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明治11年(1878年)と言えば、明治の元勲と言われた大久保利通が紀尾井坂で暗殺されるがこの年、城山三郎著の「落日燃ゆ」のモデルになった広田弘毅(後に内閣総理大臣)が生まれた年でもあった。
イギリス人女性探検家:イザベラ・バードは18歳の通訳伊藤青年を伴い、6月10日東京を出発、日光~会津~新潟中条を経て山形小国に入り、米沢~赤湯~上山~山形~新庄~金山を抜け、秋田・青森・函館から船に乗って9月17日横浜に着く。
全行程1600km、約3ヶ月の北国の旅だった。
ゴム製の浴槽、旅行用寝台、折りたたみ椅子、空気枕、英和辞典などを携えて、徒歩+馬に乗っての旅だったと「日本奥地紀行」に記されている。
彼女は蚤や蚊に悩まされながらも”本当の日本”を求めて旅をし、小国の宇津峠からみた置賜盆地(米沢平野)を眺め「・・・南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉街の赤湯があり、まさにエデンの園である・・・」としたためてある。
小国町から飯豊町を通った道(と言えるか)には、13もの峠がありさぞかし大変な旅であったであろう・・・
この13峠を地元の黒沢峠保存会の皆さんが長い年月を掛けて整備してくれていると聞く。
http://www8.plala.or.jp/kurosawa-touge/
今回は山形県と新潟県が接する米坂線:越後片貝駅から13峠を越え、赤湯温泉までの約100kmの行程を徒歩+MTB+車で旅してみる。
小国で山岳ガイドをしているYさんにサポートして貰いながら、「エデンの園」と感嘆した米沢平野を宇津峠の頂上から眺めてみたい。
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スコットランド出身のイザベラ・バードの1878年(明治十一年)の6月から9月にかけての東北,北海道紀行の記録.交通機関は人力車と駄馬で,この馬にはそうとう困っていたようだ.
宿屋では外人女性を一目見ようと人々が群がり,プライバシーがなく,おまけに蚤,蚊,悪臭に始終つきまとわれている.さらに夜中の隣室の宴会によって,眠れないこともしばしばだったようだ.食事のひどさも相当だったらしく,肉への執着をしばしば口にしている.
多くの町はそのひどい様子をこき下ろされるのだが,山形県と秋田市(久保田)は非常にほめられているのが印象に残った.
(バードが通ったところで私がいちばん行ってみたいと思ったのは,青森県黒石.ねぷたが見てみたい.)
残念ながら,私は民族学的な興味はあまりないので,この本の価値はそういう記述にあるのだろうなと思いながらも,しばしば退屈に感じることがあった.500ページ以上あるので実際長いのだが,その長さを感じさせるページも少なくなかったということ.
それよりも私は実際にどのルートを通っていったかにとても興味があって,はじめは地図帳や google map で調べていただのが,これが意外に難しい.地名が使われなくなっていたり,バードが思い違いをしていたり,旧道がすたれてなくなっているからである.それで途中から,参考書を開きながらという読書になった.
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とても良い本でした。
ちょうど西郷隆盛の西南戦争が終わった翌年(1878年)に、著者であるバード女史が東北地方と蝦夷(北海道)を旅行し、その旅行の困難さや、それまで西洋に知られていなかったそれらの地方の風俗を描いた貴重なレポートです。
当時の東北地方農村部や蝦夷のアイヌなど、今の僕ら現代日本人でも想像がつかない彼らの実態を見せてもらえます。(これは僕の無知を曝け出すようで恐縮なのですが、アイヌが日本人と容姿や言語そして宗教まで全く異なる人たちであるということを、この本で初めて知りました。)
バード女史ですが、この旅行をしたのがなんと47歳の時!理由が健康回復のため(女史は若いころから体が弱かった)とのことなのですが、こんな旅行をすると、健康なひとでも身体を壊してしまうというくらいハードな旅行です。
資料として非常に貴重な紀行文なのですが、この本で僕が一番おもしろかったのは、バードさんの歯に衣着せぬ物言いでした。汚い住居や粗末な食事、愚かな原住民等々に対してのコメントが全く容赦ないです。(笑)
勿論、見るもの聞くこと全てに対してネガティブな反応をしている訳ではなく、例えば米沢平野の拓かれ方や北海道有珠(うす)地方の景色など、良いものは良いと激賞しています。
大体において紀行文というのは僕にとっては非常に退屈なものが多いのですが、バードさんのこの超辛口のコメントのお陰で最後まで面白く読み通せました。
ここで面白かったエピソードを2、3紹介します。
1.当時の日本の宿(住居)には蚤などの虫で一杯だった。
2.アイヌ(一部の部族だけかもしれない)は源義経を崇拝していた。
3.アイヌの大人の女性はみんな入れ墨をしていた。
興味を持たれた方は、是非読んで頂きたいと思います。
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山形を旅行したとき、米沢を「アジアの桃源郷である」と評した人がいることを知りました。
それが、イザベラ バードさんです。
明治の始め、田舎ではまだちょんまげの日本。
そこを旅したイギリス人の女性の視点に、案外、今の日本人は似ているのかも知れません。
少なくとも自分は沢山の共感を覚えました。
日本の田舎を旅するというよりかは、未開の地を走破するって感じですけど。
時代劇では分からない、当時の日本の臨場感たっぷりな模写が興味をそそります。
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日本人ってこんなに間抜けだったの?どこに行っても蚤だらけ?壁に耳あり、障子に目あり!明治初期に横浜から北海道までの道のりをイギリス人女性とその通訳、伊藤が旅した紀行文。明治といえば、文明開化でざんぎり頭がどうのこうのというのが中学生ぐらいで習って、そのまま大人まで持ってる日本国のイメージ。でも東京を離れれば、まだまだ貧しい日本の姿が!リアルな日本が伝わってきます。
文章は、イザベラが妹に宛てて書いた手紙の形式になっています。私も旅してリアルな日本を体験したい!
