の英国人女性が勇躍、3カ月にわたって東京から東北地方を経て北海道にまで至るまでの旅をしました。
彼女は日本と日本人を見て何を感じたのか?
本は旅先から送られた私信を元に書かれています。
私信ですから、その時時の本音が思い切り書いてある。
旅の為のインフラは極めて貧弱なので、ほとんど冒険旅行です。
かなり過酷な環境を旅する場合も多々ありで、時に酷いことも書いてありますが、それ以上に、感心していることが多いです。
英国人よりはるかにましだ、という結論も多い。
500p以上の本なので、本当の面白さ、興味深い処は読むしかないのですが、ざっくり書くと
1)日本人の驚くほどの人品の高さ
2)日本の自然の世界でも類稀なほどの美しさ
3)社会自体、特に東北から日本海側に掛けての貧しさ故の惨めさ
です。
日本人は昔から本当に心柄の高い民族だったんです
自信を持ちましょう。
日本の自然は、世界のどこよりも美しいものなんです(彼女は世界中を旅した旅行家)
取り戻しましょう。
社会的貧困は人間を絶対的に害します。
経済的な発展に、賢しらな疑問を挟むのは止めましょう!
今の日本人が忘れてしまったのが、これです。
本当に貧しい社会では、医療はおろか衛生環境すら整えられず、病は蔓延し人々の置かれる境遇は悲惨を極めます。
手紙文なので、平明ですが、一気に読むのは大変です。
私はあちこちに持ち歩きながら6カ月ほどかけて読了しました。
日本とは?日本人とはいかなる民族、国家だったのか?という原点を見つめる意味で、また旅行記の名作として是非おススメしたい一冊です。
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1878年(明治11年)に、日本を訪問したイギリス女性による、東北からアイヌ居住地を巡る紀行文。
随所に見られる細密なスケッチが素晴らしく、当時の生活や風俗を知るにも好著である。
近代日本の黎明期に、東京や横浜などの都会ではなく、道もろくに整わぬ異国人未踏の地を目差した女性がいたとは、私は浅学ながら未知であった。
バードは幼少の頃は病弱であったらしく、健康のため渡航による旅行を勧められたのが彼女の世界旅行のきっかけであった。
巻末の年表によると、日本訪問はアメリカ、カナダ、ハワイ諸島などを巡ったあとで、初めてのアジア訪問であったようだ。
当時日本にはヘボンやシーボルトなど、近代日本の文化や歴史に深く携わった人々が暮らしており、ときおり本文中にもその名が見えるところも興味深い。
また、彼女の鋭い観察力によって描き出された、田舎の人々の暮らしぶりにも驚きを覚える。
たとえば、男も女も腰まで着物を脱いで、つまり上半身はだかで肉体労働に従事していたこと。
春画などでも、乳房に愛撫を施したものを見たことがないので、あるいはこの頃の日本人にとって、乳房は性的な部位としてみられていなかったのかもしれない。
日本人が子どもをとても可愛がることは、当時の外国人の多くが注目したことだったが、バードもそれに触れている。
「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないいつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情をもって世話をしてやる。父も母も、自分の子に誇りをもっている。」P131
「夜になり、家を閉めてから、引き戸をかくしている縄や籐の長い暖簾の間から見えるのは、一家団欒の中にかこまれてマロ(ふんどし)だけしかつけていない父親が、その醜いが優しい顔をおとなしそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から着物を落とした姿で、着物をつけていない二人の子どもを両腕に抱いている。」P131
子どもと言えば鞭で叩いてしつけるのが当たり前のヨーロッパ人から見れば、こうした日本の子育ての有り様は新鮮に映ったことだろう。
バードが旅行したのは東北の田舎町が多く、その住民たちは外国人を初めて見る人たちばかりであった。
物見高い彼らは、バードを実に遠慮なく物見していたようである。ときに見物人が押し寄せた建物が崩れ落ちたりすることさえあった。ところが、その後彼女が訪ねたアイヌ人居住区では、こうした見世物にされることはなかったようであるから、アイヌ人と日本人との違いも浮かび上がってくる。
ただ、アイヌ人たちが彼女をじろじろ見ないのは、彼らがバードに遠慮しているとか、気をつかっているとかではないようだ。
彼女の印象によると、アイヌ人は「みじめな動物的生活をあまり抜け出していない生活(P403)」を送る