日光金谷ホテルのカウンターにイザベラ・バードの肖像がかかっていますよ。
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正直期待はずれであった。明治維新から間もないまだ江戸時代の生活がそのまま残っている東北や北海道の紀行文なのだが、人々の息遣いが伝わっているとは言い難い。温かいまなざしよりも西洋人より劣った人種として、また未開人として観察している。数か月の旅でありながら人々との触れ合う場面は少なく、プライバシーが無いとか蚤に悩まされたとか不平が多い。また、北海道では晩夏に増水した川を泳いで渡ったというから本当なのかと疑ってしまった。風景描写も凡庸で表現力に欠けると感じた
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今、日本は揺れています。
曰く、日本人は勤勉である。
能力が高い。
民度も高い、などといわれてきたことに自信を失いかけている。
果たして日本人とはいかなる民族なのか?
我々の進路はどうあるべきなのか?
近代化直後の日本を見つめたこの本には、そのヒントがあります。
明治11年、まだ前年に西南戦争が終わったばかりの年に、一人の英国人女性が勇躍、3カ月にわたって東京から東北地方を経て北海道にまで至るまでの旅をしました。
彼女は日本と日本人を見て何を感じたのか?
本は旅先から送られた私信を元に書かれています。
私信ですから、その時時の本音が思い切り書いてある。
旅の為のインフラは極めて貧弱なので、ほとんど冒険旅行です。
かなり過酷な環境を旅する場合も多々ありで、時に酷いことも書いてありますが、それ以上に、感心していることが多いです。
英国人よりはるかにましだ、という結論も多い。
500p以上の本なので、本当の面白さ、興味深い処は読むしかないのですが、ざっくり書くと
1)日本人の驚くほどの人品の高さ
2)日本の自然の世界でも類稀なほどの美しさ
3)社会自体、特に東北から日本海側に掛けての貧しさ故の惨めさ
です。
日本人は昔から本当に心柄の高い民族だったんです
自信を持ちましょう。
日本の自然は、世界のどこよりも美しいものなんです(彼女は世界中を旅した旅行家)
取り戻しましょう。
社会的貧困は人間を絶対的に害します。
経済的な発展に、賢しらな疑問を挟むのは止めましょう!