「愚鈍な民族(P408)」であった。
本著の面白さは、こうし��日本人やアイヌ人の文化や様子を知ることに主眼があるのだろうが、私が心引かれたのは、彼女のガイドを務めた伊藤少年とバードの交流である。
バードが日本に到着して、まずすべきことは、優秀な通訳を雇うことであった。
数人の面接の後、推薦状も持たぬ少年がやってきた。
「彼は、年はただの十八だったが、これは、私たちの二十三か二十四に相当する。背の高さは四フィート一〇インチにすぎなかったが、がにまたでも均整がよくとれて、強壮に見えた。顔はまるくて異常に平べったく、歯は良いが眼はぐっと長く、瞼が重くたれていて、日本人の一般的特徴を滑稽化しているほどに見えた。私は、これほど愚鈍に見える日本人を見たことがない。(P46)」
これが彼に対する第一印象であった。「私はこの男が信用できず、嫌いになった」とまでバードは言う。
しかし、この少年伊藤は、このあとバードの文字通り右腕として活躍し、彼女の困難を極める北日本の旅を助けるのである。
伊藤について本著では余り触れられていないので、解った範囲を記しておく。
伊藤は本名を伊藤鶴吉【安政4年12月17日~大正2年1月6日 (1857~1913)】といい、バードの他、植物収集家のチャールズ・マリーズの随伴も務めた。
「逝去に際しては、「通訳の名人」「通弁の元勲」などと称賛された。日本を訪れた著名人が彼の世話になっていた」(「I・バードと山形の旅(下)」山県新聞夕刊 2000年9月6日発行)《通訳者「伊藤」という青年」より抜粋http://www13.plala.or.jp/r-shirakami/1100.html》
なお、伊藤がバードに恋をしていたという設定の創作小説もあるようだ。
『イトウの恋』中島京子著 2005年 講談社
三か月後、ふたりは感慨深く旅の終わりの朝を迎えた。
「「いよいよ最後の朝になって残念に思いませんか。私は非常に残念に思っています」と言ったとき、私たちは同じ事を考えていると思った。私の楽しい北海道旅行がこれで終わるかと思うと、非常に残念であった。また今までよりもよく働いて役にも立ち重宝であったこの少年と別れるのは、心残りすることであった。(P500)」
「彼は、いつものように私の荷物をつめる、と言ってどうしてもきかず、私の身のまわりの品物をすべてきちんと片づけてくれたのだが、彼がいないと、もうすでに私は困ってしまっている。彼の利口さには驚くべきものがある。(P505)」
醜く愚鈍で、抜け目ない少年だと思われていた伊藤が、彼女とこれほど深い信頼の絆を築き上げるとは、バードにとってもあるいはこれが最大の驚きだったかもしれない。
ときに交渉の上前をはねようとしたり、ときに茶屋の娘と戯れたり、そしてときに馬の扱いが酷いとバードに厳しく叱責されたりと、伊藤は決して品行方正な若者ではなかった。けれども、英語の習得にかける熱心さや、バードに対する忠節が、こうした関係に至らしめたのだ。
静かに別れの日を迎えるふたりの姿に、こちらも胸が熱くなる思いがする。
「さようなら」は、「左様ならば」―そうしなければならないなら―である。
―今こそ別れめ、いざ、さらば。
美��い富士山に見送られ、バードは日本を後にした。
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とにかく虫がいっぱい出てくる
よく雨が降る
服着てない人が多い
そして日本の農村は自由な社会だったということが分かる本
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読み終わって、僕が知っていた明治時代の印象が大きく変わりました。外圧や災害で時代が激しく揺れ動いている今、外からの視点がとても大事だということを改めて思い知ったように思います。当時の中央が外国人に見せたくなかった現実が生々しく描写されていて、貧乏と清貧を混同して語ってはいけないなと改めて痛感しました。
それにしてもイザベラバードの旅好きから高じたタフさ加減には脱帽。あの時代にあのルートを外国人女性が愉しみながら旅してたなんて、やっぱりイギリスは先進国だったんだなーとしみじみと思いました。
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民俗学では欠かせないアイテムのこの本。江戸時代に英国夫人であるイザ・ベラ・バードが一人で東北地方へ旅をし、(海外からの)客観的に見た当時の日本を知るなら持ってこいの一冊。
人文学科、コミュニケーション文化学科の人は見ておくべき!?