今の日本人が忘れてしまったのが、これです。
本当に貧しい社会では、医療はおろか衛生環境すら整えられず、病は蔓延し人々の置かれる境遇は悲惨を極めます。
手紙文なので、平明ですが、一気に読むのは大変です。
私はあちこちに持ち歩きながら6カ月ほどかけて読了しました。
日本とは?日本人とはいかなる民族、国家だったのか?という原点を見つめる意味で、また旅行記の名作として是非おススメしたい一冊です。
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1878年(明治11年)に、日本を訪問したイギリス女性による、東北からアイヌ居住地を巡る紀行文。
随所に見られる細密なスケッチが素晴らしく、当時の生活や風俗を知るにも好著である。
近代日本の黎明期に、東京や横浜などの都会ではなく、道もろくに整わぬ異国人未踏の地を目差した女性がいたとは、私は浅学ながら未知であった。
バードは幼少の頃は病弱であったらしく、健康のため渡航による旅行を勧められたのが彼女の世界旅行のきっかけであった。
巻末の年表によると、日本訪問はアメリカ、カナダ、ハワイ諸島などを巡ったあとで、初めてのアジア訪問であったようだ。
当時日本にはヘボンやシーボルトなど、近代日本の文化や歴史に深く携わった人々が暮らしており、ときおり本文中にもその名が見えるところも興味深い。
また、彼女の鋭い観察力によって描き出された、田舎の人々の暮らしぶりにも驚きを覚える。
たとえば、男も女も腰まで着物を脱いで、つまり上半身はだかで肉体労働に従事していたこと。
春画などでも、乳房に愛撫を施したものを見たことがないので、あるいはこの頃の日本人にとって、乳房は性的な部位としてみられていなかったのかもしれない。
日本人が子どもをとても可愛がることは、当時の外国人の多くが注目したことだったが、バードもそれに触れている。
「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないいつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情をもって世話をしてやる。父も母も、自分の子に誇りをもっている。」P131
「夜になり、家を閉めてから、引き戸をかくしている縄や籐の長い暖簾の間から見えるのは、一家団欒の中にかこまれてマロ(ふんどし)だけしかつけていない父親が、その醜いが優しい顔をおとなしそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から着物を落とした姿で、着物をつけていない二人の子どもを両腕に抱いている。」P131
子どもと言えば鞭で叩いてしつけるのが当たり前のヨーロッパ人から見れば、こうした日本の子育ての有り様は新鮮に映ったことだろう。
バードが旅行したのは東北の田舎町が多く、その住民たちは外国人を初めて見る人たちばかりであった。
物見高い彼らは、バードを実に遠慮なく物見していたようである。ときに見物人が押し寄せた建物が崩れ落ちたりすることさえあった。ところが、その後彼女が訪ねたアイヌ人居住区では、こうした見世物にされることはなかったようであるから、アイヌ人と日本人との違いも浮かび上がってくる。
ただ、アイヌ人たちが彼女をじろじろ見ないのは、彼らがバードに遠慮しているとか、気をつかっているとかではないようだ。
彼女の印象によると、アイヌ人は「みじめな動物的生活をあまり抜け出していない生活(P403)」を送る
「愚鈍な民族(P408)」であった。
本著の面白さは、こうし��日本人やアイヌ人の文化や様子を知ることに主眼があるのだろうが、私が心引かれたのは、彼女のガイドを務めた伊藤少年とバードの交流である。
バードが日本に到着して、まずすべきことは、優秀な通訳を雇うことであった。
数人の面接の後、推薦状も持たぬ少年がやってきた。
「彼は、年はただの十八だったが、これは、私たちの二十三か二十四に相当する。背の高さは四フィート一〇インチにすぎなかったが、がにまたでも均整がよくとれて、強壮に見えた。顔はまるくて異常に平べったく、歯は良いが眼はぐっと長く、瞼が重くたれていて、日本人の一般的特徴を滑稽化しているほどに見えた。私は、これほど愚鈍に見える日本人を見たことがない。(P46)」
これが彼に対する第一印象であった。「私はこの男が信用できず、嫌いになった」とまでバードは言う。
しかし、この少年伊藤は、このあとバードの文字通り右腕として活躍し、彼女の困難を極める北日本の旅を助けるのである。
伊藤について本著では余り触れられていないので、解った範囲を記しておく。
伊藤は本名を伊藤鶴吉【安政4年12月17日~大正2年1月6日 (1857~1913)】といい、バードの他、植物収集家のチャールズ・マリーズの随伴も務めた。
「逝去に際しては、「通訳の名人」「通弁の元勲」などと称賛された。日本を訪れた著名人が彼の世話になっていた」(「I・バードと山形の旅(下)」山県新聞夕刊 2000年9月6日発行)《通訳者「伊藤」という青年」より抜粋http://www13.plala.or.jp/r-shirakami/1100.html》
なお、伊藤がバードに恋をしていたという設定の創作小説もあるようだ。
『イトウの恋』中島京子著 2005年 講談社
三か月後、ふたりは感慨深く旅の終わりの朝を迎えた。
「「いよいよ最後の朝になって残念に思いませんか。私は非常に残念に思っています」と言ったとき、私たちは同じ事を考えていると思った。私の楽しい北海道旅行がこれで終わるかと思うと、非常に残念であった。また今までよりもよく働いて役にも立ち重宝であったこの少年と別れるのは、心残りすることであった。(P500)」