生協学生委員会お勧めの書籍です。
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明治初期、鉄道もなく整備された道さえない山間の農村集落を巡りながら、東北地方、蝦夷へ単身で旅をする。
今でさえ難しく感じるこの道のりを、言葉も不自由な外国の、しかも女性が成し遂げたという事実を、どれだけの人が知っているでしょうか。
「だだだ大丈夫!?」―最初の私の印象。
読み進めるほどに、イザベラさんのタフさに圧倒されます。
宿では大量の蚊や蚤と戦い、道では馬に落とされたり踏まれたり暴れられたり、川を泳いで渡ったり、首つりになりそうだったり。
そんな過酷な状況を面白がってるところがあっぱれ。
加えて、彼女のものを視る目の公平さに心を打たれます。
美しいものは美しい。
醜いものは醜い。
自然も人間も彼女の感性のまま、ありのまま描かれます。
「ああ、しかしなんとすばらしかったことか!」
そう彼女に言わしめた数々の景色は、現代ではきっとほとんど失われてる。
でも、この本の中で、色褪せることなく輝き続けています。
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けっこう辛辣だけども精密な描写で、100年ちょっと前の日本はこんなだったんだなーと新鮮な驚き。東北地方についてはちょっと似た感じが長々と続いて飽きたけど、アイヌのところは興味深く面白く読めた。たぶんもう、ほとんど消え去ってしまったし・・・。
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渡辺京二さんの『逝きし世の面影』を読んで知った本です。
英国人女性イザベラ・バードさんが明治初期に日本を旅した記録です。
外国人の目に当時の日本がどうに映っていたのか。
そのことにとても興味があります。
日本人を知る手がかりになる予感がします。
『中国奥地紀行』『朝鮮奥地紀行』というのもあるそうで、
そちらも楽しみます。
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イギリス人による明治時代の日本旅行記である。
なぜイギリス人女性が開国直後の日本を、それも外国人がほとんど立ち入った事がない奥地を選んだのだろうか。梅雨時の悪路や決して衛生的ではない宿に悩まされ、さらに人々の好奇心の目に晒されながら、旅を続けるモチベーションは何だったのだろうか。
本書はもともと彼女の妹に宛てた手紙を集めたものらしいが、非常に細かく当時の様子が描写されており、資料的な価値もとても高いと思われる。作品の中に自分の住んでいる地域が出てくるのは嬉しいものだが、それが100年以上も前の話となると特別に感慨深い。
いかにも日本の原風景という感じの小さな子供たちの礼儀正しさ、そしてアイヌの人々の彼女に対する優しさがとても印象に残った。しかし彼女がもっとも心を奪われた美しく豊かな自然が、今では開発によってほとんど見る事が出来ないと思うと非常に残念である。
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北海道のアイヌ訪問が貴重な資料なので記録してみる。http://researchmap.jp/jon057a1j-1833293/
第32信 北海道函館にて1878年8月12日
第33信 函館にて1878年8月13日
第34信 函館にて
第35信 ジンサイノマ(小沼)にて1878年8月17日
「外国夫人が初めて原住民の住む地方へ入って行くというので,いろいろと配慮してもらうおとができた。領事のユースデン氏が熱心に当局に働きかけた結果,私は知事から証文を貰うことができた。これは一種の公文書あるいは証明書で,どこでも馬や人夫を一里六銭の公定価格で手に入れる権利を保証するものであり,役人の巡回出張に使用するため維持してある家で優先的に宿泊する権利があり,どこでも役人から援助を受けることができるというものであった。」
図:幌別のアイヌの倉,
「沿岸ではベツとかペツという語との合成の名前がいくつかある。これはアイヌ語で川という意味である。例えば,幌別,湧別,紋別などがある。」