「彼は、いつものように私の荷物をつめる、と言ってどうしてもきかず、私の身のまわりの品物をすべてきちんと片づけてくれたのだが、彼がいないと、もうすでに私は困ってしまっている。彼の利口さには驚くべきものがある。(P505)」
醜く愚鈍で、抜け目ない少年だと思われていた伊藤が、彼女とこれほど深い信頼の絆を築き上げるとは、バードにとってもあるいはこれが最大の驚きだったかもしれない。
ときに交渉の上前をはねようとしたり、ときに茶屋の娘と戯れたり、そしてときに馬の扱いが酷いとバードに厳しく叱責されたりと、伊藤は決して品行方正な若者ではなかった。けれども、英語の習得にかける熱心さや、バードに対する忠節が、こうした関係に至らしめたのだ。
静かに別れの日を迎えるふたりの姿に、こちらも胸が熱くなる思いがする。
「さようなら」は、「左様ならば」―そうしなければならないなら―である。
―今こそ別れめ、いざ、さらば。
美��い富士山に見送られ、バードは日本を後にした。
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とにかく虫がいっぱい出てくる
よく雨が降る
服着てない人が多い
そして日本の農村は自由な社会だったということが分かる本
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読み終わって、僕が知っていた明治時代の印象が大きく変わりました。外圧や災害で時代が激しく揺れ動いている今、外からの視点がとても大事だということを改めて思い知ったように思います。当時の中央が外国人に見せたくなかった現実が生々しく描写されていて、貧乏と清貧を混同して語ってはいけないなと改めて痛感しました。
それにしてもイザベラバードの旅好きから高じたタフさ加減には脱帽。あの時代にあのルートを外国人女性が愉しみながら旅してたなんて、やっぱりイギリスは先進国だったんだなーとしみじみと思いました。
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民俗学では欠かせないアイテムのこの本。江戸時代に英国夫人であるイザ・ベラ・バードが一人で東北地方へ旅をし、(海外からの)客観的に見た当時の日本を知るなら持ってこいの一冊。
人文学科、コミュニケーション文化学科の人は見ておくべき!?
生協学生委員会お勧めの書籍です。
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明治初期、鉄道もなく整備された道さえない山間の農村集落を巡りながら、東北地方、蝦夷へ単身で旅をする。
今でさえ難しく感じるこの道のりを、言葉も不自由な外国の、しかも女性が成し遂げたという事実を、どれだけの人が知っているでしょうか。
「だだだ大丈夫!?」―最初の私の印象。
読み進めるほどに、イザベラさんのタフさに圧倒されます。
宿では大量の蚊や蚤と戦い、道では馬に落とされたり踏まれたり暴れられたり、川を泳いで渡ったり、首つりになりそうだったり。
そんな過酷な状況を面白がってるところがあっぱれ。
加えて、彼女のものを視る目の公平さに心を打たれます。
美しいものは美しい。
醜いものは醜い。
自然も人間も彼女の感性のまま、ありのまま描かれます。
「ああ、しかしなんとすばらしかったことか!」
そう彼女に言わしめた数々の景色は、現代ではきっとほとんど失われてる。
でも、この本の中で、色褪せることなく輝き続けています。
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けっこう辛辣だけども精密な描写で、100年ちょっと前の日本はこんなだったんだなーと新鮮な驚き。東北地方についてはちょっと似た感じが長々と続いて飽きたけど、アイヌのところは興味深く面白く読めた。たぶんもう、ほとんど消え去ってしまったし・・・。
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渡辺京二さんの『逝きし世の面影』を読んで知った本です。
英国人女性イザベラ・バードさんが明治初期に日本を旅した記録です。
外国人の目に当時の日本がどうに映っていたのか。
そのことにとても興味があります。
日本人を知る手がかりになる予感がします。
『中国奥地紀行』『朝鮮奥地紀行』というのもあるそうで、
そちらも楽しみます。
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イギリス人による明治時代の日本旅行記である。
なぜイギリス人女性が開国直後の日本を、それも外国人がほとんど立ち入った事がない奥地を選んだのだろうか。梅雨時の悪路や決して衛生的ではない宿に悩まされ、さらに人々の好奇心の目に晒されながら、旅を続けるモチベーションは何だったのだろうか。
本書はもともと彼女の妹に宛てた手紙を集めたものらしいが、非常に細かく当時の様子が描写されており、資料的な価値もとても高いと思われる。作品の中に自分の住んでいる地域が出てくるのは嬉しいものだが、それが100年以上も前の話となると特別に感慨深い。
いかにも日本の原風景という感じの小さな子供たちの礼儀正しさ、そしてアイヌの人々の彼女に対する優しさがとても印象に残った。しかし彼女がもっとも心を奪われた美しく豊かな自然が、今では開発によってほとんど見る事が出来ないと思うと非常に残念である。