第36信 アイヌ小屋(平取)にて1878年8月17日
「私は,アイヌ人について言いたいことも,実際に彼らの中で生活するまでは書くのを控えて来た。」
図:アイヌの家族(日本人のスケッチから)
図:アイヌの小屋
図:アイヌの族長
「約300のアイヌ語を彼らから採取した。」
「後に,私は,函館のデニング氏や東京のシーボルト氏と会って調べてみた。彼らは私よりも多くの語彙を集めている。」
図:アイヌの倉
第37信 平取にて1878年8月24日
図:北海道のアイヌ
図:夫人の手の入れ墨
図:アイヌの家の平面図
図:アイヌの臼と杵
図:アイヌの神像
図:織機のおさ
第38信 佐瑠太にて1878年8月27日
第39信 旧室蘭(噴火湾)にて1878年9月2日
第40信 礼文華(噴火湾)にて1878年9月6日
第41信 函館にて1878年9月12日
第42信 函館にて1878年9月14日
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明治維新後の日本を外国人の女性が一人で旅する、
そのシチュエーションだけでもすごいな、と思う。
当時の女性としてはすごい度胸だっただろう。
詳細な記述により当時の様子が克明に分かって面白い。
自分が何よりも面白かったのは、当時の英国人がそれはもう
ナチュラルに日本を見下している事だ。
何から何まで上から目線。
日本の馬を毎回のように「駄馬」と書く。
いらっとする事もたびたびあったが、本人に悪気は全くない。
これが当時の差別の現状なのだと思った。
そういう意味でも勉強になった。
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明治時代の女性海外僻地ひとり旅!外国の人から見た日本の人や風景が、少し難解でショック。
しかしスゴイパワーだなぁ。
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JALの機内誌で紹介されていたことがあり、興味はあったのだが、
それからだいぶ経ってしまった。
明治11年の夏、47歳の筆者は
横浜から、東京、粕壁(春日部)、栃木、宇都宮、今市、日光・・・
新潟、米沢、秋田、弘前、青森そして、蝦夷へ。
函館、室蘭、紋別・・・別とはアイヌ語で川。
伊藤という18歳の通訳の少年を連れて。
所持した荷物が簡易ベッド、ゴム製バスタブ、蚊帳・・・と驚くが、
当時は蚤と蚊だらけの不潔な宿ばかり。
襖と障子の部屋にプライバシーはナシ。障子のたくさんの穴の向こうに目が。
外人をひと目みたいと、見物人が数百人集まってしまう。
当時の暮らしぶりがよく記述されている。
地方の農家では夏は男女とも上半身裸で、
女性は明治になっても、子どもが生まれるとお歯黒し眉をそる。
そのため20歳は年寄りに見える。
かなりの酷評をされる一方、治安の良さと親切さには感銘を受ける。
後に金谷ホテルを創業する金谷さんの金谷カッテージ・イン。
きれい過ぎて落ち着かないほど。
東照宮とその周囲の杉並木の立派さに感銘を受けた日光。
桃源郷だと最高の評価をされている米沢。
天候以外は文明化された町が気にいった様子の新潟。
ヨーロッパの要素がないにもかかわらず、貧乏臭さのない久保田(秋田市)。
もっとも詳しいのが、原住民アイヌの描写。
野蛮人だが、正直で、人をだますことなしない。
日本人と全く異なるきれいな顔立ち。住居。
日本人以上に、子どもを大切にする。驚くことにほとんど病人がいない。
しかし、彼らは酒のみが楽しみで、収入のほとんどをそれに使ってしまう。
風呂に入ったり、髪を洗うこともしない。
トリカブトの毒矢で熊を殺して食べる。
日本人の食事は米と味噌汁、豆の煮物、卵、塩魚くらい。
牛乳は子牛のためのものであって、それを飲むなど卑しいこと。
緑茶はスコットランド人にも非常に香りがよいとされた。
三味線や琴は雑音にしか聞こえなかったようだ。
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2008年くらいに読了。
かなり感心した記憶がある。
当時の、日本庶民の生活が、生々しく語られてる。